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このサイトでは、文学フリマ京都9にて販売された「なぜ労働廃絶は可能なのか?」をweb上で公開しています。
本文、イラスト、解説等、この本に関する著作権は、CC0 1.0によってすべて放棄されています。
著者
久保一真
1991年大阪府生まれ。労働の廃絶を目指しアンチワーク哲学を提唱する在野哲学者。またの名を「ホモ・ネーモ」。noteで精力的に執筆活動に取り組んでいる。著書に『労働なき世界』『働かない勇気』『シン・ベーシックインカム論』など。
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序文
まったくふざけた話である。みんなが大嫌いな労働を撲滅できるかもしれないというのに、そのための哲学体系がここに存在しているというのに、その重要度と比べて注目度はあまりにも低すぎる。労働を嫌悪する人すらも、いや、労働を嫌悪する人であればあるほどに、アンチワーク哲学は無視され、冷笑され、こき下ろされてきた。なるほど、あらゆる哲学は批判を受け入れるべきではある。ただし、真の批判とはきちんと咀嚼されたのちにしか行われないものだ。咀嚼する前からこき下ろすのは、たんなる議論の却下であり、理性の敗北である。そして、常識の勝利であり、労働の勝利である。いや、不戦勝とでも言うべきであろうか。労働はいまだかつて、アンチワーク哲学と、ボブ・ブラック『労働廃絶論』を除いて、まともに攻撃を受けたことがなかった。労働という巨大な砦の門番を一人か二人小突いただけで、ラファルグやラッセルといった反労働派は満足し、祝杯をあげてきたのである。いぜんとして、労働は僕たちの目の前にそびえたっているというのに!
あなたが労働を忌み嫌っているのだとすれば、アンチワーク哲学を知るべきである。あなたの苦しみの原因を解き明かし、その解決策を見出し、いずれは労働という砦を木っ端みじんに破壊するポテンシャルを秘めた思想は、アンチワーク哲学のほかには存在していない。だから僕は多くの人にアンチワーク哲学を知ってもらうため、『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』という入門書を出版した。しかし、入門書はあくまで入門書であり、とりこぼされた視点はいくらでも存在している。そうした些細な弱点にたいして、たくさんの批判が寄せられてきた(そのモチベーションのほんの一部でも労働への攻撃に向けられていたなら、どれだけよかったかと悔やまずにはいられない。労働を嫌悪する人びとすらも、いまや労働を守る取り巻きと化しているのだ)。とはいえ僕はすでに、想定される批判に備えるために、膨大なテキストをインターネット上に無料公開してきた。批判の太刀筋はとうの昔に見切られていて、批判ごとすでに斬られているのである。しかし、彼らは斬られていることにすら気づいていない。僕がしたためた文章はnote社のサーバーで埃をかぶっているばかりなのだ。
本書は、その重要な論考たちの埃を払い、あらためて世に問いかける取り組みである。つまり、すでに発信された文章をそのまま本にしただけだ。とはいえ、そうでもしなければ読まれないのだ。僕はなんだってやろう。
繰り返すが、労働は撲滅可能である。しかし、そのことに気づいている人は多くない。労働はあまりにも破壊的なので、遅かれ早かれ、いつか人類が労働と決別する日はやってくるだろう(それを信じることができないのなら、あなたは幸運である。本書は、あなたが想像したこともない刺激的な思想で溢れかえっているのだから。あぁ、記憶を消してもう一度アンチワーク哲学に出会いたい!)。未来に生じる労働の廃絶の起爆剤はアンチワーク哲学かもしれないし、そうではないかもしれない。だが、間違いなく、歴史的に重要な転換点に、僕は立っているし、これを読んでいるあなたも立っている。有史以来、人類を苦しめてきた労働が、ついに破壊されようとしているのである。奴隷解放や冷戦の終結とは比べものにならないほどの転換点であることは間違いない。
むかしむかし、まだ労働がなかったころ
お金も、国家もなく、みんなが好きなように耕し、好きなように家を建て、好きなように道をつくり、好きなように分け合い、好きなように食べ、好きなように歌い、好きなように眠っていた街がありました。誰かが誰かに命令するようなことはなく、みんなが好きなことだけをやっていました。食べ物も家もみんなにいきわたっていて、みんなが平等で、みんなが自由で、みんなが幸せでした。あるとき、そこに力の強い乱暴な男が生まれました。乱暴男は、同じ街の友達に殴りかかるふりをしながらこう言います。
「俺のために小麦をつくれ」
友達はこう言って断りました。 「そんな風に命令しないなら小麦をつくってあげてもいいよ。それに一緒に協力してつくってもいい。でも、その態度を改めないのなら君の言うことはきかないよ」
すると乱暴男は友達に殴りかかってきました。怪我をした友達は、街の人たちに看病をしてもらいながら、乱暴男に殴られたことを話しました。みんなは乱暴男に怒り、みんなで横暴男を懲らしめることを決めました。いくら強くても、団結されれば敵いません。乱暴男はみんなに懲らしめられ、しぶしぶ、これからは誰にも命令しないと約束しました。ところが乱暴男は、反省しませんでした。なんとかして自分の命令に従わせるために知恵を絞りました。そこで、「自分を手伝ってくれたら、お前にも略奪品を分けるよ」と仲間を集めて回ることにしました。仲間を集めた乱暴男は、ふたたび街の人たち命令しました。
「俺たちのために小麦をつくれ」
ひとりなら押さえ込められたのに、仲間をたくさん引き連れていると太刀打ちできません。街の人たちは、仕方なく乱暴男に従いました。そして、毎年毎年、小麦をつくっては乱暴男に献上しなければならなくなりました。こうして、労働が誕生しました。そして、これが税のはじまりであり、国家のはじまりでした。乱暴男は世界で最初の王様になりました。しかし、国民は一人また一人と街から離れていきます。乱暴王の命令に従って労働したくなかったからです。逃げた人たちは、ほかの街に迎え入れられました。そして「こんな乱暴な男がいたんだ」と話をしました。するとほかの街の人たちはこう言いました。
「それは酷い男だね。でも、この街にはそんな男はいないから安心してほしい。食べ物も家もみんなで分け合っているから心配しないで。労働なんてする必要はないんだよ」
さて、乱暴王はと言えば、次々に逃げ出す国民に頭を悩ませていました。そして思いつきました。
「そうだ。壁をつくらせてみんなを閉じ込めて、労働させよう」
ところが、国民は不満を口にします。
「どうして壁なんかつくる必要があるんだ?」
乱暴王は「お前たちを閉じ込めるため」だなんて口が裂けても言えません。そこでこう言いました。
「国を襲ってくる蛮族からお前たちを守るためだよ」
それでも納得しない国民はたくさんいます。乱暴王は強引に壁つくりの工事を始めさせたものの、逃げ出す国民は増え続けています。そこで乱暴王は、とある秘策を思いつきました。
「頑張って労働してくれた人には、頑張った分だけ小麦をあげるよ。だから頑張って働いてね」
乱暴王は頭のいい部下に国民の働きを記録させました。そして、それを証書に書き出して、国民に渡しました。国民はなにも貰えないよりはマシだと思って、しぶしぶ証書を受け取りました。そこにはこう書かれていました。
「小麦の収穫期にこの証書を持ってきたら、ここに書かれている分だけ小麦を分け与えるよ」
さて、国民は壁をつくるのに忙しくて、自分で食べる分の小麦をつくることができません。ほかの人たちも同じで、誰も小麦をわけてくれません。かといって乱暴王のところに証書を持っていっても「小麦の収穫期まで待て」と言われて相手にしてくれません。こうして街はお腹を空かせた人で溢れ返りました。
そんな中、ある人がアイデアを思い付きます。のちに商人と呼ばれるその人は、証書はあるのに小麦がなくて困っている人から証書を買い取り、乱暴王の代わりに小麦を渡そうと考えました。渡す小麦は、証書に書かれている量よりも少なく渡します。その後、証書を収穫期まで大切に保管しておけば、渡した量よりもたくさん小麦を乱暴王から受け取ることができます。そして、その小麦でまたたくさんの証書を受け取り、もっとたくさんの小麦を受け取り、もっともっとたくさんの証書を受け取るのです。こうして商人は証書をたくさん溜め込むようになりました。一方で国民はどんどん苦しくなりました。小麦を受け取るために、証書を受け取るために、ガムシャラに労働しました。証書のために、国民はいろんなことをしました。家を売ったり、奥さんや子どもを売り飛ばしたり、泥棒をする人もいました。気づいたときには証書は、お金と呼ばれていました。こうして世界にお金が誕生しました。
そして、壁は完成しました。乱暴王は壁を「千里の長城」と名付けました。これでいよいよ国民は外に逃げるのがむずかしくなりました。乱暴王の願いはある程度は叶いました。しかし、壁や道路を維持したり、小麦を取り立てたり、それを計算したり、やることが増えて人手が足りません。そこで乱暴王は考えました。
「奴隷を捕まえに行こう」
かつて乱暴王のもとから逃げていった人たちが身を寄せる街へ、乱暴王は仲間を連れて略奪をしに行きました。たくさんの仲間をつくり、国民に武器をつくらせている乱暴王には誰も敵いません。たくさんの人が奴隷として連れ帰られ、壁や道路、小麦をつくらされました。乱暴王にもはや敵なし。
と思いきや、遠くの街で、乱暴王の真似をする人が現れました。彼は乱暴王と同じことをしていましたが、もう少し国民に優しいフリをしていました。また、自分は神に任命された優しい王であり、国民の敵を倒すために生まれたのだと宣言しました。もちろん、それは小麦や壁をつくらせるための嘘でした。嘘つき王も、乱暴王も、たくさんの街を征服していき、いつしか二人は出会いました。嘘つき王も、乱暴王も、相手の国民を奪って働かせたい。譲り合うことはなく、戦いになりました。こうして戦争が誕生しました。
しかし、戦争は勝てればいいけれど、負ければ失うものが大きすぎます。それに、勝ったとしても相手の国民を殺したり、国民を働かせる畑が荒れてしまっては本末転倒です。乱暴王と嘘つき王は何度か戦争をしたあとにそのことに気づきました。そして、「もう、これ以上は戦争しないでおこう」と約束を結びました。こうして、お互いが自分たちの国民を働かせるだけで、満足することに決めたのです。
国民たちは戦争がなくなって喜びました。乱暴王も嘘つき王も、戦争を止めてくれたいい王様だと褒められました。それでも、国民たちはたくさん労働しなければならないことに変わりません。でも、そのころ国民たちは、それは仕方ないことだと思い始めていました。
もともと小麦をつくるのは楽しい遊びでした。みんなで協力してつくって、みんなで美味しく食べる。それだけで幸せでした。そのときは、誰がどれくらい貢献したかなんて、いちいち記録する必要はなかったのです。しかし、乱暴男によって命令され、嫌々労働させられ、それをお金で測られるうちに、国民は小麦や家、道路をつくること自体が辛くて大変で嫌な仕事なのだと思い込むようになりました。本当は強制される労働が嫌なだけなのに、人の役に立つことが嫌なことだと思い込んでしまったのです。だから、国民はお金をもらわないとやりたくないと思うようになりました。また、お金がなくて苦しんでいる人が泥棒になってしまい、乱暴王はそれを懲らしめる役割も果たしていました。だから、国民は乱暴王が必要な存在だと思い込むようになりました。乱暴王がいなければ、お金がなければ、誰も小麦や家や道路をつくらず、街は泥棒で溢れかえってしまう。そんな誤解は乱暴王にとって都合のいいものでした。乱暴王が必要であることを、国民は勝手に誤解してくれるようになったのです。
そして、いつしか乱暴王は死に、乱暴王の息子が王様になりました。息子も死に、その次の息子も死に、その次の息子も死にました。長い時間が経って、王様は政治家と呼ばれるようになり、選挙で選ばれるようになりました。お金が必要であることや、労働が必要なことは、もはや当たり前の常識になりました。王様がただの乱暴者だったことも忘れられ、国家は必要なものだとみんなが思い込むようになりました。そして王様自身も、そう信じてしまったのです。王様はもう、自分のために国民を働かせることはありません。戦争をなくし、奴隷を解放し、王様がやることは健康保険や年金、教育といった制度まで広まりました。いまでは国民のために王様が働きます。労働も、お金も、王様のために発明されたということを忘れてしまった王様は、これらを残したまま、国民が幸福になるように試行錯誤します。でも、うまくいきません。王様も国民も、国民はお金で命令し、労働させなければ、誰も食べ物や家をつくらないと思い込んでいるからです。大昔はそうではありませんでした。お金も国家も労働もない街の住人は、楽しく自由に誰かに貢献をしていたのです。でも私たちはそんなことはすっかり忘れてしまいました。お金で労働させようとするせいで、人々が怠け者になってしまっていることに気づけないのです。
そして現代では小麦や道路をつくる労働を行う人はほとんどいなくなりました。かつての商人のようにずる賢く振る舞う人がどんどん増えていて、もはや商人同士の競争でみんなが疲弊するようになりました。それでも、お金を稼ぐために努力しなければ怠けているのだと思い込まれているせいで、商人同士の無意味な競争はなくなりません。むしろ褒めたたえられてしまうのです。こうして、労働が、国家が、お金が当たり前の世界に、私たちは生きています。
めでたくなし。めでたくなし。
労働したくないあなたは怠惰ではない
人が「労働したくない」「労働はクソ」と口にするとき、他者の役に立つことを心底嫌う怠惰な存在として自分をイメージする。そして多かれ少なかれ他人も似たようなものであると考える。人間は誰しも人の役に立つようなことを嫌悪していて、だからこそ、社会を維持するために必要な労働を押し付け合い、できるだけ自分がその重荷を背負わなくて済むように、FIREを達成したり、AIによる自動化やベーシックインカムを渇望したりする・・・というわけだ。ところがその人は、友達を駅まで車で送ったり、飯をごちそうしたり、出産祝いをプレゼントしたり、車いすの客のためにエレベーターを開けておいたりするのだ。それも自らすすんで、嬉しそうに。あるいは「金ない・・・でも働きたくない」とぼやきながらパチンコ屋に並ぶ怠惰な男だって例外ではない。彼は運よくパチンコで大当たりを引いたら、「今日勝ったから奢ったるわ」と友達を呼びつける。人を喜ばせることが好きなのか、嫌いなのか、いったいどっちなのだろうか? 口先では労働を嫌悪する僕の友達はケースワーカーをやっているが、次のようにぼやいていたことがある。「クソみたいなクレームに付き合わないといけないから、本当に困っている人を助ける時間がない」と(そして彼は精神を病んで休職した)。どのような業界であっても、このような不満を耳にしないことはないであろう。「クソどうでもいい報告書のせいでサービスのための時間がとれない」だとか、「クソどうでもいいカタログスペックを追求させられるために、本当にいい製品をつくることができない」だとか。
