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このサイトでは、2024年にまとも書房より出版された「14歳からのアンチワーク哲学」とその解説文をweb上で公開しています。

本文、イラスト、解説等、この本に関する著作権は、CC0 1.0によってすべて放棄されています。

著者

ホモ・ネーモ(久保一真)

1991年大阪府生まれ。労働の廃絶を目指しアンチワーク哲学を提唱する在野哲学者。noteで精力的に執筆活動に取り組んでいる。著書に『労働なき世界』『働かない勇気』『シン・ベーシックインカム論』など。

     

イラスト A子

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全文無料公開中!『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』

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プロローグ

労働によって台無しにされている人々の創造力を解放すると何が生じるかは、誰にもわからない。何でも起こりうるのだ。

ボブ・ブラック

「ええか、少年。労働は悪なんや。世の中から撲滅された方がええ」

「は?」

 寝転がっている僕の隣にしゃがみこんだ男は、僕と同じ空を見上げながら言った。うたた寝に片足を突っ込んでいた僕の意識は、男の言葉に手を引かれ、強引に公園の芝生へと連れ戻される。

「少年が働きたくないと思うのは、なんも間違ってない。正しいことなんや。少年は労働という悪に立ち向かう、正義のレジスタンスや」

 どうやら公園に来たのが間違いだった。マトモじゃない奴はたいてい公園にたむろするって知っていたはずなのに。しかも、受験のこととか、将来のこととか、見ず知らずの男に事情を打ち明けてしまったのもよくなかった。  まぁいい。どうせ学校をサボって暇なんだから、多少は付き合ってやってもいい。無造作に空に向けていた視線を男の方へ向け、僕は返事をすることにした。

「いやいや、たしかに僕は『大人になっても働きたくない』って言ったけどさ。さすがにそれは言いすぎじゃない? 労働が撲滅されたら、ご飯も電気も服も漫画もゲームも、なにも手に入らなくなって、みんなが困るじゃん」

「あー、それは騙されとる。労働なんかなくても、ぜんぶ手に入れられるはずや」

「それって『AIが労働を代替してくれる』的な話? たしかにそうなるかもしれないけれど、AIを所有している企業やお金持ちだけが得をして、僕たちは結局働かないといけないんじゃないの? お金を稼がないと生きていけないわけだし」

「そんなわけあるか。AIが労働を代替するっていうのはおとぎ話や。『天の川で水遊びできたらいいなぁ』って呟いてるのと同じ、お花畑発言なんや」

「どういうこと?」

「要するにAIなんかゴミや。騙されてんねん、みんな」

「じゃあなに? 『霞を食べて生きていけば労働しなくていい』みたいな話?」

「あほか。そんなんで生きていけるか。美味いもん食って贅沢したいに決まってるやろ。ゲームもしたいし」

「だったらなに? FXとか仮想通貨で億り人になったらいいの? それともユーチューバーになって『好き』を仕事にしろってこと?」

「それやと一握りの人しか労働から逃れられへんやろ? そんなんじゃあかんわ。地球上の八十億人全員がニートになって遊んで暮らさなあかん。完全失業。GDPは〇ドル。それで世界は平和や。食べ物や家が行き渡るだけやなくて、漫画もゲームも楽しみ放題になるんや」

 ダメだ。らちが明かない。いったいこの男がなにを言おうとしているのか、僕には見当もつかない。いや、きっと見当がつくはずもないのだろう。  この男は平日の昼間から公園で、なにをするわけでもなく過ごしていた。やけにダボっとした格好を見るに、サボり中のサラリーマンでもない。ラフではあるが、妙に清潔なのでホームレスでもない。

 僕の直感がこう告げている。この男はニートだ、と。

 しかも、おそらく四十代の高齢ニートだ。怠惰と無能力が原因で何十年も社会から爪弾きにされた男が、辛うじて勝ち目がありそうな中学生相手にマウントを取って、自尊心を満たそうとしているのだろう。でも、その言葉は普通の中学生でもわかるほどに破綻していて、支離滅裂だ。長らく孤独に暮らす中で頭がおかしくなったに違いない。

「おい」

「なに?」

「いま俺のことを頭のおかしい高齢ニートやと思ったやろ?」

「え? どうしてわかったの?」

「顔に書いとるわ。俺が五十年の人生の中で、何回同じような白い目で見られてきたかわかるか? 大人を舐めたらあかん」

 ニートのくせに、妙に鋭い。

「自覚あるんだね」

「まぁ、アンチワーク哲学がそういう風に見られがちなのは事実や」

「アンチワーク哲学?」

「まだ説明してなかったな。アンチワーク哲学っていうのは、労働が悪であることを論理的に証明する哲学のことや」

 労働が悪? 論理的に証明? どういうことだろう?

「この時代にはまだまだ注目度は低いけれど、いずれ世界をひっくり返し、三十年後には労働を撲滅して、アンチワーク哲学は常識になってる」

「それって誰が考えたの?」

「俺や。俺はカントも、ニーチェも、プラトンも霞むほどの天才哲学者や。ニートやけどな」

 その自信はいったいどこから来るのか? 僕は呆れ返っていることを隠そうともせずに、「ふふふ」っと笑ってしまった。

「なにわろてんねん」

「ごめん。でもさ・・・」

 バカバカしい。でも、男の顔はやたらとイキイキしているし、身振り手振りが大袈裟で、まるで演劇を観ているような気分になる。悔しいが、ついつい続きを聞きたくなってしまう。

 それに、もし本当にこの男が言う通り労働が撲滅されるなら、どんなにいいだろうか。満員電車に揺られる灰色のサラリーマンを目指すために、何年も机にかじりつくなんて僕には耐えられない。

 弱音を吐いたところで、親も友達も先生も、誰もマトモに聞いてくれなかった。「そうしなければ路頭に迷うのだから仕方がない」「大人になるとはそういうものだ」「社会は厳しい」。そんな言葉は呪いのようにまとわりついて、ベッドの中まで追いかけてくる。僕はきっと灰色のサラリーマンになる運命から逃れられない。

 だったらせめて、この胡散臭い男と話している間だけでも、労働がなくなった夢の世界を想像してみようかな。そんな気分で思わず返事してしまった。

「ちょっと詳しく聞かせてよ」

 意識ごと芝生に横たわっていた体を起こして、僕は男と並ぶようにして芝生に座った。バカバカしいけれど、アンチワーク哲学とやらは、どんな大人たちの説教よりも僕を勇気づけてくれるかもしれない。

第一章 サボることは社会貢献

 大人たちは僕に教えてくれた。人生の本番は六五歳からだと。

 遊んでばかりではいけない。少しでも偏差値の高い高校に入って、少しでも偏差値の高い大学に入るための準備をしなければならない。

 なぜか? いい企業に就職するためだ。

 いい企業に就職すればたくさん給料をもらえる。お嫁さんを見つけて、子どもができて、マイホームを買うことができる。仕事や子育て、住宅ローンの返済や子どもの学費のことで忙殺されるかもしれないけれど、六五歳まで(もしかしたら七十歳まで)働けば退職金と年金がたっぷりもらえて、子どもは独り立ちし、あとは穏やかな余生を過ごすことができる。そのときのために頑張るんだ、と大人たちは言う。そして「オバケに食べられるぞ」と子どもを脅しつけるように、「ニートになるぞ」とか「ホームレスになるぞ」と言って僕を勉強机に押し込もうとする。僕にとって人生とは、六五歳までの間に一歩でも踏み外せば地獄へと落ちる綱渡りのようなものだった。

 一日だけでもいい。そんな人生から逃れてみたい。そう思って今朝、学校の一つ手前の駅を、夢遊病のような足どりで踏み締めた。まるで足の感覚がなくなったようだった。はじめて降り立った静かな住宅街。仕事や学校など、行き先を持った人たちとすれ違うたびに、僕だけがゴールのないレースゲームをプレイしているような疎外感を味わった。

 とにかく歩いた。日焼けした自動販売機と、誰かが無造作に停めたスーパーカブの向こう側に、見晴らしの良さそうな公園が見えた。芝生もある。あそこで寝転がって、お昼になったらお弁当を食べることにした。少し離れた屋根付きのベンチに先客が一人だけいたが、気にする必要はないだろうと、僕は思っていた。

 芝生に横たわると、体に引きずり回されていた意識がぼんやりしはじめる。でも、不安だけはモヤのように漂っている。うたた寝をしているような、していないような、そんな気分で過ごしていた。どれくらい寝転んだ後だろう。突然、聞き慣れない関西弁の声が聞こえた。

「学校、サボってるんか?」

 起こされたのか、それともずっと起きていたのかわからない。瞳を開くと、男の姿が霧の奥からやってくるように現れた。

「まぁ、サボってるってことになるね」

 返事をする。が、起き上がりはしない。起き上がれば、この男との会話がはじまることを僕が了承したことになる。僕は不安と共に過ごす夢の世界に、居心地の良さが芽生えているのを感じていた。こんな男に邪魔されてなるものか。

「そうか。なんでや?」

 僕の様子を見ても男は邪魔することを諦めたくないらしい。芝生から起き上がらない僕の横にしゃがみこんだ。

 なんだよ、邪魔だな。

 僕は知っている。理由を聞いてくる人は、理由を聞きたいんじゃなくて、説教したいだけだ。この男も「歯を食いしばって学校に通い続けたらいいことがある」とかなんとか、僕に説教するつもりだろう。先生や親ならまだしも、得体の知れない男に説教される筋合いはない。もし、説教しようとしてきたなら、売り言葉に買い言葉だ。日頃のイライラごと、この男にぶつけてしまえ。

 僕は自分の中に怒りが巻き起こるのを感じ、話しはじめた。労働するだけの人生を歩みたくないこと。受験したくないこと。つまらない人生を受け入れて妥協している同級生が嫌いなこと。今日、学校をサボっていること。

 そして、僕の話を一通り聞いたあとに男が言ったのだった。

「ええか、労働ってのは悪なんや。世の中から撲滅された方がええ」  こうして僕の怒りは迷子になって、困惑と好奇心が代わりにやってきた。

君は君の役に立て

「ちょっと詳しく聞かせてよ」

「お、アンチワーク哲学に興味あるんか?」

 まるで「お、釣れた釣れた」とでも言うようなテンションだ。釣られたと思うと腑に落ちないものの、しばらくは付き合ってもいいだろう。

「どうせ暇していたし」

「暇なんやったら学校行けばよかったやん」

「それが嫌って話、さっきしたでしょ?」

「そうやったな。少年、役に立つことして偉いなぁ」

「え? どういうこと? むしろ役に立たないことをしてるんだけど?」

 男の言うことは、やはり意味がわからない。

「どうしてそう思うんや?」

「だって、『役に立つ』って受験勉強みたいに、将来の役に立つことを意味するんじゃないの?」

 僕の言葉を聞いて男は「計画通り」とでも言わんばかりに、頬に笑いを含ませる。思い描いたシナリオ通りに、僕が返事をしているみたいだ。

「なら、そうまでして目指す『将来』ってなんや?」

「それは・・・いい企業に就職すること?」

「どうしていい企業に就職したら役に立ったことになるんや?」

「いい企業に就職すれば、給料がたくさんもらえるからじゃないの」

「なんで給料をたくさんもらえたら、役に立ったことになるんや?」

「いつまで質問つづけるの?」

「いいから、考えてみ」

「うーん」

 なにを答えても質問で返されてばかりだ。それでも、どうやら男の質問は、文字通りの「質問」らしい。普段、先生や親から受ける質問(「どうして勉強していないの?」)のように、答えた途端に「それは言い訳だよね?」と蓋をされるようなことはなさそうだ。

「お金を儲けたら家族を養えるから?」

「じゃあ銀行強盗に成功して、そのお金で家族を養ったら役に立ったことになるんか?」

「そりゃあならないよ。銀行強盗は単に略奪しただけ。きちんと仕事をして、誰かの役に立って、給料をもらわないと」

「なるほど。なら、質問は元に戻ってきたな。大企業で働いてたくさん給料をもらうということは、誰かの役に立ってることを意味するんやな? じゃあ『誰かの役に立つ』ってどういうことや?」

 考えすぎて脳みそが筋肉疲労を起こしているのを感じる。あれだけ受験勉強しているのに、運動不足の脳みそに無理やり筋トレをやらせてるような気分だ。

「うーん、つまり『なんのために仕事するのか?』ってことだよね。それは『誰かを喜ばせるため』じゃないかな? 食べ物をつくれば食べる人が喜ぶし、漫画を描けば読んだ人が喜ぶわけだし」

「なるほどな」

「あとは『誰かの苦しみを取り除くため』も、かな。皿洗いに苦労している人のために食洗機をつくれば、皿洗いという苦しみを取り除いていて、それは役に立っているよね」

 いつもイライラしながら皿を洗う母親を思い出しながら、僕は付け加えた。

「そうやな。で、少年は誰かにとっての『誰か』やろ?」

「ん? そうだね」

「なら、少年が喜んだり、少年の苦しみが取り除かれたりすれば、それは『役に立つこと』やろ?」

「まぁ・・・他の人からすればそうだよね」

「他の人からしてそうなら、少年からしてもそうや。大人たちは少年を喜ばせたり、少年の苦しみを取り除くために、朝から晩まで働いて食べ物や漫画をつくってる。それやのに少年が行きたくもない学校に行って自ら苦しんだなら、大人たちはなんのために役に立とうとしているのかわからんやろ? だったら、少年はゲームでもアニメでも好きなことをやって、嫌なことから逃げればええ。それが『役に立つ』ってことなんや」

「好きなことは、役に立つこと?」

「そう。それは社会貢献みたいなもんや。少年は社会の一員なんやから」

 一体どういうことだろう? これまで僕は、我慢することが「役に立つこと」なのだと、大人たちに教えられてきた。我慢して我慢して、歩き続けたら、いつの日か泉のように湧き出る「好きなこと」を思いっきり味わう未来がやってくるのだと言い聞かされていた。

 でも、この男は違った。いま目の前にある「好きなこと」を味わえばいい。それが「役に立つこと」なのだと言う。バカバカしい屁理屈かもしれない。でも、そんな風に生きられたなら、どんなにいいか。

「アンチワーク哲学は『好きなことをやって、嫌なことから逃げろ』って主張する哲学や。そうすればみんなが幸せになるっていうことを証明しようとしてるねん」

食欲は存在しない

 好きなことをやって、嫌なことから逃げる。そんな風に生きられたらどんなにいいか。でも、信じたい気持ちを脇に置いてみれば、やっぱりおかしいと気づく。そんな上手い話があるはずがない。僕は冷静さを取り戻して、男に反論を試みた。

「うーん、そりゃあみんなが好きなことをできた方がいいよ。でもさ。みんなが好きなことをやって嫌なことから逃げていたら、世の中が成り立たないんじゃないの? 誰かが食べ物をつくらないと、食べるものが無くなっちゃうんだし。みんなが我慢して嫌なことをやって、結果的にみんなが喜ぶ社会になっているんじゃないかな。ていうか・・・」

「ていうか?」

「ニートがそれ言っても説得力なくない?」

「なんでや?」

 男は本気で「意味がわからない」といった顔をしている。この男には常識ってものがないのだろうか。

「だってニートって、必死で働く人々の恩恵を受けて暮らしているわけじゃん? そのくせニート自身はなにも社会に貢献していないじゃん? 『好きなことをやれば幸せになれる』とは言っても、みんながニートになったら社会は成り立たないよね? 『ニートは苦労を知らないで、気楽でいいよね』ってことにならない?」

「なるほど、面白いことを言うな、少年は」

「いや、面白いことを言ってるのは僕じゃなくて・・・」  そういえば、僕はこの男の名前を知らない。

「・・・俺か?」

「うん」

「少年、いま俺のことなんて呼べばいいかわからなくて迷ったやろ?」  やっぱり、この男は僕の心を見透かしているような印象がある。僕は気恥ずかしさを背中に隠すように、冷静さを装って返事をした。

「え? まぁ、そうだね」

「名前教えたいけど、なんか癪やなぁ・・・まぁ『イケメン』とでも呼んでくれたらええわ」

 なにがどう癪なのかがわからない。それにしても「イケメン」だなんて、この男のネーミングセンスは壊滅的なようだ。

 でも、一風変わった服装のせいで注目していなかったが、改めて男の面構えを見つめてみると、スマートな切れ長の瞳にスッと高い鼻。引き締まった頬。整えられたゆるふわパーマ。悔しいが、「イケメン」と呼んでも差し支えない顔をしている。

 だとしても、「イケメン」と呼ぶなんて、それこそ癪だ。

「なんか嫌だなぁ。だっておっさんじゃん?」

「おっさんでもイケメンはおるやろ?」

「まぁ」

「ほな、『イケオジ』はどうや?」

 どうって言われても、「イケオジ」も、この男にはもったいない褒め言葉だ。もっとひねくれていて、だらしない印象を表現しなければ・・・

「うーん、でもニートだしなぁ」

「ニートは関係ないやろ」

「わかった『ニケオジ』はどう?」

「なんやそれ。属性盛り込みすぎて渋滞してないか?」

「じゃあ略して・・・『ニケ』?」

「なんや猫みたいな名前やけど、まぁええわ、それで」

 ニケ。しっくりこない気もするが、イケメンと呼ぶよりはマシだ。

「じゃあ、話の続きを聞かせてよ、ニケ」

「慣れるまで時間かかりそうやなぁ・・・」

 ニケは頭をポリポリとかきながら、話の続きをはじめた。

「ほんでな、アンチワーク哲学ではな、みんなが好きなことをやってても世の中は成り立つし、いままで以上に幸せな社会になると考えるねん」

「でも、それはうまくいかないってさっき言ったよね?」

「結論を急いだらあかん。少年は人の『好きなこと』がなんなのか、考えたことはあるか?」

「好きなこと?」

「そうや。つまり、人はなにを欲するんや?」

 相変わらずニケは質問してばかりだ。それも、いままで考えたこともないような質問を。

「そりゃあ、『食欲・睡眠欲・性欲』が三大欲求と呼ばれるくらいなんだし、ご飯を食べることと、寝ることと・・・」

「セックスやな」

「・・・そうだね」

 ニケは「セックス」だなんて、平日の昼間から平気で口にする。恥じらいというものがないらしい。

「ほかには?」

「うーん、ゲームで遊んだり、面白い漫画や本を読んだり、スポーツで体を動かしたり? あとはベッドに転がってダラダラと動画を観るのもいいよね」

「じゃあ、他の人の役に立つことを欲することはあるか?」

 人の役に立つこと? そんなの欲するわけがない。先生や親は「人の役に立つことをしろ」と口にするだけではなく「人の役に立つのは気持ちいいこと」なんてキレイゴトを言う。僕はそういうキレイゴトを聞くと吐き気がする。ニケも似たようなことを言おうとしているのだろうか?

「無いでしょ? もしそんな風に思ったとしても、『いい人に見られたい』とか『見返りが欲しい』とかそういう理由であって、役に立つこと自体を欲するようなことはあり得ないよ」

「それはおかしくないか?」

「どうして?」

「少年は電車で老人に席を譲ったことはあるか?」

 そういえば、ニケはさっきから僕のことを「少年」と呼ぶ。昔観たアニメ映画に登場するおじさんキャラが、主人公のことをそんな風に呼んでいたのを思い出す。ニケは僕の名前を知りたくないんだろうか。

「聞いてるか?」

「え、あぁ・・・何度かあるよ」

「それは老人の役に立つことを欲したんとちゃうんか?」

「いや、マナー違反をする奴だと思われたくないし、いい人に見られたいからだよ」

 それが本音だ。人の役に立つことなんて、本当ならやりたくはない。

「じゃあ、貢献したいという欲は存在しないけど、食欲は存在するってことやな?」

「当たり前じゃん。貢献はしたくないけど、食欲があるからご飯を食べたくなるんでしょ?」

「じゃあ、食欲を取り出して見せてくれるか?」

「え?」

 食欲を取り出せ? そんなことを言われても・・・

「無理やろ? じゃあ外科のお医者さんなら食欲を取り出せるか? 顕微鏡で人体を観察したら食欲が見えるか?」

「・・・無理だね」

「『食欲』ってラベルがついたホルモンが体内で分泌されているわけじゃない。食欲は存在しないんや」

「食欲は存在しない?」

「人が食べ物を欲する理由を説明するときに、『食欲』に突き動かされていると考えた方が説明しやすい。便利やからとりあえず存在することにしただけで、実際に存在してるわけではないんや」

 そんな風に考えたことはなかったが、言われてみればたしかにそうだ。哲学者ってのは、変なことを考えているらしい。

「だとすればおかしくないか?」

「なにが?」

「人が食を欲するのを見て食欲に突き動かされていると考えるなら、人が誰かに貢献しているのを見れば、貢献欲に突き動かされていると考えるのが筋とちゃうか?」

 ニケは不思議な言葉を使う。貢献することが欲? いったいどういう意味なのだろう?

「それはそうかもしれないけれど、だったら貢献欲とやらはそんなに強い欲ではないんじゃないの? ご飯を食べない人はいないから『食欲』という言葉をつくらざるを得なかったけど、席を譲らない人はたくさんいるし、貢献という行動は誰もが行うわけじゃない。だから『貢献欲』なんて言葉は必要なかったんじゃない?」

「ほんまにそうやろか?」

「そうだよ?」

「人の役に立たずにいることは辛いって、少年も知ってるやろ?」

「そうかな。僕は誰かの役に立ちたいなんて思わないけどね。家でお母さんに皿洗いを手伝ってと言われるとウンザリするよ」

「みんなが学芸会の準備で忙しそうにしてるのに、自分だけ突っ立ってたらどんな気持ちになる?」

 少し想像してみて、なんとも居心地の悪い感情を覚える。でも、なぜかそのことを認めたくない気がして、強がって返事をした。

「別に。手伝わずに済んでラッキー、かな?」

「ほんまか?」

 ニケがニヤニヤ顔のまま僕の瞳を覗き込む。再び心を見透かされているような気分になって思わず遠くに目を逸らす。二人きりだった公園にベビーカーを押した若い母親が来ていて、行き場を失った僕の視線はそこに流されていった。

「正直に言うてみ。居心地悪いやろ? みんなに貢献した方が楽しいやろ?」

「いや、別に?」

「じゃあこんな状況はどうや? 君は好きなお菓子を買ってルンルン気分で家に帰ろうとしている。ところが、道に今にも餓死しそうな子どもがいて『ちょーだい』って言ってきた。少年は子どもにお菓子を分け与えるか?」

 状況を想像してみる。さすがに断るのはしのびない。

「さすがにその状況なら分け与えるよ」

「やろ? そのときどんな気分やろか?」

「どうだろう。ちょっといいことした気分になれるかもね」

「ほな、逆に分け与えずに通りすぎたとすればどんな気分になる?」

 想像してみる。

「ちょっと、罪悪感あるかもね」

「せやろ。それは貢献欲がある証拠にはならんか?」

「状況が極端すぎない? たまたまそういう状況だから貢献するだけであって、『欲』とまでは言えないんじゃないかな?」

「なら、お腹が空いてるときに美味しいハンバーグ屋さんの前を通って『食べたい』と感じたとしても、食欲があるとは言えないってことやな?」

「うーん、でもなぁ・・・」

 理屈の上ではニケに押されている気がする。でも、納得はできない。貢献欲だなんてバカげている。そんなに人間は善良じゃないと、僕たちは知っているじゃないか。

人は殺してもいい

「でも、学校には喧嘩もあるし、いじめもある。芸能人のセクハラや企業のパワハラ、政治家の不祥事なんかしょっちゅうニュースになる。殺人や詐欺、強盗はいつまでたってもなくならない。もし人間が自発的に貢献し合う生き物だったなら、こんなに世の中が腐っているはずがないよ」

「せやな・・・」

「そうでしょ? だから貢献欲なんてないんだよ」

 ニケは「やれやれ」といった大袈裟な身振りをして話を続ける。

「あんな、話が極端やねん。俺はなにも人間は百パーセント善意だけで構成されているなんて話はしていない」

「え? どういうこと?」

「ええか。一個でも悪いことをしたら貢献欲が存在しないことになるのはおかしいやろ? 朝飯を抜いた日が一日あっただけで『食欲は存在しない!』なんて言う人はおらんやろ?」

「それは・・・たしかにそうだね」

 悔しいけれど、ニケの言うことには一理ある。哲学者を名乗るだけはあるようだ。

「アンチワーク哲学が言いたいことはな、人間はありとあらゆる行為を欲望するっていう事実や。食べることや寝ることもそうやし、貢献することも欲望する。それだけじゃない。人を支配すること、セクハラすること、人のものを奪うことも欲望するやろうな」

「じゃあさ、アンチワーク哲学は『みんなが好きなことをやればいい』なんて言うけど、トラブルだらけになるんじゃないの? 人は悪いことも欲望するんだよね?」

「まぁその可能性もある。ただな、少年が思ってるほど世の中に悪いことを欲望する人間はおらんはずや」

「そうかな。みんな一皮剥けば悪いこと考えてるんじゃないの?」

 一四年も生きていれば、大人たちの汚い部分が見えてくる。子どもの頃は、大人は完璧に正しくて、犯罪に手を染めるのは一部のダメな大人だけなのだと思っていた。でもいまでは違うと理解している。人間なんて一皮剥けば自分勝手で、ワガママで、強欲な生き物なんだ。それが現実なんだと、僕はもう知っている。

「あんな・・・そういうのを中二病って言うんや」

「中二病?」

 面と向かって「中二病」と言われたのははじめてだ。ニケには遠慮ってものがないらしい。 

「少年は実際にいま中二やからしゃあないねんけどな。そうやって無意味に斜に構える態度は中二病や。現実を冷静に見つめれば、悪い人間なんかほとんどおらんことがわかるはずや」

「そんなことは・・・」

「ところで少年は『なぜ人を殺してはいけないか?』について考えたことがあるか」

「いや、ないけど・・・」

「どう思う?」

「どう思うって言われても・・・『法律で禁止されてるから』? それとも『自分が殺されたら嫌だから』かな?」

「ほらな、その回答がもう中二病やねん」

 また言われた。僕は少しムッとして言い返してしまった。

「じゃあさ、答えはなんなの?」

「俺から言い出しといてアレなんやけど、そもそも質問が間違ってる」

「は? なにそれ、そんなのズルくない?」

「ズルないわ。ええか、そもそも人は殺してもいいんや」

 人を殺してもいい? なにを言っているんだこの男は?

