労働と労働以外はなにがちがうのか?
会社の飲み会が労働かどうかについてのお馴染みの議論がある。「会社の飲み会に残業代が出ますか?」と質問してくるZ世代の新人サラリーマンにとっては、紛れもなく労働であろう。しかし、当たり前だが飲み会に残業代は出ない。会社サイドは、それはあくまで自発的に参加する飲み会であり労働ではないと主張し、給料を支払おうとはしないだろう。つまり建前上は自由参加であり、労働ではないのである。ただし、「自由参加ですよね? 私は参加しません」と強引に拒否する新入社員はどうなるか? 上司たちは「アイツはダメなやつだ・・・」と、新入社員の悪口を肴に酒を飲む。そして、新入社員は昇進できず、村八分に合う可能性が高い。結果、そうした不利な評価を受けることを恐れる新入社員たちは強制を感じ取り、飲み会に参加するのだ。
新入社員にとって飲み会が労働であることは疑いの余地はない。だが上司たちにとってはどうか? 上司たちは、かつての自分の経験から、部下が上司と飲みに行くことがめんどくさいと知っている。ゆえに、上司たちも進んで認めるのではないか。会社の飲み会は労働である、と。だからといって残業代を要求することに対しては、上司たちは毅然と反対する。それは、飲み会が労働ではないことを意味するのではない。残業代が払われようが払われまいが労働であることに変わりはないが、それを自らの意志で進んで参加することによって社会人として成長できるのだと上司たちは主張するだろう。
では仮に会社の飲み会は労働であると、万人が同意したとしよう。この時点で次のような疑問を抱かずにはいられない。労働とは一体なんなのか? 飲み会でやることと言えば、酒を飲み、飯を食い、無駄話をすることである。行為そのものをみれば、余暇と変わりがない。友達や家族と酒を飲み、飯を食い、無駄話をすることを労働であると主張する人はいないだろう。ならば、上司との飲み会が労働であり、友達や家族との飲み会が労働ではない理由はなんなのか?
強制。それが一つの重要な判断材料になるだろう。ただし、強制されていれば常に労働であるとは限らない。たしかに嫌いな上司に休日のゴルフに誘われたなら、それは労働であると感じられ、「残業代を貰わないとやってられんわ、クソが!」といった気分になるだろう。だが、友達のように仲のいい上司ならどうか? その場合は「これが労働である」とった考えが脳裏をよぎることはないだろう。もしかしたら、好きな上司はとんでもない権力の持ち主であり、その誘いを断れば自分の出世が不利になるのだとしても、もし彼が上司に心酔しているならば、強制されていることすら気にならないし、労働感はないはずだ。つまり、労働を労働たらしめるためには「強制」だけでは不十分である。そこに「不愉快」という要素が加わらなければならない。強制されていて不愉快。これが労働の定義そのものである。
別の角度からも説明してみよう。たとえば家庭菜園が労働ではないことは明らかである。彼が土日を活用して鍬をもって土を掘り返し、種を撒き、雑草をかることは誰にも強制されることなく取り組まれる趣味である。彼は、農薬や化学肥料を使わない有機栽培にこだわっていたとしよう。そして、パーマカルチャーの手法やカバーグロップ、ぼかし堆肥など、さまざまな試行錯誤を繰り返し、その生産性を高め、高品質の野菜を育てることに成功したとしよう。ここまでも楽しい遊びの延長であり、労働ではないことは明らかである(これは農業に苦労がないことを意味しない。たとえばゲームのような遊びにも苦労はあるが、そのことを理由にゲームが労働であるとは言えないのと同じである)。
では、あるとき近所のレストランが彼の取り組みに興味を示し「あなたの野菜を仕入れさせてくれませんか?」と提案してきたとしよう。自分や家族、友達では野菜を消費しきれなくなっていた彼にとって、願ってもいない申し出である。彼は土日に好きなことをやっているだけで副収入を得られるようになったのだ。金は手に入る。しかし、ここまでもまだ労働ではないと彼は感じているだろう。好きなことをやっているだけだからだ。たまたま金を稼いでいるだけであって。そして、家庭菜園の生産性はさらに高まり、かつ仕入れてくれていたレストランがチェーン展開し、どんどん野菜が売れるようになった。あるとき彼は思い立つ。「会社をやめて、農業一本で飯を食おう」と。こうして彼は、サラリーマンをやめ、好きな農業で生計を立てられるようになった。それでも彼はまだ好きなことをやっているだけであり、まだ労働感を抱いてはいないだろう。
ところがある日、レストランからこんな要望があった。「価格を半分にして、倍の量を仕入れさせてくれ」と。さすがにそれでは利益が少なくなりすぎるし、作業量も多すぎる。「それはできない」と彼は断ろうとするが、「じゃあ、もうお前のところからは仕入れない」とレストランオーナーは脅しをかけてくる。サラリーマンをやめ、農業で生計を立てなければならない状況に自らを追い込んでいる彼は、いまさら会社に戻ることなどできないし、畑作業に手を取られ、ほかの取引先を開拓する時間もない。仕方なくレストランオーナーからの要求を飲む。彼はいままでの倍の作業に取り組まなければならず、休息の時間も減り、それでいて生活はカツカツになった。好きだった農作業は、どんどん嫌いになっていった。このとき、彼が取り組む行為は明らかに労働である。