こうした事態から次のような結論を導き出すことは、さほど不自然ではないだろう。人が労働によって精神をむしばまれ、労働を嫌悪するとき、その原因は「人の役に立つことができないから」である、と。もちろん、過度に役に立つことを強要されて病むケースもある。ワンオペの牛丼屋や、連勤と夜勤に苦しむ介護職、こうした人々は多くの時間で人の役に立つことをやっていて、その結果、これ以上他者に貢献したくないという感覚を抱く。とはいえ、彼らが他者への貢献を嫌悪することは、人が怠惰である証拠にはならないだろう。どれだけラーメンが好きであっても腹いっぱいに食べた後にさらにラーメンを食べることを強要されれば、その人は拒否する可能性が高い。だからといって、その人がラーメンが嫌いである証拠にならないのと同じである。となると、人は他者に貢献できないことや、逆に過度に他者への貢献を強いられることを嫌悪しているだけであり、本質的に貢献を嫌悪しているわけではない。むしろそれを欲しているのである。
まったく人の役に立つことのない人生を想像してみれば、そのことは明らかだろう。あなたがこれからの人生で一度たりとも他者に貢献することなく、ただひたすら貢献を受け取るだけの貴族として生きていくことを想像してみてほしい。朝起きてボーっと突っ立っていれば、美しい次女があなたを着替えさせてくれて、その間にウェイターが豪華な食事を部屋に運び込む。それを食べている間、あなたの好きなアニメや映画が流れ、あなたはボケっと鑑賞する。その後、昼食までの間はあなたを退屈させまいとゲームや漫画、スポーツなど、あなたが望む娯楽が次々に目の前に提供される。ランチやディナーは舌の肥えたあなたのために世界中からの珍味が提供され、夜には美女があなたの周りを取り囲み、全身の性感帯を刺激してくれる。なるほどそのような生活は一見すると魅力的に感じるが、一週間もしないうちに気が狂ってしまうだろう。望むならそのような生活ができる貴族や大金持ちが、慈善活動に精を出すことは周知のとおりである。それはノブレスオブブリージュを叩き込まれた結果であると僕たちはイメージするが、たんなる貴族や金持ちによる精神的自己防衛なのではないだろうか? ある意味で、怠惰でワガママな王は勤勉でもある。酒池肉林に適応するのにも一定の精神的努力が必要なはずだ。
つまり人が健康に生きるためには一定の食事が必要なのと同じように、一定の他者への貢献が必要なのである。しかし現代では、それを一切はぎとられているか、過剰に、搾取的にやらされているかの二択なのだ。
昭和の時代に精神病にかかる人が少なかったのはこれが原因ではないだろうか? 昭和の時代に求められた労働は、直接的に他者への貢献につながる可能性の方が高かった。そして、現代のように他者への貢献を行うエッセンシャルワーカーがいまほど低賃金に苦しんでいたわけではなかった。人の役に立つ労働をしていてもなお、家族を養うだけの収入を得られていた傾向にあったわけだ(中卒の労働者が、一軒家を持つことなど、今では考えられないというのに、当時は当たり前だったのだ)。むろん、危険な労働もあったし、環境破壊も著しかった。パワハラやセクハラも横行していたことだろう。だが、それでもなお、苦痛に耐え忍んで人の役に立つ労働は、人を苦痛に耐え忍ぶだけの理由を与えてくれたのだ。苦痛に耐え忍んでも人の役に立たないし、家族を食わせるための十分な収入も得られないのであれば、誰がその労働に耐えられるというのか?
年配者が「昭和の時代に比べて、現代の労働は楽になっているはずなのに、鬱とか言ってるやつは甘え」と言ってこぼす愚痴が的外れなのはこうした点だろう。なるほど、僕自身が経験していない時代を美化しすぎていることは否定できない。たんに精神病の存在が広く認知された結果「俺も鬱! だから救ってくれ!」というかまってちゃん弱者ムーブに、ゆとりに慣れ切った人々が飛びついているだけという側面もあるだろう。しかし、この状況はそれだけでは到底説明できない。説明できないにもかかわらず根性論ですべてを説明してしまえば、人が人の役に立つためには根性が必要であるという風潮をより強めてしまう。奮い立たせた根性によって自らの怠惰な本性に逆らう行動をとらない限り、人が他者に貢献することはないという価値観を、人々により強く植え付けてしまうのだ。
人は怠惰ではない。他者への貢献を欲望している。つまり、貢献欲を持っている。もちろん、それは人間が持つあまたの欲望の一つにすぎない。それでも、あきらかに強力な欲望である。自分で食えばいいのに、わざわざ鳩に食パンをちぎって与えるホームレス。セックスできるわけでもないのにパパ活に勤しむおっさん。自己犠牲的に推しに貢ごうとする若いオタクたち。こうした形で貢献欲を発散させなければ、彼ら彼女らは精神を保つことができないのだろう。
もしかすると「いや、それは自らの評判を高めるなど見返りを求めるための行為であって、他者への貢献を欲望しているわけではない」と人々は反論するかもしれない。もちろん、そう解釈することもできる。だが、その人が純度100%の貢献の心で満たされていなければ貢献を欲望したことにならず、逆に1%でも見返りを求める欲望があったなら「見返りを欲望している」と認定する理由はなんなのか? それは「人間は怠惰で、利己的である」というドグマを守りたいからに他ならないのではないか? ドグマを捨てて、もう一度、事実を冷静に、色眼鏡なく観察してみよう。人は見返りを求めることもあるし、貢献することそのものを欲望することもある。どちらの事態もそれなりに観察される。なら、人には多様な欲望があると結論づけるのが、知的に誠実な態度ではないか。
人は見返りを欲望するのと同じように、多かれ少なかれ貢献を欲望する。だが、その欲望は抑圧されているか、搾取されている。そういう社会システムが成立していることを否定できる人はいまい。なら、社会システムに問題がある。 人が怠惰なのではない。あなたが怠惰なのではない。むしろ社会の方が怠惰なのだ。人の貢献欲を適切に引き出し、人々が満足感を抱きながら他者に貢献できる社会システムを生み出すという、社会と呼ばれる存在が果たすべき役割を放棄しているのだ。
そろそろこの状況を変えなければならない。アンチワーク哲学によって。
労働と労働以外はなにがちがうのか?
会社の飲み会が労働かどうかについてのお馴染みの議論がある。「会社の飲み会に残業代が出ますか?」と質問してくるZ世代の新人サラリーマンにとっては、紛れもなく労働であろう。しかし、当たり前だが飲み会に残業代は出ない。会社サイドは、それはあくまで自発的に参加する飲み会であり労働ではないと主張し、給料を支払おうとはしないだろう。つまり建前上は自由参加であり、労働ではないのである。ただし、「自由参加ですよね? 私は参加しません」と強引に拒否する新入社員はどうなるか? 上司たちは「アイツはダメなやつだ・・・」と、新入社員の悪口を肴に酒を飲む。そして、新入社員は昇進できず、村八分に合う可能性が高い。結果、そうした不利な評価を受けることを恐れる新入社員たちは強制を感じ取り、飲み会に参加するのだ。
新入社員にとって飲み会が労働であることは疑いの余地はない。だが上司たちにとってはどうか? 上司たちは、かつての自分の経験から、部下が上司と飲みに行くことがめんどくさいと知っている。ゆえに、上司たちも進んで認めるのではないか。会社の飲み会は労働である、と。だからといって残業代を要求することに対しては、上司たちは毅然と反対する。それは、飲み会が労働ではないことを意味するのではない。残業代が払われようが払われまいが労働であることに変わりはないが、それを自らの意志で進んで参加することによって社会人として成長できるのだと上司たちは主張するだろう。
では仮に会社の飲み会は労働であると、万人が同意したとしよう。この時点で次のような疑問を抱かずにはいられない。労働とは一体なんなのか? 飲み会でやることと言えば、酒を飲み、飯を食い、無駄話をすることである。行為そのものをみれば、余暇と変わりがない。友達や家族と酒を飲み、飯を食い、無駄話をすることを労働であると主張する人はいないだろう。ならば、上司との飲み会が労働であり、友達や家族との飲み会が労働ではない理由はなんなのか?
強制。それが一つの重要な判断材料になるだろう。ただし、強制されていれば常に労働であるとは限らない。たしかに嫌いな上司に休日のゴルフに誘われたなら、それは労働であると感じられ、「残業代を貰わないとやってられんわ、クソが!」といった気分になるだろう。だが、友達のように仲のいい上司ならどうか? その場合は「これが労働である」とった考えが脳裏をよぎることはないだろう。もしかしたら、好きな上司はとんでもない権力の持ち主であり、その誘いを断れば自分の出世が不利になるのだとしても、もし彼が上司に心酔しているならば、強制されていることすら気にならないし、労働感はないはずだ。つまり、労働を労働たらしめるためには「強制」だけでは不十分である。そこに「不愉快」という要素が加わらなければならない。強制されていて不愉快。これが労働の定義そのものである。
別の角度からも説明してみよう。たとえば家庭菜園が労働ではないことは明らかである。彼が土日を活用して鍬をもって土を掘り返し、種を撒き、雑草をかることは誰にも強制されることなく取り組まれる趣味である。彼は、農薬や化学肥料を使わない有機栽培にこだわっていたとしよう。そして、パーマカルチャーの手法やカバーグロップ、ぼかし堆肥など、さまざまな試行錯誤を繰り返し、その生産性を高め、高品質の野菜を育てることに成功したとしよう。ここまでも楽しい遊びの延長であり、労働ではないことは明らかである(これは農業に苦労がないことを意味しない。たとえばゲームのような遊びにも苦労はあるが、そのことを理由にゲームが労働であるとは言えないのと同じである)。
では、あるとき近所のレストランが彼の取り組みに興味を示し「あなたの野菜を仕入れさせてくれませんか?」と提案してきたとしよう。自分や家族、友達では野菜を消費しきれなくなっていた彼にとって、願ってもいない申し出である。彼は土日に好きなことをやっているだけで副収入を得られるようになったのだ。金は手に入る。しかし、ここまでもまだ労働ではないと彼は感じているだろう。好きなことをやっているだけだからだ。たまたま金を稼いでいるだけであって。そして、家庭菜園の生産性はさらに高まり、かつ仕入れてくれていたレストランがチェーン展開し、どんどん野菜が売れるようになった。あるとき彼は思い立つ。「会社をやめて、農業一本で飯を食おう」と。こうして彼は、サラリーマンをやめ、好きな農業で生計を立てられるようになった。それでも彼はまだ好きなことをやっているだけであり、まだ労働感を抱いてはいないだろう。
ところがある日、レストランからこんな要望があった。「価格を半分にして、倍の量を仕入れさせてくれ」と。さすがにそれでは利益が少なくなりすぎるし、作業量も多すぎる。「それはできない」と彼は断ろうとするが、「じゃあ、もうお前のところからは仕入れない」とレストランオーナーは脅しをかけてくる。サラリーマンをやめ、農業で生計を立てなければならない状況に自らを追い込んでいる彼は、いまさら会社に戻ることなどできないし、畑作業に手を取られ、ほかの取引先を開拓する時間もない。仕方なくレストランオーナーからの要求を飲む。彼はいままでの倍の作業に取り組まなければならず、休息の時間も減り、それでいて生活はカツカツになった。好きだった農作業は、どんどん嫌いになっていった。このとき、彼が取り組む行為は明らかに労働である。
なぜ、農作業は労働になったのか? それは強制されて、不愉快になったからである。会社を辞めて専業農家となった時点で、彼は農業をしないという選択肢を失い、事実上、強制されていた。しかし、自分のペースでやりたいようにやれているうちは不愉快ではなく、だからこそ労働ではなかった。ただし、レストランオーナーによって強制的に押し付けられた義務が、彼の農作業に不愉快さを与えた。そして「強制」と「不愉快」という両方の要素を手に入れた彼の農作業は、とうとう「労働」へと変わったのだ。
さて、それでは彼が思い切ってレストランオーナーの要求を拒否していたならどうなったか? 彼はまず農協に相談する。だが、農協が提示する仕入れ価格も依然として低ければ、労働化は避けられない。そこで彼は農協に頼ることを断念し、新たな取引先を開拓しようとする。ところがレストランに飛び込み営業をかけてもうまくいかないため、彼はマーケティング企業に相談を持ち掛ける。マーケティング企業は、彼の農作物のブランド化や、マスコットキャラクターの考案、レストランへのポスティングを提案する。彼はもともとそんなことをやりたいわけではなかったが、仕方なくマーケティング企業の提案に乗る。結局、彼は不愉快な営みを強制され、ちがう形で労働をする羽目になる。
では、彼にベーシックインカムが与えられていたならどうなっていたかを考えてみよう。彼は好きなことをやっていたのだから、レストランオーナーからの最初の要望は拒否しなかっただろう。だが、「値段を半分にして倍を生産しろ」という要求には決して屈しなかったはずだ。なぜなら彼はそうしなくても路頭に迷う心配がないからである。そして、農協やマーケティング企業に依存することもなかった。彼は売り先がなくとも自由に農業を続ける。もしかしたらその評判を聞きつけた近隣住民の要望に応えて、野菜の即売所をオープンしたかもしれない。だが、彼は自分がやりたいと思う量だけ生産し、販売する。彼が労働に手を染めることはほとんどあり得ないはずだ。
サラリーマンのほうも同様である。彼は上司の誘いを断り、出世に不利になろうが、彼本人も、彼の家族も路頭に迷うことはないという保証をベーシックインカムによって得ることができる。すると、嫌いな上司からの飲み会の誘いを断る勇気を手にするかもしれない。そして、普段の仕事においても嫌いな上司から理不尽な命令やパワハラには断固としてNOを突きつけられるようになる。
一方で、依然として好きな上司からの誘いには乗り続けるだろうし、「やりたい」とか「やるべきだ」と感じる仕事なら拒否することはないだろう。人が労働の愚痴をいうとき、「どうして俺は他人に貢献しなければならないのだ」などと言うことは稀である。あなたのまわりに溢れる労働の愚痴を思い返してみて欲しい。「クソ上司やクレーマーの相手のせいで、本当に必要としてくれている人の手助けができない」「無意味に吊り上げられたノルマを追い求めなければならない」といった愚痴がほとんどではないか?
