序文

 まったくふざけた話である。みんなが大嫌いな労働を撲滅できるかもしれないというのに、そのための哲学体系がここに存在しているというのに、その重要度と比べて注目度はあまりにも低すぎる。労働を嫌悪する人すらも、いや、労働を嫌悪する人であればあるほどに、アンチワーク哲学は無視され、冷笑され、こき下ろされてきた。なるほど、あらゆる哲学は批判を受け入れるべきではある。ただし、真の批判とはきちんと咀嚼されたのちにしか行われないものだ。咀嚼する前からこき下ろすのは、たんなる議論の却下であり、理性の敗北である。そして、常識の勝利であり、労働の勝利である。いや、不戦勝とでも言うべきであろうか。労働はいまだかつて、アンチワーク哲学と、ボブ・ブラック『労働廃絶論』を除いて、まともに攻撃を受けたことがなかった。労働という巨大な砦の門番を一人か二人小突いただけで、ラファルグやラッセルといった反労働派は満足し、祝杯をあげてきたのである。いぜんとして、労働は僕たちの目の前にそびえたっているというのに!

 あなたが労働を忌み嫌っているのだとすれば、アンチワーク哲学を知るべきである。あなたの苦しみの原因を解き明かし、その解決策を見出し、いずれは労働という砦を木っ端みじんに破壊するポテンシャルを秘めた思想は、アンチワーク哲学のほかには存在していない。だから僕は多くの人にアンチワーク哲学を知ってもらうため、『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』という入門書を出版した。しかし、入門書はあくまで入門書であり、とりこぼされた視点はいくらでも存在している。そうした些細な弱点にたいして、たくさんの批判が寄せられてきた(そのモチベーションのほんの一部でも労働への攻撃に向けられていたなら、どれだけよかったかと悔やまずにはいられない。労働を嫌悪する人びとすらも、いまや労働を守る取り巻きと化しているのだ)。とはいえ僕はすでに、想定される批判に備えるために、膨大なテキストをインターネット上に無料公開してきた。批判の太刀筋はとうの昔に見切られていて、批判ごとすでに斬られているのである。しかし、彼らは斬られていることにすら気づいていない。僕がしたためた文章はnote社のサーバーで埃をかぶっているばかりなのだ。

 本書は、その重要な論考たちの埃を払い、あらためて世に問いかける取り組みである。つまり、すでに発信された文章をそのまま本にしただけだ。とはいえ、そうでもしなければ読まれないのだ。僕はなんだってやろう。

 繰り返すが、労働は撲滅可能である。しかし、そのことに気づいている人は多くない。労働はあまりにも破壊的なので、遅かれ早かれ、いつか人類が労働と決別する日はやってくるだろう(それを信じることができないのなら、あなたは幸運である。本書は、あなたが想像したこともない刺激的な思想で溢れかえっているのだから。あぁ、記憶を消してもう一度アンチワーク哲学に出会いたい!)。未来に生じる労働の廃絶の起爆剤はアンチワーク哲学かもしれないし、そうではないかもしれない。だが、間違いなく、歴史的に重要な転換点に、僕は立っているし、これを読んでいるあなたも立っている。有史以来、人類を苦しめてきた労働が、ついに破壊されようとしているのである。奴隷解放や冷戦の終結とは比べものにならないほどの転換点であることは間違いない。