「いやいや、ダメに決まってるじゃん」

「少年の家には包丁はあるか?」

「そりゃ、あるけど?」

「こっそりカバンの中に忍ばせてくることくらい簡単やろ?」

 僕は今朝の様子を思い出す。お父さんが一番先に家を出て、お母さんが出て、最後が僕だ。

「まぁ、簡単だね」

「俺が気を逸らした瞬間に包丁を取り出して刺すことなんか簡単やわな」

「やろうと思えばね」

「ほら、殺していいってことやん」

 いや、「ほら」ではない。

「でも、殺したら警察に捕まって刑務所に入れられちゃうよ?」

「刑務所も考え方によったら悪くない場所やで。刑務所内の労働は土日祝休みで残業なし。それでいて衣食住は保障されてる。刑務所より酷い環境のブラック企業で働いている大人なんて山ほどおるやろな」

「だからといって、殺していいことにはならないよ」

「考え方を変えよか。少なくとも、刑務所に入ることを前提にすれば人を殺すことは可能や。でもな、それでも人を殺す人は多くない。その理由はなんや?」

「刑務所に入りたくないから?」

「それもあるけど、もっと根本的な理由や。誰も人を殺したくないからや」

「え?」

「なにが『え?』やねん。少年は俺を殺したいんか?」

「いや別にニケのことは殺したくないけど・・・みんな『殺したい』って平気で言うじゃん」

 同級生たちとの会話を思い出す。そういえば、クラスで幅を聞かせる生徒たちに「殺すぞ」などと威嚇されたこともあったっけ。

「そんなもん中学生特有の強がりに決まってるやろ。本気で殺したい相手なんかおるか? そんだけ嫌いなんやったら、まず距離を取ろうとするのが普通やろ?」

「まぁ、そうだね」

「『なぜ人を殺してはいけないか?』という質問に真面目に答えるということは、『人は人を殺したがっていること』を前提にしてるねん。でも、その前提がそもそも間違ってる。本気で人を殺したがってる奴なんかほとんどおらん」

「でも・・・」

 僕は日々、リビングのテレビから流れるニュースの映像を思い出しながら言った。

「現実に殺人を犯す人はいるよね?」

「まぁ殺人がゼロの社会っていうのはむずかしい。でも、限りなくゼロにすることはできる」

「どうやって?」

「労働を撲滅すればいい。殺人が起きるのは労働のせいなんや。ぜんぶ労働が悪い、労働が!」

第二章 労働という悪魔の正体

 ダメだ。やっぱりわけがわからない。どうやらニケは頭の重要なネジがいくつかぶっ飛んでいるらしい。僕が困惑している様子を見て、ニケはニヤニヤ笑いをしている。真面目に話しているのか、人を困らせて楽しんでいるのか、掴みどころのない男だ。

 とはいえ、ここで引きさがれば、モヤモヤした気持ちを手土産にして家に帰ることになる。ただでさえこっちは複雑な心境で手一杯なのだ。不愉快な疑問点は、いまこの瞬間にすべて解消したい。僕は質問を続けることにした。

労働とは支配されること

「どういうこと? 殺人と労働って、別に関係ないんじゃない?」

「まぁ、それを説明するのは長い旅になる。気長にいこうや。とりあえずいま言えることは『労働がなくなれば、殺人の大部分はなくなる』ということやな」

「わからないなぁ」

「まぁ焦るな。次に考えなあかんことはな・・・そもそも労働って、いったいなんや?」

 質問をしたつもりが質問を返される。労働とはなにか? 意外とむずかしい。質問された途端に知らないことを思い知らされる。でも、僕はなんとか自分なりの答えを捻り出してみせた。

「そりゃあ・・・お金をもらうための活動?」

「なら、おじいちゃんの家にお年玉をもらいに行ったり、パチンコを打ったりするのは労働か?」

「・・・それは違うね」

「それに、家事労働とか奴隷労働っていう言葉もある。専業主婦も奴隷もお金はもらわれへんのが普通やな」

「じゃあ、なにか価値のあるものを生み出すこと? 奴隷は畑を耕すし、主婦は料理するよね」

「ほな『価値のあるもの』ってなんや?」

「例えば・・・野菜とか、テーブルとか」

「となると、野菜をつくる家庭菜園は労働か? テーブルをつくる日曜大工は?」

「うーん、それは趣味だね」

「じゃあ、趣味と労働の違いはなんや? 『趣味』はお気楽な雰囲気やのに、『労働』ってなると嫌な義務感があるやろ」

 たしかに、労働には嫌な義務感がつきまとう。趣味とは違うなにか。日常生活とは切り離されたなにか・・・

「わかった! 労働の方が、お金をもらわないといけない分、クオリティが要求されるんじゃない? アマチュア農家よりもプロの農家の方が美味しい野菜をつくるでしょ?」

「プロ顔負けの素人もおるで? 逆に新入社員はみんな下手くそや」

「なら、『お金をもらうために価値を生み出すこと』。これならどう? お金をもらわないといけないからクオリティを追求することが求められて、それを強制されるから嫌な義務感があるんじゃない?」

「まぁ悪くない。結局、お金をもらわへん家事労働や奴隷労働は抜け落ちるけどな」

「そっか・・・」

 わからない。永遠に答えに辿りつかない気がしてきた。

「もう降参か?」

「わかった! 『生きるためにやらなければならないこと』。これでどう? 会社で働くことはお金をもらうために必要だし、家事も生きるために欠かせない。奴隷は働かないと殺されるから生きるために仕方なく労働しているし」

「正解を教える前に、ちょっと参考になる話をしよか。世界にはな、こんな民族がおるねん。食べるために行う畑仕事や狩りなどの行為を『遊び』と同じ言葉で表現する民族が」

 よくわからない話がはじまった。ニケは周りくどいのか、丁寧なのか・・・

「それがどうしたの?」

「おかしいと思わんか?」

「どうして?」

「だって生きるためにやらなければならないから、労働は『労働』なんやろ? でもこの民族は、生きるためにやらなあかんことを『遊び』と捉えていた。つまり楽しみながらやってるんや」

「それってジャングルの奥地に住んでるような人たち?」

「まぁそういう類の人たちや」

「それは単に、僕たちよりも語彙が少ないだけじゃないの?」

「あほか。ジャングルをバカにすんな。あの人らかって賢いねん。現代人より狩猟民の方が頭がいいなんて噂もあるんやで」

「それって誰が言ってたの?」

「忘れた。噂や」

「なにそれ。哲学者のくせに」

「自称哲学者なんや。ちょっとくらいの脇の甘さは許してくれや。それはともかくとして、狩りや畑仕事といった行為は俺らの社会では『労働』と考えられているのに、それを『遊び』と一緒くたにしている人は、未開社会では珍しくなかった。これがなにを意味するかわかるか?」

「うーん、生きるために必要だからといって、『労働』とは限らないってこと?」

「そう。つまり、生きるために必要な行為だからといって、必ずしも労働のように苦しかったり、めんどくさかったりするわけじゃない。となると・・・」

「『生きるためにやらなければならないこと』っていう労働の定義は不十分?」

「そういうことや。ともかく、アンチワーク哲学は別の定義を採用する。定義はいくらでも考えられるし、完璧はない。ただ、アンチワーク哲学では労働をこう定義するって覚えといてくれ」

 ニケは大袈裟に間を置いてから言った。

「『労働とは、他者より強制される不愉快な営み』と」

「強制? 不愉快?」

「そうや。こうしておけば、奴隷労働や家事労働もこぼれ落ちへんやろ?」

「そうかもしれないけどさ、じゃあ先生に反省文を書かされるのも労働になっちゃうよね」

「せやな。アンチワーク哲学ではそれも労働と考えるけど、納得いかん人もいるやろな」

 当たり前だ。僕も納得いかない。

「それに、好きで労働をする人は? 不愉快でもないし、強制されているとも感じないんじゃないの?」

「せや。それもアンチワーク哲学では労働ではない」

「なにそれ? そんなの言ったもん勝ちじゃん」

「まぁ定義っちゅうんはそういうもんや。完璧な定義なんてない。さっき少年が言った『生きるためにやらなければならないこと』っていうのも悪くない。生きるため、つまりお金をもらうために、他者からの不愉快な命令に服従する必要があるんやから、あながち間違ってはないんや。でもな、ぶっちゃけ定義が正しいかどうかなんてどうでもええねん」

「え? どうして?」

 労働の定義についてこんなに考えてきたというのに、ニケは急に梯子を外すようなことを言う。真面目に議論しているのか、適当なことを話しているのか、やっぱりよくわからない。

「言うたやろ? 定義に完璧はない。だから『労働の定義はこうや』『いや違う』っていう議論を続けても泥試合になるだけや。『これはいじめか? いじりか?』みたいな議論を続けても、苦しんでいる子が救われるわけじゃないのと一緒やな」

「そういうものかな?」

「せや。どうでもええ。ただし、この定義を採用すれば『その行為が強制されているか、されていないか』という側面の重要性を浮き彫りにするんや。これまでの労働に関する議論は、そこが抜け落ちてた」

 わかるようで、わからない。結局ニケがなにを言いたいのか。

「まぁ細かいことはええわ。ともかくアンチワーク哲学は『他者より強制される不愉快な営み』が悪であって撲滅しなければならないと考える。なら、アンチワーク哲学がどんな世界を理想としているのかがわかるはずや」

「えーっと。『他者より強制される不愉快な営み』がなくなるんだから、『強制されることなく好きなことだけをやる世界』がアンチワーク哲学の理想ってこと?」

「そういうことやな。それを労働なき世界と呼ぶんや」

命を狙われる労働者

 労働なき世界。「ネバーランド」をわざわざ堅苦しく言い換えたような印象で、なんだか夢を感じられない。そのくせ現実味もない。どうせ夢を見るなら、もっとセンスのある言葉で表現すればいいのに。

「別に労働って強制されてやっているわけじゃないんじゃ・・・お金をもらってその対価として働くっていう対等な契約でしょ?」

「建前はそうや。でもな、本当に対等な契約やと思っている人がどれだけいるやろなぁ。ところで、どうすれば人は誰かに労働を強制できると思う?」

「それは・・・どうすればいいんだろう?」

「例えば俺が少年にいきなり『いますぐ百回スクワットしろ!』って命令してたら従うか?」

「なにその命令?」

「ええから、答えてくれや」

 ニケに言われて少し状況を想像してみる。意味がわからないから、笑ってしまいそうだ。でも、本気で命令されたなら?

「たぶん怒ってこの場から立ち去るね」

「せやろ。普通はそうなんや。人間は人間に命令できへん。これが当たり前や。でもな、命令に従わせる方法がいくつかあるねん。なんやと思う?」

「さぁ? 拳銃を突きつけるとか?」

「そうや。ほな、俺が拳銃を突きつけながら『いますぐ百回スクワットしろ!』って命令したらどうや」

 ニケはニヤニヤ笑いでこちらを見つめている。この顔で拳銃を取り出したなら、ホラー映画に出てくるサイコパスだろう。

「腹は立つし、拒否したい気持ちはあるけど、仕方なくスクワットするね」

「せやろ。つまり、暴力によって命を脅かせば命令に従わせることはできる。逆にそれくらいのことをしないと、命令は拒否されるのが普通なんや」

「たしかに。人を強制的に操る能力だなんて、ゲームや漫画でしか見ないね」

「ところが、暴力以外にも命令に従わせる方法が他にもある。なんやと思う?」

「それは・・・お金?」

「そう。仮に俺が一万札を手渡してスクワットを命令したら、どうや?」

「意味はわからないけど、やるかな」

「せやろ。ほな、少年はなんで金が欲しいんや?」

「なんでって・・・ゲームを買ったり、漫画を買ったりしたいし」

「少年は中学生やからそんなもんやろな。ほな、少年のお父さんはお金を求めて働いてるわけやろ? なんでお金を欲しがるんや?」

「どうだろう。遊びたいっていう気持ちもあるだろうけど、『自分や家族が生きていくため』が一番の理由じゃないかな?」

「せや。生きるためや。自給自足したり、炊き出しで食い繋いだりすることもできなくはないけど、少なくとも少年のお父さんをはじめ、多くの人はお金がないと生きていけないって感じてるはずや」

「それはそうだね」

「やろ? ということは、お金を稼ぐために会社に入って労働をすることは避けられないわけやな」

 お父さんがなぜお金を欲しがるかなんて考えたこともなかった。きっと、自分のためでもあり、お母さんのためであり、僕のためでもあるはずだ。

「その状況で会社の命令に逆らうことはできるか?」

 想像してみる。僕たち家族の生活を背負ったお父さんが、命令してくる社長にムッとして、胸ぐらをつかみ、華麗に言いまかす・・・そんなことはきっとできないだろう。

「よっぽど意志が強い人ならできるだろうけど、逆らったらクビになるかもしれないし、普通は無理だね」

「九時から一七時までの仕事やのに、一二時ごろに『暇なんで帰りますわ』と言えるか?」

「暇でも仕方なく居残るだろうね」

「せやろ。それは九時から一七時までずっと命令されてるのとなにが違うんや?」

「でも、転職したり、起業したり、いろんな選択肢があるんだから、嫌ならそうすればいいんじゃない?」

「理屈ではそうや。でもな、転職したら給料がさがるケースがほとんどやし、起業にはリスクがある。おいそれと会社からは逃げられへんのが普通や」

 たしかに、お父さんが急に板前に転職するとか、寿司屋をオープンするとか言い出したら、お母さんは止めるだろう。でも、だからといって命令されてるとか、強制されてると言っていいものか?

「納得できへんか?」

「うん」

「そうか。ほな逆に考えよか。拳銃を突きつけられたとしても、少年は一瞬の隙をついて拳銃を奪うこともできたんとちゃうか?」

「そうだとしてもスクワットすれば穏便に済むんだから、わざわざ命を賭けようとは思わないよ」

「ほな、『隣にいる親友の命を差し出せ』とかなんでもええけど、そういう命令やったら?」

「だったら頑張るかも」

「なら命令を拒否できるから、厳密な意味で強制されてるわけやないやろ? 少年がさっき言った通り、人を強制的に操ることは、ゲームや漫画でもない限りできへんねんから」

「勝てなかったら結果は同じだけどね」

「せやな。でも命令に従ったわけじゃない。要するに、どんな状況にあろうが理屈の上では命令を拒否することは可能や。ただ、『拒否できない』『強制されている』と感じていることが重要なんや」

「どういうこと?」

「つまり命令に従っている労働者たちは、転職や起業という選択肢を持っている。少年が拳銃を持った男と戦う選択肢を持っているのと同じように。でも、それが現実的じゃないから、命令に従わざるを得ないと感じている」

「なるほどね」

「会社の命令を拒否して会社から支払われる給料がなくなれば、自分や自分の家族が路頭に迷って、最悪の場合は野垂れ死ぬ。もちろん、一つや二つ命令を拒否したといっていきなり拳銃で撃たれるようなことはない。けど、なにかの拍子に上司や社長の機嫌を損ねてクビになる可能性はずっと存在し続けるから、些細な命令も拒否することはリスクになる。なら、こんな風には考えられへんか? 労働者は未来からスナイパーに狙われながら命令に従っている、と」

 オフィスの窓際でパソコンを操作する父親を、隣のビルからスナイパーが狙っている光景が脳裏をよぎる。

「ちょっと大袈裟じゃない?」

「そんなことはない。その辺をほっつき歩いているサラリーマンに『なんで労働してるの?』って質問してみ? 『生きるため』って答えるで。裏を返せば、労働せんかったら死ぬってことやろ?」

「たしかに、大人たちには『真面目に勉強して就職しないと生きていけない』って、いつも言われてるよ」

「せやろ。スナイパーに狙われている感覚っていうのは、大人たちは多かれ少なかれ持ってるはずや。起業して社長になっても同じや」

「そうなの? 社長なら、誰にも媚を売る必要はなさそうだけど?」

「そうではない。社長・・・というか会社はお客さんからお金をもらわないと経営が成り立たんやろ?」

「たしかにそうだね」

「つまり事実上、お客さんが上司なんや。なにかの拍子にお客さんの機嫌を損ねたら、お金を払ってもらえなくなるかもしらんねんから。スナイパーに狙われているような恐怖心は社長になっても同じや。つまりお金っていうのは拳銃と同じ、命令に従わせるための力になるんや」

「命令に従わせるための力?」

「そう。つまり権力や。お金っていうのは権力そのものやと、アンチワーク哲学では考える。貨幣権力説や」

ゲームを嫌いになる方法

 お金は権力。貨幣権力説。そう言われればそうなのだけれど、それは果たして悪いことなのだろうか? お父さんが僕たちのために歯を食いしばって会社の命令に従うことは、大切なことなのではないだろうか?

「でもさ。仮に労働者がお金によって命令されているのだとしても、それは仕方がないんじゃない? お金を稼がないと生きていけないし、誰かが労働しなければ社会が成り立たないのは事実でしょ? それに・・・」

「それに?」

「ニケの言うことはおかしくない?」

「ほう、どうしてや?」

 不意に閃いた反論を、ニケにぶつけてみる。

「人は貢献欲を持っているから、自発的に誰かの役に立ちたいって思うんだよね? なら、命令されていようが、命令されていまいが、喜んで労働するんじゃないの? それなのに、労働が嫌いな人は多いよね。これって矛盾してない?」

「それは命令のネガティブな側面を過小評価しとるわ。命令っていうのはそんな生やさしいもんやないで」

「そうなの?」

「せや、たしかに人には貢献欲がある。しかし、貢献欲は強制や命令によって抑圧されているんや」

「命令や強制によって、貢献欲を抑圧されてる?」

「そう。だから『他者からの強制』という意味での労働ってのは悪なんや」

「よくわからないな。僕は命令されようが、命令されまいが、労働なんかしたくないよ」

「それはそうかもしらんけどな・・・ごめんちょっとその前に、ティッシュ一枚くれへん?」

「え? いいけど」

「ありがとう」

 僕がティッシュを手渡すと、ニケは思いっきり鼻をかんだ。

「すまんな、この季節は鼻水が出てあかんのや。最近は体調も悪いから余計にな」

「花粉症?」

「さぁな。検査してへんからわからん」

 僕と同じだ。僕もこの時期は原因不明の鼻水にやられるけど、検査をずっと拒んでいる。

「ところで少年、いまどんな気持ちやった?」

「どんな気持ちって・・・なにが?」

「俺にティッシュ渡してどう思った?」

「なんとも思わないけど」

「役に立って嬉しいとか、そんな風に思わんかったか?」

「別に、『ティッシュ持ち歩いててよかったなぁ』くらいかな」

「せやろ、じゃあ次は・・・おい、ティッシュよこせ!」

「は?」

 ニケは大袈裟に拳を振り上げて僕に言った。波紋が広がるように、静まり返った公園にニケの声が響き、消えていく。あまりにも芝居がかったその場面に、僕は「ふふっ」と笑ってしまった。

「なに笑てんねん」

「いやだってさ・・・」

 脅す演技をしたつもりなのだろうけど、ぜんぜん怖くなかった。ある意味で驚きはしたが。

「まぁええわ。それより『誰が渡すかボケ』って気分になったやろ?」

「まぁね。『なにやってるんだろうこの人』っていう気持ちの方が大きかったけど」

「同じティッシュを渡すという行為でも、命令されるかされへんかで、感じ方はまったく違うねん」

「たしかにそうだね」

「せやろ。不思議やないか? どっちにしても『ティッシュを渡す』という結果は同じや。でも、お願いされたら渡したい気分になるのに、命令されたら『誰が渡すかボケ』っていう気分になる」

「当然じゃないの? 命令されるのって誰にとっても嫌なことでしょ?」

「だったら労働も、命令されるからやりたくなくなるとは考えられへんか?」

 ふむ。言われてみればそうかもしれない。でも・・・

「どうだろう。もしお金が有り余っている状況で『労働してくれる?』と誰かにお願いされても、積極的にやるとは思えないよ。僕は」

「それはそうかもしらん」

「は?」

「なにが『は?』やねん」

「じゃあ、貢献欲なんてないんじゃないの?」

「なんでそうなるねん。ええか、人間がなにをやりたがるかなんてわからん。食欲旺盛な人がお腹空いてても嫌いな野菜は食べへんやろ? 俺が言いたいのはな、やりたいことであろうが、やりたくないことであろうが、命令されたら嫌になるってことや。少年、ゲームは好きか?」

「え? まぁ好きだよ」

「じゃあ、これから毎朝俺が『おい、早くゲームしろよ』とか『ゲームどこまで進んだ?』とか『なんでこんだけしか進んでへんねん!』とか言い続けるとしたらどうや?」

「そりゃあ、縁を切るかな」

「寂しいこと言うなや」

 再びニケは芝居のように大袈裟に落ち込んだそぶりを見せる。こういう茶番に付き合うのも、まぁ悪くない。

「嘘だよ。ズッ友だよ、ズッ友」

「ズッ友て・・・いまの中学生も知ってるんやな」

「そんなに古い言葉なの?」

「まぁな。冗談はええとして、俺じゃなくてオカンでもええわ。オカンが毎日のように『ゲームしろ』って言ってきたらどうや? 縁切るってわけにもいかんで」

「ゲームが嫌いになるかもね」

「せやろ。それを見て『ウチの子はゲームが嫌いで、どうしようもない子やわ』ってオカンが周りに言いふらしたらどう思う?」

「ちょっとよくわからない世界観だけど、違和感はあるね。『あれこれ文句を言われないなら勝手にゲームするのに』って思うよ」

「そうやろ。でも、人の役に立つことって、往々にしてそういう状況にある。あれこれ言われるからやりたくなくなるだけで、本当なら人に誰かの役に立つことは喜ばしいことなんや。ティッシュを渡してくれた少年は、そのことを知ってるはずや」

 僕が人の役に立つことを喜んでいる? 本当にそうだろうか? 僕は自分が本質的に怠惰で、わがままな人間だと思っていた。そして、多かれ少なかれ、みんな同じだと思っていた。でも、たしかに僕は電車で老人に席を譲り、ニケにティッシュを渡した。それは人の役に立つことを欲していたからなのだろうか?

「人は役に立つことを欲する。でも、あらゆる行為は命令によって労働化する。だから貢献が嫌なことやと現代人は思い込んでるねん」

靴なんか履きたくない

 これまでの考えを拭い去るのはむずかしい。理屈の上では理解できても、脳みそが受け入れることを拒んでいるようだ。古臭い自分の脳みそと格闘しているうちに、僕はまた新たな疑問点が頭の中に登場するのを感じた。

「どうしたん?」

「ちょっと反論していい?」

「お、ええで」

「命令されるとその行為をやりたくなくなるってことだよね?」

「せや」

「それを言うなら僕たちはご飯を食べないと死ぬわけじゃん?」

「ん? せやな」

「じゃあ、ご飯を食べるように強制・・・つまり命令されてるようなものじゃん?」

「うん」

「なのに僕はご飯を食べることが好きなんだけど、これっておかしくない?」

「ほう、なにがおかしいんや?」

「命令されたら、やりたくなくなるんじゃないの?」

「お、少年はなかなかセンスあるな。さすがは俺の・・・」

「・・・俺の?」

 飄々と話すニケに、珍しく動揺の色が見えた。それは見間違いかと思うほどにあっという間に消えていき、ニケはいつものペースで言葉をつなぎはじめた。

「・・・見込んだ男や」

「僕、いつの間に見込まれてたの?」

「まぁええがな。それよりな、命令されているからといってすべてが嫌になるわけじゃない」

「そうなの?」

「そういうもんや。セクシーなお姉さんに『パンツを脱げ』って命令されたら、嫌な気分にはならんやろ?」

「あの・・・こっちは一四歳なんだから、ちょっと表現に気を遣ってくれてもいいんじゃない?」

「一四歳やったらもっと過激な話もしてるやろ」

「いや・・・」

 たしかに同級生たちは、下ネタを言い放つ度胸を見せびらかすように、大声で話している。そんなとき、僕は居心地の悪い思いで愛想笑いをしていたっけ。

「・・・というのはまぁ置いといて、君はアンチワーク哲学の深淵に踏み込んだんや」

「深淵?」

「そう。アンチワーク哲学は『好きなことをやれ』っていう哲学や。ただし、好きなことだけを追い求めていたら好きなことはできへん」

「は?」

 好きなことだけを追い求めていたら、好きなことはできない? どういうことだろう?

「少年、靴を履きたいって思ったことはあるか?」

「いや、靴を履くのって当たり前だし、進んで履きたいと思ったことはないけど?」

「せやろ。たとえば少年は今日、大好きなバンドのライブに行くとしよう」

「うん。僕はライブに行ったことはないけどね」

「たとえばの話や。話の腰を折るな」

「わかったよ」

「ほんでな、ライブに行くには靴を履かないとあかん」

「うん」

「でも、靴を履くことは別に好きなことではない」

「そうだね」

「じゃあ、靴を履くのは、強制されてるって感じるか?」

「うーん、たしかにそうかもしれないけれど、ライブに行くためなんだから、不満に思うことはないね」

「せやろ? 人間は好きなことをやるために、いろんな下準備をする。でも、その下準備が必要やと思ってたら不満に思うことはないねん。『靴なんか履きたくない!』とキレる人なんか見たことないやろ?」

 たしかに。そんな人がいたら単なるバカだ。

「少年はさっき、飯を食うことは事実上強制されてると指摘した。これは鋭い指摘やった。でも、人間は生きていくために飯を食わなあかんってことに納得しているから、事実上強制されていたとしてもいちいち不満に思わへんねん」

「強制されていようが、納得していれば問題ないってこと?」

「そうや。強制されていると感じるのは、納得度が欠如しているからや。拳銃を突きつけられてスクワットさせられる状況に納得できる人なんかおらんやろ? だから命令に不満を感じるんや。ただし・・・」

「ただし?」

「靴を履くことすら嫌がる人はいる」

「そうなの? そんな人がいるとは思えないけど」

「小さい子どもや。少年は子育ての経験がないやろからわからんかもしらんけど、三歳児は『Aという行動をとるためにBという準備をせなあかん』ということがわからへん。わかっていたとしても、『いますぐAという行動を取りたい』という衝動を抑えるのがむずかしい」

「そうなの? 合理的じゃないね」

「子どもなんてそんなもんや。テーブルの真ん中にあるスープを飲みたいと思ったら、少年ならどうする?」

「一回、手元に寄せてから飲もうとするかな。そうしないとスープをこぼすし」

「せやろ。それは『スープを飲みたい』という欲望を一旦保留して、別にやりたくもない『引き寄せる』という行為を優先したんや。子どもやったら引き寄せることなく、テーブルを汚しながらスープを飲もうとする。そういう失敗を繰り返して、子どもは欲望の優先順位を覚えていくんや。大人になるっていうのは、そういうことや」

みんなで社畜になればいい?

 大人になるっていうのは、そういうこと? ニケはなにが言いたいのだろう?

 結局、スープを飲むためにスープを取り寄せるように、生き延びるために労働をしろってことじゃないのか?

「だったらさ、お金をもらうために労働するのも、仕方のないことなんじゃないの? ご飯や服、ゲームを買いたいという欲望を保留して、そのための下準備として労働をすることで、結果的に欲望を叶えられているわけだし。逆に労働しなければ、満足に買いたいものも買えないし、生きていけないよ?」

「お、少年はまたええところに目をつけたな」

「そうかな」

「せや。実際にそうやって労働に満足する人はいる。みんなが少年みたいに『労働したくないよ〜』と文句を言っているわけじゃないんや」

 僕を小バカにしたような言い方をするが、ニケは自分の言葉がブーメランになっていることに気づいていないのだろうか?

「ニートに言われたくないけどね」

「ニートをバカにすんなよ、多様性の時代やろ? ポリコレに引っかかるで?」

「ニートはセーフでしょ?」

「あほか。ニートにも人権はあるで」

 ニートにも人権はある。それはその通りなのだけれど、きっとそれは建前だろう。大人たちが「勉強しなければニートになる」と脅しつけるのを聞いていれば、「労働者でなければ人に非ず」くらいの感覚で生きているように感じる。

「まぁええ。続けるで。お金を稼ぐために労働することは、事実上、命令されてる。でも、そのことに納得をしているなら不満はなくなる。それが社畜心理の第一歩やな」

「社畜心理?」

「そう。社畜心理。『なんでこんなことせなあかんねん!』と思わなくなって『これは仕方ない』とか、いっそ『労働が楽しい』とまで感じるようになることを意味するねん」

「労働を楽しいって思う人がいるの?」

「おる。人間が不満を抱き続けるのは意外とむずかしいもんや。不満がある場合、人はどうすると思う?」

「どうだろう、その場から逃げるかな?」

「せや。でも、労働のように逃げられへん場合はどうする?」

「うーん、『仕方ない』って受け入れるんじゃないかな」

「そう。そして『仕方ない』がだんだん快感になっていくねん。俺も二十代の頃は馬車馬のように働いていたんやけどな・・・」

 意外だ。この男にも就業経験があったのか。

「はじめは毎日『辞めたい』って思ってたけど、入社して一年もたった頃には慣れてくるねん。あの頃は同僚と『残業八十時間が過労死ライン? 百時間超えが普通っしょ?』って飲み屋でゲラゲラ笑いながら話したもんや。間違いなく、俺はその会社で労働することが好きになってた」

「それは好きって言えるの? 自虐してるだけじゃない?」

「自虐ってのは楽しくないとできへんもんやで。自分のコンプレックスを笑いに変えられる人にとって、それはもうコンプレックスではないのと同じや」

「ふーん」

 そういえば、ニケはどうしてニートになったのだろう? 聞いてる限りだと真面目に働いてたみたいなのに。

「それで、ニケはどうしてニートになったの? 仕事が好きだったんでしょ?」

「少年。それはプライバシーってやつや。五十年も生きてると話したくないことは山ほどあるんや」

「なにそれ? 僕は洗いざらい話したのに?」

「一四年と五十年やと重みが違うわ。理想を追いかけて大失敗するような、涙なしには語れない人生経験もあるねん。ぜんぶ話すわけにはいかん。まぁ一個だけ伝えるとすれば、俺はもっと休みが多い会社からオファーを受けて転職した。それだけやな」

 こんな胡散臭い男にオファーを出すとは、物好きな会社があるものだ。

「会社が好きになってたわけじゃないんだね」

「鍵がかかった牢屋に閉じ込められてたら、その牢屋がいい場所やと思い込まないと気が狂いそうになる。でも、鍵が開いてたらそんな思い込みはさっさと捨てて逃げる。そういうもんや。あとから思い返せば、あれは強制されてたんやなぁと俺も気づいたわ」

 そういうものなのだろうか。ニケの言う社畜心理とやらは、意外と脆いものなのかもしれない。

「ところで、少年のご両親は労働をどう考えてるやろか?」

「うーん、どうだろう。『楽しい』とまでは思っていないだろうね。お父さんはいつも疲れてるし。でも、家で文句を言うこともないから『仕方ない』とは思っているんじゃないかな」

「まぁ、だいたいの大人はそんなもんやろな。積極的に労働の意義を肯定してなくても、生きるために、家族を養うために、遊んだり贅沢したりするためには仕方ないって思っているはずや」

「ていうことはさ・・・」

「ん?」

「やっぱり労働は仕方ないんだから、それに納得せずに文句を言うのは三歳児と同じってことだよね? 労働は生きるために必要なんだから、みんなが労働という運命を受け入れるべきなんじゃないの?」

「なるほどな」

「それに、アンチワーク哲学の定義で言えば、納得しているなら強制されているわけじゃないんだし、労働ではなくなるんでしょ? みんなが納得すれば解決するんじゃない?」

「俺はたまに考えることがあるねん。もし俺が戦後の焼け野原に生まれていたら、きっと頑張って家を建てたり、工場をつくったりしたやろなぁって」

 ニケは大袈裟に遠くの空を見つめながら言った。なんだか話題を逸らされた気がする。

「ニートなんだから、戦後に生まれててもダラダラ過ごしてるんじゃないの?」

「あほか。焼け野原に家を建てることはどう考えても大事なことやろ。だからちょっとくらい辛くても納得できるわ。でもな、現代の労働に完全に納得できる人は少ないはずや。だから労働は耐え難いねん」

「そうなの?」

「せや。現代においても個人が生きるためにはお金は必要や。でもな、社会全体としてみたときに現代の労働は必要ない。だから納得できへん人がたくさんおるねん」

第三章 労働は本当に必要か?