ベーシックインカムによって労働が撲滅に向かい、なおかつ社会を成り立たせるための貢献はなくならないと僕が主張する理由は、まさしくこれである。BIがあれば理論上、不愉快な営みを強制されることはなくなる。つまり、理論上、労働が撲滅されるのである。そして、人は労働ではない形で社会に貢献し始めるのではないだろうか。
もちろん、BIがあるからといって万人が毅然とした態度をとるとは限らない。実際、生活保護制度が既に存在していても、万人が毅然とした態度をとることはできないのだ。ただし、生活保護の申請はややこしく、財産を処分する必要もある。世間の目も気になる。その結果、不愉快な強制を拒否するためのセーフティネットとしてはほとんど機能していない。しかし、万人がBIを受け取るなら、いまより容易にNOを言えるようになることは間違いない。
このように、労働を丁寧に分析してみれば、労働を撲滅することが可能であり、労働を撲滅すべきであることは明らかであるように思われる。僕が「労働撲滅」を訴えるとき、条件反射で批判が集まるのは、たんに労働が丁寧に分析されていないからではないか? もしこのような分析がなされたうえでも労働撲滅というテーゼを批判するなら「それはわからないでもないが、本当にうまくいくのかね?」という批判しかあり得ないはずだ。
さて、ちゃぶ台を返すようだが「それは労働の定義ではない。金が発生すれば労働であり、農家が収入を得た時点で労働である」と主張するなら、別にその定義を採用しても構わない。その定義を採用する場合なら僕は「労働を撲滅すべき」と主張するのではなく、「強制された不愉快な営みを撲滅すべき」と主張したい。
議論すべきは、その結果、どのような社会が訪れるかである。労働の定義は重要だが、さほど重要ではないのだ。そして、その結果どうなるかについては誰にも断言できない。労働のある社会がこれからどうなるかが誰にも断言できないのと同じように。僕たちは理想的な社会に向けて、これまでと同じように議論を続け、これまでと同じように確信がないまま決断をくだし続ける。
僕は強制される不愉快な営みを撲滅したほうが理想的な社会が訪れると主張し続ける。労働が撲滅されるか、完膚なきまでに論破されるまでは。
なぜ、アンチワーク哲学は脱強制にこだわるのか?
レイプされることを望む人間などいない。もし望むならばそれはもうレイプではないからだ。だからと言って「人間は本質的にセックスが嫌いな生き物だ」と主張する人はいない。好きな相手と自発的に行うなら、セックスは最高の体験になる。改めて考えれば不思議である。やっていることは同じなのに、かたや一生残るトラウマ体験となり、かたや人生における最高のひと時のうちの一つに数えられる。強制されるか、自らの意思で取り組むかによって、主観的な印象は天と地の差があるのだ。このことは誰しもが知っているが、その意味を理解している人は少ない。
セックスのほかにも、人間は他者の役に立つ行為を欲望している。公園で子どもにボールを投げ返してやること。ライターを貸してやること。観光客のために写真を撮ってあげること。知らん顔を決め込むよりも、助けてあげた方が気持ちがいい。誰もが知る事実である。自分の意志で取り組まれたなら、誰かのニーズに応えて役に立つことは、生きる喜びになるのだ。
それが一定程度のコミットメントが必要とされる場面であろうが同様である。友達同士でバーベキューをするとして、食材を切ったり、火をおこしたりして参加するか、なにもせずに肉にだけありつくかという選択肢を提示されたなら、多くの人は前者を選択するだろう。後者を選択した人がいたとしても、彼は居心地の悪い思いを抱えながら、肉を食らうことになりかねない。
この社会では、誰かの役に立つ行為は主に賃労働として組織化されているとみなされている。そして、多くの人は賃労働を嫌っている。できることなら働きたくないと、誰もが口にする。その結果、貧者に施しをすれば彼は怠けてしまい、人の役に立つ子を一切やらなくなるだろうと思われている。これは真実だろうか? そうではないように思われる。人の役に立とうとせず、ただ孤独にネットフリックスを観て過ごすことがどれだけの苦痛であるかは、容易に想像がつくだろう。
人が賃労働を嫌う理由は、人がレイプを嫌う理由と同じである。人はレイプではない自発的なセックスが大好きだ(もちろん個人差はある)。同じように、人は労働ではない自発的な貢献が大好きなのだ(もちろんこれにも個人差はある)。賃労働は、金を手に入れなければ路頭に迷う恐れを原動力に、半ば強制されている。逆らえば命を失う恐れを原動力に、拳銃で脅された人が強制に服するのと同じ理屈である。ならば、強制さえなくなったなら、人は自発的に貢献を始めるのではないか? レイプがなくなったとしても、相変わらず人々は自発的にセックスをするのと同じように。きっとそのときは、強制されるよりも、何倍もの満足感を味わうことになる。
だから強制をなくすべきだと主張しているのだ。強制をなくすためには、金の権力を骨抜きにする必要がある。金がないから、金を持つ人に強制されるのだ。金があれば、誰も強制されることはない。自由に、やりたいときだけ、人の役に立てばいいのだ。
それで本当にうまくいくのか? わからないが、うまくいくような気がしている。少なくとも、それが非現実的であるとして一蹴するのはむずかしいように思われる。人間は貢献欲をもつことを前提とすれば、仮にあらゆる強制が排除されることはないのだとしても、その方向へと向かうことができるはずだ。ほかの条件が同じなら、誰も強制されない社会が理想的であることには異論はあるまい。誰もが自由に、自発的に行動することで、社会に必要な財やサービスが提供され続けるのであれば、その方がいいことには異論はあるまい。
いま、未来に希望を抱いている人は少ない。だったら、なにかを変えなければならない。僕は強制のない世界、言い換えれば労働のない世界へ向かうことこそが、未来への希望であると確信をしているのだ。
哲学作家 飲茶からバトンを繋ぐアンチワーク哲学
飲茶『14歳からの哲学入門』は名著である。デカルト、カント、ヘーゲル、サルトル、レヴィ=ストロース、デリダと順を追って解説するだけの無機質な入門書ではなく、次なる哲学への展望が記されているからである。では、次なる哲学とはなにか? 飲茶氏は次のように書く。
新しい時代の哲学‥‥。僕たちが考えるべきテーマとは、ズバリ、「働かない社会を作るにはどうすればよいか」である。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p327)
現代哲学の系譜を受け継ぐ、今の自称哲学者たちは、しょせん言語ゲームの中で相変わらず言葉をグルグル回しているだけなのだから決して哲学者ではない。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p343)
全くもって同感である。いまの時代に哲学しなければならない対象は、僕たちの人生を埋め尽くし、社会問題の中核に堂々と鎮座する労働であろう。
しかし、残念ながら現代の哲学界は、労働という問題に正面から向き合おうとはしなかった。哲学者たちは相変わらず脱構築がどうのこうのと、古き良き哲学の縮小再生産を繰り返す伝統芸能をプレイし続けている。ある意味で飲茶氏のバトンを受け継ぐアンチ労働の哲学が、アカデミズムの中から生まれないのは必然であろう。なぜなら、哲学とは権威と化した常識への挑戦に他ならないからである。アカデミズムが権威化している以上、そのシステムの内側から本物の哲学が生まれるわけがないのだ(マルクス・ガブリエルの書いた文章を読めばそのことがよく理解できるだろう)。
さて、そんな閉塞感をぶち破るべく、彗星の如く現れたのがホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』である。本書は哲学界のゲームチェンジャーであり、社会のゲームチェンジャーでもある。「労働」という概念を、これまで誰も行わなかったレベルにまで懐疑し、まったく新しい概念を構築することで、世界の見方をガラッと変えてしまったのだから。そして、ある意味では『14歳からのアンチワーク哲学』では、飲茶氏が想像したものとも全く異なる哲学が展開されている。しかし、むしろそれこそが哲学の哲学たる所以であろう。想像の枠内に収まるようなものであったなら、それは哲学の名に値するものではない。
さて、それでは両者の主張はなにがどう異なるのかを見ていきたい。
■飲茶氏の労働批判
まずは飲茶氏の労働批判を見てみよう。飲茶氏は、現代の労働の大半が生存には不可欠とは言えない無意味な娯楽のために行われていると主張する。
確かに、昔はそうだったかもしれない。全員が一生懸命働かないと、全員の衣食住が提供できない時代があったかもしれない。しかし、今はどうだろう? 大半の人たちは、「生きるために必要な商品(生活必需品)以外のモノやサービス」を作り出す労働に従事しているのではないだろうか。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p330)
たとえばよくある仕事の事例として、あなたが手のひらサイズの通信機器を作る仕事をしていたとしよう。それは確かにあれば便利だが、でも、本当にそれは生きるために絶対必要なものなのだろうか? 他者と競争して身体を壊してまでもスケジュールを守って作り上げる必要のあるものなのだろうか? (飲茶『14歳からの哲学入門』p330)
仮にそれが世界から消えたとしよう。それで何か困ったことが起きるだろうか? 実際、それがなかった時代でも、みんな普通に楽しく暮らせていた。きっと、ないならないで、人々はジョギングをしたり、他の娯楽を見つけたりして、何事もなかったかのように時間をすごすだろう。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p331)
要するに、「ディズニーランドとか、パズドラとか、シュプリームのために僕たちは週に四十時間働く羽目になっているのだから、これらの娯楽を諦めさえすれば、週十時間労働くらいで済むのではないか?」といった指摘である。この角度から労働批判を進めていくなら清貧思想へと退行することは避けられない。読者は拙著『働かない勇気』に登場する青年のような反論が脳裏をよぎったのではないだろうか。
ははっ、とうとう正体を現しましたね? どうやらあなたは怪しげな禁欲思想を説く新興宗教家のようだ! 少ない労働で済むように質素倹約に暮らして、座禅を組んでお経でも唱えながら、極楽浄土に想いを馳せておけばいい、と言いたいのですね? そんな現実逃避で救世主ヅラとは、虫唾が走りますよ! 僕たちはパーティやゲーム機、遊園地といった衣食住とは関係のない過剰なエンタメに骨の髄まで浸かりきった欲深い生き物なのです! 1人ひとりの労働者が長時間働くことで、この娯楽に溢れた社会の生産量が実現できているのです。 道楽で働いた程度では、せいぜい玄米と高野豆腐ばかりを食べて暮らすのが関の山で、生命を維持するのがやっとでしょう。それとも、わたしたちがいまさら石器時代のような暮らしができるとでもお思いですか?
