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このサイトでは、文学フリマ京都9にて販売された「いいから黙って金刷って配れ!」をweb上で公開しています。

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著者

久保一真

1991年大阪府生まれ。労働の廃絶を目指しアンチワーク哲学を提唱する在野哲学者。またの名を「ホモ・ネーモ」。noteで精力的に執筆活動に取り組んでいる。著書に『労働なき世界』『働かない勇気』『シン・ベーシックインカム論』『14歳からのアンチワーク哲学』など。

     

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序文

 未来永劫、自分だけではなく子々孫々まで食いっぱぐれることがない。その保証を手にしたいがために、人はどれだけの犠牲を払ってきたことか。どれだけのサラリーマンが満員電車に詰め込まれ、どれだけの理不尽な命令がくだされ、どれだけのハラスメントや不正が保身のために見過ごされ、どれだけのクレーマーが野放しにされ、どれだけの赤ん坊が保育所に置き去りにされ、どれだけの小学生が勉強机に縛り付けられ、どれだけの家庭内暴力が耐え忍ばれ、どれだけの若者が闇バイトに手を染め、どれだけの女性が春を売り、どれだけの投資詐欺が横行し、どれだけの情報商材が買われ、どれだけの癒着と裏金があり、どれだけの経営者がコンサルや広告代理店に振り回され、どれだけのブルシット・ジョブが生み出され、どれだけの無意味な道路やダムがつくられ、どれだけの汚染物質が川に流されてきたか。大人たちはランボルギーニを乗り回し、ドンペリを次々に空け、ハワイのビーチに繰り出したいという欲望をいとも簡単にあきらめてきた。そんなものにたいした価値がないことは、ニ五歳になるころには、おそくとも三十歳になるころには、誰しもが気づいている。しかし、食いっぱぐれたくないという不安を消し去ることは、とうとう誰にもできなかった。自分や、自分の息子たちが寒空のしたでリアカーを引きながらアルミ缶を集める老後生活を送らねばならないというビジョンは、つねに私たちにとってリアルな恐怖を与えている。そうならないという保証を得るためには、私たちは無限の利潤追求動機に従わざるを得ないのだ。その保証が得られる日は永遠に来ないと、誰もが感づいているというのに。

 なるほど世界中のランボルギーニを独占でもしない限りその土手っ腹を肥やし続ける悪魔のような資本家は、少ないながらも存在するだろう。だが、彼らに付き従う労働者は、まぎれもなく貧困への不安によって従わされているのである。もしそうでないなら、誰が資本家にランボルギーニを与えるためにあくせく働くというのか? 資本家の権力の源泉は労働者の不安である。好景気ほどストライキが起きやすいのは、不安がないのなら理不尽への反抗を躊躇う必要がないからだ。逆に言えば、不安が存在し続けるのであれば、企業から資本家を追い出し、労働者の自由なアソシエーションによって協同組合をつくったところで、労働者は悪魔のような資本家と同じように、無限の利潤追求をはじめるだろう。労働者の集団は川に汚染物質を流し続けることになるし、グローバルサウスの児童労働に目を瞑り続けることになる。衣食足りて礼節を知るのだ。いま衣食は足りていても、自分の老後や、自分の息子の老後に衣食が足りる保証がないのであれば、礼節などどこかへ吹き飛ぶ。グローバルサウスの児童を搾取してでも、無意味なダムによって生態系が破壊されてでも、息子を大学に入れなければ、息子の将来の衣食が脅かされるかもしれないと、私たちは強く感じずにはいられないのだ。マルクス主義者は、資本家も労働者もまったく同じホモ・サピエンスであることを見逃していた。生まれながらの悪魔から生産手段を取り戻せばすべてが解決するかのような考えが妄想であることは、毛沢東やスターリンが散々証明してきたというのに!

 とはいえ、マルクス主義者の言うことも一理ある。利潤追求動機が社会を破壊してきたことは間違いないからだ。なるほど、利潤追求動機こそが私たちの社会を豊かにしているのだと主流派経済学は主張するし、多くの人びともそう感じているだろう。たしかに利潤追求動機がなければわざわざ発明されないような突飛なテクノロジーはいくらか存在し、そこからさらなる発明の扉が開かれてきた。だが、それもどこまで利潤追求動機のおかげなのかは怪しい。世界の重要な発明の数々は、金勘定などすっかり忘れ去ったあとにやってくる、無我の境地とも呼べるような没頭のなかからしか生まれてこなかった。誰が酒池肉林を満喫するためにリチウムイオン電池を発明するだろうか? 明日の食事にも困るような状況で、誰が青色LEDを発明するだろうか? 貧すれば鈍すると、私たちはとっくの昔から知っていた。このような事態から、万人に生活保障を与えれば人々は途端に社会に害を与えるのをやめ、クリエイティブな取り組みをスタートさせると考えるのは、極めて順当、かつ無理のない推論であるように思われる。ところが、人々はそのユートピアへの道を、自ら塞ぎ続けてきた。彼らはプラカードを掲げながら次のように叫ぶのだ。

 万人にその保証を与えた途端に、人々は寝室に引きこもってYouTubeを鑑賞しはじめるに決まっている! もちろん、即座に電気やインターネットも停止し、YouTubeを鑑賞することすらもままならなくなるだろう。そして、限られた食料やエネルギー、住居の奪い合いが始まり、まずは赤ん坊や老人が路上でバタバタと死にはじめるはずだ。レイプや強盗、殺人が当たり前の世紀末で人々は生き延びるための武装をはじめるが、次第に力の強い暴力団のようなコミュニティが群雄割拠しはじめ、私たちは暴力に怯えながら細々と、原始時代のような自給自足生活をしなければならなくなるだろう。

 賢人を気取ることに躍起になっている大人たちは、こうした自作ライトノベルの脚本づくりに夢中になってきた。もっと悲観的に。もっとシニカルに。もっと冷笑しながら。その結果、彼らの脳内メタバースでは現実世界で一度も見かけることがないようなイマジナリーサイコパスが量産され、北斗の拳の世界が再現されるのである。まるで私もあなたも人を傷つけたくて仕方ないシリアルキラーやレイプ魔であるにもかかわらず、警察や裁判所、刑務所にチラチラと目をやりながら、渋々その欲望を諦めているかのようだ。人の役に立つことなど、これっぽっちも望んでいないかのようだ。そして、この文章を読んだ賢人気取りたちはこう言うだろう。「その通りだ。お前は自由を与えた途端に怠け始めるか、他人の物を強奪しはじめ、酒池肉林の限りを満喫し始める。稀に人の役に立つようなこともあるが、それは打算づくの利己主義にすぎない」と。

 これがいかに狂った想定であるかを、私は本書で明らかにしたつもりだ。その過程で私は賢人気取りたちを幾分かバカにする。そんなことをすれば彼らはより一層へそを曲げてしまうであろうことはわかっているが、それでもバカにしようと思う。もし、賢人気取りたちの冷笑主義を鼻で笑う風潮が強まれば、賢人気取りたちは冷笑がダサいことであると気づきはじめて、こっそりと過去のXの投稿を削除し始めるだろう。「自称サバサバ系」という言葉が流行してからサバサバ系を自称する女が社会から一掃されたのと同じように、あらゆる言説は廃れさせることが可能なのだ。ぜひともやってみたいのである。

 本書は、かつて電子書籍として販売した『シン・ベーシックインカム論 なぜBIはあらゆる社会問題を解決するのか?』に加筆修正を加えて、改めて出版したものである。本書では、万人に未来永劫までの生活保障を与えるベーシックインカムが、あらゆる社会問題を解決する魔法のような政策であると主張されている。こうした楽観的な見立てを目にしたときに人々は脊髄反射で次のように反論する。「まったく・・・そんな小学生のような発想でうまくいくはずがないではないか。人間というものをあまりに理想化しすぎている。もしそれがうまくいくのであれば、なぜ各国は大慌てでベーシックインカムを導入していないのか? 事実そうなっていないということは、それがうまくいかないという証拠なのだ」と。企業の会議室で、新進気鋭のビジネスアイデアを持ちだした新入社員を、諸葛孔明を気取りながら鼻で笑う親父たちと全く同じ反応を、老若男女が示すのである。もちろん、本当にうまくいくかはわからない。だが、それを言うならば現状維持が上手くいく保証もどこにもないのだ。「現状維持だって? まったくもしそれがうまくいくのであれば、各国は保守政党で埋め尽くされ、世界は石器時代から進歩しなかったはずではないか。事実、世界が移り変わっているのは、現状維持がうまくいかない証拠なのだ」と私は言い返すことができる。

 おっと、これ以上、小手先の反論を繰り広げたところで、賢人気取りたちは顔を真っ赤にさせながら重箱の隅をつつこうとするだろうから、これ以上はやめておこう。とにかく私は金のことを考えずに済むだけの金が欲しいし、万人にそれが与えられて欲しい。そうすればあらゆる社会問題が解決する。私はそう主張したい。その根拠はぜひ本書を読み進めて欲しい。あなたがこれまで見たことのないベーシックインカム論が、そこにはある。

はじめに

 最近やたらと「課題解決型教育」といったニュアンスの言葉を目にする。政府鳴物入りの教育政策に関する資料や、学習塾の宣伝ビラ、知育グッズのパッケージの中に、こういった言葉を見出さないことは難しい。

 なるほど、これからの時代に課題解決は最重要事項だろう。「課題解決型教育」について果てしない議論を繰り広げている大人たちは、環境、経済、少子化、医療、犯罪、貧困、いじめ、ブラック企業など、あらゆる課題をほとんど解決してこなかったのだから。流石にいまの子どもたちが大人になる頃には、本腰を入れて課題を解決してもらわなければ困る(その頃大人たちは墓の中に逃げ込んで、知らん顔を決め込んでいるだろうが)。

 もちろん、大人たちも手をこまねいて見ていただけではない。対策委員会を立ち上げたり、助成金制度や規制などを制定したり、ソーシャルビジネスを立ち上げたり、世界を変えるイノベーションを起こそうとしたり、様々な対策が実行されてきた。しかし、根本的な解決が図られたとは誰も感じていない。そして、おそらく今後も似たようなものだろう。実際に課題が解決されることと、解決に向けて取り組んでいるのだと見せつける茶番を披露することの二つの選択肢があったとき、大人たちは常に後者を選択してきた。そのことを知らない人はいまい。「異次元の少子化対策」によって少子化が解決する未来を、誰が信じられるだろうか? SDGsやパリ協定の約束が見事に果たされ、サスティナブルな未来社会がやってくることを、誰が信じられるだろうか?

 そもそもこの状況は、「詰んでいる」としか言いようがない。例えば少子化対策のために、政府は保育士の給料を上げたり、子ども手当を支給したりするだろう。だが、そのためには税金が必要となり、税収を増やさなければならないということになっている(もちろん、後ほど説明することになるが、実際はそうではない)。税収を増やすためには経済成長が必要で、経済成長には多くの場合は環境破壊が伴う。また、増税で賄おうとすれば国民が貧困に喘ぎ、犯罪も増えるかもしれない。さらに貧困は健康状態の悪化にも直結し、医療費も嵩むだろう。

 あっちを立てればこっちが立たず、である。政治家たちは、渦潮と渦潮の隙間を縫う日本国という小舟の舵を取り、なんとかバランスを保とうとするが、誰もが薄々気づいている。この航路の先には、地獄へ続く大穴が待っていると。

 さて、そんな状況で私は一つの主張を行いたい。その主張とは、環境、経済、少子化、医療、犯罪、貧困、いじめ、ブラック企業といったあらゆる問題を一挙に解決する魔法のような政策がたった一つだけ存在する、というものである。そんなものが存在するはずがないと、誰もが考えるだろう。もし仮にそんなものが存在するのであれば、既に各国の政府が大慌てで導入し、世界から問題は消え去っているだろう、というわけだ。しかし、存在しているにもかかわらず、人々はその政策についてまともに議論していないと、私は考える(その理由は、収拾がつかないほどに蔓延した、人間や経済、労働、金に関する誤解に由来するが、本書ではその点に関しては簡単に触れる程度にとどめる。詳細は拙著『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』を参照してほしい)。

 その魔法のような政策の正体を勿体ぶって発表する必要はないだろう。この本のタイトルを見ればわかるように、それはベーシックインカムを指している。私は、ベーシックインカムによって人類が頭を悩ませてきたありとあらゆる問題が魔法のように解決する、と主張したいのである。私の主張は、奇妙なものとしてあなたの目に映るかもしれない。ベーシックインカムが貧困や少子化を解決するのは理解できるとしても、環境や犯罪、健康、いじめなどは、全く別ジャンルの問題だと世間一般では考えられているからだ。これはベーシックインカムの提唱者たちの責任だろう。彼らは、ベーシックインカムを人々に説明するとき、みみっちいメリットばかりを羅列し続け、ベーシックインカムが引き起こすであろう真に重要な変革について語ろうとしなかった。さながら、自分と付き合うメリットを箇条書きにして女性を口説こうとする童貞男子である。彼らは「結局、ベーシックインカムってなにがいいの?」と聞かれたとき、わかりやすい言葉で返事をせずに、小難しい数式を黒板に書き始めるのである。