 ニケがわざとらしく見つめた遠くの空には、快晴を覆い尽くそうと雲が待ち構えている。そういえば、今日は午後から雨が降るんだっけ?

 今朝、天気予報を見ていたとき、僕はいつもと同じ一日が始まることを疑いもしなかった。それがいまや、公園の芝生に座り込んで、五十歳のニートと話し込んでいる。人生とは、空模様よりも気まぐれなものらしい。

「雨、降りそうやなぁ」

 議論しているときの大袈裟な声とはうってかわって、ニケは小さな声でつぶやいた。

「そうだね」

「傘、持ってるんか?」

「持ってないよ」

「一緒やな」

 きっとこの芝生で話していられる時間は多くない。それでも不思議と僕たちはこの場から離れようとはしなかった。まだまだ舞台は中盤。そんな感覚が僕らを結びつけている。次のセリフを紡ぐため、僕は議論の沼に思考を沈めていった。

無意味な労働の数々

 さっきニケはなんて言ったっけ。現代の労働は必要ない? いったいどういう意味だろう? この社会から労働がなくなれば、家も食べ物も服も生産されないし、ゲームや漫画といった娯楽を楽しむこともできない。どうして「必要ない」なんて言えるだろうか?

 ニケは労働に不思議な定義を与えていた。「他者より強制される不愉快な営み」だったっけ。たしかに労働には強制や不愉快といった雰囲気がつきまとう。でも、先生に叱られないために渋々掃除当番に取り組むように、強制しなければ誰も必要な労働に取り組もうとは思わない。ならば、強制されることも不愉快であることも仕方ないんじゃないだろうか? 労働は、やっぱり必要なはずだ。

「・・・必要のない労働なんてあるの?」

「逆になんで労働が必要やと思ったん?」

「え?」

 そりゃあ、必要に決まってるじゃないか。

「働いたことのある大人やったらみんな知ってるで。世の中は無駄な労働で溢れかえってることをな。ブルシット・ジョブって検索してみたらええわ」

「ブルシット・・・?」

「まぁそれはどうでもええ。とにかく、ちょっと考えてみてくれ」

 ニケはわずかな幕間の時間を終えて、さっきまでの役者じみた語り口に戻っている。

「たとえば少年と俺が二人きりで無人島に漂着したとしよう」

「あんまり想像したくない状況だね」

「で、目の前に二人が一ヶ月生き延びられる分の食糧が置いてあるとしよう。で、穴を掘っては埋める作業を十回早く繰り返した方がそれを総取りできるとしよう」

「どういうこと?」

「まぁ聞いてくれや。とにかくそういう状況やねん。なら、俺も少年も必死で穴を掘って埋めようとするよな?」

「うーん、それなら二人で分け合おうとすると思うけど?」

「それが賢いわな。でも、どっちにしろそのゲームをやらなあかんとしよう。神様かなにかに強制されてるんや。ほんでゲームに勝ったら相手に分け与えようが、それは勝者の自由や」

「神様ね・・・」

「相手が勝っても分けてくれると信じるなら、ゲームを本気でやる必要はないけど・・・」

「その確証がないなら、とりあえず自分が勝とうとする・・・かな?」

「せやろ。なら、必死でゲームをやるだけじゃなくて、事前にちょっと練習もするやろうな」

「そうだね」

「でも、無駄やろ?」

「そりゃあ、そんなバカなことをする必要はないね。だって、穴を掘って埋めてもなんの意味もないんだし、ゲームなんて適当にやりすごして食糧を二人で分け合えばいい。そして、余った体力で狩りや農業にチャレンジするか、家をつくるか、脱出用の舟をつくった方がいいね」

「せやろ。つまり個人にとっては『仕方ない』と思える穴掘りゲームも、俺と少年・・・つまり社会全体としてみれば無駄なんや。ほんで、たとえ話はここまでや。お金をもらうための労働が、穴掘りゲームみたいになってるとしたらどうや?」

「え?」

「労働が分け前を奪い合うだけの競争になってるんやとすれば、どう思う?」

 もしそうなら無駄だ。でも、あまりにも現実と違いすぎてたとえ話になっていない。

「でも労働って、奪い合いではないよね? どちらかといえば狩りや農業みたいに、食糧を増やすことに近いんじゃないの?」

「それが勘違いなんや。労働には二種類あってな、経済活動と政治活動っていうのがある」

「なにそれ?」

「経済活動は少年がさっき言ったように食糧をつくる行為も含まれるし、椅子やテーブルをつくる行為もそうや。あとは子どものおむつを替えたり、荷物を運んだり、トラックをメンテナンスしたり・・・人やものの世話、運搬も含まれる。労働と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、こういう経済活動やろな」

「そうだね。逆にそれ以外の労働ってなに?」

「たとえば・・・あそこでスーツ姿の女性がベビーカーを押した母親に話しかけてるやろ?」

 話に夢中になって気づかなかったが、さっき視界に入った若い母親に、スーツの女性が話かけていた。

「うん」

「内容が聞こえへんからわからんけど、あれはたぶん保険の営業や。『子どものために保険に入りませんか?』っていう営業をかけとる」

「それがどうかしたの?」

「営業は、さっきの経済活動に含まれるか?」

「うーん、ものをつくるわけでもないし、人やものの世話をするわけでもないね」

「そう。それはつまり『うちの商品を買ってくれ』と働きかけて、富の移動に影響を与えようとする営みなんや」

「富の移動?」

「むずかしく言うたけど、要は金を手に入れるための活動や。これをアンチワーク哲学では政治活動って呼ぶねん」

「ふーん」

 政治活動。なんともイメージの湧きにくい言葉だ。ニケにはやっぱりネーミングセンスがない。

「営業以外に政治活動ってなにがあるの?」

「少年はYouTubeを観るか?」

「まぁ人並みには観るけど」

「広告が出てきてうざいと思うやろ?」

「まぁそうだね。早く動画を観たいのに、鬱陶しいなぁと思うよ」

「広告も政治活動や。広告ってのは、『うちの商品を買ってくれ』と働きかける行為やろ。YouTubeの広告だけではなくて、テレビコマーシャルも、ポストに入ってるチラシも、新聞広告も、街頭の広告も、ぜんぶそうやな」

「そうだね」

「さて、さっきの無人島の話と照らし合わせて考えよか。『経済活動』が狩りや農業やとすれば、『政治活動』は穴掘りゲームに夢中になることを意味するわけやな」

「でもさ、広告や営業は穴掘りゲームみたいにまるっきり無駄ってわけでもないでしょ? 広告を見て素敵な商品の存在に気づくこともあるし」

「そうか。なら少年はYouTubeの広告を百回見たとして、何回素敵な商品に出会えるやろか?」

 動画を観ている場面を思い出す。そういえば、いつも広告の内容なんて見ようともせずに、スキップボタンを連打しているっけ。

「ゼロかな。いや一回か二回くらいは・・・」

「広告なんかそんなもんやろな。営業も似たようなもんや。俺も昔は営業やってたけど、企業百社に営業電話をかけて、一社契約できれば御の字やったわ」

「へぇ、そんな仕事をしてたんだね」

「せや。そんな無意味な仕事をしてたからアンチワーク哲学を思いついたんや」

「そっか。机上の空論なんだと思ってたよ」

「あほか。ほんでな、広告も営業も百パーセント悪やとは言わん。ただ、少なければ少ない方がいいことは間違いないやろ?」

「どういうこと?」

「たとえば、この社会にテーブルが一個しか存在しないよりは百個存在している方がええよな?」

「まぁ、その方がみんなにテーブルが行き渡るし、好みに合わせて選ぶこともできるだろうね」

「そう。だから経済活動が活発になることは基本的にはいいことや。つくりすぎの問題は置いといて」

「うん」

「でもな、一つの動画で広告が一本だけ流れるのと、百本流れるのやったらどっちの方がいい?」

「一本の方がいいね。邪魔だし」

「せやろ。観る側からしても邪魔やし、広告つくるのも簡単じゃない。プロが手間暇かけてつくってるんや」

 そう言われれば考えたこともなかった。どれだけの手間暇をかけて、いつも僕がスキップする広告がつくられているのか。

「他にはこんな状況はどうや。オフィスで仕事をしてたら一日に一回だけ電話営業がかかってくるのと、一日に百回電話営業がかかってくるのとでは?」

「そりゃあ、少ない方がいいよね。かけられる側は仕事を邪魔されるし、かける側は大変だし」

「そう。だから政治活動は少ければ少ない方がいい。それだけやないで。政治活動をするためには、そのサポートをする経済活動も必要なんや」

「どういうこと?」

「たとえばゴミみたいな広告をつくってる会社があるとしよう」

 ゴミ。ひどい言い草ではあるけれど、「ゴミ」としか形容しようがない広告はたしかにある。

「その会社はオフィスビルに入ってるわけや。そのビルを建てる仕事や、掃除する仕事、空調やエレベーターを点検する仕事、そこで使われるパソコンをつくる仕事、電気やガスの設備を整える仕事は経済活動なわけやが、これらは必要か?」

 言われてみれば・・・

「最終的に無駄なことに使われてるわけだから、無駄だね」

「せやろ。ビルを建てるのに、どれだけの鉄やコンクリート、ペンキやネジ、ガラスがつくられて、運ばれてきたか想像できるか? つまり、無意味に浪費されてる労働は膨大なんや」

 話の筋は通っている。しかし、そんな簡単にいくものだろうか。さすがに暴論ではないだろうか。

「でもさ、政治活動があるのも仕方ないんじゃない。会社が存続するためにも利益を出すことは大切だよね?」

「その通りや。でも、社会全体としてみたときに少ない方がいいことに変わりはない。好きでやってるんでない限りな。だったら、なんとか減らす方法を考えるべきやろ」

ゴミのために働く大人たち

 減らす方法を考えるべき? そんなことを考えたことはなかった。いまの社会の仕組みなんて、どうやっても変わらないのだと思っていた。でも、ニケはまるで部屋を模様替えするように社会を変えるべきだと語る。そんなに簡単にいくものだろうか?

「でもさ。仮に政治活動はなくて構わないとしても、経済活動はどうするの? 経済活動がなくなったらさすがにみんな困るんじゃないの?」

 広告が消えても困らないとしても、農家やドライバー、看護師がいなくなればどう考えても大惨事だ。コロナ禍でも、僕たちが休む中、世の中のために労働してくれた人たちがいた。その人たちを見ても「労働は悪」だなんて言うつもりなんだろうか?

「それはその通りや。ただし、経済活動もぜんぶが必要とは限らん」

「どういうこと?」

「たとえば節分の時期になったら、恵方巻きが大量に捨てられるっていうニュースを見るやろ?」

「そうだね。毎年の風物詩みたいになってるね」

「恵方巻きのためにお米を育てて、炊いて、巻いて、包装して、梱包して、トラックで運ぶ作業は紛れもなく経済活動や。でも、捨てられる恵方巻きをつくる労働は果たして必要なんやろか?」

 たしかにそうだ。でも・・・

「それは結果論じゃない? 実際どれだけ売れるかなんて、事前にわからないんだから」

「高校生になったらコンビニバイトを一回やったらええわ。『こんなに売れるわけない』って高校生でもわかるはずやで」

「だったら、どうして売れ残るまでつくるの?」

「社長ですら、お金をもらえなくなる恐怖を感じてるって話を覚えてるか?」

「うん。お金がないと生きていけないから、お金のために強制されるって話だよね」

「そう。コンビニに限らず、あらゆるビジネスではたくさんお金を稼ぐことが求められる。それはいろんな理由があるけど、そのうちの理由の一つは、お金がないと不安だから」

「不安?」

 意外だ。お金持ちも、お金がなくて不安な気持ちを味わうのだろうか?

「金持ちだって『一寸先は闇』と感じてるはずや。知り合いの社長に聞いてみ?」

「社長の知り合いなんかいないんだけど?」

「ほんでな、お金を稼ぐにはたくさんつくって、たくさん売る必要がある」

 ニケはたまにこちらの話を無視して、自分の話を進める。よっぽど話すのが好きなのか。僕もそれだけ自己主張ができたら、楽しく生きられるのかもしれない。

「そうだね」

「だから売れるかわからなくてもたくさんつくる。そして宣伝して、営業して売ろうとする」

「でも、売れ残るなら、逆にお金がもったいないんじゃないの?」

「それはそうやけどな、少年がさっき言った通り、やってみなわからんねん。逆に少なくつくって品切れになったら『もっとつくれば、もっと金儲けできたのに』って感じるやろ? だから結局たくさんつくるんや」

「そういうものなの?」

「実際に、食品の廃棄率はかなり高い。他にも、アパレル業界もたくさん服をつくっては売れ残して捨ててる。一回検索してみるとええわ。経済活動は過剰生産なんや。ちょっとやそっと減っても構わへんねん」

お金を稼ぐのは偉くない

「ことあるごとに僕に検索させようとするよね、ニケって」

「当たり前やろ。情報リテラシーは大事や」

「本当は覚えていなかったり、説明するのがめんどくさいだけじゃないの?」

「それもある。めんどくさい」

 ニケは、嫌味を言われても悪びれることなく自分の非を認めようとする。もしかすると「めんどくさい」を「非」とすら思っていないのかもしれない。

「ところで、ここで問題や。経済活動に携わっている人と、政治活動に携わっている人、どっちが金持ちやと思う?」

「んーどうだろ。農家や保育士、トラック運転手みたいな人たちがお金持ちっていうイメージはないし、営業とか広告に携わっている人の方がお金持ちのイメージがあるなぁ」

「せや。この社会では政治活動をやった方が金持ちになれる傾向にある。言い換えれば、金を稼いでいるからといって、社会の役に立っているとは限らん。金を稼いでいるから偉いわけではないんや」

「でも、お金を稼いでいる人は尊敬されているよね? 本当にお金を稼いでいる人が役に立っていないなら、尊敬されないんじゃないの?」

「それはな、単なる勘違いや」

「勘違い?」

「そう。『お金は社会に対する貢献度を測定している』っていう勘違いやな」

「貢献度を測定しているんじゃないの?」

「違う。そもそも貢献度なんて曖昧なもん、どうやって測定するんや?」

 少し考えてみる。どうやって測定すればいいんだろう? 体重計みたいに「貢献度計」が存在するわけでもないし・・・

「えーっと、それは・・・」

「たとえば一時間ゲームをやって十万円の投げ銭を得るゲーム実況者がいるとしよう。その人は時給千円でトイレ掃除する人の百倍の時給をもらってるわけや」

 頭の中で計算をしてみる。暗算は苦手だが、なんとか理解が追いついた。

「・・・うん、そうだね」

「なら、百時間トイレ掃除するのと一時間ゲーム実況するのとで、同じ貢献度やと思うか?」

「うーん、なんか違和感があるなぁ・・・」

「じゃあ、時給十億円の金持ちと比べてみればどうや?」

「そんな人いるの?」

「世界一の金持ちはもっと稼いでるで」

 そうなんだ。あとで、世界一の金持ちの時給を検索してみよう。

「十億円を時給千円で割ったら・・・えっと・・・百万時間?」

「そや。なら、その金持ちは百万時間トイレ掃除するのと同じくらい貢献したと言えるんか?」

 単純に比較はできないけれど、なんとなく違和感はある。でも・・・

「でも、たとえばコンピューターを発明した人がいれば、その人は世界規模の貢献をしたことになるわけだし、ずっと時給十億円くらいもらってもおかしくないのかも」

「ほな次はコンピューターを発明した人を検索してみ? 何人も名前が連なって出てくるわ。発明っていうのはな、誰か一人が突然閃くようなもんではない。先人の積み重ねがあってはじめてできるもんなんや。そのうち誰がどれだけ貢献したかなんて、測りようがあるか?」

「でも、特許とかあるじゃん? あれは、その人が発明したっていう証拠じゃないの?」

「ほな特許を与える側の人は、ぜったいに間違いのない発明者判定機でももってるんか?」

 そうか。そんなものがあるはずがない。

「要するにな。そもそも貢献度なんかを測定することが無理やねん。でも、お金はあたかも測定しているような見かけを生み出す」

「見かけ?」

「つまり、こう言い換えられるねん。『お金は、貢献度を測定しているのではなく、貢献度を決定している』とな」

 ニケは哲学者だからか、気取った言い回しをすることがある。中学生にもわかりやすく説明してほしいものだ。

「つまり・・・どういうこと?」

「こう言えばわかりやすいやろか。『お金は貢献度を測定している。貢献度とはその人の受け取るお金によって決定される』と。こういうのをトートロジーって言うねん」

「なら、お金を稼いでいる人が尊敬される理由は、『お金を稼いでいるから』ということ?」

「せや。それ以上でも以下でもない。そして、『お金を稼いでいるから社会に貢献している』という勘違いが蔓延した結果、逆の勘違いも蔓延した」

「『お金を稼いでいない人が、社会に貢献していない』と勘違いされるようになった?」

「そう。実際は、給料の低い人たちの方が、はるかに重要な仕事をしてる。農家や保育士、トラック運転手が一斉にいなくなったら大混乱やけど、公園で保険を売りつける人がいなくなってもなんか困ることがあるか? 政治活動に携わる人は、低賃金で経済活動に携わる人が生み出した富を搾取してるだけなんや」

 スーツ姿の女性はまた別の女性を探してウロウロしていた。どうやらさっきの母親には断られたらしい。

「でもさ、あの人も頑張ってるじゃん? そんな風に悪く言うのはかわいそうじゃない?」

「その通り。かわいそうやねん」

「え?」

「ええか。無駄だろうがなんだろうが、みんなが穴掘りゲームで競い合ったなら、そこで勝ち残るのは大変や」

「たしかに、みんなが穴掘りを練習して上手くなるなら、自分ももっと練習が必要になるだろうね」

「そう。それに穴掘りゲームをやめたら自分が飢えて死ぬ。だから穴掘りゲームをやめられないのは仕方ない。でも・・・」

「でも?」

「だからといって穴掘りゲームが社会に必要やとは言われへんやろ?」

学歴は金儲けの許可証

 大人たちの大部分が日がな一日、社会全体としては無駄な穴掘りゲームに興じている。そんなことに言われてショックを受けなかったと言えば嘘になる。「働くこと」は大切で、みんなの役に立つことで、大人としての重要な責務。そんな風に教えられてきたからだ。

「この状況は深刻や。お金を稼げる政治活動の仕事にみんなが就こうとした結果、競争が激しくなってみんなが消耗している。その一方で、本当に必要な農家やドライバー、職人といった経済活動にまつわる仕事はおしなべて人手不足なんや」

「でも・・・」

 社会全体として非効率なのだとしても、それでもお金を稼がなければならないのは事実。だったら、個人が幸せになるには、お金を効率的に稼ぐことができる政治活動に取り組むのは当然ではないだろうか。

「そうなるのは仕方ないよね。みんなお金は欲しいわけだし」

「それはその通りや。でも、仕方ないと諦めるべきやろうか? 政治活動が過熱するだけじゃなくて、政治活動への参加権の獲得競争もどんどん過熱してるんやで」

「どういうこと?」

「受験や。みんな受験して大学に行こうとするやろ。あれは金を効率的に稼ぐことができる政治活動への参加権を巡って争ってるんや」

「大学は勉強するためのところじゃないの?」

 大学。そのキーワードを聞いて、少しだけ現実に引き戻される。そういえば勉強から逃れたくて、学校をサボっていたんだった。

「その辺の大人に聞いてみ? 大学に勉強しに行く奴なんかほとんどおらんで。偽装出席やレポートの代筆なんか日常茶飯事で、どいもこいつもバイトとサークル三昧。大学っていうのはな、四年間遊んで肩書きをもらいにいくところなんや。真面目に勉強しに行く奴もおるけどな、そういう奴は変人扱いされるねん」

「肩書き? 勉強しに行く奴は変人?」

「せや、ちょっと考えてみて欲しいねんけどな。自分が就活生やとしたら東大卒の学歴か、東大卒相当の能力のどっちが欲しいと思う?」

「それは・・・」

 東大卒相当の能力・・・と言われてもピンとこない。面接の場でむずかしい数式を解いたら採用されるわけでもないだろうし、そもそもスタートラインにすら立てないかもしれないし。

「学歴の方が欲しいかもね」

「やろ? 能力だけあっても学歴がなければ面接にすら呼ばれへん。逆に学歴があれば、面接さえうまくしのげば誰もが羨む大企業に滑り込める。つまり大学生の本音はこうや。『代筆なり偽装出席なりでその場を凌いで肩書きだけもらってあとは面接で美辞麗句を並べて大企業に滑り込めば人生安泰』ってな」

「だから大学は肩書をもらいに行くところって言いたいの?」

 理屈はわかるが、さすがにそれだけでは納得できない。

「納得できんなら別の角度から考えよか。大卒で、農家とかトラックの運転手みたいな経済活動の仕事をする人はどれくらいおると思う?」

「どうだろう。そういう仕事は高卒とか中卒の人がやっているイメージだね」

「逆に、政治活動・・・つまり広告業界で働く人やスーツを着て営業する人といえば・・・」

「大卒のイメージだね」

「そう。つまり大卒の学歴がなければ政治活動に参加できへんやろ? これは大卒の学歴が許可証みたいなものとして機能してるってことと違うか?」

「でもさ、具体的に覚えていないのだとしても、身についているスキルはあるのかもしれないよ?」

「偽装出席して、レポートを代筆してもらってもか?」

「そういう要領の良さを学ぶ場でもあるとか・・・」

「そんなこと、わざわざ高い学費払ってやることか? 人狼ゲームでもやっとけばええやろ?」

「それでもやっぱり、受験に勝ち残れるかどうかによって、地頭の良さとか忍耐力とかが測れるよね。大学では遊んでいるのだとしても、受験に受かってるなら、地頭がいい証拠じゃない? トラックを運転するような仕事は誰でもできるけど、広告の仕事は頭が良くないとむずかしそうだし・・・」

「ほな、別にテストだけやればええんとちゃうか? わざわざ大学に通う必要があるか? 学費は高いし、大学には税金もバカみたいに投入されてるんやで」

「それは・・・」

「あとな、トラック運転手は思っているより単純じゃないし、広告の仕事は思っているほどむずかしくない」

「どうしてわかるの?」

「俺は両方やったことがあるねん」

 この男、けっこう経験豊富なのかもしれない。

「まぁそんな話はええねん。ともかく、学歴によって人々がふるいにかけられているのは事実や。大手企業の総合職には、有名大卒のエリートばっかりが集まってるわけや」

「でも、やっぱり有名大学を卒業しているくらいだから、能力は高いんじゃないの?」

「実際、優秀やと思う。でもな、世の中の役に立っているとは限らんねん」

「その人たちが政治活動をやっているから?」

「そう。傾向として、大卒のエリートは政治活動に携わるわけや。で、政治活動を上手くやるということは、性能のいい椅子をつくったり、子どものオムツを手早く替えたりするのとは違う。上手にお金を集めてくるだけや。無人島のたとえで言えば、めちゃめちゃ穴掘りゲームが得意な人が大卒のエリートなんや」

 スーツを着て、髪の毛をテカテカに固めたエリートサラリーマンが無人島で穴掘りゲームに興じている場面が脳裏をよぎる。

「で、たくさん給料をもらう。問題はここや」

「え? なにが問題なの?」

「有名大学を卒業して、政治活動を上手くやれば、金持ちになれるんや。仮に社会全体を豊かにすることにはならんとはいえ、個人としてみれば金持ちになれる。なら、自分の子どもを椅子取りゲームで勝たせようとするのは当然のことやろ? 少年の親は、少年を椅子取りゲームに勝たせようとしているわけや」

「椅子取りゲーム・・・?」

「で、ほかの親も同じ。みんな子どもに裕福になってほしい。だから受験勉強をさせる。『受験戦争』っていう言葉は比喩でもなんでもない。本当に落とし合いの戦争なんや」

「戦争って・・・」

 まるで勉強をしている自分が悪い侵略者だと言われているようだった。それに僕のお母さんも・・・

「もちろん、少年の親を悪く言うつもりはない。自分の子どもに裕福になってほしいと願うのは、当然の親心や。でも、それが社会全体としていいことかどうかは、また別問題やねん」

 自分の子どものためになるけど、社会のためにはならない。そんなことを言われても、僕はどうすればいいんだろうか?

「ほんで、不安な親を煽り立てて金を儲けようとするのが教育業界やな」

「どういうこと?」

「教育業界の人々が頑張って儲けようとした結果、日本全体で教育に注がれるお金は年々右肩上がりや。昔は大卒の人なんてほとんどおらんかったけど、いまは半分が大卒。最近は幼少期から英語やプログラミングを教えたり、小学校受験や中学校受験させたりする親も増えてる。塾に通うのが当たり前で、友達と遊ぶ時間も減ってるやろなぁ」

 僕も中学受験をさせられて、いまの私立中学に通っている。そういえば小さい頃、英語スクールにも通っていたっけ。

「さて、子どもはどんな風に感じてるやろか?」

「どうだろう? 勉強が楽しいならいいけど、嫌々やらされてるなら『もっと遊びたい』と思ってるかもね」

「せやろ」

「でも、自分の将来のためなんだし・・・」

「そうかもしらん。でも、社会のためにはならんって話をしたやろ? だったらみんなで勉強するのをやめて公園で遊んでた方がええんとちゃうか?」

「みんなで遊んでた方がいい?」

「そう。自分一人だけ椅子取りゲームをやめたら自分だけが貧乏になるから、みんな椅子取りゲームをやめられない。でも、その営みは社会全体としてはなにも生み出してない。なら、さっさとみんなでやめればええんや」

ドラえもんはいつ生まれるの?