(ホモ・ネーモ『働かない勇気』)
これは飲茶氏の労働批判に対する手痛い反論だと言えよう。たしかに、ないならないで別に構わないかもしれないが、事実として多くの人はスマートフォンが欲しいし、コカコーラも欲しいのである。彼らに「いや、それは広告に踊らされた無意味な欲望なのだから座禅でも組んで捨て去るべきだ! そうすれば労働は減らせる!」と言いつけたところで、あまり魅力のある主張であるとは思えない。それに、もしコカコーラの製造を無意味な記号の消費であると批判するなら、パセリやパクチーはどう判断すべきか? ナスやキュウリも最悪なくても死にはしないのではないか? パンすらわざわざつくる必要がなく、小麦をお粥にして食うべきではないか? いや、いっそ全人類が呼吸だけで生きるブレサリアンを目指すべきではないか? などといった批判をあげればキリがないのである。もちろん全人類がブレサリアンになったり、パンを禁止したりする未来は馬鹿げているし、「ナスはセーフで、キュウリはアウト」といった基準を決定する中央委員会を組織するのも馬鹿げている。
さて、それではこの問題についてホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』は、どのような回答を与えるだろうか。
■ホモ・ネーモの労働批判
結論から言えば、アンチワーク哲学は人間の欲望全般を肯定する。
「じゃあなに? 『霞を食べて生きていけば労働しなくていい』みたいな話?」 「あほか。そんなんで生きていけるか。美味いもん食って贅沢したいに決まってるやろ。ゲームもしたいし」
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p6)
つまりコーラもディズニーランドも否定しないのである。欲しいと思う人がいるなら、それは提供されてしかるべきであると考えている。それでは単なる現状維持のように見えるが、そうではない。本書では、欲望全般を肯定したうえで、労働を週十時間ではなく〇時間に減らすべきだと主張しているのだ。
「地球上の八十億人全員がニートになって遊んで暮らさなあかん。完全失業。GDPは〇ドル。それで世界は平和や。食べ物や家が行き渡るだけやなくて、漫画もゲームも楽しみ放題になるんや」
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p7)
これは「AIが代替してくれるから僕たちは労働しなくていい」的な安易なテクノロジー楽観論ではないことは強調しておく必要があるだろう。アンチワーク哲学では、テクノロジー楽観論はおとぎ話であると批判している。
AIが労働を代替するっていうのはおとぎ話や。『天の川で水遊びできたらいいなぁ』って呟いてるのと同じ、お花畑発言なんや
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p6)
では、清貧思想でもなく、AIでもないなら、どうやって労働を撲滅するのか? そんなことは不可能ではないか? その疑問に応えるためには、「そもそも労働とはなにか?」「なぜ僕たちは労働を嫌悪するのか?」を考えなければならない。否、哲学しなければならない。
■なぜ労働はダルいし、面倒くさいのか?
『14歳からの哲学入門』では、労働の明確な定義が与えられているわけではないが、以下の一文から飲茶氏の労働観が垣間見える。
ようするに、「ダルいし面倒くさいから、もう働くの(社会に貢献するの)やめちゃわね?」って話である。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p327)
ここで明らかに前提されているのは「労働=社会への貢献=ダルいし面倒くさい」という定義である。この定義はさほど吟味されることなく常識として受け入れられていることが多いが、労働の定義として優れているとは言い難い。
たとえば「いやいや、労働を通じて社会に貢献することは素晴らしいことだし、やりがいのあることだ!」といった考えを抱く人もいる。あるいは、ほかになにをしていいかわからず、労働しないことに耐えられない人もいる(そのことは飲茶氏も指摘している)。つまり、かならずしも社会への貢献としての労働がダルいし、面倒くさいわけでもなさそうである。
それに、社会への貢献がすべて労働として組織化されているわけでもない。家庭菜園が高じて近所の人々に野菜を配ったり、日曜大工が高じて隣人のトイレのリフォームを請け負うなら、それは明らかに社会への貢献であるが、本人にとって労働であるとは言えないし、やってる本人は「ダルいし、面倒くさい」だなんて思っていないのである(もしそう思っているのであれば、彼はそれを中止すればいいのだから)。
つまり「労働=社会への貢献=ダルいし面倒くさい」という定義は、誤っているか、すくなくとも現実に起こっている事態を正確に捕捉しているわけではない。むしろ人は社会への貢献を欲望している。老人に席を譲ったときはそうしなかったときよりも大きな喜びを得られる。自宅にやってきた友人に食事を振る舞えば、食事をごちそうになるときよりも大きな喜びを得られる。みんながBBQの準備をしているときに一人だけ棒立ちしていたら、自分もなにか手伝いたいと感じる。こうした例を挙げていけばキリがない。「人に喜んでもらえれば嬉しい」「誰かの役に立って嬉しい」という感情を抱いたことのない人間など一人もいないはずだ。事実、脳神経科学者のドナルド・W・パフによれば、人間の脳は「お腹が減っているときに食事を摂るとき」と同じ信号を、利他的行動をとる際に放出するという。
善意の寄付をするという考えによって、人間の前脳の「報酬中枢」が発火されるということだ。この研究を行った神経科学者によれば、視床下部のすぐ前にある神経細胞群の報酬信号は、他の脳の報酬信号(たとえば、空腹の人に対する食べ物の信号)と区別がつかないように見えるという。
(ドナルド・W・パフ『利己的な遺伝子 利他的な脳』p164)
つまり、このように言い換えてもいいだろう。「人間には食欲があるのと同じように、貢献欲がある」と。それはどうやら脳神経科学的な事実であるようだ。しかし、実際には「社会への貢献はダルいし面倒くさい」という脳神経科学の事実に反する常識が人々の中に植え付けられている。これはなぜだろうか?
心理的リアクタンスという現象がヒントになるだろう。心理的リアクタンスとは、自由な選択ではなく、誰かからなんらかの行為を強制されるときに、心理的な反発を抱いてしまう現象をさす。たとえば、本来、子どもたちが熱中するはずのゲームですら、大人から強制されたり、マイクロマネジメントされたりすると、苦痛に感じられてしまう。つまり、その行為がなんであれ、強制されれば苦痛に変わるのである。だからといって、「ゲームとはダルいし、面倒くさい」と結論付けるべきではないことは明らかである。なぜなら、ゲームとは自発的な意志で取り組まれたなら寝食を忘れるくらいに楽しいからである。なら、次のような結論は当然のように導き出されるべきではないだろうか? 社会への貢献も、自発的な意志で取り組まれたなら楽しい。強制されているから、ダルいし、面倒くさくなっているだけである。
人は役に立つことを欲する。でも、あらゆる行為は命令によって労働化する。だから貢献が嫌なことやと現代人は思い込んでるねん
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p60)
では、僕たちはなにに貢献を強制されているのか? 明らかに「労働」によってである。自給自足もできなければ、不労所得を得ているわけでもない大多数の人々にとって、労働をせずに生きていくことはむずかしい。ゆえに、拳銃を突きつけられて労働するのと同じように、札束でビンタされながら労働をするのが一端の社会人の姿である。これが大げさであると感じるなら、道行く人に労働する理由を尋ねてみればいい。口を揃えて「生きていくため」「家族を食わせるため」と答えるだろう。労働しなければ死ぬという状況に置かれている以上、強制されていないなんて口が裂けても言えないのである(たしかに生活保護や転職という道もある。しかし多くの人はそれが現実的ではないと感じているのだ。ちょうど強盗犯の隙をついて拳銃を奪い、強制から逃れることが現実的ではないのと同じように)。
社会への貢献が労働によって強制的に組織化されることが当たり前と化した状況では、社会への貢献=ダルいし面倒くさいという常識が根付くことは必然であろう。これが僕たちの想像力にとって大きな枷となっていることは間違いない。「AIで労働を自動化」といった非現実的な願望くらいしか、人々は社会に希望を見いだせなくなってしまったのだ(現代の労働をすべて自動化するにはドラえもんレベルの汎用AIが必要であることは明らかだが、ドラえもんは二十二世紀中にも誕生することはないだろう)。しかし、ここまでの議論をふまえれば、強制ではない形、言い換えれば労働ではない形で、社会への貢献を組織化することができれば、僕たちはもっと幸福になれるのではないか? もっと言えば、労働の撲滅は可能になるのではないか? なぜなら、強制こそが労働そのものなのだから。
■労働なき世界は可能か?
アンチワーク哲学では、強制からの解放のために、ベーシックインカムを主張する。金とは、持つ者が持たざる者を強制させる権力である。万人に生活保障がなされ持たざる者が消え去れば、権力そのものが消滅していく。つまり労働が強制ではなくなり、労働ではなくなっていくのだ。「いやいや、俺は別に貢献欲なんかないけどね(笑) もし労働しなくて済むなら家でゲームするけど構わないんだよなぁ?」という斜に構えた批判が殺到することは間違いないが、断言しよう。構わない、と。
なぜなら、もはや労働は社会への貢献ですらなくなりつつあるからである。衣食住にまつわるエッセンシャルワークでもなければ、パズドラやシュプリームを生み出すわけでもない労働。誰も読まない書類をつくったり、バツ印を押しにくい広告でWEBページを溢れかえらせたりする労働・・・一般的にブルシット・ジョブと呼ばれる労働が、この社会には溢れかえっているのだ。ちょっとやそっとゲームで遊ぶ人がいたとして、痛くもかゆくもないのである。むしろ、無意味なブルシット・ジョブをやるくらいなら、ゲームをしてくれている方がいい。やっている本人が楽しんでいるからだ。誰も楽しまないくらいなら、誰か一人でも楽しんでいる方が、社会にとって善である。
あらためて考えてみて欲しい。他者への貢献は、労働によって強制されていてもなお、人はさほど嫌悪しないのである。「どうせ誰も読まないのに報告書つくるのダルすぎ!」と愚痴を言う天ぷら屋の雇われ店長がX上に無数に散見されるとも、「なんで天ぷらなんか揚げなあかんねん! 客ども天ぷらなんか食うな!」と愚痴をこぼす店長は存在しない。人々が労働を嫌悪する理由は、もはやほとんどの側面が「無意味な強制」に由来している。人は自発的な意志であるならば、毎朝同じ時間に起きて、なんらかの貢献をすることを欲する。無意味なことを強制されていると感じるがゆえに、それを嫌悪しているにすぎない。飲茶の以下の指摘も、このように考えればスッキリ理解できる。
おそらく多くの人々 ― 働くのが当たり前だと思っている人々 ― にとって、「明日からもう一生仕事しなくていいよ」(もしくは「もう学校行かなくていいよ」)と言われることは、必ずしも幸福なことではないだろう。(中略)毎朝ちゃんと定刻に起きて、通勤または通学しなくてはならないという強制的な束縛は、僕たちの充実した生活や健康にむしろ役立っているとさえ言える。
(飲茶『14歳からの哲学入門』p349)
人はむしろなんらかのプロジェクトにコミットすることを欲するのである。強制されていてもなお、それは欲望の対象となり得る。強制されなくなってもなおやりたいと思える労働なら、それはもはや労働とは呼べない。なぜなら、それは自発的な意志で取り組まれているからである。このように強制が消え去ったなら、人々は喜んで誰かに貢献し始めるだろう。それは自発的な意志によっておこなわれていて、遊びと区別がつかなくなっている。そのとき、労働と呼ばれる営みはこの世界から消え去っているのである。
ええか、少年。労働は悪なんや。世の中から撲滅された方がええ
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p5)
地球上の八十億人全員がニートになって遊んで暮らさなあかん
(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p7)
つまり、労働を撲滅するためには、欲望を減らして清貧に暮らす必要はない。むしろ欲望のままに生きることで労働は撲滅されるのである。やりたくない、無意味なことは辞めればいい。そして、欲望のままに社会に貢献し、欲望のままに記号的消費とやらを追い求めればいいのだ。
さて、強制が消え去るならば、もう一つ消え去って然るべき存在がある。それは「金」である。金とは他者からの貢献を強制的に引き出すツールであると先ほど説明した。貢献を強制的に引き出さなくて済むなら、金とは不要の長物なのである。だからアンチワーク哲学は最終的にGDPゼロドルを目指すのである。
■アンチワーク哲学が起こすコペルニクス的転回
さて、ここまでがアンチワーク哲学の簡単な説明である。おそらく読者の脳内には幾千もの批判が渦巻いているだろうが、そのすべてに反論する紙幅はここにはない。ここでは読者のほとんどがその反論に夢中になるあまり気づいていない点について・・・つまり『14歳からのアンチワーク哲学』がどれだけ重要なコペルニクス的転回を起こしているのかを説明したい。
アンチワーク哲学は、「労働=社会への貢献=ダルい」と「遊び=消費=社会からの貢献を受け取ること=楽しい」の二項対立という現代の常識となっているパラダイムを丸ごと覆し、「労働=強制=ダルい」と「遊び=自発=楽しい」の二項対立という新たなパラダイムを提供している。この新たなパラダイムの方が、現実に起こっていることを適切に説明することができる。
これはコペルニクス的転回と呼ぶにふさわしい転回であり、その重要性は強調してもし過ぎることはない。いや、コペルニクス的転回にはセンメルヴェイス反射がつきものであるため、どうせ強調しても理解されることは稀であるが、それでも強調したい。アンチワーク哲学以前と以後では、世界の見え方がガラッと変わるのである。
これが現代のアカデミズムの中で行われている哲学もどきではなく、真の哲学である。そして、これからの社会に必要な哲学である。自殺。精神疾患。環境破壊。少子化。その他ありとあらゆる問題は労働によって引き起こされている。それなのにこれまでは労働がなんなのかを誰も理解していなかった。問題を理解せずに問題を解決することはできない。労働が引き起こす問題を理解するためには、労働を理解しなければならない。そして、同時に人間を理解しなければならない。アンチワーク哲学こそが、次なる社会を創造するための出発点なのである。
ついに『14歳からのアンチワーク哲学』は『14歳からの哲学入門』からのバトンを受け取った。ランナーは誰も予想しなかった方向へと向かい、まったく新たな地平を切り開いた。残念ながら、この社会はまだその重要性に気づいていないのだ。
早く気づくべきである。気づきたい人は、この本を読むといい。
金とはなにであり、なぜ生まれたのか?