 その結果、私の主張は頓珍漢なものとしてあなたの目に映っているはずだ。本当にベーシックインカムが数多の問題を解決するのか? 環境問題などはむしろ悪化するのではないか? 社会保障が削られて申し訳程度の金が配られるディストピアになるのではないか? 生き甲斐のないつまらない人生が待っているのではないか? とんでもないインフレがやってくるのではないか? これらの疑問には、本書の中で可能な限り応えていく。そして、ベーシックインカムにまつわる不安の大半は杞憂であり、メリットに比べれば些細な問題に過ぎないことを根拠を添えて伝えていくつもりだ。だが、当然のことながら、正確に未来を予測することは誰にもできない。アベノミクスの結果を誰も予想できなかったように。異次元の少子化対策の結果を誰も正確に予測できないように。それでも私たちは不確実な予測という弱々しい希望を握りしめながら、「えいや!」と決断を繰り返して生きているし、これからも生きていく。ベーシックインカムを導入することはギャンブルである。全く同じ条件で事前に実験することなどできないのだから。だが、とんでもなくハイリターンのギャンブルであることには間違いない。先ほど挙げた数多の問題を一挙に解決する可能性を秘めた政策など、他に一つでも挙げられるだろうか? もし本当にベーシックインカムにそれだけのポテンシャルがあるのなら、導入しない手はない。少なくとも「いやいや、無理に決まっている」と一蹴するのではなく、検討くらいはすべきだろう。環境問題をはじめ、先ほど挙げた問題の数々は人々の幸福を著しく減ずるだけにとどまらず、いずれ人類社会を破滅に追い込みかねないものなのだから。

 いまの世の中に、バラ色の未来が待っていると信じている人はほとんどいない。いたとすれば彼の頭の中はお花畑であると、周囲の人々は結論づける。常識的な人々は、社会が悪くなっていくことを受け入れながらも、なんとか自分と自分の家族の食い扶持だけは守ってやり過ごそうと、撤退戦の計画を練る。私はバラ色の未来に向けて議論をしたいと考えるお花畑野郎である。しかし、頭の中をお花畑にできない者は、頭の外をお花畑にできない。撤退戦の準備をしながらでも構わない。少し考えてみて欲しい。もしかしたら、未来にお花畑が待っているかもしれないのだ。ジリ貧の撤退戦を子どもたちにも続けさせるより、魅力的な選択のはずだ。

 女性を口説くには、詩的でロマンチックな言葉が必要である。ベーシックインカムの魅力を語るにも同様だろう。そのため、私は細々とした財源に関する試算を本書で行うようなことはしない。そんなものは経済学者の偉い先生に任せておけばいいのである。とはいえ、有益な議論を行うためには、ある程度の情報整理は必要である。本書も、一章と二章はベーシックインカムに関する基礎知識の整理に充てた。私独自の見解も述べているので、ベーシックインカムに関する議論に慣れ親しんでいる方も、ぜひ読み飛ばさずに熟読して欲しい。そして、じっくり読んでほしいのは三章以降だ。私の情熱は、この部分に込められている。だが、現時点で多くを語る必要はあるまい。前置きはこれくらいにしておいて、本題に移るとしよう。

第一章 BIの二つの流派

 ベーシックインカム(以下、BI)で、あらゆる問題が解決すると大言壮語を吐いた後で申し訳ないが、BIならなんでもいいわけではない。ひとくちにBIと言っても、既存の社会保障を一切無くしてしまうケチ臭いパターンから、社会保障をそのままにしながら追加でばら撒く太っ腹なパターンなど、様々なバリエーションが存在する。賛成派も反対派も、論者によって思い浮かべる制度はバラバラであり、その結果、BIに関する議論は永遠のすれ違いに発展するケースが多い。有益な議論には、前提条件を揃えることが欠かせない。まずは、BIを分類したあとで、私がどのバージョンを支持しているのかを明らかにしよう。

■孫正義や前澤友作にも配るのか問題

 一般的にBIと言えば、孫正義や前澤友作といった大富豪から、段ボールハウスで年末年始を過ごすホームレスまで、日本国籍を持つ全員に一定金額を支給する制度を意味する。だが稀に収入額が一定以下の貧困層にだけ配る生活保護の延長のようなBIを想定する人もいる(所得制限ありのバージョンと区別するために、全員に配るバージョンを「ユニバーサルベーシックインカム」と呼ぶケースもある)。

 まず初めに明らかにしたいのは、私が想定するのは、孫正義や前澤友作も含めた全国民に支給するタイプのBIである。大富豪たちはBIがなくとも豊かな生活を過ごせることは明らかだが、それでも線引きをすることによるデメリットの方が大きいし、そもそも線引きをするなら、それは生活保護であると私は定義する。ひとまず本書では全国民に支給するタイプのBIを想定していると、ご理解いただきたい。

■財源はどうするのか問題

 次に混乱の種になるのは財源である。月七万円程度のささやかなBIであろうが一億二千万人に配ろうと思えば、追加で約百兆円の金が必要になる。これをどのように調達するかが、最大の焦点の一つである。ここでは大きく分けて二つの考え方がある。

 一つ目は、現在の税収(と社会保障費)+増税でやりくりするパターンだ。これを便宜上「緊縮型BI」と呼ぼう。おおむね、生活保護費や年金、雇用保険、健康保険などを削減したり、関連する公務員をクビにしたりして、それでも足りなければ何らかの税金で賄うという考え方である。二つ目は、国債発行を利用するパターン。こちらは「積極財政型BI」と呼ぼう。自国通貨を発行している日本は財政破綻することはないので、適度なインフレに収まる範囲内で国債を発行し、中央銀行に買受させればOK、という考え方である。要するに「金を刷ればOKという考え方」という大雑把な理解で問題ないだろう。

 さて、財源の問題は、そのまま社会保障の問題に直結する。

■既存の社会保障はどうするのか問題

 年金や健康保険、雇用保険、生活保護といった既存社会保障の代わりとしてBIを支給して一本化するのか。あるいは、既存の社会保障はそのままにBIを上乗せするのか。あるいはその中間か。緊縮型BIは、既存の社会保障をカットするパターンを想定する(というか、そうしなければどう考えても税収が足りないので当然である)。それに対して、積極財政型BIは、既存の社会保障の大部分を残した上で、さらにBI支給するという考え方である(そうでないのなら、わざわざ通貨を発行する意味がないので、これまた当然である)。

■金額はどうするのか問題

 さらに金額の寡多である。月七万円なのか。十万円なのか。十二万円なのか。それ以上なのか。もっと言えば成人だけに配るのか、子どもも含めて配るのか、といった点も争点となる。さらに、この点はあまり議論されないのだが、金額を固定するパターンなのか、物価に合わせて変動させていくパターンなのかも、検討の余地がある。ただ、この点についても緊縮型BIは、ぎりぎりの税収でなんとかやりくりしようとするため、月七万円程度で子どもには支給せず、インフレを考慮しないようなケチケチしたBIを想定しがちである。その一方で積極財政型BIは月十万円以上で子どもにも支給し、かつインフレ調整も行うような太っ腹なBIを想定する傾向にある。

■ここまでのまとめ

 ここまで制度設計に関する流派の違いを確認してきたが、大きく分類すれば考え方は2つに分けられることがわかる。

1.緊縮型BI
 現在の税収+増税によりBIを賄おうとする考え。通常、年金や医療、雇用保険などの既存の社会保障の大部分をカットして、BIに一本化することが想定される。また、金額は固定しようとする傾向にある。

2.積極財政型BI
 国債発行によって財源を確保し、BIを賄おうとする考え。年金や医療、雇用保険などの既存の社会保険の大部分を残しつつ、BIを上乗せ支給することが想定される。またインフレに合わせて金額を調整する傾向にある。

 もちろん、この二パターンの中でも金額の寡多や「どの社会保障を残して、どの社会保障を残さないか」といった点では意見が別れるものの、おおむねこの二つに大別されると見て問題ないだろう(逆に、やりくり主義で社会保障を残そうとする人や、通貨発行主義で社会保障を全カットしようとする人はいない。前者はそもそも金が足りないし、後者はそんなにケチケチするなら通貨発行する意味がなくなるからだ)。

 さて、緊縮型BIと積極財政型BIとは似て非なるもので、どちらを採用するかによって生じるデメリットは大きく異なる。一応ハッキリさせておくと、本書で採用するのは積極財政型BIの立場である。その理由は自ずと明らかになっていくはずなので、それぞれのパターンを分析することを優先する。続いては、それぞれのパターンのデメリットを見てみよう。

■緊縮型BIのデメリット1 社会保障のないディストピア

 緊縮型BIを極限まで突き詰めたパターンであれば、医療保険や年金、生活保護費、雇用保険などは全てカットされて月七万円かそこらのBIが支給されることになる。例えば医療保険制度がなくなってしまえばどうなるか? 現在、国民皆保険制度によって私たちの医療費の自己負担割合は三割だが、それが十割になる。これでは満足に病院に通えない人がたくさん出てくるだろう。

 あるいは、年金制度や生活保護制度が廃止されてBIに一本化されれば、年金受給者や生活保護受給者の実収入が月七万円程度までさげられる。働く能力がないとされる人々は、当然それでは生きていけないわけだが「BIを配っているので、あとは自己責任ですよ?」と突き放されることになる。

 BI反対論者の一定数は、このパターンを想定してBI批判を行う。つまり「貧乏人は病院に行けないようなディストピアになってもいいのか?」「生活保護受給者が路頭でのたれ死んでもいいのか?」というわけだ。もちろん、それでいい訳がないので「ほれみろ、BIなんて夢物語なのだ!」と結論づけることになる。

■緊縮型BIのデメリット2 大増税時代

 社会保障をある程度残すパターンで、やりくり主義を唱えるとなると、必然的に大増税時代が訪れることになる。当たり前の話だが、月七万円のBIをもらって月七万円の税金がとられるなら、何の意味もない。故に「社会保障をカットしないとすれば、大増税で何の意味もないぞ!」とBI反対派は主張することになる。「金持ちや企業から取れ」という声もあるわけだが、それに対してはBI反対派は、「金持ちや企業が国外に逃げて国内産業が崩壊する」「経済成長が止まる」という反論を行うことになる。

 さて、ここで私見を挟むとすれば、私は金持ちや企業からある程度取っていいと思っている。なぜなら、トマ・ピケティ『21世紀の資本』によれば、最も法人税率が高かった時代こそが最も経済成長を果たした時代であり、先ほどのBI反対派の主張には根拠がないからだ。とは言え、増税だけで賄うこともむずかしいと感じており、不足分は通貨発行によって賄うべきだと考えている。つまり私は、根本的には積極財政型BIである。

 では、続いて、積極財政型BIのデメリットについても確認していこう。

■積極財政型BIのデメリット インフレ

 当然、BI賛成派は「病人や年寄りは野垂れ死ねばいい」とか「七万円のBIのために全員から七万円徴収すればいい」などと主張することはない。となると積極財政型BIに走ざるを得ない。が、これも当然デメリットは想定される。

 積極財政型BIにおいて想定されるデメリットはインフレに尽きる。自国通貨を発行できる日本は、いくら借金が嵩もうとも刷って返済することが理論上は可能であり、財政破綻することはあり得ない。だが、好き放題、通貨を発行すれば当然インフレリスクが高まる。BI賛成派は「ある程度はいけるやろ!」と主張するわけだが、反対派は「いや無理やろ」と主張する。つまり、BI賛成派と反対派の議論の争点は次の点に集約される傾向にある。通貨を発行すればインフレするのか、それともしないのか?

第二章 インフレとはなにか?