 勉強は嫌いだ。でも、ニケほどに全否定をしようとは思えない。これだけ僕たちは必死で勉強しているのだから、それが無駄だなんて信じたくない。

「やっぱりおかしいよ。みんなが勉強して能力を身につけたら、テクノロジーが進歩して社会が豊かになるんじゃないの? AIやロボット、自動運転車なんかも発明されて、これからどんどん労働がなくなっていくって言われているし。それはみんなが勉強を頑張ったおかげじゃない? それとも『学校なんてなくなってしまえばいい』ってニケは言いたいの?」

「たしかに、ある程度は勉強は大切や。なにも俺は『読み書きができなくても構わん』とは言わへん」

「じゃあ・・・」

「でもな。さっきも言うた通り、高校とか大学の勉強なんか誰も覚えてへん。それに、ほんまにみんなが勉強したら社会が豊かになると思うか?」

「そりゃあ・・・」

 僕はそうだと教わってきた。昔は学校がなくて勉強できる環境がなかったから社会が停滞していたのに対し、いまは義務教育があって、大学もあって、勉強できる環境だから社会が成長している、と。

「じゃあな、現代は教育にかけられるお金は右肩上がりやけど、経済成長してるか?」

「それは・・・」

 していない。「不景気だ」と大人はみんな口にする。

「逆に大卒がほとんどおらんかった時期の方が高度経済成長期なんて言われてるで?」

「それは、他の原因もあるんじゃないの? それに経済成長していないとしてもAIとかロボットみたいなテクノロジーが発展しているのは事実だし」

「あー、少年はまた大人の言うことに騙されてるんやな」

 ニケは「やれやれ」といった素振りを見せる。芝居がかった素振りにも、だんだん腹が立ってきた。

「騙されてるって・・・僕だけじゃなくて大人もそう思ってるんじゃない?」

「せやな。大人も騙されてる。でもな、AIとかロボットがほんまに人間の代わりになると思うか?」

「え? だって、テレビでもよく言ってるよ。『AIやロボットが仕事を奪う』って」

「よく考えてみ? ファミレスで配膳ロボットを見たことあるか?」

 友達とファミレスに行き、はじめてあのロボットを見たときの興奮を思い出す。すべてがオートメーション化された未来社会の入り口に、自分が立っているのだという興奮を。

「あるよ。すごいよね、あれ」

「せやろ。あれは上手いこと使えば配膳だけやったら代替してくれるかもしらん」

「ほら、やっぱりテクノロジーが発展してるんじゃん」

「でもな、ファミレスの仕事は配膳するだけじゃないやろ? ゴミが落ちてたら拾わなあかんし、ドリンクバーも補充せなあかん。テーブルを拭いたり、食器をさげたり、トイレを掃除したり、子どもが来たら子ども椅子を用意することもあるやろなぁ」

「それは・・・そうだね」

 あの日のファミレスでも、結局、店員たちは慌ただしく働いていたっけ。

「ファミレスの仕事といっても、配膳だけをやるわけじゃない。いちいち注目されないような細かい作業はいくらでもある。それらぜんぶをロボットにやらそうと思ったら、ドラえもんくらいの性能は必要やろうなぁ」

「でもさ。お客さんが食器をさげて、テーブルを拭けば、ほとんど代替できるんじゃない?」

「それはほんまに代替したって言えるやろか? 単にお客さんが自分でやってるだけちゃうか?」

「まぁ・・・そうだけど」

「自動運転も同じや。いまのところ自動運転車は高速道路くらいしかまともに走られへん」

「でもさ、高速道路まで人間が運んであとは自動運転すれば、かなり代替できるんじゃない?」

「そうかもしらんが、それって鉄道で運ぶのとなにが違うんや?」

「あ・・・」

 言われてみればそうだ。

「それにな、ドライバーの仕事も、単に車を運転するだけじゃない。荷物の状態をチェックしながら積み込んだり、配達先でおろしたり、トラックの簡単なメンテナンスをやったり、雨が降ったらカバーをかけたり、無数の仕事がある。これも完全に代替しようと思ったら鉄腕アトムがいるやろなぁ」

「でも・・・」

 納得できない。まるでロボットを開発する人たちの仕事が無駄だとバカにされているようじゃないか。

「それでも、少しでも配膳の仕事が減ったのは事実じゃない? それは社会にとっていいことじゃないの?」

「せや。でも、ロボットを組み立てて、プログラミングして、使った後に拭いて、メンテナンスする仕事も増えたな」

「それは・・・失業する人が出ないからいいことなんじゃないの?」

「あんな、それはダブルスタンダードや」

「ダブル・・・?」

「少年は『ロボットのおかげで仕事が減っている』と言った。そのあとに『失業する人が出なくなるのはいいこと』とも言った。いったい少年は仕事を減らしたいのか、増やしたいのか、どっちなんや?」

「えっと・・・」

「世の中の大人も言うんや。『AIやロボットで仕事が減らせました』って。ほんで実際には大して減らへんことがわかったらこう言う。『新しい雇用が生まれました!』ってな。結局仕事を減らそうとしたのに失敗して、それを言い繕ってるだけや。実際に労働時間は大して減ってへん」

 たしかに、大人たちはずっと働いていて、労働時間が減る気配はない。お父さんは九時より前に帰ってくることはないし、お母さんはずっとイライラしながらパートに出かけている。

「だから最初に言ったやろ? 『AIやロボットが仕事を奪う』っていうのは『天の川で水遊びできたらいいなぁ』っていうくらいのお花畑発言やねん。テクノロジーなんか大して進歩してへん。5Gとかビットコインがどれだけ『世界を変える!』って言われてたか覚えてるか? 今となってはもう誰も覚えてへんやろ」

 そういえば昔はしょっちゅうCMしてたっけ? いまは・・・

「でも最近は文章を書いてくれるAIなんかも登場したし・・・」

「文章は飯つくってくれへんし、家も建ててくれへんやろ? あれはハンドスピナーみたいなもんで、数年経ったら忘れ去られるオモチャや」

 そういえばあったな。ハンドスピナー。小学生の頃よく遊んだっけ。

「要するにな。みんなが勉強を頑張ったらテクノロジーが発展して社会が豊かになるっていうのは幻想や。実際は、みんなが椅子取りゲームと穴掘りゲームに夢中になって、どんどん消耗しているだけや」

「それでも、スマホやゲームはどんどん性能がよくなってるよ? それはテクノロジーの発展って言えないの?」

「まったく発展してないとは言わん。でも、最近のスマホのCMを見て発展してると感じるか? 『カメラが一個増えた』くらいしかアピールポイントがなくなっとるで」

 言われてみれば、最新機種が登場しても「前となにが違うの?』と感じることばかりだ。

「だとしたら、僕たちはどうして『テクノロジーが発展してる」って信じてるの?」

「それはいろんな理由があるけど、一つだけ答えよか。この社会でお金を集めるためには政治活動に取り組まなあかん。つまり、ものを売らないとあかんやろ?」

「そうだね」

「AIをつくる会社が『うちの商品は大したことないんですけど、買ってくれますか?』なんて宣伝すると思うか?」

「・・・しないね」

「せやろ。大したことないものしかつくられへんかったんやとしてもな、やたらめったら宣伝せなしゃーないねん。マーケティングとか、ブランディングといった言葉は聞いたことはあるか? データサイエンスはどうや?」

「なんとなくは・・・」

「まぁわからんかったら調べてくれ。ああいう領域は目まぐるしく進歩してる。みんな政治活動のために一生懸命勉強してるからや。その結果、テクノロジーの発展は大袈裟に騒ぎ立てられてるけど、実際には社会全体はたいして豊かになってへん」

 みんなが勉強しても椅子取りゲームをしているだけであってテクノロジーは発展していない。社会は豊かになっていない。ニケの話はにわかには信じられないけれど、真っ向から否定することは僕にはむずかしい。

「そうやってみんなが宣伝することに消耗してるから、本当に重要なテクノロジーの開発に手をつける人が減ってるわけや。逆に、金儲けに割かれるエネルギーをテクノロジーの開発に費やせば、火星旅行でも、タイムマシンでも実現できると俺は考えてる」

「そうなの?」

「たぶんな。その根拠はあるんやけど、まぁそれはええわ。ともかくこのままいっても、AIやロボットで労働が代替されることはない。労働は別の方法で撲滅せなあかん」

第四章 お金を配ろう

 気のせいかと思うほど微かな雨粒が確信に変わる。遠くから控えめにこちらをのぞいていた雲は、いつの間にか僕たちに覆いかぶさっていた。あそこなら雨が避けられそうだと、僕の意識が導かれたのは、年季の入った屋根付きベンチ。ニケも同意見のようだ。

「あっち座ろか」

「うん」

 屋根の下には空洞を東西南北に囲うようにベンチが置かれていて、僕たちは対面でもなく、隣でもなく、北と東に分かれるように座った。

 ニケが言い出し、僕が従う。僕たちの会話はずっとそんな風に進んできた。ニケは、常識の牢獄へやってきた革命家のように、僕に手を伸ばし、自由へと誘う。

 僕は迷っていた。きっと僕は一四年の人生で、常識の牢獄に居心地の良さを感じはじめていた。不満を口にし、逃げ出そうとしながらも、完全に離れることを望んでいるわけではなかった。もし、この場所を完全に否定したなら、自分の人生がまるごと、滑稽な嘘に付き合っただけの茶番であると認めてしまうかのようだ。

 じゃあ、僕は議論を続けることを望んでいないのだろうか? わからない。それでも僕は、めらめらとたぎる欲望を押さえつけることはできなかった。ニケともっと話したいという欲望を。

 続けよう。僕のもとへやってきた革命家は、いったいなにを語ろうとしているのか、最後まで見届けよう。

お金を配れば解決

 ニケは、頑張って勉強する人やAIをつくる人、営業する人をバカにしているように見える。でも、きっとニケはそうは思っていない。素朴に「無駄だからやめよう」と言っているだけなのだろう。

 だとすれば僕が次に質問すべきことは明白だ。本当に無駄だったとして、いったいどうやってやめればいいのだろうか?

「ちょっと整理していい?」

「おう」

「アンチワーク哲学は労働をなくすべきって主張しているんだよね?」

「せや」

「労働のうち、お金を集めてくる政治活動に夢中になるのは社会全体の発展には貢献しない」

「うん」

「経済活動にも、『お金を稼がないといけない』という焦りのせいで、売れ残りなどの無駄が生まれているし、政治活動のためのビルを建てるような仕事もいらない」

「うんうん」

「労働者が強制されなくなれば、人は無駄な労働をやめる」

「そうそう」

「そして強制によって抑圧されていた貢献欲が発揮されて、自発的に家を建てたり野菜を育てたりするから、強制という意味での労働がなくなっても困らない」

「せやせや」

「・・・っていうことでいいんだよね?」

「少年、ものわかりええなぁ」

「じゃあ具体的にどうやって労働をなくせばいいの? 現実にお金は必要なんだから、お金のために強制される状況は変えられないんじゃない?」

「もう答えはわかってるようなもんちゃうか? お金を配ればええねん」

「え?」

 ニケの言うことは相変わらずめちゃくちゃだ。お金を配る? そんなことをすれば社会はどうなるんだろう?

「聞いたことないか? ベーシックインカムって」

「たしか・・・国民全員に毎月一定額のお金を配る仕組みだよね」

「そうそう。貧乏人から金持ちまで、みんなに一定額を配る。細かい仕組みはいろんなバリエーションがあるけど、とりあえず『それだけあれば野垂れ死ぬことはない』くらいの金額が想定されることが多い。日本なら月七万円か十万円ってところや」

 はじめてベーシックインカムを知ったとき「お金がもらえるなんて、いいなぁ」と感じたのと同時に、「いやいや、そんなうまい話があるはずがない」と感じたのも覚えている。

「でもさ、お金持ちに配る必要はないでしょ? それに、そのお金はどこから用意するの? まさか税金?」

「いろんな考え方があるな。年金や生活保護、健康保険なんかをぜんぶ廃止してベーシックインカム一本にして、関連する公務員の給料を削減して、足りない分は増税して、なんとか帳尻を合わせる・・・っていうケチ臭いベーシックインカム案もあるで」

「でも、年金を受け取れない人がかわいそうだし、貧乏な人は病院に行けなくなるよね」

「せや。だからアンチワーク哲学は別のベーシックインカム案を支持しとる」

「どんな?」

「一言で言えば『金を刷って、配れ』やな」

 僕は呆然としたが、ニケは「なにがおかしい?」とでも言わんばかりの真顔でこちらを見てくる。でも、そんなことって・・・

「そんなことできるの?」

「お金ってのは紙切れ。誰でも知ってるやろ? 一応、法律上は政府が直接お金を刷ることはできないことになってるけどな、やろうと思ったらできる。またお金がどうやって生まれるか調べてみたらええわ」

「でもさ、そんなことをすれば・・・」

「インフレか?」

「・・・うん」

 歴史の教科書で、お札に火を灯して蝋燭代わりにしている人の絵を見たことがある。お金を発行しすぎて、お金の価値がさがれば大混乱が起きると、僕は教わってきたんだ。

「細かい話は置いといて。基本的な話だけするで。インフレっていうのはな、需要が大きくなりすぎたときか、供給が減ったときに起きるんや」

「うん・・・」

「噛み砕くとな、みんなが米を今までの二倍食うようになったら、米は不足する。不足したら値段が高くてもみんなが買うから、お米を売る人は値段を上げようとする。これが需要が大きくなってインフレするパターンや」

「なるほどね」

「ベーシックインカムを配ったら、そんなことが起きると思うか?」

 想像してみる。毎月七万円か、十万円をもらえたらお母さんはお米をたくさん買うだろうか?

「うーん、お金をたくさんもらってもお米を二倍食べようとは思わないけど」

「せやろ?」

「でも、ほかのものはたくさん買うかもしれないよ。ゲームとか、漫画とか」

「せやな。でもちょっとやそっと買い物する量が増えても大した問題じゃない。いまの時代、人々がなぜ政治活動で消耗してるかわかるか?」

「え? 競争が激しくなってるからじゃないの?」

「それもあるけど、いまや人間が必要とする商品の総量は頭打ちになってるってことや。なんぼつくっても売れへんから無理やり売りつけてるってわけやな」

 ものが売れない時代。そんな言葉を聞いたことがある気がする。戦後や高度成長期にはものをつくれば売れていたが、いまはそうじゃない。むしろつくったものを売るために工夫しなければならないっていう話だっけ?

「つまり、ちょっとやそっと需要が増えても、つくろうと思ったらつくれるってことや」

「でもさ、肝心のつくる人が減ったら? お米はやっぱり値上がりするんじゃないの?」

「それが供給が減ってインフレするパターンやな。貢献欲の話を覚えてるな?」

「覚えてるよ。貢献欲があるから、みんながお米をつくりつづけるってこと? さすがにそう上手くはいかないんじゃ・・・」

「農家の平均年齢って知ってるか?」

「え? 知らない。五十歳くらい?」

「とっくに六五歳を超えてるねん」

「そうなんだ。で、それがどうしたの?」

「六五歳すぎたら年金もらえるやろ」

「うん・・・あ!」

 年金をもらうってことは、お金を毎月もらうということ。それはベーシックインカムと同じだ。

「そう。年金ってのはな。受け取る側になったら事実上のベーシックインカムみたいなもんや。毎月なんもせんでもお金がもらえるんやから。つまり日本の農家の大半は事実上ベーシックインカムを受け取ってるような状況にある。じゃあ農家はみんな仕事をやめてるか?」

「でも、農業は人手不足なんでしょ?」

「それは若い人が入ってこんからや。農業は儲からんねん。あとは、単純に年老いて引退する人が多いっていうのもある。それでも農業は崩壊しているわけじゃない。崩壊しかけやけどな」

「つまり・・・人はベーシックインカムをもらっても必要な経済活動に取り組む?」

「たぶんな」

 ニケは、その飄々としたビジュアルと相まってやたらと自信満々に見える。そのくせ「たぶん」といった曖昧な言葉をよく使う。本当にニケが正しいのか、正しくないのか、僕にはわからない。

「でも、『たぶん』じゃ納得できない人も多いよ。ちゃんと証拠を見せないと」

「世界中でベーシックインカムの実験は行われてきた。フィンランドの実験は有名や。でもな、必要な仕事をやめる人はほとんどおらんかったらしいで」

「でもさ・・・」

「わかってる。『フィンランドでうまくいったからといって日本で成功するとは限らん』やろ?」

「うん」

「そんなん言い出したらキリないで? 『車にひかれて死ぬ可能性があるから道を歩かん方がいい』みたいな話やで」

「それ、なんか違うんじゃない?」

「一緒や。逆に言うたらベーシックインカムを配らない社会が上手くいく保証はどこにもない」

「そんなことないよ。これまでベーシックインカムなしで上手くやってきたじゃん?」

「いまの社会、上手くいってると思うか?」

 ニケの問いかけに言葉が詰まる。退屈そうに会社に向かう父親と、イライラしながら皿を洗う母親。遠くで辛そうに営業を続けるスーツ姿の女性と、迷惑がる母親。自分の人生に嫌気が差して学校をさぼっている僕。この社会は上手くいっているのだろうか?

 たしかに食べ物も家もある。空から爆弾が降ってくる心配もない。ゲームや漫画もある。でも、本当にこれが僕たちにとって幸福な社会なのか、僕は自信を持つことができない。

「実際、農業や林業、介護、保育といった経済活動の担い手は減っていく一方や。それやのに、いまの社会は有効な解決策を見つけ出せてない。そんな醜態をさらしている『いまの社会』とやらに固執するのは、あほらしいと思わんか?」

「でも、ベーシックインカムで人手不足が解消されるとは限らないんじゃないの?」

「確実なことはわからん。でもな、経済活動は給料が安い。お金の不安からみんな大学を出て不毛な政治活動の仕事に就こうとするんや。ベーシックインカムでお金の不安がなくなるなら、人の役に立つ仕事をしたいと思う人は増えるんとちゃうか?」

「そんな簡単にいくかな?」

「わからんけど、いまの上手くいってない仕組みに固執する理由もないやろ? よりよい社会の可能性も考えもせず、試しもせずに却下するのは、『聖書にこう書いてるから!』と言って進化論や地動説を否定するのと同じちゃうか?」

「たしかに・・・」

 そうかもしれない。なにが正しい社会の仕組みかなんて、議論してみなければ、やってみなければわからない。

「大人もみんなええ加減や。ちょっと質問すればボロが出る。『ああしなさい! こうしなさい!』って言ってることが本当に正しいかなんて、まともに考えたことないねん。哲学者っていうのはな、それをみんなの代わりに考えて、考える必要があることを問いかける仕事や」

「それが哲学者という仕事?」

 もしそんな風に考える仕事ができるなら、僕も楽しく生きられるかもしれない。少なくとも、ニケの姿は楽しそうに僕の目に映っている。

権力者に逆らおう

「少年はすぐに質問したがるから、本題に入られへんけど、ベーシックインカムの話で大事なのはこれからや」

「質問したらダメなの?」

「ほら、それもまた質問や」

 ニケは鬼の首をとったようにニヤニヤしながら屁理屈を言う。ウザいけど、嫌いになれない。

「いまの返し、性格悪いね」

「せやろ。哲学者はみんなの代わりに考える人って言ったけどな、見方を変えればただの偏屈なおっさんや」

「それって自慢してるの?」

「別に自慢もなんもしてない。偏屈っていうのはあくまで言葉にすぎないわけや。どんなラベルを貼ろうが、俺は俺やろ?」

「そういうもの?」

「せや。ところで、質問が悪いことかのように言うてしもたけどな、質問は大事や。さっきも言うたけど、大人の言うことを鵜呑みにしてもええことはない」

「そうなの?」

「戦時中の子どもたちは、大人から『戦争は正義』と教えられてたんやで」

 そうか。価値観はたしかに変わってきた。戦争がいまでは悪であるように、労働もニケが言うように悪になる日が来る・・・かもしれない。

「さて、ええ加減、ベーシックインカムの本題に入ろか」

「うん」

 まだ本題ではなかったらしい。ニケの話はやはり長い。

「ベーシックインカムがあれば人々が強制されることはなくなるって話やったな」

「えっと・・・どうしてだっけ?」

「お金が命令に従わせるためのツールとして機能してるって話はしたな」

「覚えてるよ。お金がないと生きていけないから、お金をくれる人の命令に従わざるを得ないってことだよね」

「そう。ベーシックインカムがあればお金をくれる人の命令に従わなくても、路頭に迷うことがなくなる。はじめから生活に必要なお金が配られるわけなんやから」

「つまり、命令が強制的なものじゃなくなる?」

「せや。上司や社長、仕事内容に疑問を抱いたなら、即座に辞められるようになる。そうなれば過剰な政治活動や売れ残ることがわかりきってる恵方巻きづくりみたいな仕事からは、みんな離れていく。そして本当にやりたいと思うことや意味があると感じることにみんなが取り組めるようになるんや」

「たしかに理屈の上ではそうだけどさ・・・」

「ベーシックインカムのメリットはそれだけじゃないで」

「なに?」

「少年、最初にこの社会ではセクハラやパワハラが横行してるって話をしてたな。あれも解決できる」

「どうして?」

「セクハラに耐えなあかんのも、セクハラしてくる上司や客、先輩に逆らったら食っていかれへんくなるからとちゃうか? パワハラも同じや。逆らっても飯を食うていくことが可能なら、誰が黙ってセクハラやパワハラに耐えるやろか?」

「そういうものなのかな・・・」

「せや。セクハラやパワハラって、『金を持ってる側』から『金を持っていない側』に行われていて、逆はないやろ?」

 想像してみる。たしかに、部下が上司にパワハラやセクハラをする光景は思い浮かばない。

「たしかに」

「それが可能なのは金が持つ権力のおかげや。金の権力が弱まったら、セクハラもパワハラも不可能や。セクハラやパワハラが起きたら対策委員会みたいな組織を立ち上げるのが定石やけどな、あんなもん茶番や。金が生み出す権力構造が変わらない限りなんの解決にもならん」

「でも、ベーシックインカムを受け取ったくらいで、そんなに強く反抗できるかな?」

「まぁ面と向かって言うのはむずかしいかもしらん。でも、その場を離れるくらいのことはできるはずや」

 ベーシックインカムが配られている状況で、上司にパワハラをされる場面を想像してみる。たしかに、僕ならその状況で何年も働き続けることはしない。

「企業の不祥事も同じやで。自動車メーカーが検査結果を誤魔化してたとか、そういうニュースよく聞くやろ?」

「それも関係あるの?」

「あんなんもな、利益のために上司が命令してくるから仕方なく不正してるんや。好き好んで不正したい人なんかおらんねん」

「そういうものかな・・・」

「せや。ベーシックインカムさえあれば、不正に手を染めるように圧力がかかったら『それはおかしい!』って声を上げられる人も増える。そこまでしなくても、その場を離れる人は増えるはずやろ?」

 言われてみればそうかもしれない。不正をすれば後ろめたい気持ちになることは誰でも知っている。そんなことはわかっていたはずなのに、不祥事のニュースを見たときは「どこかに悪者がいて、そいつのせいなんだ」と、これまでの僕は無自覚のうちに考えていた。

「あとな、さっき少年はお金持ちにベーシックインカムを配る必要はないって言ったけどな、実はお金持ちにも配るのは大切なんや」

「どうして?」

「お金持ちといえども、いつビジネスに失敗して路頭に迷うかわからへん。だからできるだけ金儲けしようとするんや。でもな、たとえ失敗しても、路頭に迷わないとわかったら・・・」

「いまほどに金儲けをする必要はなくなる?」

「せや。ほんで、仮に金儲けしようと思っても、理不尽な命令に従ってくれる労働者はもうおらん。金持ちの命令にみんなが逆らえるようになるんや」

「となると、お金儲けをするのはむずかしくなる?」

「そう。金儲けは社会の役に立ってるとは限らんし、むしろ金儲けのための政治活動でみんなが疲弊してることはもう理解したやろ? つまり、金儲けへ向かうエネルギーがベーシックインカムで削り取られるのはいいことなんや」

家族はフィクション

 お金が配られれば、権力者に逆らうことができる。そんな風に考えたことはなかった。でも、たしかにそうだ。僕だって将来受け取るお金のため、将来生きていくために、親や先生の命令に不満があっても従っている。

 でも、もし本当に権力者に逆らえるようになったら、みんなが好き勝手に振る舞って社会が犯罪まみれになるんじゃないだろうか? そういえば、ニケはさっき「犯罪があるのは労働のせい」って言っていたっけ。むしろ、逆のような気もする。みんなが自由に振る舞えば、街は犯罪で溢れかえるはずだ。いったいあれはどういう意味なんだろう。

「そういえば、ニケはさっき『労働が撲滅されれば犯罪がなくなる』って言っていたよね。あれはどういう意味だったの?」

「あぁ、簡単やろ。ベーシックインカムのおかげで労働しなくても生活できることが保証された社会で、誰が殺人事件を起こすやろか? 誰が強盗や詐欺を働くやろか?」

 ニケは「当然やろ」とでも言わんばかりの表情だ。そんな単純な話なのだろうか?

「でもさ、それって性善説だよね? 悪い奴はお金が配られても満足しないんじゃないの?」

「少年は、もし今日のご飯にも困るほど貧乏になったら、食い逃げするか? あるいはスリか、強盗か、詐欺はするか?」

「どうだろう・・・もしかしたらするかもしれないね」

「やろ? じゃあお金があったらするか?」

「・・・しないね」

「少年は稀に見る善人か?」

「違うね」

「いたって平凡な少年やろ?」

 面と向かって「平凡」と言われるのは複雑な気持ちだが、認めざるを得ない。

「悪かったね、僕は平凡な少年だよ」

「悪くないから平凡やねん。それとな、犯罪率と貧困率には強い相関があることは事実や。平凡な人も、貧困に陥れば犯罪に手を染めてしまう。逆に生活に余裕があれば犯罪に手を染める可能性は低い。殺人事件がどこでよく起こってるか知ってるか?」

「山奥の洋館とか?」

「コナンの読みすぎや。正解はな、家庭の中や」

「家庭の中?」

「殺人事件の大半は家族間で起こってるんや。どうしてやと思う?」

「うーん、遺産相続で揉めたとか?」

「それもあるやろけどな。さっき『殺したいほど嫌いな奴がいてもその場を離れるのが普通』って話をしたやろ」

「したっけ?」

 僕は昔から記憶力が悪い。昔の話の内容や人名を覚えていることを前提に話を進められると、ついていけなくなる。だから、自分が小説を書くなら、登場人物が一人か二人くらいの短い話を書こうと決めている。

「まぁ忘れててもかまへん。とにかくな、殺したいほど嫌いな奴がいても、逃げられへん場所の代表格が家庭なんや」

「家庭からは逃げられない?」

「そう。仮に少年がご両親のことをめちゃくちゃ嫌いやったとしよう。でも逃げられるか?」

「そこまで嫌いではないよ」

「たとえばの話やんけ」

 ニケにはデリカシーがない。たとえばの話でも、そんな失礼な想定はしないのが常識だろう。もっとも、ずかずかとタブーに踏み込むニケの姿は嫌いではないのだけれど。

「まぁ、無理だね」

「お母さんがお父さんのことを嫌いやったとして、少年を連れて逃げようとしたらどうや?」

「お母さんだけの収入じゃ、生活は苦しいだろうね」

「そう。でもなベーシックインカムがあれば逃げられるんや」

「え?」

「お母さんと少年の分のベーシックインカムがあれば、あとはちょっとパートに出るくらいで、十分やっていけるやろ。なら殺したいほど嫌いな相手との離婚を思いとどまる必要があるか?」

「たしかにそうだね」

「あとな、少年が一人で家出するのも簡単や。少年にもベーシックインカムが支給されるんやから」

「中学生が一人では生きていけないよ」

「どっか優しい大人の家にでも転がり込めばええやろ。中学生一人分の生活費なんかたかが知れてるし、ベーシックインカムで賄える。これから少子化で独居老人も増えていくわけやし、一人で寂しい思いをしている人はいくらでもおるやろ」

 ベーシックインカムがあれば簡単に家出できる? なんだか犯罪に巻き込まれそうな予感がするけど、そんなことをしていいのだろうか? もしそうなったら僕は家出するだろうか?

「でも、家族の絆ってそんな簡単に壊れていいの?」

「絆もクソもあるか。言ったやろ。殺人の半分は家庭で起きてるんや。あと、日本の離婚率がどれくらい高いか調べてみたらええわ」

 そう言われれば、親が離婚した話や、親同士で暴力沙汰になるまで喧嘩をした話を、友達から聞いたことがある。

「それにな、生殺与奪の権を握ることで保たれてる絆なんかな、本物の絆と言えるか? 絆っていうのは、好きに離れられる状況にあっても離れたくないと思うことやろ?」

 ニケはたまに核心を突く。たしかに「離れたくても離れられない」という関係を、絆によって結ばれた関係と呼ぶのは無理がある。

「血縁っていう関係に無理やり縛り付けられているから、ストレスが溜まって殺人や離婚に繋がってる。だから、血縁というフィクションは解体したほうがいい」

「血縁はフィクション? どういうこと?」

「血が繋がってるからといって、一緒に住む理由になるか?」

「そりゃあなるでしょ。家族なんだし」

「別に一緒に住まないことも可能やし、逆に血縁がなくても強固な絆で結ばれている人たちもいくらでもおるよな?」

「まぁ。そうだね」

「血縁があるから一緒に住まなあかんっていうのも思い込みなんや。別に好きにやればええんや」

 親子じゃないけど、親子よりも強い絆で結ばれた関係。漫画やアニメでもよく見かける設定だ。僕は偽物だと切り捨てることなく、そこにリアルな感情を感じ取っている。ニケの言う通り、親子という関係にこだわる必要はないのかもしれない。

「あとな、離れられるのは家庭だけじゃない。学校もそうや」

「学校も? どうして?」

「学校を辞めようとしたらご両親がなんて言うと思う?」

「どうだろ。『もう少し頑張れ』とか『そんなんじゃ将来困るぞ』とかかな?」

「ベーシックインカムがあればな、学校辞めても別に将来困らへんねん」

「路頭に迷うことはないから?」

「そう。だから学校なんかいつでも辞めたらよくなる」

「でも、そんなんじゃ誰も勉強しなくなるし・・・」

「勉強が椅子取りゲームと穴掘りゲームのためのものになってるって話、覚えてるやろ?」

 そういえば、そうだった。

「それにな、いじめで自殺する子は毎年現れる。自殺するくらいなら学校なんか行かんと家でゲームやってたほうがマシやろ?」

 自殺するくらいならゲームしている方がマシ。たしかにその通りだ。それは僕だって・・・

「重要なイノベーションを起こすような子どもは、勝手に勉強するやろ。好きな勉強ならとことんやらせたったらええ。でも、やりたないなら、やらん方がええんや」

我慢をやめて環境問題解決

「ちなみにな、ベーシックインカムを導入すれば環境問題も解決すると、アンチワーク哲学では考えられてる」

「どういうこと? あんまり関係ないんじゃないの?」

「少年は環境問題はどうすれば解決すると思う?」

「どうすればって・・・」

 学校で習ったことを思い出す。社会科の授業で、環境問題について習ったような・・・

「電気自動車を買ったり、ペットボトルを分別したり、食べ物を捨てないようにしたり、クーラー二八度に設定したり?」

「まぁ、そんな風に教わるやろうな」

「違うの?」

 ニケは大袈裟に首を振る。

「まったく無意味やとは言わん。でも、ベーシックインカムの方が手っ取り早いやろな」

「どうして?」

「金儲けのための政治活動や、余計な経済活動、それらをサポートする膨大な労働がなくなるやろ? その活動のためのCO2は排出されなくなるんや。どれだけの量になるやろなぁ」

 言われてみればそうだ。労働にはたくさんの電気や資源が必要で、きっとたくさんCO2が排出されている。それが無駄な労働のためだとすれば・・・

「そっか。無駄な仕事のためにビルを建てたり、パソコンを動かしたり、トラックでものを運んだりしているんだよね」

「そう。それにな、誰も好き好んでアマゾンの原生林を切り拓こうなんて思わんねん。みんな金儲けのためにやってるわけや」

「どういうこと?」

「たとえば森を切り拓いて、資源を掘り起こして、百万円を儲けようとする悪いビジネスマンがおるとしよ」

「うん」

「そいつに『森を切り拓くのをやめてくれたら、代わりに百万円をやる』って交渉を持ちかけたらどうなると思う?」

「そりゃあ、交渉は成功するでしょ? 同じ金額をもらえるなら、わざわざ苦労して森を切り拓く必要はないもんね」

「そう。ベーシックインカムが完全に儲けと同じ金額になることはないけど、それでも森を切り拓く人は減るやろな」

「つまり、金儲けのエネルギーを弱めるベーシックインカムがあれば、環境破壊のエネルギーも弱まるってこと?」

「そういうことや。正直に言ってほしいねんけどな・・・」

 ニケは少し間を置いてから言った。

「少年は環境問題に興味あったか?」

 正直に言えば、「どうでもいい」と思っていた。大人たちから「未来のために環境を大切にしよう」と言われても、どうしても自分のこととは思えなかった。それに僕一人が我慢してなにかが解決するとは思えない。

「正直、分別するのはめんどくさいし、クーラーが弱いのは嫌だし、『我慢しないといけないくらいなら環境なんか壊れちゃえ』って思ってるよ」

「それがみんなの本音やろな。でもな、労働をやめたら環境が守られるんやったらどう思う?」

「そりゃあ、退屈な労働をしなくてよくなった上に、環境まで守られるならいいこと尽くしだね」

「そう。環境を救うために必要なのは我慢やない。逆に我慢せず、欲望のままに生きることで、環境は救われるんや」

第五章 人間が欲望するもの

 雨は加速し、風が吹き抜ける。まるで嵐だ。でも、あまり気にならない。僕たちの議論も同じ速度で進んでいるようだ。

 嫌なことをやめて、好きなことをやる。欲望のままに生きる。それはダメなことだと思い込んでいたけど、ニケは逆に欲望のまま生きるべきだと言う。本当にそうなのだろうか。一を理解すれば十の疑問が浮かんでくる。

 もし、ニケが言うように、人間が欲望に従って勝手に貢献する生き物だったのなら、どうしてこの世界にはお金があって、支配があって、労働があるのだろうか? 自由になった人間は本当に、水道や電気、家、スーパーマケット、美味しいレストラン、温かいベッド、漫画、ゲーム機を自発的に提供してくれるのだろうか? それは趣味のように素人レベルの仕事にとどまり、途中で投げ出されるのではないだろうか?