日本銀行のバランスシートを見てみれば、「発行銀行券」が負債の部に計上されている。これは日本銀行券を意味している。あなたの財布には日本銀行の負債が入っているのだ。もちろん、日本銀行はあなたに利息を払うことはしないし、あなたは日本銀行に返済を迫ることはない(迫ったところで日本銀行はなにも返してくれない。彼らが持っているのは紙切れとデータくらいである)。つまり金とは無期限、無利子の負債である。
負債は流通する。A社という企業が発行した支払いの約束(=負債)である約束手形がB社からC社への支払いに使用されるのと同じである。ただし、A社の約束手形はいつか銀行に持ち込まれてA社の預金と交換されたのちに消滅するが、日本銀行の負債が消滅することは想定されていない。それは日本円の消滅を意味するからだ。
MMT論者は、統合政府(政府と中央銀行)はいつでも負債を返済することができると主張するが、厳密に言えば誤りである。たしかに日本政府が負っている千兆円以上の負債は、日本銀行に買い取らせ、永遠に借り換え続ければ、返済義務は事実上消える。ただしその場合も、日本銀行が発行した貨幣という名の負債は市中を出回り続け、基本的に返済されることはない。起こっていることは国債の返済ではなく、借り換えである。ただし、負債(日本円)を税によって回収し、消滅させることは理論上可能である。それはどちらかと言えば返済ではなく国家が持つ強制力を背景とした負債の帳消しである。言い換えれば、銃を突きつけて行う踏み倒しである(その時点で日本円は消滅し、日本経済は大混乱に陥る)。要するにこの世界は永遠に完済されることのない負債によって回っている。
一般的に想像されているように、過去の人々は物々交換を行っていたわけではないし、それを不便に感じて金を発明したわけではない。物々交換は、コストとベネフィットを一致させるという発想がなければ成り立たない。しかし、そのような発想を育んだ原始社会は見出されなかった。のちに金と呼ばれるシステムが生み出されたのは、誰かが誰かに負債を負ったときである(そしておそらくは、国家が国民に負債を負ったときである)。
負債と義務は違う。負債とは厳密な数値によって特徴づけられる。つまり、「八時間も城壁づくりに従事したのだから、せめて八時間分の報酬をよこせ」という厳密さによって、負債は負債たり得る。その厳密さを要求する欲望がはじめて文字を要求する。文字は、愛する人へ向けた詩を残すためでもなく、哲学的思索を記録するためでもなく、負債を計算するために誕生した。それ以外の目的で文字が使われ出したのは、かなり後になってからである。
ここで問うべきは、なぜそのような負債思考が生まれたのか? あるいは、なぜ人類史の大半でそのような思考(あるいは金や文字)が生まれることなく、国家の誕生とともに負債思考(と金と文字)が生まれたのか?
それは国家が労働を強制したからであると考える。国家とは強制力の装置であると定義づけることができる。一般的にイメージされているのとは異なり、国家とはトラブルだらけの人々を仲裁するために特権を持つエリートを民主的に選出した結果生まれたわけではない。国家なき人々は強制力を持つリーダーを必要としないまま、あまつさえ巨大な都市や建造物を生み出していた。平等なままトラブルを解決し、巨大プロジェクトを遂行する人々にとって強制力を持つリーダーは必要なかったのだ。もちろん、過去にはトラブルだらけの社会も存在しただろうが、仲の悪い人々が突如として特定のリーダーに強制力を持たせることに同意し、文句を言わず従うという事態は考えづらい。まずはじめに強制力・・・つまり暴力を独占した集団が存在したと考えるのが妥当だろう。もちろん初期の国家は、そのようなシナリオを人々の記憶から消し去ろうと躍起になっていたはずだ。「我らは人々のために立ち上がった」と人々に印象づけなければ、歯向かう人々をいちいち暴力で押さえつけなければならない。そのような国家が即座に崩壊するのは目に見えている。だからこそ国家は人民のための機関であるというプロパガンダを垂れ流し続けきたのである。
さて、僕が口酸っぱく繰り返してきたように、心理的リアクタンスという現象によって、強制はあらゆる行為を労働化する。つまり強制は、強制される行為が元々やりたいことであろうが、やりたくないものとイメージさせる効果がある。負債思考が必要とされるのはこのときである。まず国家は国民に労働を強制する。そして、「俺ばかりが損をしている」「もっと正確に評価すべきだ」と不満を垂れ流す民衆をなだめすかすために、国家はありとあらゆる記録や計測のテクノロジーを発展させなければならなかった(繰り返すが、国家なき社会には文字も金も存在しない傾向にある)。そこで国家は負債を負った。負債は金として出回った。そして金そのものが負債思考を加速させた。金によって思考することに慣れていった人々は、金を受け取る行為はやりたくないコストであり、金を払って享受するのはベネフィットであると勘違いし、人の行為はその二つに分断されていったのである。
「もともとそうではないか?」と思う人が大半だろうが、ちがう。多くの原始社会では、狩猟や採集、農作業は遊びと同じカテゴリーだった。つまり「本当はやりたくないのに、生きるために仕方なく取り組む労働」という発想が存在していなかった(か、わずかだった)。彼らにとって畑の雑草を抜くことも、子どもの面倒を見ることも、あらゆる行為がベネフィットだった。だから「俺はこれだけやったのだから、これくらいよこせ」という負債思考が必要なかったのだ。国家なき社会では金も文字も発明されなかったことが、その証拠であるように思われる。
負債思考やコスト概念は国家にとって都合のいいものだった。なぜなら、自発的にトラブルを解決しながら社会に貢献する人々で溢れかえっているなら、国家は必要ないからである。マキャベリが自由な都市を破壊しない支配者は、自らを破壊する結果になると指摘したのは正しかった。もちろんこうした話は、古い地層のそのまた下の方に隠れていて、支配者の側すら忘れ去ってしまった。こうして僕たちは金のない社会を想像すらしなくなった。なにかと理由をつけて、金の存在を擁護せずにはいられないのである。
金とは負債である。古のワガママな支配者が、国家という茶番をうまく盛り上げるために思いついた小道具にすぎない。いつまでもその神話的アイテムにこだわる必要はないように、僕は思う。
労働や市場、金がなくなった世界で
労働が撲滅されたとき。またはベーシックインカムによって万人が金のために労働する必要がなくなったとき。あるいはお金や市場というシステムがこの世界から一掃されたとき。それでもなお人々が欲望する缶コーヒーや、プレイステーション、太陽光発電パネル、SUVを自発的に製造する人が存在するか?という問題がある。そのためアンチワーク哲学は最終的に次のような疑問と向き合わざるを得ない。「強制をなくすだとか、ベーシックインカムだとか、貢献欲だとか、言いたいことはわかるけどさぁ・・・本当に労働なき世界なんて成立するの?」といった疑問である。
この時点でアンチワーク哲学は一定の成果を達成していると言える。僕が「どうすればウサインボルトより速く走れるか」について考えたことが一度もないように、相手はいままで労働なき世界の可能性について一度たりとも思考を巡らせたことのない人間である。彼に少なくとも可能性について思考してもらうことに成功しているのだ。アンチワーク哲学の「哲学」としての役割はここで完了していると言える。ただし「思想」としての側面から言えば、まだ仕事は残っている。「いけるやろ、知らんけど」をできる限り、説得力のある形で伝えることこそが、思想の使命なのだ。
では、どのように説明すればいいのか? まず、そもそも現代社会が人々に衣食住を行き渡らせるだけの生産を保証しているわけではないことを指摘しなければならないだろう。すでにこの社会の生産活動は自発的な貢献に大部分が依存している。たとえば農家の平均年齢はとっくに年金受給年齢を超えているし、時給換算で百円台とか、あるいはやればやるほど赤字の農家も少なくない。もし「なんらかの強制力で生産力を保証しなければならない」と心配するのであれば、「農家に拳銃を突きつけて農業を辞めないように仕向けなければ日本の農業が崩壊する」という意見を持っていなければ筋が通らないのである。しかし、そんなことをしなくても、農家は「ただやりたいから」とか「習慣化していて他にやることがないから」とか「先祖やご近所さんの目があるから」といった理由で農業を続けている。すでに社会は人間の自発的な貢献に依存しているのだ。それなのにあたかも僕たちは、「市場や金という強制力によって、本来は怠けものである人間の尻を叩くことでこの社会は成立している」という妄想を抱き続けている。そしてみんなそれに調子を合わせている。こういう営みは一般的に、ごっこ遊びと呼ばれる。
人間は市場という茶番に付き合うくらいに優しすぎるのである。金や市場がなければ社会が成り立たないほど人が利己的なのではない。金や市場という非効率なシステムのもとであったとしても社会が成り立つほどに人は利他的なのだ。
とはいえ、農家の総数は減少を続けている。それもそのはずである。金儲けするために農業を始めるようなバカはいない。市場で金を効率的に追おうとするなら、金融や保険、人材、広告といった合法的ピンハネ業に向かうのが効率的なのだ。実際人々が肩書きを求めて大学に殺到しホワイトカラーに就く権利を競い合い、エッセンシャルワーカーが枯渇して疲弊してブラック化していっているのが現状である。市場において人がエッセンシャルワークにつく金銭的インセンティブはほとんどないのだ。広告やコンサル、金融といった企業は少なければ少ないほどいい。このことに疑いようはないが、残念ながらいずれの業界も業績絶好調で右肩上がりなのだ。一方でエッセンシャルワーカーはどんどん人手不足が進み、倒産が進んでいる。当然であろう。ピンハネしている方が、効率的に金を稼げるのは当たり前である。そして、かわいそうなことにピンハネをする権利を奪い合う労働はどんどん過激化していて、搾取している側のホワイトカラー労働者は自分が搾取している側の人間だなんて夢にも思わない状況になっている。むしろ彼らは自分たちが搾取されていると思っているのである。たしかに彼らは搾取されている。その結果、終電を超えるまで働き、深夜のコンビニ飯を食い、家事代行業者を呼び、精神科に通い詰めなければならなくなった。その結果、無意味な労働のために、余計にエッセンシャルワークが必要とされるのだ。
いい加減、逆に考えるべきではないのか? いまの市場や金というシステムをそのままにしておいて、人々に衣食住を提供し続けられるという保証がどこにあるのか? 僕は現状の社会をそのまま続けていく方にこそ、現実味を感じない。労働を撲滅し、金や市場を撲滅することこそが、人類が好むと好まざるにかかわらず必然的に向かわざるを得ない方向ではないか。
金のない世界ではホワイトカラー労働者の大半は不要になる。もちろん広告やコンサル、金融、営業は必要ない。ついでに、レジ打ちも、貸借対照表も、税金も、株式市場も、為替市場も、クレジットカードも、電子マネーも、ATMも、銀行も、住宅ローンも、何一つ必要なくなるのである。地球規模で考えてみて欲しい。どれだけの資源と労働力の節約になるだろうか? 自分自身の人生で考えてみてもいい。財布を持ち歩いたり、レジに並んだり、請求書を書いたり、クレジットカードの明細を確認したり、会計システムをSIerに発注したり、家計簿をつけたり、確定申告をしたり、貯金残高やS&P500の相場を見てヤキモキしたり、四季報をチェックしたり、ビジネス芸人の動画や本をチェックしたり、そんなことをする必要がまったくなくなるのだ。いったいどれだけの創造力とエネルギーが世界に解き放たれるだろうか? すべてが無料で、なにをしてもいいのだ。いったいなにをするだろうか?