■インフレの基本

 「金を刷ってBIを配ればインフレが訪れて大変なことになる」という批判が正しいのか、正しくないのか? そのことを分析するためには、まず「インフレとはなんなのか?」を理解する必要がある。ベーシックインカムの研究者スコット・サンテンスの『ベーシックインカム×MMT(現代貨幣理論)でお金を配ろう』を参照にしながら、確認していこう。まず、インフレ(物価上昇)がなぜ起きるのか? サンテンス曰く・・・

物価上昇は、何かに対する需要が供給を上回ったときに起こるものです。

 とのこと。この点に関しては異論はないだろう。例えばりんごが世界に一つだけ存在しているとして、食べたい人が百人いたなら、価格は上昇していく。逆に、りんごを食べたい人が一人しかいないのに、りんごが百個あれば、価格は下落する。高校の授業で習うような、経済学の基本中の基本である。

■インフレが起きない場合

 つまり、次のようなパターンであれば、インフレは起きない。もしアメリカの成人全員に毎月千二百ドルを配ったとしても・・・

もし全ての人々が1200ドルの小切手を現金化してベッドの下に隠したとしたら、おカネが新たに創られたとしても需要の増加は起こらないので、インフレ的な効果は全くありません。

 若干、直感に反する部分ではあるが、間違いないだろう。金が配られても、みんながタンス預金に回すなら、その結果はなにも起こらない。

 また、サンテンスは次のようにも語る。

もしみんなが1200ドルを音楽配信に使ったとしても、その需要は供給量を超えることはないでしょう。なぜなら、そのような商品は無限に供給を増やせるからです。だから、インフレ的な影響は生じないのです。

 つまりいくらでもコピーし放題の商品(ソシャゲのアイテム、ゲームのダウンロードコンテンツ、配信音楽、動画など、いわゆる限界費用ゼロの商品)は、いくら需要が高まってもインフレしないというわけだ。

 また、需要が増加して供給が不足しても、インフレしないパターンもあるという。順番待ちをしてもらうケースだ。品薄であってもニンテンドーがSwitchの価格を釣り上げなかった結果、価格は据え置きであった。つまり、インフレは起きなかった。

 あるいは、需要増加により逆に価格低下になるケースもサンテンスは紹介する。天然ガス採掘の水圧破砕法が発明されたケースである。

原油価格が高騰し、産油業がものすごく儲かるようになったとき、石油生産を増やす方法が発明されたのです。(中略)これによって、1ガロンあたり4ドル以上だった価格が半分以下にまで下がり、そのおかげで物流コストも下がり、他の多くの物も安くなったのです。

 つまり需要が高まった結果イノベーションが起きて、逆に価格が下がるケースもあるわけだ。

 では、逆にインフレするのはどのようなときか?

■インフレが起きる場合

 サンテンスは中古車を例に説明する。

2020年には、中古車の需要が増え、結果的に中古車の価格が上昇しました。限られたものを欲しがる人が増えれば、それを買おうと競争する人が出てくるので、そのぶん価格が上昇します。

 コロナによって車の必要になる郊外に引っ越す人が増えたことで需要が増え、世界的な半導体不足で供給が減り、その組み合わせで中古車価格は上昇した。

 あるいは、ガソリンの場合はといえば・・・

2020年の外出禁止の頃は、ほとんどの人々が家から出られず、車を使えなくなったので、ガソリン価格が急落しました。需要よりも供給がはるかに多くなったのです。その結果、製油所が閉鎖され、ガソリンの生産能力が縮小しました。2021年には需要が通常の水準に向かって急激に回復しましたが、一部の製油所が永久に閉鎖されたため、2021年の生産能力は2020年のそれを下回っています。需要の大きな変化に対応するには時間がかかるので、ガソリン価格が高騰したのです。

■ここまでのまとめ

 ここまでを簡単にまとめよう。まず、インフレとは、原則として需要が供給を上回ったときに起きる。しかし、需要が供給を上回ったとしても必ずしもインフレするわけではない。また、この商品はインフレしたけど、あの商品はインフレしないということもあり得るわけだ。

 つまり、お金が配られて余っているからといってインフレするとも限らない。それもそのはずだろう。そもそも日本は既に金が余っている。日銀の資産循環統計によれば、二〇二三年六月末時点における家計の金融資産(貯金や株などの金融資産。家や土地などの不動産は含まない)の合計は二一一五兆円。日本人一人当たり千八百万円近いお金が余っているのである。日本のGDPが五百兆円かそこらだという事実と照らし合わせれば驚愕の事態と言っていい。実にGDP(つまり日本人が一年間で生み出す付加価値の合計)の四倍の財やサービスを購入できるだけの貯金が、日本人の懐で眠っているのである。それでもインフレは起きていない。もちろん、だからといって「ほら、だからお金刷ればいいじゃん」と結論を下すのは早計だろう。BIによって需要が増えたり、供給が減ったりする可能性は、まだ完全には排除できていない。続いて、需要と供給のそれぞれの角度から、BIがどのような影響をもたらすかを考えてみよう。

■BIで需要が増え、インフレする場合

 例えば、月十万円が日本人全員に配られたとして、「ひゃっほうー!金もらえたぜ!」と喜ぶ人々が一体なにを買うのか?

 ここまで議論からすれば、全員がソシャゲに課金したとすればインフレは起こらない。全員がニンテンドーSwitch購入を決めたとしてもニンテンドーが顧客に順番待ちを強いたならインフレは起こらない。では、全員がsupremeのパーカーを購入し、supremeが貪欲に価格設定を行うならば? 間違いなくsupremeのパーカーはインフレするだろう。しかし、このような事態が起きることは考えにくい。仮に人々の欲望が嗜好品に向ったとして、supremeに一点集中することはなく、ゴルフクラブを求める人もいれば、高級メロンを求める人もいるからだ。特定の嗜好品やその原材料だけが急激にインフレするような事態に陥ることはないだろう。それに、仮にsupremeやゴルフクラブ、高級メロンが多少インフレしたとしても、大した問題ではない。諦めれば済む話である。

 では、何がインフレすれば困るのか? 当然、生活必需品だろう。トイレットペーパーや米、冷蔵庫の値段が高騰するとみんなが困る。とはいえ、「よっしゃあ月十万円貰えるから、明日から米を二倍食おう!」などと考えるような人はいないか、いたとしてもごく少数であることは明らかだ。天下取っても二号半である。せいぜいシングルを使っていたトイレットペーパーをダブルにしようとか、ちょっと高い国産の家具を買おうとか、有機野菜を買おうとか、グラスフェッドの牛肉を買おうとか、その程度の変化に過ぎない。この手の現象は起きないか、起きたとしてもいい影響であると捉えられる。なぜなら、高級品とは往々にして労働環境が良好な職場で作られていて、かつ環境負荷が少ない傾向にあるからだ。みんなが国産の家具を買えば、国内の林業が盛り上がり、逆に国産家具の価格が下がる可能性すらある。有機野菜の価格が下がることも、間違いなく良いことだ。

 ここまでの議論をまとめよう。

  • BIを配ったからといって、生活必需品の需要が高騰することでインフレが起きるようなことは考えにくい。

  • 上がるとすれば嗜好品だが、嗜好品の需要は分散されるので、大して上がらないだろうし、上がったとしても大した問題ではない。

  • 逆に高級品の需要が高まることで、持続可能な産業が成長し、価格が下がるという良い影響も考えられる。

 さて、BIによって需要が増えることはおそらく悪いインフレをもたらさないことがわかった。となると次に考えるべきは供給側だろう。供給が減ってもインフレは起きるのだから。

■BIで供給が減り、インフレする場合

 気づけばBIに関する議論の中での、最重要項目にたどり着いてしまった。BIによって供給が減る状況というのは、要するに誰も働かなくなるケースだ。

 「BIが貰えるから働かなくていいや!」と米農家が仕事を放棄すれば、米の価格は急騰し、子どもたちが飢えることになるだろう。大工が仕事を放棄すれば、住宅価格は高騰するだろう。インフラ企業に勤める人々が一斉に引きこもってニンテンドーSwitchをプレイし始めたなら、すぐにSwitchをプレイするための電気が家に届かなくなってしまう。そうなれば太陽光発電システムを導入すべく人々が殺到するにもかかわらず、それを設置する職人もほとんどおらず、工事は進まない。そもそも製品も製造されない。

 もちろんそんなことになったなら、日本は終了である。

 では、人々はBIを支給されれば働かなくなるのだろうか? この点については次章で詳しく検討していこう。

第三章 人間は怠惰なのか?

 多くの人は、次のように考えている。人間なんて一皮剥けば誰もが怠け者であり、BIが配られるならばベッドに転がったままYouTubeを眺めてばかりいるだろう。

 果たしてこれは本当なのだろうか?

■BI実験は成功例だらけ

 この問題については、ルドガー・ブレグマンの『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』を紐解くのが適切だろう。この本では、BIの小規模実験の結果が大量に記載されている。例えば、アメリカの各地域で行われた実験についてである。

全体的に、労働時間の減少はわずかだった。(中略)賃金労働の減少は一世帯あたり平均九パーセントで全ての州においてこれは、幼い子どもをもつ若い母親が、外で働く時間を減らしたのが原因だった。後の調査では、この九パーセントさえ、多めの見積であることがわかった。(中略)労働時間の減少はきわめてわずかだったことが判明した。

 本の中では、この手の調査結果が「これでもか」というくらいに挙げられている(ついでに言えば、ほとんどのケースで、犯罪の減少、幼児死亡率の低下、貧困の撲滅、学力向上、経済成長といった効果が見られた。ホームレス対策費の最も有効な使い方は、ホームレスにそのお金を直接渡すことであったし、麻薬対策費の有効な使い方も、ジャンキーにそれをそのまま渡すことであったと、ブレグマンは結論づけている)。

 要するに、「金を渡したら働かなくなるだけ」という主張は、小規模な実験においてはほぼ否定されている。この手の実験は少し検索するだけでいくらでも出てくるだろう。特にフィンランドの実験は有名である。

■小規模だからうまくいっただけ?

 もちろん「小規模かつ短期間の実験だからやめなかっただけであり、大規模かつ長期間の実験ならやめるだろう」という反論は常に可能である。フィンランドのような小国でうまく行ったからといって日本でうまくいくとは限らない、というわけだ。

 それはその通りなのだが、その理論を振りかざすのであれば、今後もどのような実験結果が得られようがBIが実行不可能になるということを理解すべきだろう。十年実験して成功すれば「二十年やれば失敗した」と主張できるし、二十年実験して成功すれば「三十年やれば失敗した」と主張できる。BIとは未来永劫、お金が配られるシステムなので、完全に再現する実験は不可能である(それはすなわち、実験ではなく実際にBIを導入することを意味する)。つまり、どんな実験を行おうが、BI反対派を納得させることは不可能である。そしてこの理屈を援用すれば、世の中に存在するありとあらゆる政策案に蓋をすることが可能になる。これまで全く同じ条件で実験された政策など、この世界には存在しないのだから。

 もちろん、これほど馬鹿馬鹿しいことはない。私たちは、手に入れられる情報を元に、最大限ありえそうな予測を立て、行動せざるを得ない。今のところ手に入る情報では、BIがあってもみんな働きそうである、と結論づけて問題なさそうだ。

■事実上、BIを受け取りながら働く人々

 また、これは私がよく挙げる根拠なのだが、農業構造動態調査結果によると日本の農家の平均年齢は六六.八歳であり、年金受給年齢を過ぎている。年金とは払い込みが終わってしまえば、事実上のBIである。平均値は中央値ではないし、農家のうちどれだけが年金受給資格を満たしているのかはわからないが、日本の農家の少なくとも三割~四割程度は事実上のBIを受け取っていると見積もっても問題はないだろう。

 にもかかわらず、いまのところ、農家の人々が仕事を即座にやめ、深刻な食糧危機に陥っているわけではない。経済的理由なのか、惰性なのか、他にやることがないからなのか、使命感からなのかはわからないがこれが現実である。

 以前、BI反対論者の記事で、「BIを配ったら、人々に生活必需品を供給する保証がなくなるからダメ」といった反論を書いているのを見たことがある。だが、それを言うなら、農家の半数近くに事実上のBIが配られている現時点で、既に食料を日本人に行き渡らせるだけの保証はないのだ。もしそれを確実に保証しようと思うなら、農家から年金を取り上げるか、拳銃を突きつけ続けなければならない。もちろん、そんなことは馬鹿げている。そんなことをしなくても、農家は仕事を続けてくれるのだから。

 これだけ根拠をあげれば、「BIを配れば誰も働かなくなる」という議論にはほとんど説得力がないと言っていいだろう。フィンランドや他の国々で短期的に行われたBI実験は成功したけれど、日本で長期でやれば失敗するし、農家は事実上BIをもらっても働いているけれど、他の産業はそうはならないとでも主張するのなら、それ相応の根拠が必要だ。おそらくBI反対論者にそれだけの根拠はないはずだ。

■ここまでのまとめ

 一旦ここまでを整理したい。積極財政型BIなら、大増税や社会保障カットで貧民が喘ぐディストピアが訪れることはない上に、需要の急増や供給不足によるインフレが起きることも考えにくい。ゆえに、今のところ目立ったデメリットはないように思われる。

 ところが、おそらくBI反対論者は、まだ十分に納得しないだろう。特に、「人間は怠惰ではない(ゆえに、供給不足によるインフレは起きない)」という命題は、根強い反論を招くことが想定される。

 その点について、さらに考察を深めていくにあたって、そもそもなぜ人は怠惰だとみなされているかを考えてみよう。

■なぜ人は怠惰だとみなされるのか?