 穴の空いたボートから水をかき出すように、僕は次から次へと疑問をニケに投げ捨てなければならない。そうしなければ、思考の海に溺れてしまいそうだ。一つ一つ、議論をしていこう。

本当にお金のため?

「どや? ベーシックインカムで環境問題も、犯罪も、いじめも、パワハラも、企業の不祥事も、消える。こんなにポテンシャルのある解決策を試さへんなんて、あほらしくないか? 他のやり方で散々いままで失敗してきてるのに」

「でもさ、ベーシックインカムのメリットをいくら並べても、誰かが必要最低限は働かないと絵に描いた餅だよね?」

「ん? どういうことや?」

「もし誰も働かなくなって食べ物がなくなるのなら、さっきまでのメリットも意味なくなるよね?」

「あぁ、せやな」

「お金が配られてもみんなが必要な仕事をするなんて、やっぱり信じられないよ。みんなお金のために働いているわけなんだし、お金が配られればずっと家でゲームしたり、海外ドラマを観たり、コタツでみかんを食べてたりするんじゃない?」

「あんな、そういうところが中二病やねん」

「どういうこと?」

「人間は怠惰で利己的でワガママやと決めつけるのがカッコいいって思ってるやろ?」

「いや、別にそういうわけじゃ・・・」

「斜に構えといたら、なんとなく頭良さそうに見えるもんな?」

「いや・・・」

「はっきり言うで。そういうのはもうダサい」

「え?」

「おまけにキモい」

「は?」

 なにもそこまで言わなくても・・・。僕は少しムッとなって、ニケに言い返した。

「平日の昼間から中学生相手に公園で説教垂れてるニートの方がダサくてキモくない?」

「せやな。少年、痛いところ突くなぁ」

 ニケは笑いながらあっさりと認める。僕は拍子抜けして笑ってしまった。どうやらニケにはプライドってものがなく、誰がなにを言おうが気にしないらしい。まぁ、そうでなければ五十歳になるまでニートができるわけがないのだけれど。

「冗談や。それに仕方ないねん。この世の中では中二病が蔓延してるからな」

「え? そうなの」

「せや。人間が怠惰で利己的でワガママっていう考え方が蔓延ってる。有名人が環境問題解決のために活動してたら、みんなどう反応する?」

「どうだろう?」

 環境保護に熱心な有名人は定期的に見かける。なんだか説教くさいし、嘘くさいし、どこかお金の匂いがすると、僕はいつも感じている。

「褒める人もいるだろうけど、『本当に環境のため? お金のためなんじゃないの?』と勘繰る人も多そうだね」

「そう。でも想像して欲しいねん。その有名人が『実はお金のためでした』って発表したらどうなる?」

「なかなかない状況だけど、言ったとすれば叩かれるだろうね」

「せやな。でもな『本当にお金のため?』と疑う人はおらんのちゃうか?」

「そりゃそうでしょ。実際にそうなんだろうし」

「でも不思議じゃないか? なんで『本当にお金のためか? なにか裏があるんじゃないか?』と勘繰る人はおらんねやろな?」

「それは・・・どうしてだろうね?」

「まるで金儲けのために環境保護活動することが正しいことって言われてるみたいやないか?」

「そう・・・かな?」

「せや。でも、そもそも『真の理由はなにか?』という質問が間違ってるねん」

「え?」

「『真の理由』っていうのはそもそも存在せん」

 またニケは身も蓋もないことを言う。

「出たよ。ニケお得意の、質問そのものを台無しにするパターンじゃん」

「必殺技みたいやろ? でも、哲学者ってこういう仕事なんやで」

「自称哲学者のくせに」

「まぁええがな。ところで、さっき少年は飢えた子どもがいたらお菓子を分けるって言ったな?」

「うん」

「それはなんのためや?」

 なんのため? 理由を聞かれると答えるのはむずかしい。

「うーん、かわいそうと思ったからだし、冷たい奴と思われたくないからでもあるかな」

「じゃあ、その子が大きくなって金持ちになったときに見返りをもらうためではないんか?」

「いやぁそんな風には考えないだろうけど・・・」

「どうやって証明する?」

「そう言われたら、ちょっとくらい期待していたような気もするなぁ」

「その理由って、いま俺に言われて思いついたやろ?」

「え?」

「俺が質問するまで、少年の中に理由なんて存在してたか?」

 そう言われれば、いちいち理由なんて考えていなかった。子どもが飢えているなら、お菓子を与えたいと思った。それ以上でも以下でもない。

「わかったやろ。理由なんて曖昧で、適当で、後付けなんや。『真の理由』なんか、言ったもん勝ちやねん」

「なるほどね。で、それが中二病の話とどう関係があるの?」

「俺はな、なんでもかんでも金を『真の理由』だと認定する考えを中二病と呼ぶわけや。それに対して、アンチワーク哲学は行為の理由を別の角度から説明する」

「別の角度?」

「そう。『人間はなぜ行為するのか?』という問題についてもっと根本的な説明をするんや」

「なにそれ? いま『理由なんてない』ってニケが言ったばっかりじゃん」

「まぁ焦るな。哲学っていうのは結論を急がずに、一歩一歩積み上げていくもんやねん。まず、考えなあかんのは・・・そもそも行為ってなんやと思う?」

「行為・・・」

 知っているつもりだけれど、言われてみれば説明がむずかしい。

「まぁ、考えたこともないやろから、さっさと進めるで。行為とは『変化を起こすこと』や。人間は変化を起こすことを欲望するんや」

トイレに行くと決めたのは?

 どうやら、哲学っぽい抽象的な話題に突入したらしい。ちょっと休憩したい気持ちもあるけれど、頑張ってニケについていってみよう。

「行為とは、変化?」

「そう。考えてみ? なんの変化ももたらさない行為なんかあるか?」

「それは・・・あるんじゃないの? 僕が瞬きしてもなにも変化しないよ?」

「少年が瞬きしたらまぶたが動くやろ?」

「あ、そうか。じゃあ呼吸は?」

「呼吸すれば息が出てくるやろ?」

「んー、じゃあ頭の中でなにかを妄想するとか?」

「ほう、なにを妄想するんや少年は?」

「別に、関係ないでしょ」

「まぁそれを行為と呼ぶかは微妙なところやけど、それでも頭の中でイメージが湧き上がって変化していくやろ」

「たしかにそうだね」

「逆に言えばな、人間以外・・・正確に言えば生物以外の物質は、なんの変化も起こさへん」

「どういうこと? 石は転がるし、雲は動いているよ」

「それは単に物理法則に則って反応してるだけや。石が自発的に行為して結果を変えることはできへんやろ? 反応と行為は別もんや」

 反応と行為は別。ニケは哲学者っぽく話すが、簡単に納得はできない。

「それを言うなら人間も反応してるだけじゃない? 僕がなにかをするとしても、それは周りに影響を受けてやっているわけで、完全な僕の意志ではないよね」

「でもな、影響を受けてるからといって百パーセント決定されてるとは限らんやろ」

「どういうこと?」

「一パーセントでも周りから影響を受けたら、意志がないことになるんか?」

「それは・・・」

「そもそもなんの影響も受けずに自分の意志だけで行動できるんやとすれば、それは神様かなんかや。人間は地球の上で重力を受けてるし、生まれた親からの影響は避けられへん」

「じゃあやっぱり、ぜんぶはじめから決定されてるんじゃ・・・」

「その立場は、いわゆる決定論ってやつやな。まぁ俺の経験上、決定論は正しいと思う」

「経験上?」

「でもな、アンチワーク哲学では『決定されてるか? されてないか?』という議論に深入りはせん。あくまで人間が『決定されてない』って感じていることに注目するんや」

「どういうこと? 決定論を信じる人は、決定されてるって感じてるんじゃないの?」

「決定論を信じる人もトイレ行くやろ?」

「そりゃあ、行くんじゃないの」

「なんでや?」

「なんでって・・・行かないと漏らすからじゃない?」

「せや。トイレに行かなかったら漏らすけど、行ったら漏らさずに済む。決定論者は、その二つの選択肢を前にしてトイレに行くことを選択しているわけや。決定されてると思ってたら、こんなことはせんやろ?」

 複雑な話で頭がこんがらがってきたので、僕は少し間を置いて考えなおしてみた。人間はトイレに行くことを選択している。本当にそうだろうか?

「でもさ、気づいていないだけで『トイレに行こうと選択すること』も事前に決定されていたのかもしれないよ」

「仮にそうやとしても、決定論者がトイレに行くと決めたときは、『自分がトイレに行くと決めた』と感じてることは疑いようがないやろ」

「それは・・・そうだね」

「議論の場では決定論を振りかざす頭のカタイ哲学者も、普段の生活で決定論を信じて生きているわけやない。人間は自分の意志でなんらかの変化を起こしていると感じながら生きているわけや」

あれもこれも欲望

 行為とは自分の意志で変化を起こすこと。仮にすべて事前に決定されているのだとしても、少なくとも本人は「自分の意志で変化を起こした」と感じている。ここまでは理解できた。でも、この話が「ベーシックインカムが配られても人が働くのか?」という僕の質問とどう関係するのだろうか?

「『それがどんな関係があるの?』って顔しとるな」

 バレた。ニケはまるで少し先の未来を見ているようだ。

「うん」

「まぁ焦るなや。アンチワーク哲学では行為とは『自分の意志で変化を引き起こすこと』と定義する。で、意志とは欲望とも言い換えられる。貢献欲は欲望の一つや」

「貢献も変化を引き起こすの?」

「そう。人に貢献することも変化を起こすやろ。ご飯をつくってあげれば、相手はお腹がいっぱいになるし、喜ぶ。それに、自分のことを好きになってくれるかも知らん」

「たしかにそうだね」

「逆に食べることもお腹が膨らみ、満腹感を味わうという変化が起きる。それは食欲と呼ばれる欲望が突き動かしてるわけや」

 つまり、行為とは自分の欲望で変化を起こすこと。むずかしいが、ここまでは理解できた・・・気がする。

「で、欲望は大きいものから小さいものまでさまざまや。パンツが食い込んでるからなおしたいと思うのも欲望やし、パンを食べたい気持ちも欲望、第二次世界大戦を引き起こしたい気持ちも欲望やな」

 第二次世界大戦を引き起こしたい人って、そんな人いるのだろうか?

「つまり、欲望の種類は人間の行動の種類だけ存在するってことや。人間はパンツをなおすし、パンを食べるし、第二次世界大戦を引き起こす。ここで言いたいことは、それを引き起こしているのは食欲や睡眠欲、金銭欲といった限られた欲望だけではなく、『パンツをなおす欲』『第二次世界大戦を引き起こす欲』みたいな多様な欲望があるってことや」

「でも、食欲は存在しないって最初に言ったよね?」

「せや。現実に存在するわけではない。でも、存在すると仮定して考えると便利っちゅうことや。虚数って聞いたことあるか?」

 キョスウ? 初耳だ。

「えーっと」

「まぁええ。高校の数学で習うから、そのときに思い出せ。つまり、実際には存在しないけど、思考の過程において存在すると仮定した方が都合のいい概念っていうのはある」

「そういうものなの?」

「まぁこの辺は余談や。とにかく人間は多種多様な欲望を持つ。ここまではええな?」

「うん」

「人は食べることを欲望するし、誰かに料理を振る舞うことも欲望する。それぞれの欲望は事実として平等に観察すべきなんや」

「どういうこと?」

「食欲や性欲、睡眠欲、あるいは名誉欲や金銭欲という言葉はすでに存在する。でも、貢献欲という言葉は存在していない。だから、あたかも名前のついた欲望だけが真の欲望であって、それ以外を人が欲する場合は『真の欲望』を取り繕っているだけかのような印象を与えてしまう。だから中二病的な勘違いが蔓延してるんやけど、これは宗教みたいなもんや」

「どういうこと? 貢献欲の方が、宗教っぽいけど?」

「逆や。あらゆる行動の理由を欲望だと解釈するのは、事実を平等に評価しているやろ? でもあらゆる行動の原因を食欲や金銭欲みたいなもので説明しようとするのは、『すべては神の御業』って説明するのと同じちゃうか?」

 言われてみれば、そうかもしれない。

「でも人間は食欲の方が大きいのは事実じゃない? だからお金を配られたら食べる人ばっかりで、つくる人がいなくなる」

 そういえば最初の方にもこんな話をした気がする。話題がループしているようだ。

「じゃあこう考えてみたらどうや? 少年はお正月に孫がやってくるのを楽しみにしているおばあちゃんやとしよう」

「また『たとえば』の話?」

「ええから聞いてくれや。ほんでな、おばあちゃんは孫のためにおせち料理を用意するとしよう」

「うん」

「でも孫がやってきて『僕はお腹が空いてないからおばあちゃんがぜんぶ食べなよ』って言ったらどう思う?」

「そりゃあ・・・」

 想像してみる。きっと、そんな状況以上に悲しい気持ちを抱くことはないだろう。

「悲しくなるかもね」

「せやろ。でも不思議とちゃうか? もし食欲の方が大きいんやったら、遠慮してくれる方が嬉しいはずや」

「でも、どうせ自分ひとりでは食べきれないじゃん?」

「せやろか? おせち料理やったら冷蔵庫に入れとけばしばらく日持ちするで? そうすれば次の日におばあちゃんはご飯をつくる手間をかけずに済む。でも『ラッキー』だなんて思わんやろ?」

「そうかもしれないけど、それは自分の孫だからであって、おばあちゃんだって誰にでも料理をつくるわけじゃないし・・・」

「ほな、はじめてやってきた見ず知らずのお客さんでもええわ。お客さんに料理を振る舞って一緒に食べるか、自分の分だけつくって自分だけ食べるか、どっちが満足感あるやろか?」

「それは・・・」

 たしかに、一緒にご飯を食べる方が楽しいだろうなぁ。

「おばあちゃんだけやない。三歳くらいの子どもと暮らしてみたらわかるけどな、あいつら『なに食って生きてるんや?』と思うくらい、ぜんぜん飯食わへんくせに拙い手つきで料理を手伝おうとするねん」

「へぇ」

「これも子どもが貢献欲を持っている証拠や」

「それって料理に興味があるだけであって、貢献欲とは関係ないんじゃない?」

「言ったやろ、真の理由を考えるだけ無駄やって。料理を手伝うという行為そのものは、誰かに対する貢献や。なら、人が貢献につながる行為を欲しているという事実は疑いようがないやろ?」

「だとしても、子どもは失敗してばかりで、ぜんぜん役に立たないんじゃないの?」

「まぁその通りや。でもな、だからといって、欲望は嘘にならん。ご飯を食べ損ねたからといって食欲がないことにはならんのと同じや」

 たしかにその通りだ。ニケはいつだって流れるように説明する。

「もちろん、人間の欲望の対象は状況によって変わる。戦時中みたいに食べ物がないときは、みんな我先にと食べ物に群がって、他人に分け与える余裕なんかなかったはずや」

 歴史の授業の一環で、百歳を超えたお年寄りにそんな話を聞いたことがある。食べるものがなくて大変だったって。いまはたくさん食べ物があるけど、戦争のことを忘れずに大切に食べないとダメだとかなんとか言われたっけ。

「で、要するにな・・・」

「要するに?」

「人はありとあらゆる欲望を持つわけや。それやのに食欲や性欲や睡眠欲みたいに名前のついている欲望ばかりが注目されるのはおかしいってことや。食欲なんかたいしたことないねん」

永遠にレベル1の人生

「人間が貢献を欲望することがあるのは認めるよ。でも、お金によって命令されないと、誰も責任感をもって貢献しないんじゃないの? 実際、ボランティア活動に積極的に取り組む人なんて少ないわけだし。もし労働がなくなったら、子どもが遊び半分で手伝うみたいに貢献するだけで、すぐに飽きちゃうんじゃないの?」

「まぁその可能性はある。職場には八時間縛りつけられてるからクオリティの高い仕事ができるけど、休日のボランティアでは大した成果を得られへん・・・なんてことは、この社会では頻繁に起きてるやろな」

「ほら、やっぱり労働が必要なんじゃ・・・」

「でも、逆に考えることもできるはずや。いま労働に忙殺されてるから、ほかのことに責任感を持って取り組めていないだけとな」

「どういうこと?」

「たとえば編み物に責任感を持って取り組もうにも、夜遅くまでやってたら明日の労働に支障をきたす。だから途中で切り上げなあかんよな?」

 編み物なんてやったことないけれど、もしそんな状況なら「明日も学校なんだから早く寝なさい」とお母さんに怒られそうだ。

「その結果、途中で投げ出しているだけという可能性はないか? もし労働がなくなったら、自分が重要やと感じるプロジェクトに責任感を持って取り組む可能性が高まるとは思わんか?」

「そういうものかな?」

「実際、労働に時間を奪われていてもなお、趣味に向ける人間のエネルギーってすごいやろ。土日しか時間がないのにプロ顔負けの料理をつくるワーキングマザーもおるし、超絶技巧を持ったアマチュアギタリストもおる。最近は趣味をYouTubeで披露して金儲けする人も増えてきたけど、ごく一部や。多くの人は一円の得にもならんのに短い土日で職人技を磨いとる」

 たしかに、すごい人はすごい。

「さて、アンチワーク哲学は、この現象を説明することができる。単に『ふーん、人間はよくわからないことにも熱中するんだねぇ・・・』と傍観するだけではない、深淵な哲学なんやで」

 ニケは自分がバカにされても笑っているくせに、たまにこうした自慢話を挟む。プライドが低いのか、高いのか。

「アンチワーク哲学がすごいのはわかったよ。じゃあ早く教えてくれる?」

「順を追って説明するで。人間の欲望は変化を起こすことを求めるって話をしたやろ。そして人間は、変化させる能力を増大させたがるねん」

「どういうこと?」

「赤ちゃんがなぜハイハイを習得するかわかるか?」

 赤ちゃんがハイハイする理由? それは「そういうものだから」としか考えたことはない。と言うよりも、考えようとしたことすらない。

「どうだろう。わからない」

「不思議やと思わんか? 別に寝転がって泣き喚いていたらママがおっぱいをくれるし、温かいベッドで眠ることができる。わざわざハイハイする必要はないと思わんか?」

「でも、それじゃ退屈なんじゃない?」

「そう。退屈なんや。人間は退屈を紛らわさないと生きていけない。なら、人間はどうやって退屈を紛らわす?」

「それは・・・行為?」

「せや。でも、行為やったらなんでもええわけやない。赤ちゃんも、手足をばたつかせるという行為なら、生まれた瞬間からできる。はじめは自分の意志で手足が動かせるという変化を見て楽しんでいるもんや」

「へぇ。赤ちゃんを育てたことがないから知らないけど、そんなことで楽しめるなら羨ましいね」

「でもな、ずっとやってたら、手足がばたつくというだけの変化に飽きる。だから次はハイハイをして、自分が手足を特定の方法で動かせば、スムーズに視界が変化していくという現象を発見する。これは赤ちゃんからすれば天にも昇る快感やろなぁ」

「快感・・・?」

 はじめてハイハイをしたときのことなんて当然覚えていないけど、少し想像してみる。ずっと天井を見つめていただけの暮らしだったのに、突然、自分の意志でどこにでも行けるようになる。きっと、薄暗い監獄の中から自由の荒野へと抜け出したような感覚なのだろう。

「でもな、それもすぐに飽きる。次はボールを投げたらボールが飛んでいくという変化を見てきゃきゃって笑いはじめる。で、また飽きる。次は立って歩いて、走る。そうすると、またハイハイとは異なる視点の変化を引き起こして楽しむことができる。そのうち道具を使うことを覚える。三輪車に乗ったり、自転車に乗ったり。大人になればバイクに乗ったり、車に乗ったりすることで可能な変化を増やしていく」

「大人になっても、そのプロセスは続いてるんだね」

「そうや。スコップで穴を掘るのも、包丁で魚を三枚におろすのも、ゴルフに夢中になるのも、自分の意志で変化を起こすことが目的や。人は身体や道具の使い方を学んで影響力を拡大させていく。大人もそれに快感を覚えるわけや」

「大人も快感を覚えるの?」

「何歳になっても、できることが増えたら嬉しいやろ?」

 そう言われれば、はじめて自転車に乗ったとき。連立方程式の解き方がわかったとき。ペン回しができたとき。興奮した気持ちを思い出した。

「たしかにそうだね」

「つまり人間は力への意志に突き動かされているわけや」

「力への意志?」

 またニケはよくわからない単語を持ち出してきた。

「そう。アンチワーク哲学では、自分の意志で変化を起こす能力を増大させるエネルギーを、とある哲学者の言葉を拝借して力への意志と呼んでいる。まぁ別に覚えんでも構わん。テストじゃないんやからな」

「じゃあどうして言ったの?」

「定期的にカッコいい単語を出しとかんと、哲学者っぽくないやろ?」

 また見栄を張る。やっぱり自意識過剰なんだろうか?

「でも、力への意志って言われても、なんだかわかりにくいよ」

「そうか・・・ほな成長欲はどうや?」

 成長欲。まだそっちの方が分かりやすい気がする。

「まだ成長欲の方がマシかな」

「どっちでもええわ。まぁ要するにや、人間には力への意志があるから、永遠にレベル1のままダラダラ過ごすような人生を望むことはあり得ないっていうことや」

 永遠にレベル1の人生。たしかにそれはひどく退屈そうだ。

「だから結局、人間はほっといてもなんらかのプロジェクトに取り組むし、スキルアップを志すもんや。家の中でアニメをダラダラ観てるだけの人生に満足できる人なんかおらんねん」

「でもさ。ニケは家でダラダラとアニメを観ているニートなんでしょ?」

「あほか。こうやって壮大な哲学体系を構築するという偉大なプロジェクトに邁進してるやろが」

「偉大って、自分で言うんだね」

「なんでも繰り返し言ってたら本当っぽく聞こえてくるもんやろ? ヒトラーもそんなこと言ってたで」

 ヒトラーを根拠にされても説得力はない。というか、やっぱり倫理観が欠けているな、この男は。

「それにな、周りのニート友達にもそんな奴はほとんどおらんか、おったとしても精神的に参ってるケースが多い。逆に打ち込める趣味か仕事かを見つけたらイキイキしはじめるんや。ほんで自分が成長することに喜びを感じるようになる」

「それは、力への意志があるから?」

「そう。ニートってな。『毎日ダラダラ過ごせて羨ましいわぁ』的な嫌味をよく言われるねん。でも、レベル1のままなにもしないような生活は人間にとって羨ましくもなんともない。ということは・・・」

「ということは・・・?」

「ベーシックインカムを配ったらみんなダラダラ過ごすっていう発想は、明らかに間違ってる」

ニートは正義のレジスタンス

「みんながなにかに熱中することは理解したよ。でもそれが畑仕事や子どもの世話に向かうとは限らないんじゃない? 僕だったら好きなゲームを極めようとするし・・・」

「それはそれで素晴らしいことや」

「え?」

 ゲームに熱中することが素晴らしい? いったいどういうことだろう?

「現代の労働の大半が無駄であって、やればやるだけ社会が損をするって話はしたな」

 少し前の方の話を思い出す。クソみたいな広告や、保険の営業で疲弊する女性。捨てられる恵方巻き。

「そうだね」

「無駄な労働をするくらいなら、ゲームしている方が偉いやろ? 労働はやればやるだけ本人も周りも不幸になるんや。せめて本人だけでも楽しい方がええんちゃうか?」

 言われてみればそうだ。本当に労働が無駄なのだとすれば、やらない方がマシだ。でも・・・

「ゲームしたければ好きなだけゲームすればええ。ほんで、人の役に立ちたくなったら役に立てばええ。どのみち人は役に立つことを望むんやから、社会なんか勝手に成立するわ」

 そんなに簡単なのだろうか? というか、哲学者がそんなにテキトーでいいんだろうか?

「社会ってそんなに簡単に成立するの?」

「大丈夫や。そもそもな、『社会が成立する』ってどういうことか、考えたことあるか?」

「出たよ。ニケの『そもそも論』」

「ええから考えてみてくれや」

「えっと・・・まず第一にはみんなが生き延びることだよね。ご飯を食べられて、家があって、電気やガスや水道が使えて・・・」

「まぁそんなところやろな。でもな、現代人にとってご飯をつくることはほとんど娯楽みたいなもんや」

「どういうこと? 食べないと生きていけないよね?」

「完全にゼロにはできへん。でもな、そもそも現代は餓死する人より食い過ぎて死ぬ人の方が多い。道歩いてるおっさんもオバハンも、だいたい腹出てるし、ダイエット食品なんかバカみたいに売れてるやろ? つまり食わんでもええもんわざわざ食ってるってことや」

「まぁ、たしかにそうだね」

 ダイエットに夢中になる親戚のおばさんたちの姿を思い浮かべながら、僕は返事をした。

「それにな、パンみたいなシンプルな食べ物でも必要以上の手間がかけられとる」

「どういうこと? パンなんて質素な食事の代表例だと思うけど」

「パンって麦をわざわざ脱穀して粉にして捏ねて発酵させて焼いてから食うやろ? 生き延びるためだけやったら、そんなことせんでも麦をお粥にして食ってもええはずやねん。でも、『生き延びるため』をはるかに超えた目的を持って、人間はパンをつくって食ってるわけや。その大部分は『楽しい』とか『嬉しい』とかそういう目的のためなんや」

「だったらなに? パンがつくられなくなってもお粥を食べて我慢しろってこと?」

「違う。もっと肩の力を抜けばええってことや。そもそも人間は『楽しい』とか『嬉しい』という気持ちのためにパンをつくってた。食べるときだけじゃなくて、つくる過程もきっと楽しかったはずや」

「パンをつくる過程が楽しかった?」

「せや。はじめてパンを発明した人は、苦しみながらパンを焼いてたと思うか?」

 少し想像してみる。きっとその人は、夢中になって実験室にこもる科学者のように、その過程を楽しんでいただろう。決して『生き延びなければ・・・』などと焦燥感に駆り立てられていたわけではないはずだ。

「きっと楽しかっただろうね」

「やろ? 『生き延びる』とかそんなことは微塵も考えてなかったはずやで。もともとパンを焼くことも、パンを食べることも遊び半分やねん。それがいつの間にか、『生き延びるため』というネガティブな動機にすり替わってしまった。いまでもパンをつくるのはやらんでもええ遊び半分のものや。それやのに強制的な労働やと俺らは思い込んでるねん」

 パンを焼くことは遊び半分? そんな風に考えたこともなかった。人間の人生はずっと昔から、ただ生き延びるために苦しい労働に埋め尽くされて、その隙間にわずかな余暇を許されているものだと思い込んでいた。

「アホらしいと思わんか? やってることは別にやらんでもええ娯楽やのに、それが『生き延びるため』となかんとか言って自分らを追い込んで、苦しんでるわけや。なら『生き延びるため』なんて考える必要はない。やってる本人が楽しいかどうかだけを考えるべきなんや」

「やってる本人が楽しいかどうか・・・?」

「そう。それだけを考えればええ。ほかの例も挙げよか。狩猟採集民の人らの狩猟って、得られるカロリーよりも、それで消費するカロリーの方が大きいケースが多いらしいわ」

「え? それってつまり?」

「徒労ってやつや。ただし、生き延びるためのカロリーを目的にするならの話やな」

「でも、彼らにとってカロリーは最優先事項じゃなかった?」

「彼らも気づいてたはずや。生きることだけを優先するなら、狩猟なんかやめて朝から晩まで小麦を育てた方がいいって。でも彼らにとってそれはつまらなかった。だから好きな狩猟に夢中になってたんや。彼らにとって好きなことをすることが最重要事項やったんや」

「好きなことをすることが、最重要事項?」

「せや。それで社会は成立するんや。だからな、さっきは広告や営業が悪かのように言うたけど、それが好きなことなら好きなだけやったらええねん」

「そうなの? でも無駄なんでしょ?」

「『こんなもの売りたくないなぁ』とか『こんな風に営業したら迷惑だろうなぁ』とか思いながら営業をするのはあほらしいけど『これをみんなに知って欲しい!』『これを必要な人に届けたい!』と思って誰かに伝える行為は、その人にとっての『好きなこと』なんちゃうか?」

 たしかに、好きな漫画やゲームを誰かに教えてあげるのは楽しい。広告や営業もそんな気持ちで取り組むなら、きっと喜びに変わるだろう。それはもう「労働」ではなくなっているはずだ。

「『無駄か? 無駄じゃないか?』という基準で考えるなら、パンすらも無駄ってことになる。だからそんなことは考える必要はない。みんなが『好きなこと』をすれば楽しいし、ちょっとくらいの苦痛は快感に変わる。はじめに言ったやろ。『役に立つ』ってのがどういうことか」

 冒頭の会話を思い出した。そういえば、僕を喜ばせたり、僕の苦しみを取り除いたりすることは役に立つことだって、ニケは言ったっけ。

「少年が嫌な労働をしないこと、労働をやめて好きなことをすることは、無条件にいいことなんや」

 労働をやめて好きなことをするのはいいこと。なぜなら、僕が幸福になるから。同じようにみんなが労働をやめて好きなことをすれば、みんなが幸福になれる。社会も勝手に成り立つ。ニケはそう言う。

 逆に大人たちはこう言う。好きなことを我慢して勉強し、労働しなければ社会は成り立たず、僕も幸福になれない。だから我慢しなさい、と。

 僕はどちらを信じるべきだろうか。どちらを信じた方が楽しく生きられるだろうか?