なんでもできる。そんな気がしてくる。ちょっとやそっと怠ける奴がいたところで、なにか問題があるだろうか? どうせ無意味なことをずっとやってきたのだ。しかも楽しくない無意味なことをやっているのである。だったら家でボケっとアマプラでも見てもらった方がマシなのだ。
なるほど、自発的な貢献を受け取れる人と、受け取れない人の差は生まれるだろう。だが、それは市場と金のある社会でも生まれているわけで、いま以上に大きくなるとは考えづらい。たとえばホームレスに炊き出しをするボランティアスタッフは「うーん・・・お前の顔キモいから渡さない」とか言わないのである。ちょっとやそっと不細工であろうが、マナーが悪かろうが、貰えるのである。だが、金がなければ飲食店で飯は食えない。
金を空気のように当たり前に感じて育ってきた僕たちは、「金のない社会」にはついついセンメルヴェイス反射をしてしまう。だが、おそらくこれはセンメルヴェイス反射なのである。冷静に考えれば、お金はコスパが悪すぎる。市場は燃費が悪すぎる。
どのみち保証はないのなら、信頼すればいいのである。人間は信頼すれば信頼するに値する振る舞いをとるようになることは心理学の世界では常識だ。金あるいは他者からの強制が人のモチベーションを下げることも心理学の世界では常識だ。こうした知見はマネジメント理論の中にもとっくの昔から活用されている。そろそろ社会全体に活用してみればいい。すなわち、人々を労働から解放し、金と市場を撲滅するのだ。
僕たちはいまの社会において無条件で人を信頼して生きている。性悪説を唱えるのも馬鹿らしくなるくらいに、僕たちは見ず知らずの他人を信頼しなければ生きていけない。僕は農家が一斉にボイコットする可能性についてチラリとも考えたことはない。あるいは、コンビニのおにぎりに鼻くそが入っている可能性や、バスの運転手が自殺願望を抱いている可能性、後ろを走る大型トラックの運転手が居眠りしている可能性、駅のホームで後ろの客に突き落とされる可能性を考慮せずに生きている。よくよく考えれば、人が怠惰で悪なのであれば、こうした事態が起こらない方が不思議なのである。僕がいいたいことは、やはり「いけるやろ、知らんけど」である。なぜなら、いまの社会がいけてるのである。こんなに非効率でもいけてるのだ。自由を与えられて、いけないとはどうしても思えない。
最後に考えてみて欲しい。すべてが無料で、なにをしてもいい社会で、あなたはなにをするだろうか?
資本主義批判を批判する
資本主義とはなにか? 概ね次のような定義で合意が得られているのではないだろうか。それは「利潤追求動機に突き動かされた資本家によって資本が投下され資本を増殖させていく運動(を肯定する主義)」といったところであろう。資本主義の批判者である左翼は、利潤追求動機のせいで、環境が破壊され、労働者が搾取され、あらゆるコモンズが商品として囲い込まれていくと指摘する。では、それに対してどのような解決策を資本主義の批判者は提示しているのだろうか?
一つには「禁欲しよう」という解決策である。ビッグマックやシャネルのバッグなど、人が幸福に生きるためには不用なのだから、必要以上の欲望を煽り立てて利潤を追求しようとする資本側に抵抗して、手作りのパンや、毛糸のセーターを大切に使っていこう、といった具合である。なるほど、それは一つの解決策として検討の余地はあるだろう。だが重大な欠陥が存在する。それはビッグマックが美味いということである。多くのマクドナルドユーザーはいくら資本主義が憎かろうが、ビッグマックを食いたいのである。それを「我慢しろ」と言われたところで、それができれば苦労しない。結果「ゴミを分別しよう」と言われても誰も分別しないように、相変わらず僕たちは禁欲思想を必死で唱える左翼に冷ややかな目線を向ける。「東側諸国がかつて西側の消費文化にあれだけ憧れていたではないか? ソ連のような灰色の暮らしを強いたところでスターリンのような奴なメチャクチャにされて終わるに決まっている」というわけだ。「いやいや、それは消費であって浪費ではないのだ」とか「記号的消費を追い求めさせられているに過ぎないから、ビッグマックを食っても幸福になれないよ」などと苦し紛れに左翼が反論したところで、もう誰も彼の話を聞いていないのだ。
では、禁欲思想を封じられた左翼はなにを主張するのか? お次に飛び出してくるのは「資本家から工場を取り返せ」といった具合の批判である。飛び抜けて強欲な資本家が生産手段を独占しているからこそ、労働者は資本家に従わざるを得ない。なら、労働者による自由なアソシエーションによって生産を組織し直せば、労働者は搾取されることなく、環境負荷の少ないビジネスに取り組まれるようになり、すべてがうまくいく・・・といった具合である。
これも一理ある。だが、誰しもが感じるのではないか? 「そんなに上手くいくかね?」と。そもそも強欲な資本家と言えども人間である。それを労働者の集団が代替したとて、利潤追求動機が消えるとは到底思えない。彼らは自分たちのための利益を残したいと思うだろうし、そのために多少の環境負荷には目を瞑るだろう。彼らの事業の仕入れがグローバルサウスの児童労働や、土日返上で働く町工場によってカバーされているとしても、見て見ぬ振りをして仕入れを続けるだろう。彼らは自分たちの食い扶持を稼がねばならないだけではなく、子どもをいい大学に入れたいと思うだろうからだ。
さて、困った。どこまでいっても僕たちは利潤追求から逃れられなさそうである。常識人なら次のように言うだろう。「所詮人間の欲望を抑え込もうたって無理なんだ。人間には無限の欲望があるのだから。でも、俺たちは幸運じゃないか? 欲望を追求するために隣人から暴力で奪い取る時代ではなく、欲望の追求がビッグマックやiPhoneの生産という形で現れる時代に生きているのだから。万人による闘争は市場によって毒を抜かれているんだ。資本主義に感謝こそすれど、批判するなんてもってのほかだよ。それとも君はソ連や北朝鮮、あるいはアマゾンの奥地で生活したいのか?」と。
しかしここで僕は疑問に思うのだ。もし人間が本質的に無限の欲望を追求する存在であったなら、なぜ資本主義が一八世紀になるまで登場しなかったのか? なぜ封建時代の領主たちは「明日から生産量を倍にしろ」だとか「一日も休みを取らずに働け!」と言わなかったのか? あるいはもし言っていたとして、なぜ農民たちはそれに従わなかったのか? 逆になぜ資本家は利潤を追求し、労働者たちはそれに文句を言わずに従っているのか?
僕はその根本的な理由は、たんに人々が土地を追い出され、自給自足できなくなったからだと考える。もし自分が自給自足で食っていける農民であったなら、領主から理不尽な命令をされたとて「なぜそんなことをせねばならんのだ?」と突っぱねたことだろう。なるほど武力で命令することもできなくもなかったはずだが、そんなことをすれば農民たちも武器を持って立ち上がり、一揆を起こしたことであろう。実際、かつての農民たちに領主たちは頭が上がらなかったというのは有名な話である。しかし、土地を追い出され、都市に流れ込んだプロレタリアートであったならどうか? 彼らはどんなに理不尽であろうが、金を払ってくれる資本家に従属せざるを得ない。資本家も、銀行家も、株主も、現代においてはもはや自給自足する術を持っていない。そして彼らはどうあっても銀行への利息や株主への配当を稼がねばならない。労働者を家族のように想う心優しい資本家であるならば、より高待遇で労働者に報いるかもしれない。そしてなによりも自分たちが食っていかなければならないし、老後を安心して過ごせる資金が欲しい。そのためにもやはり利潤をどこかで獲得しなければならないのである。
ならばこうは考えられないだろうか? 資本主義の利潤追求動機を駆動しているのは、労働者の、資本家の、銀行家の、株主の「路頭に迷いたくない」という焦燥感であると。彼らにインタビューしてみるといい。彼らになぜ労働するのかや、なぜ利潤を追求するのかを聞いてみれば、「生き残るため」だとか「子どもにいい教育をし、将来子どもが立派に金を稼げるようになるため」なんとか答えるのではないか? それは「路頭に迷いたくない」とほぼ同義ではないか?
ロレックスやベルサーチのために利潤を追求する人も確かに存在する。だが、間違っても「自分の息子に将来ロレックスを身につけてほしいから利潤を追求する」と言う人はいないのである。「清潔で手狭でない家に住み、栄養ある食事を摂り、立派な結婚式を挙げ、子どもを遊びに連れていく余裕のある大人になってほしい」と言うだろう。言ってみれば「自分や家族が路頭に迷わず人間として尊厳のある暮らしをするために金を稼がなければならない」という焦燥感に万人が強制されているのである。
僕がベーシックインカムが解決策になると主張するのはそのためである。もし、なにがあっても路頭に迷わない安心感があったなら、理不尽に労働者を搾取したり、必要以上に環境破壊を繰り返すだろうか? わざわざ無意味だとわかりきっている欲望を煽り立てるだろうか? ブルシットジョブに従事し続けるだろうか? もちろん、それらが一夜にして無くなることはないだろう。だが僕には禁欲思想や労働者のアソシエーションに期待するよりは現実的なアプローチではないかと思うのだ。そうすれば資本主義(資本の増殖運動)は骨抜きになる。なら、資本主義の問題は解決したも同然ではないか? 資本の増殖を止めるには、労働者や資本家が焦燥感によって強制されるのを止めればいいのである。言いかえれば、強制=労働を撲滅すればいいのである。
資本主義を攻撃するとき、人は強欲な資本家を道徳的に攻撃するか、無意味な欲望に踊らされる消費者を攻撃する。あるいは抽象的な生産関係の再生産システムみたいなものを攻撃する人もいる。が、たいていの場合、資本主義という言葉が抽象的すぎるあまり、資本主義批判はフワフワとした空中戦に終わる。もっとひどい場合は、インテリぶりたい左翼がマイ資本論を披露するファッションショーが始まってしまう。僕が資本主義という言葉をあまり使わないのはそのためだ。
問題はもっと具体的な営み・・・つまり労働にあるのである。攻撃すべきは労働なのである。トリカゴを破壊するにはドフラミンゴを倒せばいい。戦争を止めるにはクロコダイルを倒せばいい。同じように資本主義をとめるには労働を倒せばいい。
ブルシットジョブ撲滅から労働撲滅へ
アンチワーク哲学って、「ブルシットジョブをやめて最低限のエッセンシャルワークだけやって労働時間減らそう」ってことですよね?
これは、アンチワーク哲学に対するよくある勘違いである。僕はブルシットジョブだけではなく労働を撲滅したいのである。厳密に言えば、ブルシットジョブは撲滅しなくても構わないと思っている。どういうことか? 詳しく見ていこう。
ブルシットジョブとは「本人が無意味であると感じている仕事」を意味する。料理人や、ごみ収集人、SF作家が、自分の仕事がまったく無意味であると考えているとは思えない。人々の腹を満たしたり、街を清潔に保ったり、エンタメで人々を喜ばせたりする意味があるからだ。だが、書類を埋めるだけの仕事や、誰も聴いていないセミナーを開催する仕事は、本人が無意味だと感じている可能性が高い。無意味と感じているならブルシットジョブである。ここでいう意味とは「社会への貢献度」を指す傾向にある。つまり、誰か自分以外の人間の生命を維持したり、楽しませたり、街のインフラを守ったりすることには意味があり、そうした結果を得られない仕事には意味がなくブルシット・・・という判断をくだされる。逆に言えば、本人がそれをやって楽しいかどうかは度外視される傾向にある。たとえば、朝から晩までペン回ししたいくらいにペン回しがとんでもなく好きな人に対して「部屋のなかで一日中ペン回ししていろ」という仕事が与えられたとして、彼はペン回しを楽しむ。そして同時に「この仕事には意味がない」と感じているわけだ。つまり、楽しいがブルシットジョブであるという可能性は十分に存在する。あるいは、クソ広告であると理解しながらクソ広告作りに夢中になる人もいるだろうし、書類穴埋めがだんだん快感になってくる人もいる。ブルシットジョブの提唱者であるグレーバーの論のなかでは登場することはなかったが、ブルシットジョブエンジョイ勢は一定数存在するのである。
僕はエンジョイ勢がやるブルシットジョブに目くじらを立てる必要がないと思っている。では、僕が撲滅したい労働とはなんなのか? 僕は労働を「他者から強制される不愉快な営み」であると定義した。つまりそれがどんな行為であろうが、強制されていてなおかつ不愉快であれば労働である。逆に、強制されていても楽しければ労働ではなく、不愉快であっても強制されていなくても労働ではない。この定義では社会への貢献は完全に度外視している。老人のオムツを替えるような行為であろうが強制されていて不愉快なら労働だし、自発的に楽しくやっているなら労働ではないのである。
さて、ここで二つの軸を使って仕事全般(賃金労働全般)を分類してみよう。その二つの軸とは「社会への貢献をしているかどうか」と「楽しいかどうか」である(強制は一旦脇に置く)。すると、次の四つに分類することができるだろう。
A 社会に貢献せず、楽しくない仕事 → 退屈なブルシットジョブ(=労働)
B 社会に貢献せず、楽しい仕事 → 楽しいブルシットジョブ(=非労働)
C 社会に貢献し、楽しくない仕事 → シットジョブ?(=労働)
D 社会に貢献し、楽しい仕事 → ???(=非労働)
※シットジョブとは主に低賃金で搾取されるエッセンシャルワークを意味する。厳密に言えばCには「社会に貢献し、楽しくないが、高収入」という仕事も含まれるため、Cをシットジョブと括るのは適切ではない。ただし、「社会に貢献し、楽しくないが、高収入」という仕事はあまり多くは存在しないように思われるので、一旦「シットジョブ」とひとくくりにする。
ブルシット・ジョブの撲滅とはAとBの撲滅である。一方で、僕が考える労働の撲滅とはAとCの撲滅なのである。つまり、労働なき世界とは、万人が社会に貢献しようがしまいがそんなことは気にせず楽しいことだけをやる世界である。もちろん多くの人はCなくしては社会が成り立たないと考えるため、労働なき世界というテーゼが広く受け入れられることは稀である。しかし、なぜCなくして社会が成り立たないのか? それは老人のオムツを替えたり、電気工事をしたりするようなエッセンシャルワークが多くの場面で苦痛であると想像されているからである。
AIやロボットに任せればCが撲滅可能であると主張するテクノロジー楽観論も、エッセンシャルワークが常に苦痛であるという前提から抜け出せていない。苦痛だと考えているからこそすべてが機械化できるという非現実的な考えに夢中になっているのである。当たり前だが苦痛でないのなら機械化する必要はない。僕たちは一秒でラーメンを食べるスーツを発明したいとは思わないし、登山道に動く歩道をつけようとは思わない。これに反論することが、アンチワーク哲学の一丁目一番地である。他者へ貢献することはもともと苦痛でもなんでもない。ただの楽しい遊びなのである。他者の期待やニーズに応える場合だってそうだ。自発的に取り組まれているならテレビゲームをやったり、楽しく飲み食いしたりするのと変わらない遊びなのである。
もしそれが遊びなのであれば、「誰がどれだけ社会に貢献したか?」といった点は気にする必要がないし、わざわざ貢献度を測る必要もない。たまたま社会に貢献する人と、しない人がいるだけである。小さい子どもを見ていればそのことを痛感する。子どもは料理、ごみ出し、トイレ掃除をやりたがる。その一方で、「ご飯食べなさい」と言われても食べないし、レジャーランドに行って「せっかく来たんだから楽しみなさい」と言っても楽しまない。これは「食事や娯楽=楽しい、お金を払ってでもやりたいこと」「掃除やゴミ出し=楽しくない、お金を受け取らなければやりたくないこと」という分類が人間にとって本質的でないことを意味しているのではないか? 子どもにとっては「やりたいと思うかどうか」「強制されているかどうか」の方が重要なのだ。また、子どもとお店屋さんごっこをしてみれば、どっちがお金を払う側で、どっちがお金を受け取る側かを子どもはなかなか理解できない。そもそも貢献し、対価を受け取るという発想が、子どもにとっては不自然なのだ。やりたいことをやっているだけなのだから、それによって対価を受け取る必要を彼は感じない。すべてが遊びであるならば、対価という発想がそもそも必要ないのだ。
子どもだけではなく本当は大人にとってもそうなのである。労働という不愉快な強制が存在するときだけ、金という対価が必要とされる。裏を返せば、あらゆる強制がなくなれば、金が必要なくなる。すべてが無料で、誰にもなにも強制されることなく、クレジットカードの支払いや住宅ローン、確定申告に悩まされることもなく、レジ打ちも月次決算もレシートもなにも必要ない世界である。好きなように他者に貢献し、好きなように貢献を受け取る。最高の世界ではないか? そんな世界が実現したなら、あなたはなにをするだろうか?