 まず「怠惰」が何を意味するのかを考えてみよう。怠惰とは、遂行すべき何らかの「義務」があって、それを遂行しなかったり、意欲を持って取り組まなかったりする態度を意味する。いま私が話題にしている「義務」とは人々の生命や社会を維持し、幸福度を高めるために必要な行為を意味している。野菜を育てたり、テーブルを拭いたり、コーヒーを淹れたり・・・要するに「誰かの役に立つこと」である。「その『誰かの役に立つこと』を人は嫌がるために、BIを配れば最後、人々はダラダラ怠けて過ごすのだ」とBI反対論者は主張するだろう。

 しかし、これは本当だろうか? 果たして人は誰かの役に立つことを嫌悪するのだろうか?

 人の役に立てば嬉しい気持ちになることは誰もが理解している。電車で老人に席を譲れば誇らしい気持ちになる。誰かを家に招待し料理を振る舞ったなら、自分が食事をご馳走になるとき以上に喜びを感じられる。三歳の私の息子は拙い手つきで家事を手伝おうとする。文化祭の準備で皆の役に立てたときは、そうでないときよりも文化祭が楽しい思い出になる。

 このようなエピソードなら、誰しも無数に挙げることができるだろう。このことから明らかなのは「人は、誰かの役に立つことを欲する」という事実ではないだろうか?

 逆に、申し出るタイミングを見失って老人に席を譲り損ねたときは、モヤモヤした気分で過ごすことになるだろう。(下世話な例えで恐縮だが)好みのエロ広告を見たのに自慰行為ができない状況でしばらくムラムラした気分で過ごす状況を見れば、人は「人に性欲があるから、そうなる」と説明するだろう。ならば、老人に席を譲り損ねてモヤモヤするのは「人には誰かに貢献したい欲望があるから、そうなる」と説明すべきではないだろうか(私はこのような欲望を「貢献欲」と呼んでいる)。

 貢献欲は、優れた人格者だけが持つ特別な素質などではなく、食欲や制欲と同等の、人間一般が持つありふれた欲望であると、私は考える。私の三歳の息子はいつも拙い手つきで料理を手伝おうとする。もちろん、失敗してばかりで大人からすれば余計に手間がかかるわけなのだが、それでも彼が貢献したいと感じていることは疑いようがない。そしてその挙句、作った料理をほとんど食べずにプラレールで遊び始めるのだ。もはや食欲よりも強い欲望なのではないかとすら感じる。しかし「貢献欲」なる言葉を誰も発明しなかったばかりに、誰もその存在を認識できずにいたのだろう。

 では、人に貢献欲があるのなら、この社会に労働を嫌悪する人が溢れかえっているように見えることを、どのように説明すればいいのだろうか? 「働きたくない」と愚痴をこぼすくたびれたサラリーマンたちの群れはなぜ存在するのだろうか?

 簡単である。例えば、カフェ店員が労働に対してどのような愚痴をこぼすかを観察するだけでいい。「上司の命令が不愉快」「ノルマが厳しい」「労働時間が長すぎる」「モンスタークレーマーがうざい」といった愚痴がほとんどだろう。

 では、 「テーブルなんて吹きたくない!」「カフェラテの作り方が難しすぎる!」といった愚痴を言うカフェ店員を見たことはあるだろうか? 私は一人も見たことがない。

 テーブル拭きやドリンク作りは文句なしで誰かの役に立つ行為である。しかし、どうやらそれらの行為そのものを人は本能的に嫌悪しているわけではない(現に趣味でコーヒーを淹れる人や、掃除好きの人なんていくらでもいる)。そうではなく、人は上司や客の理不尽な要求に対して不満を言うのだ。少なくとも、「カフェラテの作り方が難しいので自殺します」という遺書を残して通勤電車に飛び込むカフェ店員を私は見たことがない。

 つまり、人は役に立つことを嫌悪しているわけではなく、むしろ欲している。仕事を嫌がっているように見える真の原因は、不愉快な命令や要求・・・すなわち支配なのだ。

第四章 BIとは支配からの解放

■命令と支配が、労働を苦行に変える

 ここで人は次のように反論するかもしれない。「人が貢献欲を持つのであれば、命令されながらテーブルを拭こうが、命令なく自発的にテーブルを拭こうが、大差ないのではないのか? もし命令があるという理由で労働を嫌悪しているなら、そもそも彼は貢献を嫌悪している証拠なのではないか?」と。

 この疑問は命令が持つネガティブな側面を過小評価している。命令は、命じられる行為がなんであれ、モチベーションを低下させる効果を持つのだ。

 例えば誰かと食事をしているとき「塩を取ってくれる?」とお願いされたなら、普通の人ならなんの気負いもなく取るだろう。しかし、「おい、塩を取れ」と命じられたならどうか? 人によっては拒否するだろうし、拒否しないとしても嫌な気持ちになるはずだ。

 「塩を取る」という結果は同じでも、お願いがきっかけであったなら、特に気に留めることもないか、ほんの少しばかり「役に立てた」という誇らしさを感じられるかもしれない。いずれにせよネガティブな出来事だとは感じないはずだ。しかし、命令がきっかけであったなら、それは極めて不愉快な出来事に変わる。

 また、かつてX(旧Twitter)で、注目を集めたポストも、人が命令そのものを嫌悪することを直感的に裏付けてくれる。

 子供をゲーム嫌いにする方法

  • 一生懸命ゲームに取り組むように言う
  • どこまで進めるか目標を立てさせる
  • 目標に対しての進捗を管理する
  • 進捗が遅れていたら叱る
  • なぜ遅れているのか理由を問いただす
  • 遅れを取り戻すための方法を言わせる
  • ゲームのやり方に都度口を出す これだけでok

針鼠 | 仕事カフェ (@harinezumi_vc)

 なんの科学的根拠もない話だが、明らかに私たちの日常感覚に合致する。本来、放っておかれたなら昼夜を問わず子どもたち(ときに大人たち)が熱中するゲームすら、命令されるのであれば苦行に変わるのだ。

 このような事例を見て「人間とは塩を取ることを嫌悪する生き物なのだから、強制されなければならない」とか「子どもはゲームを嫌悪する生き物なのだから、強制されなければならない」と結論づけるのは馬鹿げている。彼が嫌悪しているのは塩を取ることやゲームそのものではなく、命令であることは明らかだからだ。

 人が労働を嫌悪する様子を見て、あたかも彼が貢献を嫌悪しているかのように扱われることも、同様の構造である。明らかに馬鹿馬鹿しいのだ。

■なぜ人は支配されるのか?

 ここで次なる疑問が生じる。命令が不愉快なのであれば、なぜ人は従うのだろうか? 友達が「おい、塩を取れ」と命令してきたのなら、きっと多くの人は断るだろう。しかし、労働の現場において、経営者や上司、客の命令を拒否する人は少ない。そもそも出勤している時点で九時から五時(あるいはそれ以上の時間)を職場で過ごせという命令に従っているのだ。

 当たり前だが、人間が人間を意のままに操ることは、超能力者でもない限り、普通はできない。私が念じただけであなたの右腕を動かすようなことは不可能である。となると、命令をしなければならないが、命令は拒否することができる。私が道ゆく誰かに、財布の中身を差し出せと命令しても、無視されるのがオチだろう。

 しかし、私が拳銃を所持していたならどうか? 勇気ある一部の人を除けば、取り急ぎその場では私に財布を渡そうとするだろう。手っ取り早く誰かを命令に従わせる方法は、間違いなく暴力である。

 ところが、暴力ではない方法で、命令に従わせる方法が存在する。それは金である。現代社会では、金がないと生きていけない(厳密に言えば金がなくても生きていけるわけだが、「金がなくては生きていけない」と考えている人が大半である)。そして、金を得るためには会社に所属して、社長や上司の機嫌を損ねないように振る舞わなければならないし、会社に金をもたらす客に対しても同様である。会社員の道を選ばず、起業やフリーランスを選択したとしても、客の機嫌を損ねてはいけないという状況に変わりはない。

 確かに社長や上司や客に歯向かったところで、即座に銃をぶっ放されるようなことはない。だが、なにかの拍子に相手の逆鱗に触れて、クビになったり、金を払ってくれなくなったりする可能性は、常に存在している。人々は、未来からこちらの様子を伺うスナイパーに狙われながら労働しているような状況にあるのだ。

 いまの世の中に、「やめてもいくらでも転職先はある」という自信をもって働く人がどれだけいるだろうか? そう口にする人は多いものの、実際は根拠のないハッタリであるケースの方が多いのではないだろうか? また、実際それだけの自信と能力を持って働いている人は、もはや労働にネガティブな印象を持たず、「自由に働いている」という実感を抱いていることだろう。ならば、命令を拒否できない「支配」こそが労働を悲惨なものにしているという構造は明らかである。

■有害な労働が心を破壊する

 塩を取るといった意味のある行為や、ゲームといった本来「やりたい」と思える行為ですら、命令されれば苦行と化す。それでもなお「テーブルなんて吹きたくない!」「カフェラテの作り方が難しすぎる!」といった愚痴をこぼすカフェ店員がほとんど存在しないことは注目に値する。命令によって苦行と化していてもなお、それが意味のある行為であるなら、愚痴の対象とならないのだ。これは、人が根源的に意味のある行為・・・つまり誰かの役に立つ行為を心の底から欲している証拠ではないだろうか?

 逆に、無意味な行為を命令され、それを拒否できない状況とは、人間にとって最高レベルの苦行だと言っていいだろう。

 この社会に「こんな報告書、何の意味があるんだ?」と感じながら報告書を書くサラリーマンや、「こんなノルマ達成できるわけがない」と感じながらなんとかしてノルマを達成しようとする営業マンが膨大に存在することは疑いようがない(実際に無意味かどうかはともかく、少なくとも本人が無意味だと感じていることには疑いの余地はない)。さらに、無意味なだけでなく、社会に有害な行為を命じられたなら、その心理的ダメージは想像を絶する。

 二〇二三年には大手自動車メーカーが安全性試験の結果を誤魔化していたことが発覚した。また、中古自動車販売の最大手企業が売上のために顧客の自動車をゴルフボールで凹ませ、街路樹に除草剤を撒いていたことも発覚した。

 間違いなく言えることは、楽しみながら顧客の自動車をゴルフボールで凹ませていた従業員は一人もいないか、いたとしてもごく少数だということだ。しかし、この現象は全国の店舗で見られたらしい。従業員たちは本当はやりたくもない破壊活動を、心を痛めながら、あるいは心を無にしながら取り組んだのだろう。

 「こんなことは間違っている!」と拒否する従業員がいなかったのは、従業員の意志が弱かったからではないし、彼らが不道徳な人間だからでもない。彼らが支配されているからだ(とはいえ、このような事態が起きたときにまず間違いなく観察される経営者の反応は「知らなかった」「私が命じたわけではなく、社員たちが勝手にやった」である。おそらくそのことは事実だろう。経営者が「除草剤を撒け」と直接命令するとは考えにくい。しかし、強引なノルマのために社員たちはそうせざるを得なかった。それは事実上、企業犯罪を命令されているに等しい)。

 こういった大規模な企業犯罪は極端な事例だが、これに近い経験は会社員なら身に覚えがあるのではないだろうか? やりたくもない法律違反や、顧客を騙すようなセールストーク。もし本当に自由に自分の意志で選択ができるのであれば拒否していたであろう小さな悪行に、手を染めざるを得ないと感じる経験。それは私たちの精神の健康を蝕み、労働を嫌悪すべき対象に仕立て上げ、日曜日にサザエさん症候群を引き起こす原因になる。

■BIによって労働が労働ではなくなる

 ここまで、支配とは「命令に従わなくては生きていけない」という状況に由来することを指摘した。そして、支配や命令によって労働者は無意味に心をすり減らしていることを確認した。裏を返せば、命令に従わなくても生きていけるのなら、支配は成立しないし、労働者が心をすり減らすこともない。もちろん、それを可能にするのはBIである。

 誰しもが、少なくとも路頭に迷うことがない金額を毎月支給されるのなら、不愉快な上司や社長、客からの命令に屈する必要はない。理不尽なノルマは跳ね除けることができるし、明らかに無用な報告書には「これ、意味ありますかね?」と反論できる。もちろん、そこまで強気に振る舞えないとしても、犯罪レベルの不祥事に手を染めたり、過労死したりするまで追い込まれる人はほとんどいなくなるはずだ。多くの人はそうなる前に、さっさとその職場を離れるだろう。

 また、先ほどカフェ店員が「労働時間が長すぎる」という愚痴をこぼすことを示唆した(このことは、人に貢献欲が無い証拠にはならない。人には食欲があるが、朝から晩まで食べ続けることは苦痛であるのと同じである)。労働時間を減らすことができないのは(ワーカホリックの場合を除けば)、たいてい金のためである。BIによって金の心配がなくなるなら、上司に時短勤務を打診する心理的ハードルは大きく下がるし、実際にそれで収入が減っても大きな問題ではなくなる。