なぜ、農作業は労働になったのか? それは強制されて、不愉快になったからである。会社を辞めて専業農家となった時点で、彼は農業をしないという選択肢を失い、事実上、強制されていた。しかし、自分のペースでやりたいようにやれているうちは不愉快ではなく、だからこそ労働ではなかった。ただし、レストランオーナーによって強制的に押し付けられた義務が、彼の農作業に不愉快さを与えた。そして「強制」と「不愉快」という両方の要素を手に入れた彼の農作業は、とうとう「労働」へと変わったのだ。
さて、それでは彼が思い切ってレストランオーナーの要求を拒否していたならどうなったか? 彼はまず農協に相談する。だが、農協が提示する仕入れ価格も依然として低ければ、労働化は避けられない。そこで彼は農協に頼ることを断念し、新たな取引先を開拓しようとする。ところがレストランに飛び込み営業をかけてもうまくいかないため、彼はマーケティング企業に相談を持ち掛ける。マーケティング企業は、彼の農作物のブランド化や、マスコットキャラクターの考案、レストランへのポスティングを提案する。彼はもともとそんなことをやりたいわけではなかったが、仕方なくマーケティング企業の提案に乗る。結局、彼は不愉快な営みを強制され、ちがう形で労働をする羽目になる。
では、彼にベーシックインカムが与えられていたならどうなっていたかを考えてみよう。彼は好きなことをやっていたのだから、レストランオーナーからの最初の要望は拒否しなかっただろう。だが、「値段を半分にして倍を生産しろ」という要求には決して屈しなかったはずだ。なぜなら彼はそうしなくても路頭に迷う心配がないからである。そして、農協やマーケティング企業に依存することもなかった。彼は売り先がなくとも自由に農業を続ける。もしかしたらその評判を聞きつけた近隣住民の要望に応えて、野菜の即売所をオープンしたかもしれない。だが、彼は自分がやりたいと思う量だけ生産し、販売する。彼が労働に手を染めることはほとんどあり得ないはずだ。
サラリーマンのほうも同様である。彼は上司の誘いを断り、出世に不利になろうが、彼本人も、彼の家族も路頭に迷うことはないという保証をベーシックインカムによって得ることができる。すると、嫌いな上司からの飲み会の誘いを断る勇気を手にするかもしれない。そして、普段の仕事においても嫌いな上司から理不尽な命令やパワハラには断固としてNOを突きつけられるようになる。
一方で、依然として好きな上司からの誘いには乗り続けるだろうし、「やりたい」とか「やるべきだ」と感じる仕事なら拒否することはないだろう。人が労働の愚痴をいうとき、「どうして俺は他人に貢献しなければならないのだ」などと言うことは稀である。あなたのまわりに溢れる労働の愚痴を思い返してみて欲しい。「クソ上司やクレーマーの相手のせいで、本当に必要としてくれている人の手助けができない」「無意味に吊り上げられたノルマを追い求めなければならない」といった愚痴がほとんどではないか?
ベーシックインカムによって労働が撲滅に向かい、なおかつ社会を成り立たせるための貢献はなくならないと僕が主張する理由は、まさしくこれである。BIがあれば理論上、不愉快な営みを強制されることはなくなる。つまり、理論上、労働が撲滅されるのである。そして、人は労働ではない形で社会に貢献し始めるのではないだろうか。
もちろん、BIがあるからといって万人が毅然とした態度をとるとは限らない。実際、生活保護制度が既に存在していても、万人が毅然とした態度をとることはできないのだ。ただし、生活保護の申請はややこしく、財産を処分する必要もある。世間の目も気になる。その結果、不愉快な強制を拒否するためのセーフティネットとしてはほとんど機能していない。しかし、万人がBIを受け取るなら、いまより容易にNOを言えるようになることは間違いない。
このように、労働を丁寧に分析してみれば、労働を撲滅することが可能であり、労働を撲滅すべきであることは明らかであるように思われる。僕が「労働撲滅」を訴えるとき、条件反射で批判が集まるのは、たんに労働が丁寧に分析されていないからではないか? もしこのような分析がなされたうえでも労働撲滅というテーゼを批判するなら「それはわからないでもないが、本当にうまくいくのかね?」という批判しかあり得ないはずだ。
さて、ちゃぶ台を返すようだが「それは労働の定義ではない。金が発生すれば労働であり、農家が収入を得た時点で労働である」と主張するなら、別にその定義を採用しても構わない。その定義を採用する場合なら僕は「労働を撲滅すべき」と主張するのではなく、「強制された不愉快な営みを撲滅すべき」と主張したい。
議論すべきは、その結果、どのような社会が訪れるかである。労働の定義は重要だが、さほど重要ではないのだ。そして、その結果どうなるかについては誰にも断言できない。労働のある社会がこれからどうなるかが誰にも断言できないのと同じように。僕たちは理想的な社会に向けて、これまでと同じように議論を続け、これまでと同じように確信がないまま決断をくだし続ける。
僕は強制される不愉快な営みを撲滅したほうが理想的な社会が訪れると主張し続ける。労働が撲滅されるか、完膚なきまでに論破されるまでは。