「それにな、無批判で労働を続けるってことは、無駄な労働が存在する社会を許容することになるやろ?」

「え? そうなの?」

「それって正しい行いやと思うか? 本当に無駄なんやったら、未来の子どもたちには労働のない社会をプレゼントしたいとは思わんか?」

 さっきニケは、昔は戦争が正義だったと話していたっけ。現代では労働は正義。でも、それが嘘だったなら? 戦争をなくすべきなのと同じように、労働もなくすべきなのだろうか?

「俺は言い切っていいと思う。労働は悪や」

「労働は悪・・・」

「いまとなれば戦争は悪や。でも戦時中は、戦争は正義やった。当時にもし『戦争をやめよう』と声をあげる人たちがたくさん現れていたら、日本に核爆弾が落とされへんかったかもしらん。だから『労働は正義』とされている現代でも、勇気を持って『労働は悪』と叫んだり、ニートのように労働を拒否したりすることは、きっと未来への有益な貢献になるはずや」

 そんなことができるのだろうか? もしそんなことをすれば・・・

「でも、頑張って労働してる人に対して『労働は悪』なんて言ったら怒るんじゃない?」

「怒ると思う。でも、怒らせたらええねん」

「え?」

「たとえば俺が戦時中に戦争に反対していたとして、少年は『頑張って戦争してる兵隊さんが可哀想』って言うか?」

「それは・・・」

 もしかしたら言うかもしれない。戦争が正義の時代だったなら。

「怒られようがなにしようが、言うべきことは言うべきや。社会を変えようとするなら、怒られるのは当たり前やねん」

第六章 労働とお金

 雨の音と風の音は、僕たちの会話の隙間を埋めようとしては、タイミングを見失っている。僕たちの会話に生じたわずかな隙間は、すでに疑問と思考に埋め尽くされていて、ほかのなにかが混ざる余地は残っていない。ミュートボタンを押したような世界で、僕たちの議論は進んでいく。

 労働は悪。命令や強制は悪。そんなものがなくてもなんとかなる。ニケはそう言う。だとすれば、僕が次に問わなければならないことは明らかだ。なぜ、僕たちの社会はこんなにも労働で埋め尽くされているのか?

他人を道具にする方法

「でも、もし本当に労働が悪で、労働がなくても人間が自発的に貢献するなら、別に放っておけばよかったんじゃない?」

「ん? どういうことや?」

「勝手に人が貢献するなら、わざわざお金を渡して労働してもらう必要はなかったはずでしょ? なら、どうして僕たちの社会には強制・・・つまり労働が存在するの? それに、どうしてみんな貢献欲がないと思っているの?」

「さすがは俺の見込んだ少年。いい質問やな」

 また褒められた。ニケの掌の上で踊っているようで、なんだか釈然としない。それでも僕は、続きを聞きたいという欲望に抗うことはできない。

「力への意志の話は覚えてるな?」

「うん。変化を起こす能力を増大させていくエネルギーだよね。練習して、自転車や車の運転を覚えていくような・・・」

 成長欲の方が分かりやすいという僕の意見は、どうやらなかったことになっているらしい。

「そう。ほんでここからが恐ろしい話やねんけどな・・・」

 ニケは急に怪談を話すように、声のトーンを大げさに落とし、間を作った。でも、別に怖くはない。

「もったいぶらずに言ってよ」

「趣のない奴やな・・・あんな、力への意志は自転車や車のかわりに他人へと向かうこともあるねん」

「他人?」

「そう。たとえば他人に暴力を振るって、痛がる様子を見てゲラゲラ笑う同級生はおらんか?」

「え?」

 心臓をギュッと掴まれるような気持ちになる。そういえばこの前、掃除の時間に教室の隅でお尻を蹴られたことがあったっけ。

「まぁ・・・いるね」

「あれもな、他人に変化を起こして楽しんでいるわけや」

「やっぱり人間ってクズなんだね」

 僕はお尻を蹴ってきた同級生の顔を思い浮かべながら言った。

「まぁ学校ってのはいじめくらいしかやることがないねん。力への意志をことごとく封じ込められている環境やからな」

「どういうこと?」

「学校は、ありとあらゆる自発的な行為が禁止されて、ルール通りに振る舞うことが求められる場やろ?」

「まぁ・・・」

 その通りだ。僕たちは時間通りに学校に行くことを強制され、制服の着方から、列の作り方、教科書の置き場所まで、理不尽なほどに管理される。自分の意志でなにかに取り組むような経験はほとんど得られない。

「そうなると人は力への意志を挫かれる。でも、力への意志はなくならない。だからどこか違う場所で力への意志を発揮したくなる」

「それが・・・いじめ?」

「そういうことや。あとは、やたらとルールを押し付けてくる風紀委員っておらんか?」

「いるね。先生じゃないくせに、まるで自分が先生になったように指図してくる生徒が」

「せやろ。あれも力への意志の仕業や。その風紀委員は自分の意志で、他の生徒をコントロールし、変化させているという手応えを感じたいんやな」

 なるほど。そんなふうに分析すると、いじめっ子も、風紀委員も、なんだか滑稽に思えてくる。

「学校という環境が悪いんや。まぁそれは置いといて、人間は道具を使ってできることを増やしていくように、他人を使ってできることを増やしていく場合もあるわけやな」

「それは他人を道具として扱うってことだよね?」

「そう。包丁の使い方を覚えるように、他人の使い方を覚える。殴って反応を見て笑う。次はパシる。大人になれば部下をアゴで使う。「茶!」と一言伝えるだけで茶を用意するように奥さんを使う。店員に偉そうに命令する。そうすれば、自分の影響力が拡大していることを味わえる。権力者の完成やな」

 包丁を使うように、他人を道具として扱う。ゾッとしない話だけれど、言われてみれば親や先生の命令に従うときは、道具扱いされているような気分になったこともある。

労働が生まれた日

「でもさ、さっき言ったよね? 他人を命令に従わせることはむずかしいって」

「そう。ええところに気づいたな。実際、狩猟や採集といった生活をしている人々の間では、命令のない平等な社会を実現しているケースは多い」

「そうなの?」

「一概には言えんけど、明らかにその傾向はある。人間の社会は命令を社会から排除することが可能やったんや。なんでやと思う?」

「えっと・・・」

 命令のない社会。急に言われれば、なかなかイメージが湧かない。

「他人を命令に従わせるためにはなにが必要なんやった?」

「暴力?」

「そう。でもな、めちゃめちゃ力の強い奴がおったとしても、二人か三人相手には勝たれへんやろ?」

「まぁ、多勢に無勢だね」

「それに、一回や二回くらい理不尽な命令を聞いてくれたとしても、永遠に従わせようとしたら、さすがに逃げるやろ?」

「たしかに・・・」

「少年は火星に行きたいか?」

「え? どうだろう? チャンスがあるなら行ってみたいけど、まだ無理だよね?」

「せやろ。無理やから諦めてるやろ?」

「諦めてるっていうか・・・そもそも諦める以前の問題というか・・・」

 はじめから選択肢にのぼってすらいない。そういう行為に対して「諦める」と言ってもいいものか?

「たぶん大昔の人にとっては『他人を支配したい』っていう欲望は『火星に行きたい』みたいな無理難題やったんや。少年は火星に行きたくて夜も眠れないなんてことはないやろ?」

 あるはずがない。そんなことに悩んでいたなら、もっと幸せな人生だったろうに。

「まぁそうだね」

「だから支配なんかしたいと思わず、人々は好きなことをやってた。他に楽しいことはいっぱいあったからそれでうまく回ってたんやろな。ところが、なんかの拍子に支配が成功して、永続化してしまった」

「それは・・・どうやって?」

「わからん」

「え?」

「そんなもん、証拠が残ってるわけないやろ? どの時代にそのきっかけがあったかもわからんわけやし、ぜんぶ調べようと思ったら時間がなんぼあっても足らん。それに、日本とヨーロッパでまったく同じ歴史を辿るわけやない。いろんな社会でいろんなストーリーがあったと想像するしかないんや」

「なにそれ。科学的じゃないね」

「想像することは科学の第一歩やろ」

 ああ言えばこう言う。やっぱりニケにはうまく言いくるめられているような気もする。

「少年の質問は『なぜ人間の社会に強制や労働が誕生したの?』やったな。それに対しては『なんかの拍子に支配に向かった力への意志が、支配に成功したから』というのが俺の回答や」

「曖昧だね」

「ほんでな。命令されたらモチベーションがさがるって話をしたやろ」

「『ティッシュをよこせ!』ってやつだね」

「そう。つまり支配に成功して命令が永続化すると、人間は命令される行為がそもそも嫌な行為やと思いこんだんや。命令される行為ってなんやと思う?」

「それは・・・支配者に貢献すること?」

「せや。『オムライスをつくれ』とかそんな類の貢献を命令されたはずや。逆に、『俺がつくったオムライスを食え! さもなければ殺す』とは命令せんやろな。わざわざ命令しなくてもオムライスを勝手につくって渡せば食ってくれる人はおるんやから」

「たしかにそうだね」

 オムライスをつくって食べさせてくる王様を想像してみる。実際にいたらちょっと可愛いかもしれない。でも、逆につくらせようとするなら? 憎たらしい権力者の完成だ。

「貢献を命令されるうちに、貢献は労働化した。そして人間は貢献を欲望することのない怠惰な存在に貶められた。それは権力者にとっては都合がよかった」

「どうして? 権力者だって自発的に貢献してくれた方が嬉しいんじゃないの?」

「逆や。怠惰でいてくれた方が『こいつらは貢献を嫌がる怠惰な奴らやから、俺が命令せなしゃーないわ』っていう大義名分になるやろ。そうすれば権力が正当化される。権力者が欲望するのはなにか覚えてるか?」

「えっと・・・他人を道具のように使って、変化を起こす能力を増大させること?」

「そう。権力者は自分の命令で人々が手足のように動くのが見たい。子どもがラジコンに夢中になるのと同じや。ラジコンが人間に代わったというだけでな」

「でも、もし人間が命令しなくても貢献してくれるなら、どうしてはじめからお願いしなかったんだろうね。お願いしていたらオムライスをつくってくれたかもしれないのに」

「お願いっていうのは、拒否されるリスクがあるやろ? だから拒否されないように相手の気分や状況に配慮してからお願いせなあかん。たぶん支配者と呼ばれる人らは、これがめんどくさかった。自分の都合で、自分が命じるがままに行動させたかったんやろな」

お金というイノベーション

「ほんでな、時代が進んで暴力以上に効率的な支配のツールが登場した。それがお金や」

「どういうこと?」

「たとえば俺が拳銃を持っていたとして、少年に毎日オムライスをつくらせたいとしよう」

 毎日オムライスって・・・。まるで下手くそなプロポーズの言葉みたいだ。

「ちょっと気持ち悪いね」

「でもな、二四時間拳銃を突きつけ続けるのはむずかしいやろ?」

「そうだね。寝ている間にこっそり逃げ出すかもしれないし」

「そう。だから支配する側は、暴力に代わる支配のツールが欲しくなった」

「それが・・・お金?」

「そういうことや。お金で人に命令するのは、常に拳銃を突きつけるよりは遥かに楽や。遠くで暴力をチラつかせとけばええねん」

 遠くで暴力をチラつかせる? まるでギャングかヤクザのような言い分だけど・・・

「どういう意味?」

「ところで少年。お金がお金として機能するのはなんでやと思う?」

「それは・・・『お金には価値がある』ってみんなが信じているから」

 そんな話を社会の授業で習った気がする。あとはなんだっけ? お金の機能についても習った気はするけど・・・

「まぁそれもある。でもな、究極的にはお金の価値は暴力によって支えられているんや」

「どういうこと?」

「お金を払わずにお店から物を持って帰ったらどうなる?」

「えっと・・・警察につかまる?」

「せや。つかまるっていうのは具体的にはどういうことや?」

「えっと、警察の人がやってきて、パトカーに乗せられて・・・」

「そう。で、逃げようとしたらムキムキの警察に押さえつけられるし、それでも逃げようとしたら警棒か拳銃で暴力を振るわれるわな」

「そうだね」

「じゃあ、警察という暴力装置がおらんかったらどうなる?」

 暴力装置・・・なんだか物騒な表現だけれど、警察が暴力の装置であることは事実だ。

「万引きしても捕まらない?」

「そう。暴力が根本にないとお金で命令することはむずかしい。だからお金は暴力に支えられてるってことや」

「でもさ・・・みんながお金を信じて約束するってだけじゃダメなのかな? 暴力がなくても、お金を信じることはできるよね? そうやってお金が生まれてきた可能性もあるよね?」

「お金の成立過程にはいろんな説があるから一回調べてみたらええわ。いずれにせよ、現代において金の支払いを拒んだり、借金から逃れようとしたり、税金を拒否したりすれば、暴力を振るわれることは事実。その結果、お金が命令の装置として機能していることも事実や」

「それは・・・そうだね」

 お金は暴力に支えられている。あまり信じたくはないけれど・・・

「でも、常に拳銃を突きつけ続けるよりは楽やろ? 暴力という手間を削減した意味で、支配のツールとしてのお金は史上最大のイノベーションやった、でもな・・・」

「でも?」

お金はコスパが悪い

「暴力を使おうが、お金を使おうが、命令されたら人のモチベーションがさがりがちなんやったな」

「そうだね」

「だから、少年がさっき『どうしてお願いしなかったんだろう』って疑問を抱いたのは正しかった。お願いされたときの方が人はイキイキと行為するもんやねん。ティッシュのときがそうやったやろ?」

 ニケにティッシュを渡したときの気持ちを思い出す。そう言われれば、うっすらと役に立てた喜びを感じていたような・・・

「なら、少年が言うように、お願いによってお互いに貢献し合った方が効率的かもしらへん。いまの社会はお金を介してお互いに貢献を命令し合っている社会なわけや。お金はモチベーションをさげてしまう傾向がある。なら、はじめからお金抜きにしてお願いした方が高いモチベーションで貢献し合えるんとちゃうか?」

 お金抜き? そんな社会を想像したことは一度もない。お金抜きの社会がどうなるかはわからないけれど、とにかくむずかしそうだということはわかる。

「さすがにそれは無理があるんじゃない?」

「心理学者に聞いてみたらええわ。お金をちらつかせたらモチベーションがさがって生産性がさがるし、逆に自発的な行動の方が生産性が高いって話を聞かせてくれるはずや」

「そうなの?」

「アンダーマイニング効果とか自己決定理論ってやつや。また検索したらええわ」

「検索するキーワードが増えすぎてもう覚えられないよ」

「調べたい言葉だけ調べたらええ。要するに、欲望や力への意志っていうのは命令を受けていない純粋な状況の方が機能するってことや」

「だからお金がない方がいいって言いたいの? それは暴論じゃない?」

「よく考えてみ? 街を歩いたら銀行がいくつも建ってるやろ?」

「うん、それがどうしたの?」

「銀行でどれだけの労働と資源が浪費されてると思う?」

「えっと・・・」

 考えたこともなかった。あまりにも当たり前の光景だったから。

「銀行だけやない。レジ。コンビニのATM。券売機。現金輸送車。警備員。株式市場。仮想通貨。クレジットカード。消費者金融。ポイントカード。電子マネー。保険。年金。税金。為替。『お金の稼ぎ方』に関するビジネス書やセミナー。最近は学校でも投資を習ったりするんやろ? こういったものに捧げられている人間の労働と資源をぜんぶ集約したら、火星をテラフォーミングするくらい簡単にできるんとちゃうか?」

「テラフォー・・?」

「ともかくな、人間は社会全体でお金の管理に膨大な手間をかけてる。お金がなくなれば、これらの手間はぜんぶ必要なくなる。それだけの手間を補って余りあるほどのメリットがお金に本当にあるやろか?」

 お金にメリットがあるか? 考えたこともなかった。でも・・・

「そもそもお金がなくても人は貢献を欲望する。お金はモチベーションをさげる効果がある。人類社会全体でお金の管理に膨大な手間がかけられている。なら、こんな風には考えられへんか? お金はコスパが悪いとな」

価値を比較する理由

「たしかにお金の管理には手間暇がかかっているよ。でも、やっぱりそれだけのメリットがあるんじゃないの? お金がないと、なにがどれくらいの価値があるかもわからないし、どうやってものを交換したらいいのかもわからないし・・・」

「価値を比較したいってことか?」

「まぁそうだね」

「考えたことあるか? 『なんで価値を比較する必要があるか?』って」

「え?」

「比較するってことは得したいとか、損したくないって思ってるってことやろ?」

「え、そうなの?」

「そもそも価値ってなんや?」

 理解が追いつく前に、質問を畳みかけられて頭がパニックになりそうだ。価値とはなにか? なんなんだろう?

「えっと・・・」

「冷静にいこか。お金はなにを買うためにある?」

「えっと、商品やサービス?」

「そう。ほんで商品は他人の貢献の結晶であり、サービスは他人の貢献そのもの。ここまではええな?」

「・・・そうだね」

「つまり、お金が体現する価値っていうのは他人を貢献させる力ってことや。貨幣権力説って話を覚えてるか?」

 貨幣権力説。たしか、お金は他者を強制的に貢献させる権力っていう話だっけ?

「そして、価値を比較するっていうのはどういうことや?」

「えっと・・・」

「まず、労働者は貢献の対価としてお金を受け取る。そして、そのお金を使って誰かを貢献させるわけや」

「うん」

「価値を比較するということは、『自分はできるだけ貢献せずに、他者を貢献させたい』とか『せめて、自分ばかり貢献するようなことはしたくない』って考えてるってことやろ? でなきゃ比較する必要があるか?」

「まぁそういうことになる・・・のかな?」

 頭の中で迷子になりそうになる。

「でもな、もし人間にとって貢献が欲望の対象なんやったら比較する必要はないやろ?」

「お金で測ったりせずに、好きなだけ貢献して、好きなだけ貢献を受け取ればいいってこと?」

「せや。損って感じるのはな、やりたくないからやろ?」

 わかったようで、わからない。

「むずかしいなら、ちょっと思考実験をしよか。少年がゲームをすればするだけお金がもらえる世界があったとしよう」

「なにそれ、最高の世界だね」

「ただし、その世界のお金の使い道は一つしかない」

「それは?」

「誰かにゲームをさせることや」

「え?」

「誰かに命令されて少年はゲームを一時間やる。そうすれば、少年は千円もらえる。そしてその千円を使って少年は別の誰かにゲームをやらせる。こんな世界があったとしよう」」

 ちょっとよくわからない設定だが、もう少し辛抱してみよう。

「その世界では人間はゲームが大嫌いで、かつ、他人にゲームをやらせることでしか喜びを感じない性癖を持っていたとしよう」

 さらに訳のわからない設定が登場したが、まだ我慢しよう。

「・・・うん」

「その世界でお金がなかったらどうなる?」

 考えてみる。人は他人にゲームをやらせることが快感なんだっけ?

「お金がないなら、誰かにゲームするように『お願い』するだろうね」

「せやな。でもみんなゲームをやりたくない。渋々やってくれる人もおるかもしらんけど、そういう人も『俺はこんだけゲームしたんやから、お前もやれよ』みたいなことを言い出すやろな」

「そうだね。で、人にやらせるばっかりで、全然自分はゲームをやらない人も出てくるだろうね」

「せやな、ほんならこう言い出す奴がおるかもしらんな。『誰がどれだけゲームをやったのかを数値化しよう。そして、その数値と引き換えにすることで誰かにゲームをさせられることにしよう』と。そうすれば、誰か一人ばっかりがゲームをやらされたり、誰かがサボったりすることもなくなる」

 だんだんニケの言いたいことが見えてくる。

「それはつまりお金だよね?」

「そう。こういう状況なら、たしかにお金は必要や」

「もし、本当にそんな状況ならね」

「そう。現実はそうじゃない。少年はゲームが好きで、みんなも好きなんや。なら、ゲームをやってお金をもらう必要もないし、誰かにゲームをやってもらうためにお金を払う必要もない。つまりお金は必要ない。さて、俺がなにを言いたいかわかってきたやろ?」

「うん。貢献がゲームみたいに楽しいことなのなら、お金みたいなものでいちいち測定したり比較したりする必要がないってことだよね」

「命令によって貢献が苦行になってしまったって話はしたな? なら、ベーシックインカムによって命令に従う必要がなくなったなら、人は貢献そのものの喜びを思い出す。そして、そうなれば、お金がなくても貢献することにみんなが気付きはじめる。そして・・・」

「お金が必要なくなる?」

「俺はそうなると見込んでいる。まぁベーシックインカムがあればお金の強制の側面は弱まるから、それだけでも労働はほとんど骨抜きになる。でも強制力は完全になくなるわけじゃないし、銀行といった管理の手間も依然として残ったままや。だったらお金そのものがなくなってしまう方が効率がいい。そうすれば労働はこの世から完全に廃絶されるはずや」

八十億総ニート

 お金がなく、労働がない世界。もしそんな世界が本当に実現したら、僕はなにをするだろうか? お父さんやお母さん、学校の先生や友達はなにをするだろうか?

 いや、それよりも、本当にそんな世界があり得るのだろうか?

「本当にそんな世界が実現できるの? やっぱりお金も労働も必要だから存在してるんじゃ・・・?」

「そんなわけあるか。その理屈で言うたらな、世の中をなにも変えられへんやろ?」

「どういうこと?」

「奴隷制は必要やから存在してたんと違うか?」

 もちろん、そんなはずはない。奴隷制なんて必要ない。でもかつては、実際に存在していた。それはつまり・・・誰かが声を上げて変えたということだ。

「それでも、そんな簡単にはいかないはずだよ!」

「たしかに簡単ではないと思う。当時は『奴隷制がなくなったら社会が大変なことになる』ってみんなが口にしていたもんや。でも実際にやめてみれば必要なかったことがわかった。労働もお金も同じや」

「そんないい加減な・・・」

「もちろん、未来のことはわからんで。でもな、俺は労働もお金もなくなった未来を確信してるんや。そうじゃないなら・・・」

「そうじゃないなら?」

「俺が少年にこんな話をする意味はないんや」

「どういうこと?」

「アンチワーク哲学には未来を変える力があるんや。でも俺には変えられへん」

「ニケじゃないなら・・・僕が未来を変えるってこと?」

「そう・・・少年は未来を変えられるんや」

 学校をさぼって公園で昼寝していただけの僕が、未来を変える? ニケはいったいなにを言っているのだろうか?

 バカバカしい! そんなことができるはずがない!

「僕がそんなことできるわけないじゃん! 僕みたいな怠けものが『労働は悪』だなんて言っても、働きたくない奴の言い訳にしか聞こえないよ」

「でも、少年は怠けものじゃないで?」

「どうして? 僕は学校もサボってるし、働きたくないと思ってるよ」

「言ったやろ? 労働は悪やねんから、働きたくないと思うことは正しいことなんやって。それにな、少年は一円の得にもならんのに俺と議論してくれた。より良い世界がどんなものなのかを一緒に考えてくれたやろ? それは少年が世界のために貢献したいと思ってるって証拠や」

「僕が世界に貢献しようとしている・・・?」

「そう。そして、この議論は少年にとって楽しいものやった。俺も楽しかった。二人も楽しい思いをしたんやったら、それ自体が世界に対する貢献なんや」

「でも、僕らだけが楽しんでいたって仕方ないんじゃ・・・」

「ええか。社会っていうのは一人ひとりの人間が集まってできてる。少年が議論に夢中になる姿を見て、同じようにみんながなにかに夢中になったら、それだけで世界から労働は消えていく。世界は変えられるんや」

「そうかもしれないけど、そんなことになれば・・・」

「また、『誰も貢献しなくなる?』か? 少年は俺にティッシュをくれたし、飢えた子どもにお菓子をあげると言った。頑張ってる労働者を悪く言ったら『かわいそう』と言った。それは少年が『誰かが苦しんでいたなら救いたい』と思ってるってことやろ?」

「僕は、人を救いたいと思っている・・・?」

「そう。逆に救わないでいることの方が苦しいんや。飢えた子どもにお菓子をあげずに素通りしたら、後ろめたいんやろ?」

「それは・・・」

「人間ってのは助け合わずにはいられない生き物なんや。助け合うことが好きで好きで仕方ない生き物なんや。ほな、労働なんかやめて好きに助け合えばええ。みんなが必要やと思うなら、絶対に誰かがなんとかしてくれるはずや」

「労働をやめて、好きに助け合う?」

「そう。それはつまり八十億人全員がニートになるってことや。ようやく俺が言いたいことが伝わったんとちゃうか?」

第七章 労働なき世界

「八十億人全員がニート・・・」

「そう、それが労働なき世界や。誰も強制されることなく、自分の意志で好きなことを好きなだけやる。一人でゲームする奴もおれば、一日中誰かのために貢献してる奴もおる。でも、やめたいと思ったら、すぐにやめられる」

 最初、ニケに話しかけられたときは、ニケの話はなんの根拠もない与太話だと思っていた。でも、僕の疑問はすべてニケに鮮やかに反論され、いまではニケの話を否定することはむずかしい。

 もし、ニケの話が本当なのだとすれば、この世界はきっと間違っている。

 将来のために嫌々勉強をさせられ、無意味に受験勉強に消耗し、大人になってからも権力者の命令に逆らうことができず、無意味な労働に身をすり減らす。労働のせいで僕たちは精神を病み、環境を破壊し、未来の子どもたちに退屈な世界を残そうとしている。こんなにバカバカしいことはない。みんなが好きなことをやれば、社会は幸福に満ち溢れるのだから。

 もし、ニケの話が本当なのだとすれば。

「さて、これでアンチワーク哲学の大枠は伝えたわけやけれど、一気に話したからちょっと混乱してるやろ?」

「え、まぁ、そうだね」

「まぁちょっとコーヒーでも飲もうや」

 僕はニケに連れられ、公園の外に見えている自販機へ向かった。気づかないうちに雨はやんでいて、太陽が遠慮がちにこちらをのぞいている。芝生は宝石が散りばめられたように輝いていた。

「ブラックか?」

「うん」

「中学生のくせに、生意気やな」

「ニートのくせに、奢ってくれるの?」

「あほか。缶コーヒー代くらいニートでも持ってるで」 

 ニケから手渡されたブラックのコーヒーは、ほんのり温かくて、あたりの空気がひんやりしはじめていることを感じさせてくれる。

 ニケの話は完全に理解したわけではない。いまも頭の中をいろんな言葉が渦巻いて、整理されるのを待っている。

 労働は悪。本当なのだろうか。この缶コーヒーも、きっと労働によってつくられている。だったら缶コーヒーも悪なんだろうか? 労働がなくなった世界では、この缶コーヒーはつくられないのだろうか? それとも、誰かがつくり続けるのだろうか?