 するとどうなるだろうか? 人は無意味だと感じる行為を命じられるときや過剰な長時間労働に対して愚痴を言い、テーブル吹きやドリンク作りに愚痴を言うわけではないことを先ほど指摘した。ならば、BIが支給される社会では、人が愚痴を言うような無意味な労働だけが消え去り、真に重要だと感じられるような、誰かに貢献するための仕事だけが残り、人々はその仕事に高いモチベーションを持って取り組むことになる。当然、ブラック企業など、生き残れるはずもない。

 確かに労働時間の削減は生じるかもしれない。だが、無駄な長時間労働のせいで過剰サービスや時間潰しの会議や報告書、こっそりとソリティアをプレイしなければならない状況が生じていることは、誰しもが同意するだろう。多少、労働時間が減ったとしても社会機能に支障をきたすほどに、人々が職場を離れていくことはないはずだ。むしろ人は社会機能を維持すること(つまり人の役に立つこと)を欲するのだから。

 山内昶『経済人類学への招待―ヒトはどう生きてきたか』によれば、世界には「労働」と「遊び」を同じ言葉で表現する人々が存在するという。おそらくBIが支給され、支配が消え去った社会においては、「労働」という言葉は必要なくなるだろう。人々は貢献欲に従い、誰かに貢献する。それはほとんど遊びと見分けがつかなくなるはずだ。

■過剰な競争は抑制される

 先ほど、自動車メーカーや中古車販売企業の不祥事について触れたが、このような不祥事はすべて競争によって引き起こされている。売上を上げなければならない。成長しなければならない。そのような動機がなければ、不祥事の多くは起こらない。また、世の中に溢れかえる不愉快な広告や、詐欺のような話術でウォーターサーバーや光回線を売りつけようとするテレフォンアポインター、街角で声をかけてくる鬱陶しいセールスマン、胡散臭いマーケティング用語を毎年のように発明するコンサルタント、山のように廃棄されるコンビニのおにぎりや洋服も、すべて売上を上げるため、言い換えれば競争のために存在している。

 斉藤幸平のベストセラー『人新生の「資本論」』でも指摘されているように、企業(資本とも言い換えられる)は利潤追求や競争のために、様々な問題を引き起こしている。

 しかし、ここで注目したいのは、「何がそうさせるのか?」である。

 斉藤幸平のような左翼は、企業や資本が自動的な運動によって利潤を追求しているように資本主義社会を描写しているが、それを駆動しているの一人ひとりの人間である。具体的には経営者や株主、労働者である。彼らの動機は「フェラーリを乗り回したい」という底抜けの欲望かもしれないが、大抵は「安心して暮らすだけの蓄えが欲しい」といったものではないだろうか? だから株主(それは安心を追い求める人々の願いを管理する年金機構だったりもする)は利潤の追求を企業に要求し、経営者はその要求に屈する。そして経営者の利潤追求命令に管理職は従い、管理職は部下に発破をかける。結果、様々な問題が起きている。BIによって安心がもたらされたなら、利潤追求動機も薄れ、問題は解決されていくだろう。

 それに、利潤を追求すべく手足を動かす労働者たちが、不愉快な命令を拒否できる状況にあるなら、誰が一日に百件もテレアポをしてウォーターサーバーを売りつけようと思うだろうか? 誰がわざとバツ印を押しづらいように計算された広告をデザインしようと思うだろうか? 誰が大量に廃棄されることがわかりきっている恵方巻きを作ろうと思うだろうか? 彼らが命令に従うのは、支配されているからなのだ。

 資本主義が有害なのは競争があるからである。そして、競争には支配が必要である。BIによって人々が支配から解放されたなら、競争も止まる。それでも利潤を追求しようとする経営者は、さながら空っぽのモンスターボールで戦おうとするポケモントレーナーのような存在に成り下がるだろう。

 もちろん、BIが実現した社会においても、怠惰にネットゲームに興じる人々の一団は存在するだろう。しかし、すでに現代社会には無駄な労働が膨大に存在しているのである。ちょっとやそっと怠ける人々が現れたところで、さほど困らないだろう。

■BIとは金という名の権力の分配

 ここまでの議論で明らかになったのは、金は人をコントロールする力として機能している事実である。「人をコントロールする力」とはすなわち「権力」を意味する。つまり、金とは権力なのだ。

 BIとは、言い換えれば万人に最低レベルの権力を分配する制度である。最低レベルの権力とは、誰かの支配に屈しなくて済むだけの権力を意味する。つまりBIとは支配からの解放である。

 なるほど、「人は支配を欲する」といった言説が一定数存在することを、私も知らないではない。だが、仮に支配を欲する人がいたとしても、彼が支配を拒否できるだけの権力を有していることがマイナスに働くことはない。彼が望むなら、彼が誰かに支配されることは常に可能だからである。

 そして人々が支配から解放されれば、この社会に存在するあらゆる問題が解決されていく。次章では、そのことを確認していこう。

第五章 BIが引き起こす様々なメリット

 四章では、BIの骨子が支配からの解放であることを指摘した。支配からの解放は、単なる労働問題の解消にとどまらず、ありとあらゆる問題を解決していくと私は考える。

 どういうことか? 順を追って見ていこう。

■家族や学校のトラブル解消

 上司に不満を持つ会社員がいつでも離れられるのと同じように、例えば夫の暴力によって支配されている女性も、いつでも家庭を離れることができる。BIのない社会では、子どもを持つ女性が離婚した途端に夫の稼ぎを頼ることができなくなり、貧困に突き落とされる。子を想う親ならば、多少の暴力にも耐えてしまうだろう。しかし、BIが自分や子どもにも支給されるなら、暴力に耐える必要がなくなる。即座に離婚すればいいのだ(日本中で離婚ラッシュが巻き起こるリスクがあるとしても、子どもや女性が暴力に耐えなければならない状況よりもマシであることに異論はないだろう)。

 そもそも、労働のストレスが著しく減少した社会(かつ、いつでも妻や子どもが自分の元を離れることが可能であると分かりきっている社会)で、妻に対して暴力を振るうような男がどれだけいるかも疑問だろう。彼だって妻や子どもを必要としているはずだ。少なくともBIがない社会に生きていた頃よりは、家族を大切にしようと思うはずだ。

 また、いじめ問題も同様である。誰かにいじめられても学校を離れられない主要な原因は、学校を辞めれば将来まともな仕事につくことができず、路頭に迷う可能性があるからだ。BIによって路頭に迷う可能性が排除されたなら、今よりも「逃げる」という選択を取ることが容易になる。親の方も懐に余裕が生まれ、モンテッソーリ学校といった公立学校以外のオルタナティブ教育を検討することが可能になる。

■家族の形は変わっていく

 さて、このような社会でも、家庭内暴力に悩まされる子どもや、学校に居場所がないに子どもが完全にゼロにはなるまい。だが、BIのある社会ならば、そんな子どもがトー横やグリ下でたむろしているなら、「うちで面倒みようか?」と声をかけることも比較的、容易だろう。

 子どもを一人引き取れば、その子に支給されるBIも家計の足しになる。子ども一人分の食費や光熱費なら、BIのごく一部で賄うことが可能だ。これからの日本に、かつての子ども部屋と、貢献欲を持て余した独居老人が増えることを考慮すれば、家出少年の引き取り手はいくらでもいるはずだ。

 そもそも「生みの親より育ての親」という言葉があるくらい、血縁というのは曖昧な概念である(人間は親子でなくてもDNDが九九パーセントは一致している)。私たちは血縁があるから子どもを大切にするのではなく、目の前にいるから子どもを大切にする。

 法務省がまとめる犯罪白書によれば、殺人の約半数は家庭内で起きている。むしろ血縁という概念に縛られすぎて、そこから逃れられないストレスの方が、現代社会に害をもたらしている可能性が高いのではないだろうか。

 「そんなことでは家族の絆が失われる」と感じる人もいるかもしれない。だが、生殺与奪の権を握ることで強制的に保たれている絆など、本当の絆と呼べるだろうか? 真の絆とは、いつでもそこから離れられるが、それでも一緒にいたいと感じることを意味するのではないだろうか?

■少子化解決

 いつでも離れられるとは言え、あちこちで家族崩壊が起きるような事態にはならないだろう。なぜなら、家庭内トラブルの主要な原因の一つである子育て問題も、解決に向かうと考えられるからである。

 子どもの分もBIが支給されるなら、親たちは安心して子どもを産める。慌ただしく保育所に預けて、無理に働く必要もなくなる。じっくり子育てに専念すれば良い。

 また、長期の育休を取得することによって昇進が危うくなったとしても路頭に迷うことがないのなら、男性の育児参加も進むことは間違いない。子育てにまつわる負担の押し付け合いや、金銭に関する意見の食い違いなど、問題の多くは解決に向かうだろう。

 そして、その結果、少子化は解決に向かう。異次元の少子化対策とは、BIに相応しい呼称だろう。

■健康問題の改善

 これまで指摘したように、BIは労働を喜びに変え、家庭や学校でのトラブルを減らす。そのような社会で精神を病む人が果たしてどれだけいるだろうか? ストレスから暴飲暴食、アルコールやタバコに走り、体を壊す人がどれだけいるだろうか? そもそも、貧困が健康に悪影響を及ぼすことは、様々な研究で指摘されているし、私たちの日常感覚とも一致する(三章で取り上げたルドガー・ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』においても、フリーマネーが健康に良い影響を与えた例が列挙されている)。

 どの程度の改善が見られるかは、やってみなければわからない。だが、良い影響があることは間違いないだろう。そして、必然的に医療保険の財政的な負担も軽減されることになる(私は国債発行によってBIの財源を賄って問題ないと主張したが、それでもできることなら国債発行の額は少ない方が良いことは間違いない)。

■犯罪率の低下

 健康問題と同様に、貧困と犯罪率の相関関係はよく知られているし、私たちの日常感覚とも一致する。「衣食足りて礼節を知る」なのだ。

 そもそも、未来永劫まで生活が保証されている社会で、誰が強盗や空き巣、殺人、詐欺を働くだろうか? 先述の通り、殺人の半数は家庭内で起きていて、BIが実現した社会では誰もが簡単に家庭から逃れることができるのだ。罪を犯すまでストレスを溜め込む人など、ほとんどいなくなるだろう。

 また、再犯率も低下していくことは間違いない。法務省によれば、二〇二〇年の再犯率は四九パーセントであった。このうち、犯罪を愛するどうしようもないサイコキラーはどれだけいるだろうか? 大半は、社会復帰しようにも過去の経歴を理由に採用を拒まれ、生活に困窮した結果、再犯を犯しているのではないだろうか?

 犯罪率の低下は、警察、検察、裁判所、刑務所にまつわる膨大な税金の削減を可能にする。このことは健康問題と同じように、財政の健全化に貢献するはずだ。

■環境問題の改善

 四章で指摘した通り、人々が支配から解放されれば、競争が抑制される。競争が抑制されるならば、わざわざ必要もない商品を売りつけることもないし、売れ残る商品を作る必要もない。無意味な労働のために建てられたオフィスビルや、それに使用されるパソコンの製造、エネルギーなど、すべて必要なくなる。

 必然的に、環境問題は改善に向かっていくだろう。そもそも、好き好んで川に汚染物質を流したり、原生林を切り開こうとする人などいるはずもない。彼らも食い扶持のためにやっているのであり、できることなら石油を掘り出すことなく地中にとどめ、生態系を守り、海面上昇を防ぎたいと考えているはずだ(二酸化炭素が温暖化の原因なのかどうかは、私にはわからない。だが、それでも好き好んで二酸化炭素を排出したい人などいるはずもない)。

 クーラーの温度を二八度に設定したり、プラスチックを何十種類も分別したりするくらいなら、環境なんて破壊されれば良いと考える人は多いだろう。だが、必要以上の労働を止めることで、BIが配られることで環境が守られるならば、万人がメリットを感じられるはずだ。

 企業は私たちがマイバッグを持ち歩けば環境問題が解決されるかのように喧伝するが、そうではない。企業は売れ残るほどにマイバッグを作るからである。企業の競争と労働を減らすことが環境問題解決への最大の有効打になることは間違いない。

 私は清貧思想を唱えているわけではない。私は人々が必要とするネットゲームや漫画、レジャー施設をなくすべきと主張しているのではなく、人々が必要としない広告や廃棄される商品、不要な労働をなくすべきであると主張しているのだ。私たちは生活に十分に満足しながら、環境問題を解決していくことができるだろう。

■イノベーションの活性化

 さて、ここまで私は競争を悪者であるかのように描写してきた。これに対して「競争があるからこそ、イノベーションが活性化し、社会が発展してきたのだ」と反論したくてウズウズしている人もいるかもしれない。だが、テクノロジーの発展に関する書物(例えば、ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ 天才、ハッカー、ギークがおりなすデジタル革命史』やクリス・ミラー『半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』など)を紐解けば、近年達成されたイノベーションの大半(例えばインターネットやコンピューターなど)は税金によって研究費を賄われた軍事技術の転用であることがすぐさま明らかになる。軍事技術の研究は当然、赤字であり、利益は眼中にない。真に重要なイノベーションが登場して即座に利益を上げることは稀であり、大半は、イノベーションが社会に普及するまでの間は赤字を垂れ流すのが普通である。このことから、イノベーションとは競争の外側にいる人々が起こすと考えるのが自然ではないだろうか?