念押ししておくが、僕は利己的な人間やサイコパス、詐欺師に出会ったことのない世間知らずではない。世界には犯罪や戦争があふれかえっているし、他人に無関心な人々も多い。それでもなお、僕は労働なき世界が可能であり、金のない世界が可能であると主張しているのである。僕はこれを非現実的な理想論として掲げているのではない。十年や二十年では達成できないだろう。だが、百年単位の時間があれば十分に成し遂げられるはずだ。その根拠は、『14歳からのアンチワーク哲学』という本の中に書いた。これを読んでも労働なき世界と言うビジョンはなかなか信じられるようなものではあるまいが、丸っきり誤りであると断言することはあなたにはできないだろう。労働なき世界には同意できなくても、この社会があまりにもイカれていることは否定できないはずだ。そこを理解してもらば、労働撲滅へとまた近づくのである。ブルシットジョブもいいけれど、やっぱり僕は労働を撲滅したい。
実存主義を乗り越える方法
人間はハサミとはちがう。ハサミは「切る」という本質あるいは意味がもともと付与されたうえでこの世に誕生するが、人間は理由なく生まれ理由なく死ぬ原子の塊にすぎず、その原子すら外の世界と次々に入れ替わっていて、もはや自分とかない。だからこそ人間が生まれてから死ぬまでにやることなすことすべて「だからなに?」「意味あるの?」と一言で一蹴することが可能になる。ニーチェが「神は死んだ」と言うまで、そうではない時代があったらしい。人間は神の計画に従って誕生し、神の計画のために生きた。そのため、かつての人は「だからなに?」「意味あるの?」と聞かれたとき、「いや、神のためにやってるんだから意味あるに決まってんじゃん?」と自信満々で返答できたそうだ。
ところが現代に生きる僕たちはこう告げられる。「おめでとうございます! あなたを縛り付けていた神は死にました! あなたは晴れて自由の身です! さぁ、あなた自身の人生に、自由に意味づけし、自由に生きてください!」と。しかし、どうしたわけか人々は自由を謳歌し幸福になることができなかった。ここでサルトルのような実存主義者たちが、したり顔で現れてこう言う。「あなたたちは自由の刑に処されているのだ」と。彼らは言う。自由とは手放しで礼賛できるものではない。多くの弱い凡人たちは、自由の前で呆然と立ち尽くしてしまう。そこに全体主義的独裁者が現れれば、即座に追従してしまうだろう。彼らは自由を扱い切ることができず、服従に飢えているのだから。実際そうして生まれたのがナチスであった。なるほど、ナチスへの反省を十分に繰り返した現代では、全体主義へと急転直下することはないかもしれない。だがそうなるともう信じられるものがなくなった人々はニヒリズムに陥るか、唯一信じることができる健康という意味に縋りつくしかなくなる。ニーチェが言うように末人たちは健康に気をつかってまばたきするくらいしかやることがないのだ。キルケゴールがキリスト教への回帰を訴えたのも頷ける。たしかにヒトラーのような人を信じるくらいなら、神を信じていた方がまだマシだろう。
実存主義者たちはマッチョになれと訴えた。アンガージュマンせよとか、超人になれとか、自己に向かって投企せよといった具合である。だが、多くの人はこう言うのだ。「いやぁ超人になるのは大変そうですよね・・・自分みたいな凡人にはできそうもありません」と。あるいはもっと傲慢な人ならばこう言う。「俺ほどの超人になれば自由を扱い切ることができるが、多くの凡人はそうではあるまい。連中は自由の前に呆然と立ち尽くすのだから、俺のような超人が命令してやらねばならないのだ」と。なるほど、自由とはトレーニングを積んだ超人にしか扱いきれないというのであれば、自由なんてかなぐり捨ててしまいたい気分に駆られるのは理解できる。だが、ここで僕は疑問を呈したい。本当に自由とは、そんなに扱いがむずかしいものなのか? 多くの凡人には扱いきれないものであり、ツァラストラのように飛び抜けた強い意志を持った超人にしか扱いきれないものなのか? もしそうなのだとすれば、なぜ小さい赤ん坊は母親の顔色をおそるおそる観察しながら「次はなにをすればいいですか? 寝返りですか?」などとお伺いを立てようとしないのだろうか? なぜ三歳児は「なにをしたらいいかわらないから教えてくれ」と母親に縋りつき、「くもんに行ってお勉強しましょう」と言われるがままに行動しないのだろうか? 彼らは自由を思いっきり謳歌する。彼らが困ることがあるとすれば、それは親によって自由を制限されるときだけである。彼らは「好きなことをやっているだけ」なのだ。好きなことをやることは、文字通り赤ん坊にだってできる。では大人はなぜ自由を謳歌できないのか? 学校教育によって服従に慣れさせられたから・・・というのが一般的な説明であるが、それは本質的ではないだろう。僕は一言で答えを提示したい。それは「大人が自由ではないから」だと考える。もっと言えば「金によって強制されているから」である。
そのことを説明するには、まず自由とはなんなのかを考えなければならない。自由とは、他者や周囲の環境からなんの影響も受けないことではない(そんなことができるのは神以外ありえないだろう)。また、なんの義務も引き受けないことを意味しない。自由でありながら周囲の影響をうけ、義務を引き受けるということは十分にあり得る。というかむしろ、そうすることなく生きることはできない。僕たちは重力の影響を受け、生存のために呼吸や食事、排泄を強いられているし、社会のなかで生きざるを得ないからだ。周囲からの影響や義務をも、自発的な意志で受け入れている状態のことを自由と呼ぶのである。つまり、環境や他者からの要請と自由意志を調和させることこそが、自由の意味なのだ。
具体的に考えよう。まず僕たちは自然によって呼吸や排せつを強いられているからと言って自由を制限されているとは感じない。また、未開人のなかには、狩りや採集、農業を「遊び」であると捉えていた人々は珍しくなかった。食糧生産活動はある意味で自然が人間に与えた要請である。しかし、だからといって彼らは自由を侵害されているとは感じなかった。人間は自然から与えられた要請と自由意志を調和させることができる。
では他者からの要請はどうか? たとえば往来で誰かに道を尋ねられたとしよう。そのとき多くの人は、相手に対して真摯に道順を教えようとする。そのとき自由が侵害されていると感じる人は稀であり、むしろ教えることを自由に欲する。あるいは親戚が家に尋ねに来たとき、車で駅まで送ってやろうとする人も同様である。それは他者からの要請を自由に受け入れているわけだ。つまり、人間は他者から与えられた要請と自由意志を(ある程度まで) 調和させることができる。
では逆に自由意志と調和できない要請とはなんなのか? 答えは明らかに「やりたくない」と感じる要請である。ここで僕たちが置かれている状況を確認してみよう。僕たちは生きるために金を稼ぐことを半ば強いられている。このことは疑いようがないだろう。では、金を稼ぐという要請は自由意志と調和させることができるだろうか? 不可能ではない。マネーゲームを楽しむビジネスマンや、明るい社畜たちは、金を稼ぐ行為を自由な意志で欲望していると感じていることだろう。しかし、「金儲けはやりたいことではない」と感じる人はどうか? 彼にとって金を稼ぐための労働は苦行であり、自由意志で選択しているだなんて思えない。なるほど金を稼ぐ手段は膨大に存在していて、そのなかから自由に選択することは可能である。しかし、賃労働であれ、フリーランスとしてであれ、起業であれ、生活保護であれ、パパ活であれ、そのいずれにも魅力を感じることができなければどうか? 彼は自由意志と金を稼がなければならないという義務を調和させることができない。そのとき彼は自由ではないのである。
なら、彼は自由の前に困惑しているのではない。「ほら、あなたたちは自由ですよ」と押し付けられているにもかかわらず、金儲けという義務を押し付けられ、それを自由意志と調和できないことに苦しんでいるのだ。ホリエモンのようなビジネスインフルエンサーに「好きなことをして生きていけばいい」と言われて、末人が返す「好きなことがないんですよね」という言葉の真の意味は「(金儲けできるような)好きなことがないんですよね」という意味である。好きなことがない人間などおそらく存在しない。彼にも食べ物の好みや漫画やゲームの趣味など、好きなことはいくらでもあるはずだ。単にそれで金儲けできないということを言っているにすぎない。実存主義者による「マッチョになって自由を謳歌しろ」という押し付けは、事実上「金儲けを好きになれ」と言っているにすぎないのである。
人間は自然からの要請は容易に受け入れることができた。狩りや採集が嫌で適応障害を発症する未開人などいないのである。また、自由な意志でボランティアに勤しむ人が充実感を覚えるように、他者からの要請の多くも容易に受け入れることができる。しかし、金儲けという要請を人間は自然と受け入れることができない。なぜなら金儲けとは往々にして不毛であったり、あまりにも過酷であったり、あまりにも他者への服従を要請するような苦行である傾向にあるからだ(そしてたいてい他人からの要請に応える労働であればあるほど金が儲からないのである)。
となれば実存主義者が騒ぎ立てた問題は、「金儲けしなくていい」という状況に至れば自然と解決するのではないだろうか? 人は自由を謳歌する能力を備えているし、他者や自然からの要請と自由意志を調和させる能力なら万人が有している。なら、「金を配る」=ベーシックインカムによって、実存的問題は解決するのではないだろうか? 人生に意味を見出す必要はない。好きなことをやっている人は「人生に意味があるかどうか」など気にするだろうか? いや、見出しても構わないのであるが、それをしなければ幸福になれないなんてことはない。人は好きなことをやっていれば幸福になれるのである。
人は金儲けという束縛から解放されれば自由になんからのプロジェクトに打ち込む。そして自由に試行錯誤し、自由に壁を乗り越える。そして、乗り越えることができずに困っている人は、周囲に協力を呼びかけ、周りの人々は自由にそれをサポートしようとするだろう。もちろんコミュニケーションには、一定のスキルが求められることは間違いない。だが大人は他人とうまくやる方法をそれなりに身につけているものである。ただ、権力を押し付け合い、労働を押し付け合うようなやり方をやめさえすればいいのである。そうすれば互いに自由なまま、一人では成し遂げれない巨大なプロジェクトを次々に遂行できるだろう。
人が自由を恐れることはない。そしてこうも言える。自由であれば、自由であるほど、それは良いことであると。もし自由を与えられて、なんの指針も持てないと感じる人がいたなら、そのときはあらためて自由に他人に服従すればいいのである。彼が真の意味で自由にナチスに追従しようが、それは別に構わないだろう。そのときは別の自由な人々が、ナチスを拒否するだけである。ゆえに自由はほとんどの場面で不自由に勝る。
こうして、金持ちへの服従を正当化することに利用されてきた実存主義者の根性論は、アンチワーク哲学によって乗り越えることができる。万人を金と労働の支配から解放すればいい。そうすれば実存的問題はすべて解決されるだろう。
労働批判は労働者批判ではない
とあるコミュニストの方と話したとき、「労働はクソっていう人もいるけど、やっぱり生きていく上で必要な生産活動をないがしろにしている気がして、ピンとこないんだよね」という意見をいただいた。これはアンチワーク哲学に対するよくある質問(あるいは批判)の一つである。そのため僕は生産活動やそれに携わる人々を軽視したり、バカにしたりする意図はないことを念押ししてきたつもりである。アンチワーク哲学や『労働廃絶論』は、現在強制された労働として取り組まれている生産活動を、楽しみだけを目的とした自発的な遊びとして代替することが可能であると主張している。要するに「どうせ同じことするなら、誰かに強制されながら辛そうにやるよりは、自発的に楽しくやる方がよくね?」という話なのである。
それでも「いや、それでもお前はバカにしている!」という感覚を持つ人もいるのだ。なぜだろうか? なぜ僕が、あるいはアンチワーク哲学やボブ・ブラック『労働廃絶論』が生産活動をバカにしているように見えるのだろうか? おそらく「有意義である=歯を食いしばって取り組まれる大変な活動であるべきである」という感覚が裏返って、「遊びのような楽しい活動=無意義である」という感覚が生じているせいではないだろうか?