「この缶コーヒーってさ・・・」

「『お金や労働がなくなった世界でもつくられるか』・・・か?」

 相変わらずニケは心を見透かすようなことを言う。もういちいち驚くこともない。

「うん」

「わからんけど、つくってくれるんとちゃうか?」

 ニケはいつでも答えをくれるわけではない。曖昧なことも言うし、わからないことも多い。哲学者ってなんでも知っている人のことなのかと思っていたけれど、実際は違った。むしろなにも知らない人こそが、哲学者なのかもしれない。

 そうだ。わからない方がきっといいんだ。人間が本当に自由になったときに、缶コーヒーをつくり続けるのかどうかなんて、わからない方がいい。だってそれが人間として生きるということなんだから。

「わからないほうがいいかもね」

「ん? どういうことや?」

「絶対に缶コーヒーをつくる人が現れるとわかってるなら、それはもう缶コーヒーをつくる人を支配しているのと同じじゃない?」

「え?」

「だって、人間がなにを欲望するかわからないって、ニケは言ったよね? それで仮に缶コーヒーがつくられないのだとしても、誰かが強制されるよりはいい。ニケならそう言うと思っていたけど・・・」

 ニケは僕の言葉を受け止めることなく、ただ感じているようだった。そんなにおかしなことを言っただろうか?

「そうか、君は・・・」

「え?」

「・・・せやな。缶コーヒーがなくても、なにか違うものを飲めばええか」

 ほんの少しだけ間を置いてから、ニケはいつもの調子に戻った。

「そう。自分でお茶を淹れて、水筒に入れて持って行けばいいよね」

「でも、水筒がなかったらどうする?」

「うーん、竹筒でもなんでもいいんじゃない?」

「そんなん、つくり方知らんわ」

「わからなかったら検索してみなよ」

 僕の返答に、ニケは声を出して笑った。

「・・・少年、言うようになったな」

「ちょっとニケの喋り方がうつったかもね」

 缶コーヒーが飲めないと、少し不便かもしれない。でも、誰かが命令に強制的に従わせられるくらいなら、ちょっとぐらい不便なほうがマシだ。

 それに・・・

「それに僕は缶コーヒーも水筒も誰かがつくってくれると信じてるよ」

「そうか?」

「たぶんね。僕がティッシュを渡したのはニケにお願いされたからだけど、あれは僕自身の意志でもあった。だから、缶コーヒーつくるのも同じだと思う。それに、もし誰もつくらなかったら僕がつくるよ」

「なんやそれ。さっきまで『働きたくない』って喚いてた不登校児が言っても説得力ないで」

「たしかにそうだね」

 僕たちは同時に笑って、同時にコーヒーを口にした。

 コーヒーは減っていき、会話も減っていった。僕たちは無理に話そうとはしなかったし、急いで飲み干そうともしなかった。

 次にニケが口を開いたのは、コーヒーを飲み終えた後だった。

「少年、別に俺の話はぜんぶ信じなくてもええで」

「そうなの?」

「そうや。所詮は俺の意見にすぎないわけや。根拠はあるけど、正しいとは限らん。逆に言えばな、親や先生が言ってることも正しいとは限らへんねんで。だからな、学校とか、受験とか、労働とか、お金とか、そういうもんに少年はこれから立ち向かうかもしらんけど・・・あんまり気負わんでもええ。あとな・・・」

 めずらしくニケの言葉に迷いがある。僕になにかを伝えたいけど、どう言っていいのかわからず、手探りで言葉を探している。そんな風に感じた。

「少年、自殺しようと考えたことあるやろ?」

「え? どうして知ってるの?」

「まぁこれくらいの歳なら誰しも一回くらい考えるねん。実際に自殺する奴は少ないやろけど」

「そっか」

「一回自殺した気分になってみ?」

「どういうこと?」

「死ぬくらいなら、ニートになることも、大人の言うことに逆らうことも、屁でもないってことや」

 一回自殺した気分になってみる。ニケらしい不謹慎なアドバイスだ。でも、それもいいかもしれない。

「わかったよ」

「じゃあな。そろそろ俺は帰るわ。少年はどうするん?」

「んー。わからない。とりあえず夜までには家に帰るよ」

「そっか。まぁ俺はこっちからは離れるけど、また会いにきてくれや」

「こっち?」

「あぁ・・・」

 ニケはニヤニヤしながら言った。

「この世界ってことや」

「どういうこと?」

「ずっと黙っててんけどな、俺はこの世界の人間じゃないねん。あの世から派遣されてきた預言者や」

「は?」

「俺は山奥で修行を重ねた結果、神との合一を果たし、現世から離れた。今日は真理を少年に伝える預言者として、この世界に現れただけであって、この姿は仮初なんや」

 ニケはわけがわからない設定を、まるでアニメのアナウンスのように語る。もちろん、そんな説明で納得できるわけがない。

「関西弁の預言者なんているの?」

「関西弁はな、仮初の言葉や。普段は標準語で喋ってるねんけど、預言者のときだけ関西弁やねん」

 預言者になったら関西弁? さすがに設定が意味不明すぎる。

「漫画の読みすぎじゃないの?」

「どうやろ。俺は映画の方が好きやで。まぁ、信じるか信じないかは少年に任せるわ」

「信じるわけないじゃん」

「まぁごめん、半分は嘘や」

「ぜんぶ嘘でしょ」

「ほな、またな」

 ニケは公園の端に停まっていたスーパーカブに乗って、走り去って行った。

 とことん議論して、疑問を解消しようと思っていたけれど、結局ニケは最後にわけのわからない疑問を残していった。でも、その疑問はすぐに雲のように消えていった。ニケのユーモアには、悔しいけれど笑わされてしまう。信じるはずのない与太話を臆面もなく言い放つユーモアに。

 ニケがいなくなった公園からは、若い母親も、スーツ姿の女性も姿を消していた。無理して空にしたコーヒーの缶を持った僕だけが公園に残されている。

 気づけば時計は一七時。とっくに学校から親に連絡が入っている頃だ。きっと先生にも、親にも心配をかけている。

 再び僕はベンチに腰かけて、遅めのランチを楽しむことにした。お弁当の蓋を開ければ冷めきった唐揚げとハンバーグが視界に入る。

 そういえばニケは「食欲なんかたいしたことない」って言ったっけ? たしかに、長い時間を話し込んでいたけれど、なぜか空腹感はない。それでも、僕は食べることにした。

 お母さんが弁当箱に詰めた優しさは、冷めていてもずっと温かく感じられた。

エピローグ

 それから何度か、公園に通ったけど、ニケが姿を現すことはなかった。学校は、しばらく休むことにした。どうせならニケと話をして暇を潰したかったのに。

 僕は休みの間、部屋にこもってゲームをしたり、漫画を読んだりしていた。それに飽きたら小説を書こうとした。でも、すぐに飽きてまたゲームをしたり、漫画を読んだりした。散歩をしてもすぐに帰ってきた。ニケに会えないなら、どこにも行きたいとは思わなかった。

 貢献することもない。なにかに没頭することもない。レベル1のままダラダラ過ごす日々。まるで僕自身が、アンチワーク哲学を否定しようとしているようだった。もしかすると、僕には貢献欲がないのかもしれない。なんの進歩もない怠惰なニート予備軍なのかもしれない。

 ニケは、ニートは正義のレジスタンスだと言っていたっけ? そんなことを言われても、なんの気休めにもならない。親は「学校に行きなさい」と、うるさく命令してくる。でも僕はこのままニートになっても構わないと思っていた。死ぬよりはマシだから。


 少年と別れて二時間ほど、俺はスーパーカブを走らせた。もうすぐ例の洞窟だった。 

 さて、今回の俺はうまくやるだろうか。

 俺が生きた世界では、誰も労働をやめなかった。その結果、二〇六〇年になってもタイムマシンはおろか自動運転すらほぼ普及していない。ロボットはいまだにチンタラとハンバーグを運び、AIは膨大な資源を食い潰しながら、ゴミのような広告を量産している。格差は広がり、労働によって吐き出されたCО2は気候変動を悪化させ、世界は企業に支配された。

 俺は三五年かけてアンチワーク哲学の普及に努めたが、労働を打ち倒すことはとうとうできなかなかった。汚染された大気に蝕まれた俺の寿命は、もう長くはない。失敗は明らかだった。代わりに俺が成功したのは、荒廃した大地に捨てられたタイムマシンを発見したことだった。 

 どこかの時空に労働なき世界があると、俺は確信した。そうでなければタイムマシンなんてつくれるはずがない。だから、俺は過去に戻ってアンチワーク哲学を俺自身に伝えることを決意した。

 かつて俺のもとにやってきたニケも、きっと同じように決意し、このタイムマシンを使ったのだろう。

 あの日のことはいまも鮮明に覚えている。少年だった俺とニケがなにを話し、なにを感じたのか、シナプスの接続パターンすら頭の中で再現できるほどに。自分がニケを演じる側にまわっても、頭と心が少年に同化して、まるで自分の口からは自動音声が流れていくような感覚だった。そして、その自動音声は止まることがなかった。

 全く同じ歴史を繰り返したところで、同じ結果なのではないか? そんな当然の失望すら俺のシナプスは形成することを許さず、ただひたすら運命の導くままにあの日を再現していた。

 だからこそ、少年が俺の記憶と異なる言葉を吐いたとき、俺の世界は崩壊した。

 なぜ、少年は歴史を変えられたのか?

 この些細な分岐は、世界になにをもたらすのか?

 わからない。でも、あの少年ならやれるかもしれない。俺とは異なる運命を選んだ少年は、俺とは異なる人格を持ち、俺とは異なる世界をつくる。

 労働なき世界から、少年がタイムマシンに乗って俺に会いに来る日が訪れるのだろうか。もちろん、それは誰にもわからない。だが、わからないままでいい。少年はもう運命に縛られた奴隷ではない。自由なんだ。

解説(哲学チャンネル)

 私たちの世界は„良い方向”に進んでいるのだろうか。

 この問いに自信を持って「YES」と答えられる人は少ないかもしれない。世界中で格差が広がり、争いが起こり、表現の範囲も窮屈になってきている。ともすれば世界は„悪い方向”に進んでいると思えるし、そうでなくても今世界が停滞状態にあると考えるのは私だけではないはずだ。仮に多くの人が「世界は悪い方向に進んでいる」あるいは「世界は停滞している」と考えているとしたとき、それに対する面白いデータがある。

 内閣府は『社会意識に関する世論調査』を毎年行なっているが、平成二一年から『社会全体の満足度』という項目が調査内容に追加された。このデータを見ると、スタートの平成二一年には「満足している」と「やや満足している」の合計が三九・九%だったのに対し、令和三年には同じ数字が五二・四%まで向上している。要は国民の半数以上が「今の生活に不満はない」と認識しているのだ。

 これは真実だろうか。もちろん„数字”としては真実だろうが、私はこの数字に違和感を感じてしまうのだ。もしかしたら、私を含めたこの世界に生きる人々は、自身の環境が悪くなっているのはおかしいという認知的不協和的なストレスから逃れるため、事実から顔を背けて満足していると思い込もうとしているのではないか。つまり「私たちは何かを諦めてしまった」とは言えないだろうか。

 国民の多くが現状に満足し(ていると思い込み)変化を求めなくなれば、その後に待っているのは「なるようにしかならない世界」である。確かに、現状に疑問を持ち、変化を求めることには危険がつきまとう。何らかの変化の先に「失敗した世界」が待ち受けていることも大いにあるだろう。しかし私は「なるようになってなんとかなった世界」よりも「変化を求めて失敗した世界」の方に希望を見出す。そのほうが人間らしい営みであると考えるからだ。

 前置きが長くなった。そうした人間らしい変化の材料として、私たちの常識に一石を投じるのが『14歳からのアンチワーク哲学』である。

 『14歳からのアンチワーク哲学』の肝は、なんといっても„労働”の定義だろう。本書で労働は「他者より強制される不愉快な営み」であるとされる。私たちは貨幣やその他諸々の暴力によって、労働という不愉快な営みを強制されている。そして「強制されている」という事実は常識の中に埋没していて、あたかも労働を当たり前の行為だと感じている。端的にいえば、この「強制による不愉快」を撲滅することがアンチワーク哲学の目的である。または、私たちにこびりついた労働に対する価値観を自由の方面へ解放するための哲学と言い換えても良いかもしれない。

 なぜ労働が他者からの強制と言い切れるのか。なぜ一般的な労働を不愉快と決めつけているのか。どうしたら労働をなくすことができるのか。労働がなくなっても社会は回るのか。これらの疑問については、ぜひ本書におけるニケと少年の会話を参照してほしい。彼らの会話における「常識への疑い」と「無知の自覚による気づき」には、哲学の源流であるソクラテスからプラトンへの希望のバトンリレーが垣間見える。

 アンチワーク哲学の根底には「誰かひとりが鎖に縛られているなら、私たちは誰も自由ではない」という想いがある。鎖とは何か、それが常識だ。常識には、知らないうちに私たちに当たり前を押し付け、新しい変化を阻む強い力がある。貨幣や経済などの小さい頃から教え込まれた常識による束縛から私たちを解放する。そういう意味で、アンチワーク哲学は常識という強大な力への強い反抗なのだ。

 常識に対抗しそれを覆すためには、まず疑わなければならない。それも„極端に”だ。例えばコペルニクスは宇宙の中心に地球があるという事実を疑った。その疑いはどう考えても極端すぎるものであろう。現代において「宇宙の中心は地球なのでは?」と主張すれば、各方面からボコボコに叩かれることになる。コペルニクスの疑いはそのレベルの„極端な”ものだったのだ。アインシュタインは「時間の進み方は一定である」というどう考えても当たり前のことを疑った。近代哲学の祖であるデカルトは、文字通り「考えうるすべて」を疑い、最後に残った「疑っているこの自分」だけは信じられるという結論を手に入れた。

 文明の発展には、このような„疑い”が必要だったのだ。だから、常識を突破するためには強烈な疑いを持たなければならない。それは、いわゆる疑問と呼ばれるような曖昧な疑いではなく、懐疑と呼ばれるような一旦自分の認識をフラットにしてしまうような営みである。『アンチワーク哲学』は、現在一般的な常識からはかけ離れた突飛な主張を掲げている。その主張が正しいかどうか、私には皆目見当も付かない。しかし『アンチワーク哲学』に常識を疑うための強烈な問題提起が含まれていることには疑いの余地がない。

 私は『アンチワーク哲学』の信奉者ではない。主張が正しいかどうかわからないし、思想の成就のための活動に参加しようとも思わない。反論だってたくさんある。

  • 人間の善性を信仰しすぎてはいないか
  • 貨幣のコストとリターンを比較して、本当にコストの方が大きいのか
  • 共産主義のように(理念が完全に実現されれば良いものの)理念実現までの過程でむしろ不幸が増える可能性はないか などなど。

 だから、仮にこの哲学が世の中の主流な常識になることがあった場合、私は反対者として声を上げる存在になる可能性すらある。だが、それはこの本を否定する理由にはならない。私はむしろ、だからこそ『14歳からのアンチワーク哲学』を薦める理由があると思っている。

 個人的な活動と思想の話になってしまうが、私は普段哲学系の情報をYouTubeやnoteにて発信している。たいしてお金にもならない活動だが、かれこれ四年ほどこの活動を続けられているのは、そこに大義があるからだ。

 その大義とは「人類総哲学者計画」である。

 私の能力では、世界をより良い方向に進めるための確実な方法論を見つけることはできない。また、確実ではない方法論を主張するほどの勇気も甲斐性もない。だが、一つだけ確実だと思っているのは「一人一人がもっと世界や自分について考える世の中は良い」ということである。そして、そのような世の中の実現に少しだけでも貢献することが大義であり、活動のモチベーションなのだ。

 前述の通り『14歳からのアンチワーク哲学』には常識を疑うきっかけを与える力がある。なぜならば、普通に考えたら叩かれるような常識から大きく外れたことを大きな声で主張しているからだ。そして、その主張は、材料からの論理展開としては間違ったことをやっていない。むしろ正しいことを述べている。

 少年は、ニケに出会うことで「自分で考える人」つまり哲学者になった。ぜひ読者の皆様も少年になったつもりでニケの常識破りな主張に耳を傾けてみてほしい。

 遠い未来、もしかしたらアンチワーク哲学の目指す世界が実現するかもしれない。もちろん、箸にも棒にも引っかからないかもしれない。しかし、アンチワーク哲学に多くの人が出会ったことで、能動的に考えを巡らせる人間が増え、それが新しいまた別の世界を作る可能性もある。私はそれで良いと思っている。

 そして作者のホモ・ネーモさんもそれで良いと思うはずだと思っている。なぜならば『アンチワーク哲学』の根底には「常識という暴力からの解放」という理念があり、すべての人が正しく考えて納得した世界がそこにあれば、それは「誰も鎖に縛られていない世界」に違いないからだ。

あとがき

 小学生や中学生の自殺数が増えているというニュースを目にしました。自殺率ではなく自殺数です。「少子化の時代なのに、なぜ?」と疑問に思わずにはいられませんでした。もちろん、これまでなら自殺と判断されなかった死を自殺と判断するようになって、見かけだけ自殺数が増えている可能性もありますので、鵜呑みにはできません。それでも時代の息苦しさを象徴するニュースだと感じずにはいられませんでした。なぜ、現代は子どもが自殺をしたくなるような時代なのか? きっと子どもたちは「正しさ」に押し潰されているのではないでしょうか。

 勉強することは大切だ。働くことは大切だ。お金を稼ぐのは偉いことだ。家族の絆を守ろう。環境を守ろう。そのためにゴミを分別しよう。子ども向けの書物を紐解くと、こうした「正しい言葉」で溢れかえっていて、大人である僕ですら、なんだか責められているような気分になります。

 僕よりもっと繊細で壊れやすい子どもたちの心が、どれだけ苦しめられているのか、想像するのもおそろしいほどです。そんな「正しさ」の光で埋め尽くされた時代に、ほんの少しでもいいから、正しくないままでいられる影をつくりたい。そんな想いで僕はこの本をつくりました。

 本書では現代社会の常識(労働、お金、家族、教育など)にさまざまな角度から疑問を投げかけました。「馬鹿馬鹿しい理屈を教えるな」と他の大人に怒られるかもしれませんが、それはおかしい。僕たちは民主主義社会に生きていて、言論の自由があるということになっています。ならば、世間一般の「正しさ」とは異なる理屈に触れ、いまとはまったく異なる社会のあり方を想像することはむしろ必要なことであるはずです。

 ジョン・スチュアート・ミルという哲学者は「ある問題について、自分の側の見方しか知らない人は、その問題をほとんど理解していない」と言いました。先述の通り、子ども向けの書物は「正しさ」を押し付けてばかりいます。それは本当の教育だと言えるでしょうか?

 もちろん、絶対的な「正しさ」はありません。大人が押し付ける常識も、僕が書いたことも、あくまで一つの解釈です。だからこそ、できるだけ多くの見方を知るべきなのだと、ミルは言いたかったのでしょう。

 僕が「正しさ」が存在しないことに気づいたのは、大人になってからでした。いまになって考えれば、もっと早く気づけば間違えずに済んだ選択もたくさんあったと感じます。

 だから僕はこの本を14歳だった自分に向けて書きました。細かい経緯を語ることはしませんが、あの頃の僕は一歩間違えれば自殺していたくらいに追い込まれていたのです。結果的に自殺はしませんでしたが、この本に出会っていたなら、もっと自由に生きられたことでしょう。

 この本を手に取るのはかつての僕のような中学生かもしれませんし、大人かもしれません。「その通りだ!」と思うかもしれませんし、「こんなの間違ってる!」と思う人もいるでしょう。それはどちらでも構いません。

 とにかく僕は、正しくないかもしれない見方を提示したかったのです。ニケと少年のように、本音で議論し合える人たちが、これからもっと現れることを願って。

2024年3月

解説と参考文献

 参考文献・解説アンチワーク哲学はまだ誕生したばかりの哲学であり、体系的にまとめられた文献はありません。そこで、以下のページではアンチワーク哲学の重要な論点に限って簡単に解説し、各論点ごとの参考文献を併記します。

※各論点は、互いに関連し合うテーマですので、内容や参考文献が重複している個所があります。

労働の定義について

 アンチワーク哲学における労働の定義は「他者より強制される不愉快な営み」であり、一般的な労働観とは異なります。一般的な労働観とは、ハンナ・アレントやカール・マルクスによる定義に類するものだと考えられます。

 アレントは労働(labor)を生きるために強制的に繰り返され、なにも後に残らない無益な営みだと捉えました。食べ物を摂取するために畑を耕すこと。傷んだテーブルを補修すること。こうした身体やもののケアに関してアレントは「昨日傷んだところを補修して日々新しくするという作業に必要なのは、忍耐であって、勇気ではないのだ。それが苦痛なのは、危険だからではなく、情け容赦なく繰り返されるからである」と書きました。そして、それに対比させる意味で世界に残る作品を生み出す仕事(work)と、労働でも仕事でもない人間性の最高の表現である行為(action)を定義しました。

 これは、なんとなく同意できる主張である一方で、日本人であれば情け容赦なく繰り返される家事に美学をもって取り組む禅的なライフスタイルや、畑を整然とつくりあげる江戸時代の農家になじみが深いはずです。芸術の域にまで達するそれらの行為はもはやアレントのいう行為(action)の領域に差し掛かっており、当人が「苦痛」を感じているとは考えづらい。となると、労働が労働である理由は「繰り返されるから」だけではないことがわかります。

 一方で、マルクスは労働を次のように定義しました。「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する過程である」。マルクスらしい難解な表現ですが、畑を耕し食べ物をつくるようなイメージで問題ないでしょう。しかし、本書の物語の中でニケが指摘する通り、この定義では家庭菜園との区別がつきません。

 つまり、労働が労働である理由は、アレントやマルクスの定義では説明がつかないのです。

 一方、あまり知られてはいませんが、アナキストのボブ・ブラックは労働を「強制された仕事」「強制された生産」と定義しました。アンチワーク哲学ではこの定義をベースにしつつも、現代の労働の中には「仕事」「生産」とすら呼べないような無意味な営み(詳しくは後述します)が増えていることも踏まえ、「他者より強制される不愉快な営み」とします(近しい定義は哲学者の鷲田清一によっても行われています。「他者に強制されておこなうという以外に、労働をほかの活動から区別する契機が、最終的に見当たらなくなってきているといってもいい」)。つまり、アンチワーク哲学が目指す「労働の撲滅」とは「強制の撲滅」とも言い換えられます。

【参考文献】

ハンナ・アレント『人間の条件』講談社学術文庫
カール・マルクス『新版 資本論(2)』新日本出版社
ボブ・ブラック『労働廃絶論』アナキズム叢書
鷲田清一『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』講談社学術文庫

人間の欲望について

 「こんな定義がなんの役に立つの?」と疑問に思う読者もいるでしょう。しかし、これは重要な問題だとアンチワーク哲学では考えます。アレントやマルクスの定義は、作業そのものの性質によって労働が苦痛になっていると捉えています(もっともマルクスは労働を本来楽しいものであると考えていましたが、畑仕事=労働という考え方は、労働が苦痛だった場合に、畑仕事=苦痛という結論を避けられません)。そして多くの人は「人間は畑仕事のような作業を苦痛に感じる」という漠然とした先入観を抱いているのです。「人間は怠惰である」と前提されていると言い換えてもいいでしょう。

 するとどうなるでしょうか? 畑仕事が苦痛なのだとしても、社会を成り立たせるためには誰かがやらなければならない。しかし、人間が怠惰なのであれば誰もやりたがらない。なら、命令されなければならない。そのような結論は避けがたいものです。もしそれが真実なら、万人にお金を配るベーシックインカムは狂気の沙汰でしょう。誰も働かなくなって社会が崩壊するに決まっているのですから。

 しかし、アンチワーク哲学の労働の定義に則れば、人間は畑仕事そのものの性質によってそれを嫌悪しているのではなく、他者から強制されるがゆえに嫌悪していることになります。そしてベーシックインカムが強制の側面を取り除くなら、労働の嫌悪感が失われ、人々は自発的に貢献し合うと考えます。

 命令や強制が苦痛の原因である根拠は『14歳からのアンチワーク哲学』内でニケが説明した通りですが、現代の心理学者の多くも内発的な動機や自己決定によってモチベーションが高まることや、逆に命令や「アメとムチ」的な指導方法がモチベーションをさげることを指摘しています(たとえばエドワード・L・デシなど)。

 このことは家庭菜園や日曜大工に取り組む人が後を絶たないことからも理解できますし、「労働」によって強制が行われる前(あるいは強制が緩かった)の人々の振る舞いからも裏付けられます。たとえば、渡辺京二『逝きし世の面影』では、歌を歌いながら遊ぶように働く江戸時代の日本人が、憑りつかれたように畑を整え、道路を掃き清める様子が描写されています。また、山内昶『経済人類学への招待』では、「遊び」と「労働」を区別する言葉を持たない未開社会の人々の畑が、まるで芸術作品のように美しく整えられていると描写されています。彼らは誰に強制されるわけでもなく、自発的に畑仕事に夢中になっていたのです。これらのエピソードは、畑仕事そのものが苦痛であるという漠然とした前提が誤りであることを示唆しています。

 むしろ、そうした行為を行わないことの方が人間は苦痛に感じるのではないでしょうか。多くの人がニートに向ける嫌味(「ニートは毎日だらだら過ごせて羨ましいよ」)が的外れであることはニート経験者なら誰しも理解できるはずです。だらだら過ごすことは羨ましくもなんともありません。ただ虚しさを抱えながら時間を過ごすことは、人間にとってこの上ない苦痛です。哲学者のパスカルは、人間は部屋の中でじっとしていることができず、そのために気晴らしを求めると考えました。「気晴らし」というとパチンコやゲームといった娯楽がイメージされがちですが、それだけではありません。江戸時代の日本人や未開人の様子からも明らかなように、一般的に「労働」とみなされるような行為すら、人は気晴らしとして欲望します。逆に、自らの意志でなにかを成し遂げる経験をまったく味わえないことは、不幸なのです。

【参考文献】

エドワード・L・デシ/リチャード・フラスト『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』新曜社
渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー
山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書
パスカル『パンセ』教文館

貨幣権力説について

 強制されずとも、今の社会と同程度かそれ以上に人間が貢献し合うのであれば、強制されない方がいい。このことに異論はないでしょう。

 しかし、そもそも「強制」という言葉に違和感を抱く人もいるはずです。私たちは牢屋に閉じ込められて強制労働させられる奴隷ではありませんから。しかし、お金を稼がなければ生きていけないと誰もが感じている以上、労働には強制という側面が常に存在しています。つまり、お金は強制や命令のツールとして機能していると考えられます。この考え方をアンチワーク哲学では「貨幣権力説」と呼びます(権力とは「他者を強制する力」と定義して問題ないでしょう)。

 お金は価値の尺度であり、価値の貯蔵手段であり、価値の交換手段である。これがお金に関する教科書的な説明です。しかし、「価値」がなにを意味するのかまで、教科書は教えてくれません。アンチワーク哲学ではお金が体現する「価値」とは他者を強制的に働かせる能力であると考えます。労働者を雇用する際や、サービスを購入する際は言わずもがなですが、ものを購入する際はそこに費やされた労働を購入しているとも考えられます。それは実質的にお金によって他者に労働を命令していると言っても差し支えないでしょう。

 これは権力と支配についての考察を繰り広げた社会学者マックス・ウェーバーの考えとは若干異なります。彼は『権力と支配』で「どの支配も、経済的手段を用いるとはかぎらない。まして、支配というものが、すべて経済上の目的をもつばあいは、はるかにすくない」と指摘しました(「経済的」とは「金銭的」と言い換えても差し支えないでしょう)。また、その上で支配を成り立たせる方法を「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の三つに分類しました。

 ウェーバーの指摘にも一理あります。お金は人々を支配するツールになる一方で、クビを覚悟で命令に逆らうことは可能ですし、実際にそうする人は少ないながらも存在します。だからこそ、その支配をより強固にするために経営者は『論語』(伝統的支配の教科書と言えます)を読んだり『君主論』(カリスマ的支配の教科書と言えます)を読んだりして、人心掌握術をマスターするわけです。哲学者G・ドゥルーズと精神分析家F・ガタリは人間の欲望についての理論を展開した共著『アンチ・オイディプス』で「抑制、階層、隷属そのものが欲望されるようにすることが、社会にとって死活にかかわる重大事」と書きました。人々が支配の正当性を信じ切って、支配そのものを欲望するようになれば、その支配は安泰というわけです。このように考えれば、ウェーバーが言うように経済的手段以外の支配の手法が重要であるという結論に至るのは自然です。

 実際、人は支配されることすら欲望します。つまり労働そのものを欲望し始めます。これはアンチワーク哲学では「社畜心理」と呼ぶ現象で、社畜が飲み屋で「俺は先月、残業百時間だったぜ!」と自虐風自慢をする状況に観察することができます。なぜこんなことが起きるのでしょうか?