 となると、BIによってイノベーションは停滞するどころか、むしろ加速するとすら考えられる。なぜなら、当面は金を稼げないような研究にも、没頭することが可能になるからである。デヴィッド・グレーバーが『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』で指摘するように、今や研究者は、重要な研究に取り組むためではなく、「自分の研究は重要である」とアピールするための書類仕事に時間を費やしている。「重要」とは「金を稼ぐ見込みがある」とほぼ同義である。「金を稼ぐ見込みがあるから、投資をしてくれ」と呼びかけなければ、研究者は研究に没頭する金を得ることができないのだ。そして、そんなことを繰り返しているうちに、研究のための時間が失われているのである。

 そもそも競争が行き過ぎた二一世紀においては、イノベーションはほぼ停滞している。電子レンジや冷蔵庫、カラーテレビといったイノベーションが次々起こった二十世紀に比べて、現代のイノベーションの貧弱さには落胆させられる。カメラの数や充電方法の変更くらいしかアピールすることがなくなったiPhone。「世界を変えるテクノロジー!」と喧伝されるも、今やすっかり忘れ去られたブロックチェーンや5G、NFT。ChatGPTも、所詮は流行りのおもちゃであり、ハンドスピナーと変わらない。数年も経てば忘れ去られるだろう。

 余談だが、私は「AIやロボットによって労働が代替されるからBIが実現可能である(BIによって富を分配しなければならない)」と主張しているわけではない。なぜなら、社会を成立させるのに必要な労働を代替するだけの性能をAIもロボットも持ち合わせていないからである。カフェ店員の仕事はコーヒーを淹れてレジを打つだけではない。テーブルを拭き、客席に落ちているゴミを拾い、ベビーカーの客のためにテーブルを整え、トイレを掃除し、サンドイッチを補充する。これだけの労働を代替するにはドラえもんレベルのロボットが必要だろうが、人類が二一世紀のうちにドラえもんを生み出せるなどと信じる人はどこにもいないだろう。

 ChatGPTはたかだか文章を打ち込んでくれるだけである。文章を食って生きていくことはできない。ロボットはせいぜい配膳してくれる程度である。配膳だけが飲食店の仕事ではない。

 私が「BIによって労働が労働でなくなる」と主張するのは、支配関係が崩壊すれば、苦行とされてきたテーブルを拭くような作業が、本当は喜びに満ち溢れていることに人々が気づくという意味である。「AIで自動化されて仕事がなくなるからBIを配ろう」という安易なテクノロジー楽観論は、端的に誤っているのである。

第六章 価値観はどう変わるか?

 ここまで、BIがもたらすメリットを列挙してきた。だが、おそらく良い影響はこれだけにとどまることはない。これまで人々を支配してきた「金を稼がなければならない」という焦燥感が消え去ったとき、社会に蔓延している様々な価値観も変容を迫られることになる。価値観がどのように変わるのかを正確に描写することは不可能だが、それでも大まかに素描することは可能だろう。具体的に見ていこう。

■学歴至上主義の終焉

 「安定」という言葉に魅了されない現代人は多くない。人々は自分の暮らしを安定させるために少しでも良い大学に入ろうとし、大手企業にエントリーシートを送る。しかしBIが支給される社会においては、良い大学や大手企業に入らなくても、万人が一生路頭に迷わないという意味の「安定」を手にすることになる。そうなると、安定志向は意味をなさなくなるだろう。

 「そんなことになれば、誰も努力しなくなり、経済は停滞する」とBI反対論者は指摘するかもしれない。だが、よくよく考えて欲しい。現代の日本は誰しもが安定志向に取り憑かれ、受験戦争に膨大な努力を傾けているにもかかわらず、GDPは停滞しているのだ。

 いまや大学全入時代である。大卒者の割合は右肩上がりで増加していることは疑いようがない。参議院の調査室が発行する『経済のプリズム』によれば、一九七一年頃から比べて、子ども一人あたりの教育費は約十五倍に増えている。物価上昇を考慮したとしても驚異的な伸び率だろう。

 先ほどのBI反対論者は、人々が教育に投資すればするほど、社会は発展し、経済が成長することを暗に前提としているわけだが、実態とはかけ離れている。事実、教育投資が右肩上がりなのに対し、経済は停滞しているのが現代日本なのだ(日本に顕著な傾向であるが、日本に限った話ではない。世界中が似たようなものである)。

 このことから、受験戦争が椅子取りゲームと化しているという結論を避けるのはむずかしい。大企業の美味しいポジションにつくために子どもたちが学習机に磔にされているだけであり、それによって社会が発展しているわけではないのだ。

 子どもたちが好き好んで楽しそうに勉強しているなら、何の問題もない。しかし、教育産業に不安を煽られたヒステリックな教育ママに強いられていて、ゼロサムゲームで負けないために嫌々勉強しているのであれば、全員でさっさとやめた方がいいことは明らかだろう。

 もちろん、私は教育ママを批判しているわけではない。BIのない社会で子どもの幸福を考えれば、勉強して一流企業に就職して、路頭に迷わないだけの安定を手にして欲しいと願うのは真っ当な親心だろう。また、教育産業を批判しているわけでもない。教育産業に生きる人々が食い扶持を稼ぐためには、教育ママの不安を煽って金を稼ごうとするのはやむを得ない。

 しかし、BIによって安定志向という焦燥感が消え去ったなら、無理に勉強する必要はない。子どもたちは楽しそうに河川敷で遊び回ればいいのである。

 もちろん、勉強したい子どもからも教育機会を取り上げる必要はない。分子生物学に魅了された子どもが大学に進学して勉強するなら、それはそれで素晴らしいことである。きっと、BIがある社会なら、焦燥感に駆られた教育ではなく、学ぶこと本来の喜びにもっとフォーカスされるようになるだろう。そのような社会の方がイノベーションが頻繁に起きることは、想像に難くない。

■エッセンシャルワーカーの地位向上

 デヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で指摘したように、保育士や介護士、ごみ収集員、トラックドライバー、農家といった重要な社会機能を担うエッセンシャルワーカーほど賃金が安いことは周知の事実だろう。そして、賃金が安い分、「底辺職」だなんだとバカにされ、人手不足が加速する。コロナ禍ではエッセンシャルワーカーがヒーロー扱いされることもあったが、残念ながら一過性のブームに終わり、介護士の給料を上げるためのデモが各地で繰り広げられることも、大学生がこぞってごみ収集人の仕事にエントリーすることもなかった。

 しかし、人々がかつてほど「安定」を欲しなくなれば、こうした低賃金の仕事にチャレンジする人も増えていくだろう。そして、彼らの存在無くしては、社会が成立しないことにも、いっそう注目が集まるだろう。

 先ほど私はAIやロボットが労働を代替することはないと主張した。私がそう主張しなければならないほどに「近いうちにAIやロボットが労働を代替する」という言論はまかり通っていることは疑いようがない。

 確かにホワイトカラーの人間がエクセルをいじくったり、メールを書いたり、パワーポイントをキラキラに仕立て上げたりする作業なら、AIで代替可能だろう。だが、これらの仕事はホワイトカラー労働者が高収入を得ている根拠にはなっているものの、現実の財やサービスを生み出しているわけではない。現実の財やサービスは人間が体を動かさなければ(あるいは体を動かして機械を動かさなければ)生産されないものである。

 とはいえ、現代は「貢献度が高い人ほど金を稼ぐ」という実力主義が公式のイデオロギーとして採用されている時代である。ならば、高収入を得ているホワイトカラーの方が、財やサービスを生産することに貢献しているという幻想が必要となった。そうして給料の安いブルーカラー(エッセンシャルワーカーとも言い換えられる)は、さほど社会に貢献していないことにされた。ゆえに、AIがホワイトカラーの仕事を代替できるなら、社会を維持するのに必要な労働は代替できるという言説が広まっているのだ(この点は、拙著『労働なき世界』で詳しく解説している)。

 それもこれも、「金」という評価基準に私たちの視界が覆われているからこそ起きている勘違いだろう。

■金銭至上主義の終焉

 先述の通り、人々が金を儲ける理由の大部分は、安定のためである。誰もが金を欲するが故に、金を持つ者は尊敬され、金を持たないエッセンシャルワーカーが蔑視され、若くしてランボルギーニを乗り回す成功者には羨望の眼差しが向けられる。

 だが、金を儲ける必然性が失われ、金を儲ける意味を疑い始めた人々が、これまでと同様にランボルギーニに憧れ続けるかどうかは疑問である。もちろん、いつまでも高級車を乗り回し、ハイブランドを身につける人はいるだろう。だが、彼は、さながらいつまでも大日本帝国を礼賛する痛々しい右翼の街宣車のように、旧時代の遺物として人々の目に映るのではないだろうか?

 人々がランボルギーニに憧れないことは思いのほか重要である。現代社会において、金儲けにまつわるビジネス書、自己啓発セミナー、情報商材、投資詐欺は山ほど存在する。そうしたものに向けられていたエネルギーは、人類社会全体としてみれば無駄としか言いようがない。それらに注がれていた膨大なエネルギーは、全く別の、もっと人々が重要だと感じる目的のために向けられるだろう。

■政治への関心の高まり

 人々の生活に余裕が生まれれば、地域社会や政治へエネルギーを向ける余裕も生まれてくるだろう。二〇二三年の年末年を騒がせた自民党の裏金問題に限らず、政治システムに問題が多いことは明らかである。それを見て見ぬふりをするよりは、みなで働きかけて改善を求める方が良い政治が実現することは間違いないはずだ。

■ボランティア活動の活性化

 二〇二四年の元日早々、能登半島を地震が襲ったことは記憶に新しい。そして、たいていの災害においては、物資も人手も不足するのが常である。しかし、人々は会社に行かなければならないし、自分の生活にも余裕がない。せいぜいレジ前の募金箱に余った小銭を投げ入れるくらいが関の山だ。

 ところが、BIが支給されているのなら、一時仕事を休んで、瓦礫の撤去作業を手伝いに行くことも容易になる。少なくともいま以上には、ボランティア活動へ人々が関心を向けることは間違いないだろう。

■幸福度の向上

 忘れてはならないのは幸福度の向上である。いま以上に、私も幸福になるだろうし、あなたも幸福になるはずだ。なぜなら、お金を貰えるからである。お金を貰えたら嬉しい。当たり前である。

■あらゆる価値観が転倒される

 正直、日本人全員にBIが支給されるような大変革を経て、どのような変化が起きるのか、全てを予測することはできない。だが、大半が良い変化であるような気がしてならない。いまの私たちには予想もつかないような価値観や思想、哲学、文化が登場する可能性も十分にあるだろう。

 生活に困窮し、やりたくもない労働に振り回され、やりたいことに没頭する時間を得られなかった偉大な学者や芸術家は多い。貧困のせいで歴史の闇に葬り去られたダ・ヴィンチやダーウィン、夏目漱石はどれだけいるだろうか? BIのある社会では、彼らは大いに活躍するだろう。

 「貧困をバネにしたからこそ、心を打つ芸術品が生み出されたのだ」という安易な反論を振りかざす人もいるかもしれない。だが、彼らに対しては、過去の偉大な作家の大半が有閑階級出身かパトロンがいた事実、あるいはノーベル文学賞受賞者の大半を貧困家庭出身者が埋め尽くしているわけではない事実を突きつければ十分だろう。貧困を撲滅することで生み出される芸術の方が明らかに多いはずだ。

 仮に貧困が芸術の源泉なのだという主張を受け入れたとしても、芸術のために人類を貧困に突き落とそうとする行為を、道徳的に擁護できるとは思えない。

第七章 想定されるデメリット

 さて、ここで正直に認めなければならない。私はBIを盲信し過ぎていて、過度に楽観的になっているだろう(そのことを自覚してもなお、これほどのメリットが予測される政策はBI以外にないことへの確信は揺るがないわけだが)。

 少し冷静に、改めてデメリットにも目を向けよう。全くデメリットのない政策など、きっと存在しないのだから。

■移民問題

 保守寄りのBI反対論者が真っ先に指摘するデメリットはこれである。つまり「日本国民になればBIが貰えることがわかれば、移民たちが殺到するのではないか?」という疑問だ。

 私は人種差別主義者ではないものの、「移民」という言葉を見て、治安の悪化や、低賃金労働者が溢れかえることによる日本人の失業といった懸念を抱く人々の気持ちがわからないではない。ただし、BIによる移民増加の場合、このような懸念は杞憂であると、私は考える。

 まず治安悪化についてである。先述の通り、BIにはそもそも犯罪抑制の効果が期待できる。つまり、BIに引き寄せられてやってきた移民も、犯罪に走る傾向は抑制されると考えられる。