僕は、そもそもこうした感覚自体が、労働がもたらした結果であると主張してきた。労働とは権力によって押し付けられる強制であるが、強制に人々を納得させるため、労働に取り組めば金を受け取り、労働の果実を享受するためには金を支払うというシステムが生み出された。このとき、人間の行為は、「金を受け取ってやる行為=強制=苦痛=意義のあるもの」と「金を払ってやる行為=自由・自発=快楽=意義のないもの」に二分された。もともとその二つに分かれていたわけではない。前者と後者は混然と一体化していた・・・というより、強制や国家のない社会においては、前者はほとんど存在していなかったはずだ。人間社会は好きなことだけやって生きていた。少なくとも、好きなことだけやって生きていく人間社会は可能であったはずだ。当時は、自発的に好きでやっていることにも意義があった。
いや、いまでも意義はある。それは、大谷翔平にとっての野球である。とはいえ「好きでやっている」という言葉は、「才能」として神格化されたり、「謙遜」として神格化される傾向にある。あなたは「自分は努力してきたわけではない」と殊更に主張するプロフェッショナルを見かけたことは一度や二度ではないだろう。彼らは、自分は好きなことをやってきただけであり、それがたまたまプロとしての仕事につながったと主張する。おそらくこれは彼らにとって本音であるが、人々は本音であるとは受け取らない。「いやいやご謙遜を・・・・そうはいってもきっと大変な苦労があったことでしょう。うちの子も大谷選手みたいに育てたいんですがね、野球をやらせたら三日で飽きてしまいましたよ。やはりその継続力は努力の賜物でしょう」といった具合に神格化するのである。
もちろん「お前も大谷翔平みたいになれ」と強制され、大谷翔平という目的のために毎日バットを振り続けるのは、どう考えても苦痛である。そもそも強制は、強制される前に苦痛ではなかった行為も苦痛に変える効果があるし、大谷翔平という目標はあまりにも途方がなさすぎる。遊びとして取り組むには、遠すぎる目標なのだ。子どもが挫折しないわけがない。
プロになるためにはプロを目指さない方がいい。遊んでいるうちに、目の前の小さな課題に夢中になっているうちに、気が付いたらプロになっている・・・・これがプロになるための最短ルートである。このことは、なんらかのプロフェッショナルにアンケートをとれば99%が同意するだろう。ところが、謙遜ではないと分かった人々は次は「才能」というナラティブを持ち出してくる。プロの方が執拗に「いや、私には才能はないですよ」と否定してみせるのを渋々受け入れた人々は「いやいや、仮にそうだとしても、継続する努力ができるのは才能ですよ」と神格化することを諦めない。そして、もし僕が「好きでやってたら気づいたらプロになったってことでしょ?」と大谷に尋ねたら、彼が「そうですよ」と口にする前に人々がズンと前にしゃしゃり出てきてこう言うだろう。「なんと恐れ多い! お前は大谷選手がどれほどの努力を積み重ねてきたか知らないのか?」と。
要するに人は、膨大な金を手にする行為の裏側には、なにがなんでも膨大な苦痛=努力あるいは、凡人にはない特別な才能が存在して欲しいのだ。そうでなければ金がもたらした二分化システムに矛盾が生じてしまうからである。
人びとは苦しく、価値のあることをしているからこそ、金を得ていると考えている。苦しいからこそ価値がある。遊びとして好きでやっていると言って金を稼ぐプロは、謙遜しているか、途方もない才能があったかのどちらかである。つまり、努力も才能も伴わない遊びに価値があってはならないのだ。消費主義はその文脈にすっぽりと収まる。「凡人がなんの努力もせずに楽しめるのは、金を払ってやる消費だけ」という説明を消費主義が強化してくれるわけだ。
まとめよう。労働が生産に苦痛をもたらし、苦痛を正当化するために、権力は金という報酬を用意した。そして金は、生産はおしなべて苦痛であり、苦痛こそが価値を生み出しているという錯覚を生み出した。苦痛を伴わない価値の生産は、天才にしかできない偉業であるとして神格化されるか、「実際は苦痛があったのに謙遜している」とみなされなければならなかった。そうでなければ人々は自らに降り注ぐ苦痛を正当化できないのだ。つまり、どれだけアンチワーク哲学が否定しても労働をしぶとく正当化するロジックは、まさしく労働そのものによって生み出されている。
しつこいようだが「遊び」は苦労や創意工夫がないことを意味しないし、スキルを必要としないことも意味しない。少しむずかしいパズルの方が解きたくなるのと同じように、壁を乗り越えることすらも遊びの一環として取り組むことは可能であるし、むしろ壁のない遊びの方がつまらない。そして、遊びとして取り組む方がスキルアップできることは、プロフェッショナルの存在が証明しているように思えるし、多くの人々も小さな規模であっても遊んでいるうちに上手くなった経験の一つや二つくらいあるだろう。
そして、順当に考えれば「アンチワーク哲学の主張=生活を維持するための生産活動は、もしまったくおなじだけの産出量と生産効率を維持できるのであれば、苦しいよりも、遊び感覚で取り組まれた方がいい」という意見に反論することはむずかしいはずだ。それに反論するのは「他がまったく同じ条件であろうが、人間が苦しんでいないよりは苦しんでいる方がいい」と言っているのとほぼ同じだからである。人は直接的にそう表明することはない。しかし、彼らは労働によって実質的にそう思わされている。そう思っているが、そう思っていると認めることなくアンチワーク哲学を否定したいなら、「なんかバカにしている気がするんだよねぇ」という言葉しかひねり出すことしかできないのだ。
さて、これをひっくり返すにはどうしたものか。労働撲滅までの道のりはまだまだ険しいようである。
永遠の満足という妄想
人は死ぬまでなんらかの行動をとり続けるため、人生のどこかで完全な満足が訪れ、欲望が消え去り、そこであらゆる行動を停止することはない。それは単純に死を意味するのだから。死んでいないのであれば、彼に永遠の満足が訪れることはあり得ない。これはネガティブなことではなく、ごくごく当たり前の話である。それを否定するのは生命の否定に等しい。それなのに、「永遠の満足が訪れないから人生は苦しいんだ! 永遠に消えてくれない欲望を抱えたまま、我々はハムスターのように走り続けなければならないんだ!」と主張する禁欲的な思想の潮流はたくさん存在する。
なぜそんな思想が存在するのか? おそらく禁欲思想に「そもそも行為は苦しい」という前提が存在しているからではないか? そこからロジックを展開し「行為は苦しく、達成は快楽である。だから、どこかのタイミングで行為から逃れ、永遠の達成=永遠の快楽を手にしたい」といった発想に至るのではないか? 仏教は「行為を焚き付けてくる欲望を捨てよう。それこそが永遠の満足である」というロジックを展開した。一方キリスト教やイスラム教は、天国という「永遠の満足」を設定してお茶を濁そうとした。いずれにせよ「行為が苦しい」とか「本当は永遠の満足があればいいのに・・・」といった発想がベースにあるのである。
宗教を捨て去った現代人も、そこから大きくは変わっていない。人は「行為の果てに、永遠の満足が存在する(してほしい)」という幻影を完全に捨て去ることができずに、現実とのギャップに苦しんでいるのだ。
ではなぜ行為が苦しいと想定されているのか? そこに僕は「人為的な強制」の存在を見出さずにはいられない。
人為的に強制されない行為は、さほど苦痛ではないと思われる。人は自然からの強制はものともせずに、むしろ楽しみながらあっけらかんと攻略していく傾向にある。農作業や狩りといった生産活動を遊び感覚でこなしていた未開社会を見ればそれはあきらかであろう。
しかし、他者からの強制には不愉快さが付きまとう。国家。奴隷制度。労働。貨幣。こうしたものに強制された行為はおしなべて不愉快である。世界宗教はこうした不愉快さのフルコースによって社会が食い潰されたあとに決まって現れた。それはおそらく偶然ではない。
強制が行為を不愉快なものに仕立て上げた。だからこそ人々は、不愉快な行為の先に「永遠の満足」という幻想を見出さずにはいられなかった。それがないのなら、強制に苦む現状が肯定できないのだから。「人類に降りかかる最大の呪詛は苦しみではなく、苦しみの無意義である」とニーチェは言ったが、苦しみの無意義化を避けるためには、永遠の満足という幻想が必要だったのである。
しかし、繰り返すが人間が生きている以上、永遠の満足はない。肘掛椅子にゆったりと腰かけて、自分の現状に満足しながら、なにもしないまま数十年という余生をすごすことはあり得ないのである。それはむしろ永遠の禁固刑であり、人間をもっとも苦しめる呪詛になり得るのだ。
幸福なるものが存在するとするならば、行為の中にある。むしろ行為の中にしか存在しない。人生において最も幸福な瞬間とは、「幸福とはなにか?」などと考える暇なく没頭しているときに他あるまい。
なるほど、達成した状況に短期間の幸福の持続が見出されるように感じる。しかしそれもあくまで行為によってもたらされる幸福であろう。エルメスのバッグを手にしたことによる幸福とは、エルメスのバッグをうっとりと眺める行為の中にある幸福であり、エルメスのバッグを持ち歩く幸福であり、それにより周囲の羨望のまなざしを向けさせることによる幸福である。とはいえ、それらもエルメスのバッグを買いに行く幸福と比べれば、些細な幸福にすぎない。だからこそ人々は、着るわけでもない服のショッピングをあれほどまでに欲するのだ。
もちろん、強制されない自発的な行為のなかにも苦痛は存在する。当たり前だが、自由に走り回る子どもが転んだなら泣き叫ぶことになる。上手く走れないことにいら立ちを感じることもあるかもしれない。しかし、多くの場合苦痛は乗り越えられ、苦痛から学習し、より行為を洗練させ、そのプロセスのなかでより大きな幸福を手にすることになる。そうでないのなら、赤ん坊はなぜ自分になんの能力もないことに絶望して、ボケっと転がったまますごさないのだろうか? むしろこうした苦痛が存在しないことの方が、大きな苦痛たり得る。なにもない人生か、簡単すぎるパズルとともにすごす人生か、ほどほどに難しいパズルとともにすごす人生なら、あきらかに三つ目がもっとも幸福である。自発的に壁にぶち当たり、失敗し、乗り越えていく苦痛は、大きな幸福という枠組みの中にあるポジティブな苦痛である。そもそも自発性を奪われることによって味わうネガティブな苦痛とは大きな断絶があるのだ。
なら、ここらで発想を転換する必要があるのではないか? そもそも人は結果ではなく行為を欲望する。行為は本質的に苦しいのではなく、強制というネガティブな苦痛が存在する行為が苦しいのである。
このような考えをインストールできたのなら、行為を突き動かすエネルギーである欲望が無くならないことにネガティブな感情を抱くはずがない。欲望をフルドライブし、楽しいことだけをやっていればいいという発想に至るのである。
強制を無くすことこそが、僕たちを最大の幸福へと導く。僕たちの欲望は禁止と達成によってブレーキをかけられる。だから欲望をフルドライブさせ、達成という小休止を挟みつつも、次から次へと行為することで僕たちは幸福になれる。永遠の満足なるものが存在するとすれば、それは永遠の行為の中にしかない。
アンチワーク哲学による「強制=労働の撲滅」という主張は、このようなロジックの上に成り立っている。人類は幸福と欲望がなんたるかを、改めて哲学すべきフェーズにある。その先にこそ、理想的な社会が存在するはずなのだから。