 人間にとって支配されることが避けがたい状況で、支配に対して強烈な不満を抱き続けることはむずかしいのです。現実(服従している状況)と心理(服従に不満を抱いている)が不一致のまま過ごすことは、心理学者が「認知的不協和」と呼ぶストレスを引き起こします。両者を一致させるためには、どちらかを変えなければならない。しかし、支配されている現実を変えるのはむずかしい。なら、心理の方を変えればいい。「この状況は仕方がない」「むしろ歯を食いしばって労働することは誇らしいことだ」といった方向へ、支配される人々は自分の心理を調整していきます(この現象をもっとも鮮やかに描写したのはほかならぬニーチェです)。裏を返せば、人間にとって「この行動は自分で選択している」という実感を抱くことは根源的な欲望であるとも考えられるでしょう。そう実感することは、服従を欲望してでも成し遂げようとするのですから。

 しかし、服従を欲望しているとはいえ、それは強烈な欲望であるとは言いがたいでしょう。飲み屋で社畜自慢をする人も、同じ条件で残業がない会社からオファーがあればきっと受けるはずです。牢獄の鍵が手に入ったなら、牢獄への愛など消し飛ぶ。その程度の欲望なのです。つまり、経済的な支配の根拠が失われれば、支配の三分類など即座に崩れ去るということ。マックス・ウェーバーの主張とアンチワーク哲学の相違点はここにあります。

 アンチワーク哲学はマックス・ウェーバーの考え方を否定はしないものの、やはり支配の基礎にはお金があり、前述の三分類は支配構造を正当化し、安定化させるための後付けの理由であると考えています。

【参考文献】

G・ドゥルーズ+F・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上)』河出文庫
『論語』講談社学術文庫
マキアベリ『君主論』講談社学術文庫
マックス・ウェーバー『権力と支配』講談社学術文庫
ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫

ベーシックインカムについて

 では、人々を強制や支配から解放するにはどうすればいいのか?

 物語の中でも繰り返し述べられていたように、アンチワーク哲学では「お金を刷って、万人に配る」タイプのベーシックインカムを支持しています。「誰も働かなくなるのではないか?」「インフレをもたらすのではないか?」と、なんとなく恐怖心を抱く読者も少なくないでしょう。その点についてはニケの口からも説明されましたが、より詳しい説明は参考文献を参照してください。

 ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』では、世界各国でのベーシックインカム実験が勤労意欲を減衰させるどころか増進させ、健康状態が改善し、犯罪は減り、酒やたばこの消費量が減ったという結果を示していることが書かれています。貧民街の薬物中毒者にお金を配っても同様だったそうです。もちろん、ベーシックインカムの実験は期間が限られていたり、一部の人にしか配られなかったり、常に不完全ですので、その結果は謙虚に受け取る必要はあるでしょう。それでも、ベーシックインカムの有効性を支持する強力な根拠であることには変わりありません。

 また、サンテンス『ベーシックインカム×MMTでお金を配ろう 誰ひとり取り残さない経済のために』では通貨発行のメカニズムやインフレのメカニズムについての説明がなされ「お金が配られればインフレになる」という考えが批判されています。

【参考文献】

ルドガー・ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋
スコット・サンテンス『ベーシックインカム×MMTでお金を配ろう 誰ひとり取り残さない経済のために』那須里山舎

労働の無意味さについて

 それでもなお、心配性の人はいるでしょう。ベーシックインカムが実現された社会でも農業や介護、物流といったエッセンシャルワーク(アンチワーク哲学の定義では「経済活動」)に一定数の人々が取り組む保証が欲しい。そんな気持ちは理解できます。しかし、この心配はむしろ「逆」に向けるべきかもしれません。

 どういうことか? 現代ではエッセンシャルワークほど給料が安く、金銭的なモチベーションを満たせる可能性はほとんど失われていると言っても過言ではありません(実際にエッセンシャルワーカーほど人手不足です)。一方で、一見すると無意味な仕事の方が給料が高く、たくさんの人がエントリーするという事態に陥っています。つまり「社会を成り立たせるエッセンシャルワークに取り組む人を確保するためには、金銭で動機づけしなければならない(ゆえにベーシックインカムはあり得ない)」という主張は誤っていて、むしろ逆である可能性すらあります。「金銭での動機づけはエッセンシャルワークへ就く動機を減衰させており、エッセンシャルワーカーを増やすためには(金銭的動機を一定程度は度外視させることが可能になる)ベーシックインカムが欠かせない」と。

 エッセンシャルワーカーほど給料が安く、非エッセンシャルワーカーほど給料が高いことを指摘した代表的な人物としてデヴィッド・グレーバーが挙げられます。彼の著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』においては、現代の労働の三七%から四〇%が無駄な仕事(彼の用語で言う「ブルシット・ジョブ」)なのではないかと示唆されています。

 ブルシット・ジョブが増える要因として、本書の物語内では広告や営業活動(アンチワーク哲学の定義では『政治活動』)にフォーカスしました。資本主義社会において企業は配当や利息の支払いのため果てしない利潤追求を余儀なくされます。しかし人々が必要とするものやサービスの総量は限られています。なら、まだ誰もものを売りつけていない未開の地へと売りに行くわけですが、現代ではもはや海外にも未開の地は残っていません。ならば、必要ないものであろうが誰彼かわまず売りつけなければなりません(このプロセスをユーモアたっぷりに皮肉ったのがマルクスの娘婿であるポール・ラファルグです)。そのために欲望を煽り立てる広告や営業活動が展開されます。物語内でも示唆した通り、広告や営業活動はそれ自体が人々の幸福に資するわけではないため、これらの活動が増加することは望ましくありません。しかし、残念ながら現代においては広告業界の市場規模は右肩あがりです(総務省「令和4年版 情報通信白書」などを参照してください)。

 また、それだけではなくパフォーマンス評価のための無意味な仕事が増えていることも歴史家ジェリー・Z・ミュラーによって指摘されています。ミュラーによれば、利潤追求のために企業規模を拡大すればトップから現場を直接評価することがむずかしくなり、数字の羅列によって簡単に評価できるシステムが好まれていく傾向にあります。しかし、数字に頼った評価システムは様々な問題を引き起こし、それに対し過剰な規則作りや、新たな評価制度の導入によって対処が図られ、それもまたさらなる問題を引き起こす。このようなプロセスを経て無意味な仕事が芋づる式に増えていると、ミュラーは指摘します(オフィスワーカーでこの現象に身に覚えがない人は少ないでしょう)。当たり前ですが、パフォーマンス評価や規則それ自体は、人々の幸福には貢献しませんし、楽しくもありません。つまり、これらも広告や営業同様に可能な限り少なく抑えられるべき活動なのですが、そうなってはいないことは明らかでしょう。

 このように考えれば、「人々の気晴らしがギャンブルやゲームに向かうのではないか?」という疑問が、いかに的外れなのかが理解できます。グレーバーはベーシックインカムが実現した社会について次のように言いました。「自由な社会の一定の層が、それ以外の人々からすればバカバカしいとか無駄だとかおもえる企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、そのような層が一〇%や二〇%を超えるとはとても想像しがたい。ところが、である。富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。(中略)もし、あらゆる人々が、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?」。

【参考文献】

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店
ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社
ジェリー・Z・ミラー『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』みすず書房

規模の経済について

 アンチワーク哲学では支配や命令を排除するためにベーシックインカムを主張しますが、一方で、現代のグローバルサプライチェーンが支配や命令によって効率的に稼働しているという側面も無視できません。材料を中央アフリカで採掘し、部品をドイツから取り寄せて、中国製のコンテナで運び、日本製の機械を使い、台湾で組み立て、アメリカで売るといった仕組みは、低賃金にも文句を言わずせっせと命令に従う労働者たちが成り立たせていることは事実でしょう。これを自由な貢献によって代替することが可能かどうかはわかりません。それに、ジャンルや組織規模によって最適な方法は異なるはずですから、すべてに適用できる万能ツールのような方法があると期待すべきではないでしょう。

 しかし、そのためのヒントやパイオニアとなる組織がないわけではないのです。組織モデルについて研究するフレデリック・ラルーは、彼が「ティール組織」と呼ぶ権力や支配を一切排除した自律的組織がグローバルに展開している(かつ高い生産性を誇っている)事例をいくつも紹介しています。

 ティール組織においては、すべてのスタッフが互いを信頼し合い、それぞれ自発的に行動する権限を持ちます。金銭による賞罰をちらつかされることはなく、すべてのスタッフが無条件で生活における必要額以上を受け取ります。他にもさまざまな特徴がありますが、ともかくスタッフを無条件で信じる勇気を持つことの重要性をラルーは繰り返し強調します。そこで働く人々のモチベーションが高く、幸福であることは想像に難くありません。

 人間は信頼されれば信頼に足る人物として振る舞う傾向にあることを心理学者はとっくに発見し、「ピグマリオン効果」と名前をつけています(逆は「ゴーレム効果」と呼ばれます)。しかし、その発見は、ティール組織を風変わりな例外として歯牙にも掛けない現代社会においては、有効活用されているとは言えません。

 ベーシックインカムとは、ピグマリオン効果を社会全体に適用させるシステムとも言えます。全人類を信頼し、自由に行動できるお金という権限を与えること。このようにすれば、ティール組織が成功しているように、人類全体が成功できると考えます。

【参考文献】

フレデリック・ラルー『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織』英二出版

テクノロジーと学歴について

 文献物語の中でニケは、現代においてテクノロジーはほとんど発展していないと指摘しました。同様の指摘は多数の論者によって行われています。たとえばブレグマンは「戦後の時代が、洗濯機や冷蔵庫やスペースシャトルやピルといった素晴らしい発明をもたらしたのに対して、最近わたしたちがやっていることは、数年前に買った電話にわずかな改良を加えることだけだ」と書きました。一方でグレーバーはこう書きました。「もし一九五〇年代のSFファンが現代にやってきて、ここ六〇年の一番すごいテクノロジーの発明がなにかを聞いて、失望以外の反応が返ってくるとは想像しがたい。世界のどこでも超高速でアクセスできる図書館と郵便局とメールオーダーのカタログの集合体にすぎないものをきみたちはもてはやしているのか、と」。

 このような見解を定量的なデータと共に裏付けたのは技術革新史の研究者であるバーツラフ・シュミルです。彼は、情報技術の指数関数的な成長が起きていたことは認めつつ(それすらも半導体の物理的な成長限界にぶちあたり、停滞していると指摘しています)、「現代経済におけるほぼすべての分野では、食糧生産から長距離輸送に至るまで、イノベーションが加速化していることを示す証拠はいっさいない」と結論づけています。情報技術はあらゆる分野のイノベーションを加速化させるかのように喧伝されているものの、実際のところ、その証拠はないということです。

 もし彼らが正しいのなら、「みんなが勉強すれば社会が豊かになる」「お金持ちは社会に貢献しているがゆえにお金持ちである」といった社会に漠然と漂っている前提が誤っていることになります。そして、物語の中でニケが指摘したように、受験戦争が実質的に肩書の獲得競争と化していることも明らかになります。なぜなら、もし本当に教育が社会やテクノロジーの発展に寄与する能力を育んでいるのであれば、教育への投資と比例して経済が成長しテクノロジーが発展していなければ辻褄が合わないからです。しかし、実際はその逆。経済成長は止まり(この点は異論はないでしょう)、テクノロジーも停滞しています(定量的なデータを示すシュミルに反論するのは容易ではないでしょう)。つまり、学歴は単に肩書を付与しているだけという結論は避けられません。

 学歴の実質的な効果が肩書の付与であることは社会学者ピエール・ブルデューによっても指摘されています。彼は、肩書が表象する能力を実際に保有しているのだと周囲に納得させるために人々は振る舞いや趣味の領域を洗練させ、その結果、学歴の主要な効果が肩書の付与であることは巧妙に隠蔽されていると主張しました。なにに隠蔽されているのかと言えば、それは実力主義的なイデオロギーによってでしょう。現代では学歴によって賃金の格差が生じていますが、その格差は「実力によるもの」であるとして正当化されます。経済学者のトマ・ピケティは次のように指摘しました。「あらゆる人間社会は、その格差を正当化せざるを得ない。格差の理由がみつからないと、政治的、社会的な構築物が崩壊しかねない。だからどんな時代にも、既存の格差や、あるべき格差と考えるものを正当化するために、各種の相反する言説やイデオロギーが発達する」。そして、格差は政治的でイデオロギー的な理由に由来するとピケティは喝破しました。

 おそらく「みんなが勉強すれば社会が発展する」「現代ではテクノロジーが加速度的に発展している」という世間一般に流布する考えも、格差(支配と言い換えてもいいでしょう)を正当化する1つのイデオロギーなのでしょう。

【参考文献】

ルドガー・ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』以文社
バーツラフ・シュミル『Invention and Innovation』河出書房新社
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン 社会的判断力批判(Ⅰ)』藤原書店
トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』みすず書房

貢献欲と血縁概念について

 アンチワーク哲学においては、人間は本来「貢献欲」と呼ばれる欲望を持ち、特別な理由(とんでもなく相手が無愛想である、など)がない限り、万人に対して貢献することを欲望すると考えます。そして、貢献の対象を限定しようとする「血縁」という概念がフィクションであると主張します。

 しかし、このような発想は労働が支配する現代社会においては頓珍漢なものであると捉えられています。なぜか? 貢献欲が血縁以外に発揮されてしまうなら、労働を成り立たせる命令や支配にまつわるイデオロギーが崩壊してしまうからです。

 「人は貢献欲を持たず、命令されなければ他者に貢献しない」という前提がなければ命令や支配の正当性は失われます。もし人が普遍的に貢献欲を持つなら、命令や支配が必要ないことは明らかでしょう。しかし無条件の貢献なくして、家庭生活・・・特に子育ては成り立たないため、人が無条件の貢献を一切行わないとみなすことは不可能です。だからこそ、「子どもに無条件の貢献を行うのは、それは血縁関係者だからである(逆に血縁がないなら、そのような貢献は行われない)」という、血縁関係を特別視する説明が必要になりました。あくまで血縁関係は例外であり、人間は本来、無条件の貢献など行わない、というわけです。

 この説明に収まりが悪いのは夫婦の存在です。夫婦はもともと赤の他人であり、血縁関係はありません。しかし、明らかに無条件に貢献し合っています。労働社会はこの現象に対する回答として、「愛」を祀り上げるという手法を選択しました。世間に流布するラブソングは明らかに大げさな言葉(「世界中を敵に回しても・・・」云々)で愛情を表現します。まるで、それだけのことをしなければ「愛」とは呼べないと言われているようです。

 また、心理学者エーリッヒ・フロムによるベストセラー『愛するということ』によっても、この傾向は強化されています。彼にとって「愛」とは技術であり、トレーニングを積んで習得しなければならないものでした。この本を読んだ人の大半は次のように感じたことでしょう。「うわぁ大変そう。自分には無理かも・・・」。まるで、血縁関係にない人との間で無条件の貢献を行うことはとにかくむずかしく、仮に夫婦間でそれを達成したとしても万人に拡大することは不可能であると、労働社会が私たちに繰り返し説得しているかのようです。

 この手の説明は、進化生物学によっても下支えされています。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』というショッキングな書物を書いてから、あらゆる領域の学者たちは「すべての行為の真の目的は遺伝子拡散である」というシニカルな見方を内面化しました。この見方に則れば、無条件の貢献すらも利己的な行為に過ぎなくなります。つまり、自分に類似した遺伝子を持つ血縁関係者が生き延びる可能性を高めるためか、後々に見返りを獲得し、自分や自分の血縁関係者がメリットを享受するため、というわけです。

 このような解釈は常に可能ではあります。しかし、物語の中でニケが指摘したように無意味に斜に構えた中二病的な態度であると言えるでしょう。この中二病的態度を霊長類の道徳的行動を研究するフランス・ドゥ・ヴァールは次のように批判しました。「テーブルの上に置かれた食べ物をすべて一人で食べるのも、お腹を空かせた赤の他人に分けてあげるのもまったくおなじくらい利己的だというのなら、言語はもう使い物にならなくなってしまったも同然だ」。

 知的に誠実な態度をとりたいなら、観察された事実を平等に扱う必要があるでしょう。食べる人を見て「食を欲した」と解釈するなら、貢献する人を見て「貢献を欲した」と解釈すべきなのです。人は明らかに見ず知らずの他人に優しくすることに喜びを感じます。それは「貢献欲」の名に値するのです。

【参考文献】

リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子 40周年記念版』紀伊國屋書店
エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店
フランス・ドゥ・ヴァ―ル『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』紀伊国屋書店

力への意志と社畜心理について

 「力への意志」は哲学者ニーチェの用語です(「権力への意志」と翻訳される場合もあります)。ニーチェはこの言葉を「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」と定義しました。アンチワーク哲学ではこれを拡大解釈し、「自分の意志で世界に変化を起こすことや、その能力を拡大する意欲」と考えます。これは赤ん坊がペンを転がして遊ぶといった単純な行為から、魚を三枚におろす行為、家を建てる行為、誰かを顎で使う行為まで、人間のあらゆる行為の背景に常に存在するエネルギーであると、アンチワーク哲学は解釈します。

 労働においては自分の意志で行為することがむずかしく、力への意志が抑圧されていると言えますが、かろうじて力への意志が発揮された状態を保つことは可能です。つまり「自分は納得して、望んで支配されているのだ」という風に自己正当化を行うことで、「自分の意志で世界に変化を起こしている」という認識を保ち続けるのです(先述したマックス・ウェーバーの支配の3分類とは、この自己正当化を促進するプロセスだと言えるでしょう)。

 「力への意志」がどれほど強烈かは、逆から考えれば理解できます。「自分は、自分の意志で行動しているわけではなく、常に不本意に誰かに操られている」と感じながら生きることがどれだけ苦痛かを想像してみてください。その認識のまま生きている人が、精神を病んでしまうことは想像に難くありません。だからこそ人間は自己防衛として、支配されることを欲望しているのだと思い込むのです。

 これが、アンチワーク哲学のいう「社畜心理」です。社畜の自慢話は「奴隷が鎖を自慢している」などと揶揄されることがありますが、そうでもしなければ彼らの心は壊れてしまうのです。

 さて、労働の辛さがこの点にあると考えた場合、現代社会の労働観が的外れであることが明らかになります。現代人は、労働の辛さは、作業そのものが持つ身体的な負担や労働時間の長短に由来すると考える傾向にあります(これはマルクスやアレントの定義から当然導き出される帰結です)。これらは重要な問題であることは間違いないものの、本質的ではありません。アンチワーク哲学では、自分の意志で世界に変化を起こしていると感じているかどうかこそが、当人の精神状態に大きく影響を与えると考えます。つまりアンチワーク哲学は、人々が自由であることを最重要視しているということです。

【参考文献】

ニーチェ『権力への意志』ちくま学芸文庫

自由の帰結について

 アンチワーク哲学は「人々が自由であればあるほどに善い」と考えます。予想されるの反論は、「誰もが自由ならトラブルだらけになるのではないか?」あるいは「自由を恐れる人もいるのではないか?」といったところでしょうか。

 この反論には明らかに次のような前提が置かれています。「自由を正しく扱えるのは、知的で、正しい倫理観を持ったエリートだけであり、大衆の大半は自由を扱いきれず、彼らに自由を与えたところで困惑するに違いない」。哲学者のサルトルが書いた「人間は自由の刑に処せられている」という言葉は、そうした前提を強化させられるために独り歩きしていると言えるでしょう。「自由なんて未熟なあなたにとっては刑罰のようなもの。まずは上司や社長をはじめ頭のいい大人たちの言うことを聞きましょうね」というわけです。

 一方で、アンチワーク哲学では、人は自由を恐れているのではなく、他者からの評価を恐れていると考えます。面接官や上司、社長、顧客といった権力者(お金の分配についての影響を持つという意味での「権力者」)の印象が悪くなれば、採用されなかったり、出世への道が絶たれたり、職場で居心地が悪くなったりするリスクが高まります。なら、彼らに気に入られる行動を取らなければならない。だからこそ、自由に振る舞うより、彼らが思い描く正解を探り当てようとします。しかし、他人の頭の中などわかりようがなく、結果として人々はぎこちなく振る舞ったり、委縮してなにもしなくなるのです。

 このような状況に警鐘を鳴らしたのがハーバード・ビジネススクール教授のエイミー・C・エドモンドソンです。彼女は著書『恐れのない組織』で、評価に対する恐れが大きい職場においては人々が委縮してしまうことを指摘しました。彼女の描写した心理状況には、会社員なら誰もが身に覚えがあるのではないでしょうか。「無知だと思われたくない? それなら質問するな。無能に見えたくない? それならミスや弱点を認めるな。事態をややこしくする人間だと思われたくない? それなら提案するな」。

 逆に、罰せられたりバカにされたりする恐れのない心理的安全性の高い職場では、自由な発言が飛び交い、人々が自発的に行動し、高い生産性を誇ることを、彼女は多数の事例と共に提示しました。人は評価されることへの恐れがなくなれば、自由に振る舞い、積極的に行動し、なんらかの成果を生み出し始めると信じるに足る説得力のある根拠だと言えるでしょう(もちろんベーシックインカムとは社会全体に対して心理的安全性をもたらすシステムだと言えます)。

 では、自由を恐れることはないのだとしても、自由な人々が集まればトラブルだらけになるのではないかという反論についてはどうでしょうか? 教育の領域で多大な影響を及ぼした思想家ルドルフ・シュタイナーは次のように書きました。「道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する」。彼は自由な意志で受け入れた道徳法則の方に価値を見出し、義務を盲目的に受け入れる態度の方こそがトラブルの種になると考えていたようです。

 シュタイナーの発想と近しい思想によって生み出された概念が、マーシャル・B・ローゼンバーグが発案したNVC(Nonviolent Communcation=非暴力コミュニケーション)です。彼は「べき(Should)」という言葉が人類が発明した最も暴力的な言葉であると主張しました。そして、「~すべき」という義務を一切排除し、互いのニーズ(「ご飯が食べたい」「眠りたい」「安全に暮らしたい」といったような)を伝え合うコミュニケーション(NVC)こそが最高の人間関係を構築するために必要であると考えました。より大胆に言いかえれば、こうなります。「もっとわがままになれ」と。

 あまりにも直観に反する主張ですが、よくよく考えれば私たちの生活の中でもめ事が起きているとき、そこにはかならず「○ ○すべきだ」「○ ○すべきでない」と主張する人が存在していることがわかるはずです。そしてトラブルの種となる人は、往々にしてそういう義務を口にする人です。一方、NVCのような自分のニーズを伝えるコミュニケーションとは、「○ ○をしたい」「○ ○をしたくない」といった発言が中心となるはずです。こうした発言は話が早いのです。「イエスかノーか? ノーなら、代替案はあるのか? お互いが納得できる方法は見つからないだろうか?」。こうした議論の方が生産的な方向に向かいやすいことはなんとく想像がつくのではないでしょうか。

 つまり、誰かに押し付けられた義務や命令に従うのではなく、自由にニーズを表明し合うことができる関係性はトラブルを増やすどころか、むしろ減らしていくと考えることができるのです。

 また、別の角度から自由を擁護することも可能です。アンチワーク哲学では自由とは「自らの行動に対する納得度が高い状態」と定義します。『14歳のアンチワーク哲学』でニケが話した通り、なにものにも影響されない自由はあり得ません。一方で、人間は拳銃を突きつけられようが自由に振る舞うことは理論上可能ですので、拳銃で脅されながら命令に従ったとしても自分の意志で選択したことになります。だからこそ、人が自由であるかどうかは常に「程度の問題」であり、本人の主観によって決定されるのです。「ティッシュくれへん?」とお願いされたなら人は納得してティッシュを手渡します。しかし「ティッシュをよこせ」と命令されたなら人は不満に思います。前者は自由である度合いが高く、後者は低い。このように考えてください。

 ならば、人々が自由を恐れることはないことは明らかになります。なぜなら、誰かからの命令やお願いに従って生きる方が好ましいと本人が判断するのであれば、彼はそれを自らの意志で選択すれば済むからです。奴隷状態に居心地の良さを感じている人がいたとしても、彼の手元に鍵がないよりは鍵があった方がいいということです。彼はそこから脱出することもできるが、隷属が望ましいならそうすればいい。隷属しないという選択肢があることは、理論上マイナスに働くことはないのです。

 もちろん、「逃げようかな、どうしようかな?」と迷いながら生きる羽目になるくらいなら、はじめから鍵などない方がいいという考え方もできるでしょう。なるほど、牢獄の先に人を食う巨人が跋扈しているなら、その考えも妥当でしょう。しかし、ここでいう鍵とはベーシックインカムであり、ベーシックインカムのある社会はどのように生きても生活の必要が満たされることが保証されます。なら、不自由を選択する理由は特にないでしょう。

【参考文献】

J・Pサルトル『実存主義とは何か』人文書院
エイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織 「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』英二出版
ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』ちくま学芸文庫
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』日本経済新聞出版

人間の予見不可能性について

 アンチワーク哲学では、「決定論が正しいのか? 正しくないのか?」という点については答える必要がなく、「人々は運命が決定されていると感じていないこと」を重視します。人々は自分はより良い未来のために選択し、行動すること(例えば、おしっこを漏らさないという未来のためにトイレでの排尿を選択することなど)が可能であると感じていることがその根拠です。状況は刻一刻と変化し、人々の状況判断はそのたびに更新されます。つまり人は自らの行動すら事前に予測することができません。他者の行動は言わずもがなでしょう。

 逆に未来を予測可能にするためには、人々の行動を完全にコントロールする必要があります。それは自己決定を否定した完全な支配を意味します。しかし、自己決定が人間にとって根源的な欲望であることは、先述した通りです。人々が自己決定という欲望を満たすためには支配を撲滅しなければなりません。支配を撲滅すれば未来予測は不可能です。

 「じゃあ、支配は必要だ」と考える人もいるかもしれません。しかし、ちゃぶ台を返すようですが、そもそも支配が未来予測を可能にするという考え自体が幻想であることは歴史を見れば明らかでしょう。人間のあふれ出る力への意志を完全にコントロールすることは、暴力やお金をもってしてもむずかしい。それが可能であると夢を見たのは毛沢東やスターリンを含めた古今東西の政治家たちです。国家とは、本来予測不可能な人間をいかに予測可能な状況に閉じ込めるのかという実験を繰り返す(そして往々にして失敗してきた)ユートピア的プロジェクトです。

 アンチワーク哲学は次のような問題提起を巻き起こさずにはいられません。「どのみちユートピアに思いを馳せるのであれば、もっと夢のあるユートピアを想像する方が望ましいのではないか」。

 ベーシックインカムを導入すれば即座にインフレに陥り、誰も貢献などしないと信じる人が八十億人いれば、彼らはその予言の通りに振る舞い『北斗の拳』のような世界が訪れるかもしれません。もちろん、逆もまた然りです。ここで問うべきは、「どちらが望ましいか?」「どちらの世界を未来に残したいか?」でしょう。悲劇的な未来に怯えながら拳銃を突きつけ合い、未来が予測可能であるという幻想にしがみつくか、誰もが信頼し合い貢献し合う未来を信じて一歩を踏み出すか。アンチワーク哲学の理念が普及すればするほど、アンチワーク哲学が目指すユートピアの実現確率は高まると考えられます。なら、一緒に夢を見る方がワクワクするとは思いませんか?

 ベーシックインカムの導入は国家権力の増大であると解釈する人もおり、彼らはアンチワーク哲学が国家に批判的でありながらベーシックインカムを推奨することは矛盾であると感じるかもしれません。ところが次のように問い掛ければ、むしろベーシックインカムが政府の権力を縮小させることが明らかになるでしょう。

 あなたなら、どちらの政治家の足にキスしたいでしょうか? 百兆円の国家予算を自由に采配できる政治家か、百兆円の国家予算のうち九九兆円の使い道は事前に決定されていて残りの一兆円だけを采配できる政治家か。どう考えても前者でしょう。そして前者はベーシックインカムのない社会の政治家であり、後者はその逆なのです。

 マックス・ウェーバーによれば政治とは「権力の分け前にあずかり、権力の分配関係に影響を及ぼそうとする努力」です。貨幣権力説は、お金とは権力であると定義します。この2つを組み合わせると、お金の分配に影響を及ぼすことこそが政治です。そして、お金の分配に影響を及ぼす能力をちらつかせれば人をコントロールすることが可能になるため、それ自体が権力であると言えるでしょう。

 ベーシックインカムは、権力を政治家の手から奪い取り、強制的に万人に分配するシステムです。これは国家権力の弱体化を、そして人々が自由に振る舞う権力を手にすることを意味します。そうなったとき、未来を予測することは不可能です。しかし、人間は信じれば信じるに値する行動を取ることは先述した通りです。つまり、予測不可能だからこそおもしろいのだと楽観視する態度があれば、人々は持ち前のユニークさと貢献欲を発揮し、ワクワクできる未来が実現する可能性がどんどん高まっていくのです。

 アンチワーク哲学の基礎をかためたボブ・ブラックは、その希望にあふれた未来について次のように述べました。「労働によって台無しにされている人々の創造力を開放すると何が生じるかは、誰にもわからない。何でも起こりうるのだ」。

【参考文献】

マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫
ボブ・ブラック『労働廃絶論』アナキズム叢書