 そもそも移民が犯罪に走る原因は、仕事が見つからないことや、賃金が安いこと。それに伴って生活が苦しいことだろう。ならば、BIによって生活が保証される彼らが犯罪に走る確率は低いのではないだろうか。

 また、日本人の失業という問題についても、BI下が実現した社会ならなら杞憂に終わるだろう。失業しても路頭に迷わないのなら、失業がかつてほどの問題ではないからである。

 そもそも、今の社会においても移民たちはコンビニや工場労働といった低賃金で人手不足の仕事に就く傾向にある。むしろ、移民の労働力には助けられているのだ。移民は良いことである。

 むろん、「日本人の遺伝子が損なわれる」といった意図で移民を排斥しようとする意見には耳を傾ける必要はないだろう(いまどき、そのようなあからさまなレイシズムを標榜する人はいないだろうが)。

■生きがいが失われる問題

 BI反対論の中には「労働という生きがいが奪われた人が精神を病む」という主張が存在する。だが、これに反論することは容易である。「そういう人は働くだろう」である。誰も彼が働くことを止めはしないのだ。

 稀に、「BIによって生活が保障されたなら、能力のない人に活躍の場がなくなる」というタイプの主張も見られるが、これも明らかに誤りである。もしその理論が正しいのだとすれば、企業はBIが支給された途端に低賃金の介護職員に対して「足手まといであるあなたはBIが支給されたならクビにしても困りませんよね?」とクビにするということになる。だが、どう考えてもそうはならない。能力がない人が就くとされる低賃金の仕事の方が人手不足が甚だしいのである。そもそも企業は人が必要だから採用しているのであり、その人の生活を保障するために採用しているわけではない。

■自由に困惑する人がいる問題

 BIによって人々が支配から解放されたとしても、人々は自由に困惑し、戸惑うだけだ(だから支配されている方がマシである)という指摘も想定される。この点については四章でも言及した通りである。もし、彼が自由を手にしてもなお支配を望むのであれば、支配されればいい。彼には支配されるという自由も与えられているのだ。

■悪い人が現れる問題

 生活保護受給者をターゲットにした貧困ビジネスを例に挙げ、BIによって、そのような犯罪が蔓延することを指摘する人もいる。だが、これに関しては二種類の反論が可能だろう。

 まず一点目は、先述の通り犯罪率が下がること。そのような詐欺に手を染めるための動機すら、BI下ではほとんど失われる。

 二点目は、生活保護の囲い屋や、助成金ヤクザのような人々は、たいてい制度の複雑さを根拠に、ピンハネビジネスを展開する傾向にあるという点である。BIには、生活保護や各種の助成金のような複雑さは一切ない。ゆえにピンハネ屋が寄生する余地はほとんどないと言っていいだろう。

 もしかすると、怪しげなシェアハウスに人を集めて、怪しげな宗教を始めるような人もいるかもしれない。だが、むしろ怪しげな宗教は、人々の不安にかこつける傾向にあることから、その心配はないだろう。貧困者を食い物にするためには、人々が貧困である必要がある。だが、BI下には貧困は存在しないのだ。

 それに、もしそういうシェアハウスが現れたとしても、そこに暮らす人々が満足しているなら、何の問題があるというのだろうか? 彼らは不満があればいつでもその暮らしを抜けることができる。抜けてもBIは支給され続けるのだ。

■共産主義を知らないのか?問題

 BIのようなユートピアじみた政策を支持すれば「ふん、共産主義の失敗を知らないのか? 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという・・・」と呟く賢者気取りの批判者が現れることが常である。要するに彼が言いたいことは、BIのような平等を目指す政策には、悪い政治家にが現れたとき、富を独占する傾向があるという指摘である。

 だが、よくよく考えれば意味がわからない。なぜなら、BIを政治家が悪用したり、中抜きをしようとしても、不可能であることが明らかだからである。BIとは、全国民に一定額の金を配るだけの単純明快な政策である、利権も、秘匿性も発生しようがない。政府は単に金を垂れ流す以外にやることがないのである。悪い政治家が現れたとして、なにができるというのか?

 むしろ、今の生活保護や助成金といったシステムの方が不透明性が高く、悪い政治家や利己的な官僚が蔓延る土壌になっていることは間違いないだろう。

■無駄遣いするに決まっている問題

 「人々に金を配ったところで、あっという間に酒やタバコ、ギャンブルに消費してしまうだろう」と陰惨とした予測を立てて悦に入ることは容易である。しかし、これも少し考えれば無意味に斜に構えた厨二病的批判であることが明らかになる。

 もしこの指摘が正しいのだとすれば、いまの社会で労働し、金を稼いでいる人々の大半が消費者金融漬けになっていない理由を説明しなければならない。すると先ほどの厨二病患者は「自分で働いて稼いだ金だから大事にしているだけだ」と反論するだろう。その場合は、世間の専業主婦たちの大半が旦那の稼ぎの全てを競馬場で紙切れに変換していなければ、辻褄が合わないことになる。

 もちろん、そんな事態は起こっていない。世間の人々の大半は、自分や家族の稼ぎの中で慎ましく暮らしているのだ。BIが配られても、その状況に変わりはないだろう。

 また、度々引用して恐縮だが、ルドガー・ブレグマンの『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』においても、スラム街のジャンキーたちにフリーマネーを配った結果、薬物やタバコ、ギャンブル、酒に使用される金額は逆に減ったという事例が示されている。彼らが無駄遣いしないのであれば、一体誰が無駄遣いするだろうか?

■極端な円安

 さて、私自身、このデメリットが最も頭を悩ませている問題である。私は先ほど、国債発行によるBIによってインフレが生じるリスクは少ないと主張したが、それは国内だけに視点を向けた場合に限られる。二〇二二年頃から生じている極端な円安によって、仕入れ価格が高騰し、物価が上昇していることは、いまだに私たちの生活を苦しめている。

 国債発行を財源としたBIを日本が実施したとき、為替市場がどのような反応を示すのか、私には全くわからない。「大変だ!ベーシック・インカムなんて馬鹿げた政策を日本が実行しやがった! 日本円は終わりだ! さっさと売らなければ・・・」と為替市場が反応する可能性を、私には完全には否定することはできないのである。

 日本はエネルギーに限らず、ありとあらゆる物資を輸入に頼っている。日本人が供給を絶やさぬようにせっせと働いたとしても、みるみるうちにインフレの波がやってくる可能性は完全には排除できない。

 とは言え、これも前向きに解釈することもできる。地産地消へ移行するためのきっかけとして解釈すればいいのだ。

 例えば、日本は世界に有数の森林大国であるにもかかわらず、木材を海外から輸入している。理由は単に海外の方が人件費が安いからである。しかし、改めて考えれば、わざわざ遠くから持ってくるよりも、近場でとって近場で消費する方がエネルギー効率は高く、環境負荷が低い。それに、森は伐採によって適切に管理されなければ、草や低木が育たず、地崩れを起こすリスクも高まる。つまり、地産地消の方が合理的である。もし、円安によって海外の木材の値段が高騰すれば、国内の林業に注目が向いて、結果的に林業が活性化する方向に向かう可能性がある。

 農業も同様である。日本の食料自給率が低いことは有名だが、それだけではなく化学肥料やプラスチック製の農業資材も、ほぼ海外からの輸入に頼っている。それらの値段が高騰すれば、化学肥料を使わず、より環境負荷の低い自然農法や有機農業に注目が集まるだろう。また、耕作放棄地を生かそうとする動きも活性化するはずである。

 農業に造詣が深い方なら、私が有機農業や自然農法に夢を見がちな世田谷自然左翼であるという印象を抱くかもしれない。だが、長期的な視野に立ったときに持続可能な農法が必要であることは明らかだし、そのためのヒントは世界中に存在している(例えば、デイヴィッド・モントゴメリー『土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話』では、世界中の持続可能な農業の事例が提示されていて、それらの手法が世界人口を賄うに十分であることが論じられている)。また、化学肥料が発明されたのと同じように、より生産性の高い自然農法が発明される可能性だってあるのだ。要するに「なんとかなるやろ。というか、なんとかしなければならない」ということだ。

 BIには、物価の高い都市から地方へと人を移動させる効果も期待できる。相乗効果で、国内の林業や農業が活性化されていくと見込んでも、さほど検討はずれとは言えないはずだ。

 また、エネルギー価格の高騰は、車社会の見直しや、再生可能エネルギーへ注目といった良い影響ももたらすだろう。車社会には、環境負荷だけではない、見えないコストが存在することは宇沢弘文も『自動車の社会的費用』で指摘する通りである。

 このグローバル社会において、全てを地産地消で賄うことはできないだろうし、そうする必要もない。だが、これだけSDGsが騒ぎ立てられているのである。可能な範囲で地産地消に回帰していくことは重要だろう。

 そもそも、現代においてグローバルサプライチェーンは果たして効率的なのか?という疑問も存在している。効率とは、コストの重要性と成果の重要性によって図られる。石油を燃やすことや、安い労働力をこき使うというコストが重要ではなく、大量に物を作るという成果が重要だった時代には、地球の裏側から物を輸入することは効率が良かった。だが、どうやら石油を燃やすと悪い影響が出ることや、安い労働力にも人権があることが理解され、かつてほどに大量の物を必要とせず物余りの時代になったいま、グローバルサプライチェーンは効率が悪いのではないだろうか?

 円安と物価上昇は混乱をもたらすかもしれない。だが、他のさまざまなメリットを引き起こすためのショック療法と考えれば、目を瞑ってもいいのではないだろうか? 少なくとも私たちは、かなり大規模に非効率なことをやっているのだ。ならば、変革に伴う多少の混乱は止むを得ない。

■感情的な反発

 ある意味でこれが一番厄介な問題である。つまり「BIには反対する人がいる。だからBIは実現しない」という問題だ。とは言え、これに関しては私がまさにいま、解決に向けて取り組んでいる最中である。BIのメリットを地道に伝えていく。これしか解決策はあるまい。

 BIに反対する気持ちもわからないではない。BIに賛成することは、一見するとアホっぽいからだ。「ていうかさ、金配ればよくね?」という発想は、世間の厳しさを何も知らない馬鹿による短絡的な思いつきに見えてしまうのだ。

 世間の大人たちは、自分は頭の良い人物だと周囲に見せびらかすチャンスを強迫症的に伺っている。ならば馬鹿による思いつきを「ほんまやな・・・」と受け入れるわけにはいかない。そうすれば「馬鹿が思いついたような短絡的なアイデアを、自分が思いつかなかった(つまり自分は馬鹿よりも馬鹿)」という事実が周囲に提示されるからである。

 しかし「そう美味い話はなくてね・・・」と説教を垂れるならば、「馬鹿の短絡的なアイデアはとっくに思いついていたが、自分は賢明にもデメリットを見抜き、即座に飛びつくことなく思いとどまっている」という事実を周囲に見せつけることが可能になる。世間に存在するBI反対論の根底には、この力学が働いているような気がしてならない。

 楽観的な見立てをすることは勇気がいる。「馬鹿と思われてもいい」と覚悟する勇気である。それだけの勇気を持ち合わせている人は少ないだろう。

 だが、幸にしてBIへの注目度は高まる一方である。賛成派の意見もところどころに見られる。

 それでも、BIの議論はまだまだ十分ではない。「社会保障費が一本化できる」といった表層的なメリットを提示するだけで満足する賛成派も多いし、これまでに私が反論してきたような浅薄な批判で満足して賛成派を論破したかのような顔をする反対派も多い。

 私はもっと踏み込んで議論をしたい。BIの議論を次のステージに進めたい。そのためには、「人間とはなにか?」「労働とはなにか?」「金とはなにか?」といった根源的な問いにまで到達する必要があると考え、それを本書で一部試みた。とはいえ、なにもニーチェやカントの著書のような小難しい話ではない。これらの問いを考察するにあたって、「アプリオリ」や「永劫回帰」といった難解な哲学用語は必要ない。私たちの日常にあふれた言葉で、私たちの日常的な経験から、語るだけでいい。真に重要な洞察とは、むしろ日常の中にしかない。

 私たちの日常的な経験は、人々の大半が貢献を欲望することを示し、BIによってユートピアが訪れることを示唆する。しかし、私たちの頭の中にある「人間は怠惰で、利己的である」という頑固にこべりついた常識が、BIの実現を邪魔している。

 この常識を剥がすために、これからも私は日常の言葉で語り続けることとしよう。

結論

■BIが全ての社会問題を解決する

 さて、回り道をしてデメリットにも目を向けてきたが、私の結論は変わらない。既存の社会保障の大部分を据え置きにし、国債発行(通貨発行)を財源としたBIを支給することで、全ての社会問題が解決解決される。時間をかけて犯罪や医療保険、少子化といった社会問題が解決されていくことで、様々な政府支出は改善されていくと、私は見込んでいる。

 そして人々が労働という名の支配から解放され、誰かへ貢献することの喜びが再び見出される。競争がもたらしていた不要な労働や環境破壊も消えていく。

 私は、その社会をユートピアと呼びたいという誘惑に抗うことができない。BIが実現した社会とは、紛れもなくユートピアである。

 もちろん、「そんなにうまくいくはずがない」と私の議論を一蹴することは可能だろう。だが、逆に聞きたい。「BI以外で、これらの問題をどうやって解決するのだ?」と。

 ペットボトルを分別すれば環境問題は解決するのか? 電気自動車を増やせばいいのか? それとも世界中の二酸化炭素を吸収する機械でも作るつもりなのか?

 保育所をいくつ増やせば少子化は解決されるのか? 全女性の卵子を凍結しておけばいいのか? 金がないのにどうやって子どもを産めというのか?

 健康問題を解決するには人々が毎朝ジョギングをすればいいのか? あと何種類のワクチンを打てばいいのか? 精神科に列を作る人々を健康にするためには、あとどれだけの新薬が開発されればいいのか?

 犯罪を無くすには監視カメラの数を倍にすればいいのか? 学校で「犯罪はダメだ」と教えて回ればいいのか?

 そのための税収を増やすために経済成長すればいいのか? DXを推進し、ジョブ型雇用に切り替え、人生百年時代へ向けたリカレント教育を普及させつつ、子どもたちにはプログラミングと英語を教えればいいのか?

 それで、何か成果は得られそうだろうか?

 どう考えても、そんな解決策の方が現実味がないように思われる。あぁだこうだと議論している間に、危機はジリジリと私たちの方に迫っている。

 時間は多くはない。もうBIしかない。他に選択肢はないのだ。

補論 そもそもBIとはなにか?

 さて、ここまでの議論で私の伝えたい点は十分に伝えられたと思われる。が、この先は、より込み入った議論に踏み込んでいきたい。BIとは金という存在の性質の変容を余儀なくする革命的なシステムだが、それを理解するためには、まず金がなんであり、どのように発行されているかを理解しなければならない。その点について詳しく解説しよう。また、巷でよく言われる「AIの発展によりBIが必要とされる」というテクノロジー楽観論についても、改めて補足していきたい。

■通貨発行の方法

 そもそも通貨がどのように発行されているのかについて確認していきたい。細かい点は経済学の教科書でも読んでくれればいいのだが、概要だけ述べていこう。まず日本で通貨が供給される前には、政府が国債を発行して政府支出を行う必要がある。それを民間銀行が買い取ることで、民間銀行は政府に金を貸し付ける。その後、民間銀行が保有する国債を、日本銀行が買い取る「買いオペレーション」と呼ばれるプロセスを踏んで、日本銀行は金を民間銀行に供給し、これにて市場に金が供給されたことになる。日本銀行が保有する国債を政府は返済する必要はなく、日本政府は利息だけを日本銀行に支払うことになる。そして日本銀行に支払われた利息は国庫納付金として日本政府に返ってくる。

 ややこしいプロセスだがなにが起きているのかを概観してみるといい。日本銀行は政府の子会社である。たんに政府と日本銀行の集合体(一般に統合政府と呼ばれる)が打ち出の小槌から金を発行しただけなのだ。そして、日本銀行が発行する金を人々は受け取る義務があると、法的に定められている(日本銀行法第四六条第二項)。言い換えれば、日本政府は国民に命令し、その対価として無制限に発行できる金を手渡しているわけだ。

 こんなふうに考えれば、すんなり理解できるだろう。不良A(=日本政府)がいじめられっ子A(=国民)に命令し、から揚げ弁当をつくらせたとする。不良Aはその対価として1ペリカ分の国債を手渡す。そして、いじめられっこAはその国債を不良Bのところにもっていけば、手書きの1ペリカと交換してもらえる。いじめられっ子Aはいじめられっ子Bにペリカを支払わなければ焼きそばパンを購入することができない。また、稀に「税」と称して不良Aがペリカを押収しにやってきて、支払いができなければボコボコに殴られて体育倉庫(=刑務所)に監禁される。なので、ペリカを受け取らざるを得ない。そして、不良Aと不良Bは裏でつながっている。彼らは自分たちがノーリスクで無限に生み出せるペリカをつかって、いじめられっ子たちが提供する焼きそばパンを買うことができる。つまり、国家とは、大義名分で粉飾された不良集団なのだ。不良たちは、永遠にいじめられっ子たちに貸しをつくりつづけている。ペリカ(=日本銀行券)すら見方を変えれば、不良Bの負債なのだ。事実、不良B(=日本銀行)のバランスシートをみれば、数千兆円の発行銀行券が負債の部に計上されている。これは、日本銀行と日本政府がこれまで累積させてきた国民への負債であると同時に、日本社会に供給されてきた紙幣の額でもある。あなたの財布に一万円札が入っているなら、あなたは統合政府に対して一万円分の貸しがあることを意味するのだ。そして統合政府は、税としてその貸しを帳消しにしようとする。それを拒否すれば私たちは警察の暴力によって抑え込まれて、刑務所にぶち込まれることになる。つまり、税を払う瞬間、私たちは統合政府の暴力によって、負債を踏み倒されているのである。

 さて、ここまでを概観すれば、通貨の発行とは、たんなる暴力を背景とした権力行使であることが理解できるだろう。それはややこしい金融プロセスによって粉飾されているが、現実に起こっていることは、政府が国民に命令する代わりに負債を負い、その負債は永遠に塩漬けにされるか、踏み倒されているという事態である。人々は政府の物理的暴力を力の源泉とする権力(=金)を手にするため、あくせくと働いているわけだ。

■BIは政府から国民への権限移譲

 さて、このように考えればBIの正体がだんだん明らかになってくる。反対派は、BIによって政府に生殺与奪を握られ、政府の権力が増大するという反論をおこなうが、むしろ逆である。政府が供給先を決定していた権力を、強制的に国民に分配するのがBIである。つまり、他者に強制する権力を国民に対して権限移譲しているのだ。

 次のように考えれば理解しやすいだろう。あなたなら、莫大な予算を手にしながら「うーん誰に金を配ろうかなぁ・・・」と目くばせする政治家か、自動的にBIを分配されるため予算権限がほとんどない政治家か、どちらのケツを舐めたいだろうか? 私ならどう考えても前者である。そして、どう考えても権力を手にしているのは前者である。

 ただし、万人が権限移譲を受け、最低限、誰かの不愉快な命令を拒否するだけの権力を得たとき、金の強制力は弱まるだろう。人々は、どれだけ金を支払われようが、本当に自分が納得できる行為にだけ没頭することができる。つまり、金の権力が自動的に弱まっていくのである。繰り返すが、必ずしもこれはインフレを意味するわけではない。人には貢献欲があるため、自由な意志によって社会を成立させるためのサービスを供給するであろうことは、もはやあきらかだからだ。

 権力によって支配され、自発性を奪われた組織がどれほど不毛であるかについて、ビジネス書や自己啓発本は、万巻の書を記してきた。そして、権限移譲が行われ、自由に振る舞うことのできる組織の方が、人々がイキイキと活躍し、高い生産性を示すことは、経営学者や心理学者たちの共通見解であろう。BIとは、それを社会全体に適用するというだけの話なのである。

■AIとBIは無関係

 AIとロボットによって労働が代替され、街が失業者で溢れかえる前にBIを配るべきであると主張するテクノロジー楽観論者は多い。だが、なぜそんな言説を信じられるのか、私には信じがたい。現代のAIやロボットなど、お茶くみすらできないし、テーブルを拭き上げるのも一苦労。ホッチキスの芯を入れ替えることにすら膨大な時間を費やすだろう。私は興奮したテクノロジー楽観論者に「これをみたらシンギュラリティの到来を実感できる!」と最新のロボットの動画を見せられたことがあるが、ロボットが人間の指示を受けて皿をつかんでのろのろとカゴの中に並べるというだけのものだった。たしかにすごいが、そんな木偶の坊に中華料理屋の運営を一任できる日が来るとは思えない。「皿をカゴに入れることができます!」とアピールする人物が面接にやってきたとして、そんな奴を誰が採用しようと言うのか?

 なるほどホワイトカラーの労働は幾分か効率化されるかもしれない。だが、そもそもホワイトカラー労働の大半はブルシット・ジョブ化しているのだ。無意味な労働を効率化したところで、効率的に無意味な労働が生み出されるだけではないだろうか。たとえば、プレゼン用のパワポを自動生成してくれるAIが登場したなら、世界中にゴミのようなパワポが量産され、それを確認したり、修正したりする手間も増える。「AIのつくった資料だけでは信用ならん!」と言い始める連中をなだめすかせるために人力も動員される。逆に「ところでこの資料について、AIはなんて言ってるの? え、AIも活用していないの? それじゃあ通用しないよ」などと言って、これまでなら必要とされていなかった労働も増える。「ビジネスにAIを!」などと言って情報商材じみた広告をやたらめったら見かけるようになったが、そのために動員された労働量はいったいどれほどのものだろうか? その結果、なにかが効率化されただろうか? 減った労働量と増えた労働量はどっちが多いだろうか?

 シンギュラリティがやってくるという言説は、イーロン・マスクやサム・アルトマンのポジショントークであり、ノストラダムスの大予言のようなものである。私たちはIT長者を神の如く崇めているため、彼らの言葉を妄信しているが、彼らも私たちと変わりのないホモ・サピエンスである。私は来るわけがないと断言したい。二〇四五年までにシンギュラリティがやってきて人口の九割が失業していたとすれば、私は腹を切ってもいい。

 そもそも労働をAIやロボットによって代替するのは構わないが、非効率であると指摘せざるを得ない。本書で散々書いてきたとおり、他者への貢献とはそれ自体が苦痛であるわけではなく、自発的に取り組まれたなら遊びのようなものである。だったら、遊びとして取り組めるような社会システムをつくる方がどう考えても効率的なのである。私たちは咀嚼を代行してくれるロボットをつくろうとは思わないし、登山道に動く歩道をつける必要を感じない。咀嚼や登山は、それ自体が楽しく、快適だからである。それと同じように、あらゆる社会貢献を遊びとして取り組むなら、わざわざ自動化する必要性はない。もちろん、自動化することや、自動化によって新たなテクノロジーの扉が開くことはいいことなのだから、自動化を拒否する必要もない。ただし、その役割は控え目なものであると考えるべきだろう。

 BIを導入すべきなのは、AIが労働を代替してしまうからではない。どのみち、そんなことは起きないのだから。それでもなお、BIを導入すべきなのである。

あとがき

 先述した通り、最近、BIに関する議論は盛り上がりつつある。しかし、十分だとは思えない。BI賛成派の主張すら「BIは社会保障を一本化するなど財政的なメリットがある」なとという枝葉末節の議論で満足している始末である。

 私から言わせれば、スマホのメリットを聞かれて「いつでも電卓が使える」と答えるようなものだ。繰り返すがBIには犯罪率の低下、環境保護、健康状態の改善など、人類が頭を悩ませていたありとあらゆる問題を解決するポテンシャルがある。それだけのメリットが想定されるのであれば、清水の舞台から飛び降りるような向こう見ずな気持ちでBIを導入してもいいとすら、私は感じている。とはいえ、それでは誰も納得しない。だからその根拠を書くしかないと決意したのだ。

 私は経済学者でも政治学者でもない、一介の自称哲学者である。そのため、不確かな情報源や、曖昧な論理構造、楽観的な希望的観測でこの本が溢れかえっていることは自覚している。

 だが、言い訳するようだが、そのことは私の主張が間違っている根拠にはならない。細かいデータが間違っていたとしても、大まかな方向性が間違っているとは限らないのだ。細かいミスを指摘していただくことは感謝し、歓迎するものの、それをもってBIに関する議論が終了したかのような顔をすることはできない。

 とにかく私は議論したいのである。BIは日本を救う・・・いや世界を救う可能性を秘めているのだ。日本が成功したなら各国は後を追い始め、世界中でBIが実現していくに違いない。それだけ重要なテーマなのだから、家庭や職場、学校や酒場のあちこちで議論が巻き起こっていて然るべきだろう。

 もちろん、BIが実現したからと言って、即座に全てが解決するわけではない。時間をかけてゆっくり良くなっていくものもあるだろうし、思いもよらなかったトラブルもあるはずだ。だが、そういうトラブルにも対処するだけの力を、私たちは持っている。

 人間とは、なんとかする生き物である。トラブルが起きても、なんとかやってきた。本質的に怠惰で、創意工夫ができず、つまらない欲望に流されるだけの生き物だったなら、アフリカのサバンナでとっくの昔にのたれ死んでいただろう。

 だから私も、私の本が誰かに届き、誰かが耳を傾けてくれることを信じたい。これからの時代をなんとかするために、私と議論してくれることを信じたい。もちろん、あなたは紛れもなくその一人である。