資本主義批判を批判する

 資本主義とはなにか? 概ね次のような定義で合意が得られているのではないだろうか。それは「利潤追求動機に突き動かされた資本家によって資本が投下され資本を増殖させていく運動(を肯定する主義)」といったところであろう。資本主義の批判者である左翼は、利潤追求動機のせいで、環境が破壊され、労働者が搾取され、あらゆるコモンズが商品として囲い込まれていくと指摘する。では、それに対してどのような解決策を資本主義の批判者は提示しているのだろうか?

 一つには「禁欲しよう」という解決策である。ビッグマックやシャネルのバッグなど、人が幸福に生きるためには不用なのだから、必要以上の欲望を煽り立てて利潤を追求しようとする資本側に抵抗して、手作りのパンや、毛糸のセーターを大切に使っていこう、といった具合である。なるほど、それは一つの解決策として検討の余地はあるだろう。だが重大な欠陥が存在する。それはビッグマックが美味いということである。多くのマクドナルドユーザーはいくら資本主義が憎かろうが、ビッグマックを食いたいのである。それを「我慢しろ」と言われたところで、それができれば苦労しない。結果「ゴミを分別しよう」と言われても誰も分別しないように、相変わらず僕たちは禁欲思想を必死で唱える左翼に冷ややかな目線を向ける。「東側諸国がかつて西側の消費文化にあれだけ憧れていたではないか? ソ連のような灰色の暮らしを強いたところでスターリンのような奴なメチャクチャにされて終わるに決まっている」というわけだ。「いやいや、それは消費であって浪費ではないのだ」とか「記号的消費を追い求めさせられているに過ぎないから、ビッグマックを食っても幸福になれないよ」などと苦し紛れに左翼が反論したところで、もう誰も彼の話を聞いていないのだ。

 では、禁欲思想を封じられた左翼はなにを主張するのか? お次に飛び出してくるのは「資本家から工場を取り返せ」といった具合の批判である。飛び抜けて強欲な資本家が生産手段を独占しているからこそ、労働者は資本家に従わざるを得ない。なら、労働者による自由なアソシエーションによって生産を組織し直せば、労働者は搾取されることなく、環境負荷の少ないビジネスに取り組まれるようになり、すべてがうまくいく・・・といった具合である。

 これも一理ある。だが、誰しもが感じるのではないか? 「そんなに上手くいくかね?」と。そもそも強欲な資本家と言えども人間である。それを労働者の集団が代替したとて、利潤追求動機が消えるとは到底思えない。彼らは自分たちのための利益を残したいと思うだろうし、そのために多少の環境負荷には目を瞑るだろう。彼らの事業の仕入れがグローバルサウスの児童労働や、土日返上で働く町工場によってカバーされているとしても、見て見ぬ振りをして仕入れを続けるだろう。彼らは自分たちの食い扶持を稼がねばならないだけではなく、子どもをいい大学に入れたいと思うだろうからだ。

 さて、困った。どこまでいっても僕たちは利潤追求から逃れられなさそうである。常識人なら次のように言うだろう。「所詮人間の欲望を抑え込もうたって無理なんだ。人間には無限の欲望があるのだから。でも、俺たちは幸運じゃないか? 欲望を追求するために隣人から暴力で奪い取る時代ではなく、欲望の追求がビッグマックやiPhoneの生産という形で現れる時代に生きているのだから。万人による闘争は市場によって毒を抜かれているんだ。資本主義に感謝こそすれど、批判するなんてもってのほかだよ。それとも君はソ連や北朝鮮、あるいはアマゾンの奥地で生活したいのか?」と。

 しかしここで僕は疑問に思うのだ。もし人間が本質的に無限の欲望を追求する存在であったなら、なぜ資本主義が一八世紀になるまで登場しなかったのか? なぜ封建時代の領主たちは「明日から生産量を倍にしろ」だとか「一日も休みを取らずに働け!」と言わなかったのか? あるいはもし言っていたとして、なぜ農民たちはそれに従わなかったのか? 逆になぜ資本家は利潤を追求し、労働者たちはそれに文句を言わずに従っているのか?

 僕はその根本的な理由は、たんに人々が土地を追い出され、自給自足できなくなったからだと考える。もし自分が自給自足で食っていける農民であったなら、領主から理不尽な命令をされたとて「なぜそんなことをせねばならんのだ?」と突っぱねたことだろう。なるほど武力で命令することもできなくもなかったはずだが、そんなことをすれば農民たちも武器を持って立ち上がり、一揆を起こしたことであろう。実際、かつての農民たちに領主たちは頭が上がらなかったというのは有名な話である。しかし、土地を追い出され、都市に流れ込んだプロレタリアートであったならどうか? 彼らはどんなに理不尽であろうが、金を払ってくれる資本家に従属せざるを得ない。資本家も、銀行家も、株主も、現代においてはもはや自給自足する術を持っていない。そして彼らはどうあっても銀行への利息や株主への配当を稼がねばならない。労働者を家族のように想う心優しい資本家であるならば、より高待遇で労働者に報いるかもしれない。そしてなによりも自分たちが食っていかなければならないし、老後を安心して過ごせる資金が欲しい。そのためにもやはり利潤をどこかで獲得しなければならないのである。

 ならばこうは考えられないだろうか? 資本主義の利潤追求動機を駆動しているのは、労働者の、資本家の、銀行家の、株主の「路頭に迷いたくない」という焦燥感であると。彼らにインタビューしてみるといい。彼らになぜ労働するのかや、なぜ利潤を追求するのかを聞いてみれば、「生き残るため」だとか「子どもにいい教育をし、将来子どもが立派に金を稼げるようになるため」なんとか答えるのではないか? それは「路頭に迷いたくない」とほぼ同義ではないか?

 ロレックスやベルサーチのために利潤を追求する人も確かに存在する。だが、間違っても「自分の息子に将来ロレックスを身につけてほしいから利潤を追求する」と言う人はいないのである。「清潔で手狭でない家に住み、栄養ある食事を摂り、立派な結婚式を挙げ、子どもを遊びに連れていく余裕のある大人になってほしい」と言うだろう。言ってみれば「自分や家族が路頭に迷わず人間として尊厳のある暮らしをするために金を稼がなければならない」という焦燥感に万人が強制されているのである。

 僕がベーシックインカムが解決策になると主張するのはそのためである。もし、なにがあっても路頭に迷わない安心感があったなら、理不尽に労働者を搾取したり、必要以上に環境破壊を繰り返すだろうか? わざわざ無意味だとわかりきっている欲望を煽り立てるだろうか? ブルシットジョブに従事し続けるだろうか? もちろん、それらが一夜にして無くなることはないだろう。だが僕には禁欲思想や労働者のアソシエーションに期待するよりは現実的なアプローチではないかと思うのだ。そうすれば資本主義(資本の増殖運動)は骨抜きになる。なら、資本主義の問題は解決したも同然ではないか? 資本の増殖を止めるには、労働者や資本家が焦燥感によって強制されるのを止めればいいのである。言いかえれば、強制=労働を撲滅すればいいのである。

 資本主義を攻撃するとき、人は強欲な資本家を道徳的に攻撃するか、無意味な欲望に踊らされる消費者を攻撃する。あるいは抽象的な生産関係の再生産システムみたいなものを攻撃する人もいる。が、たいていの場合、資本主義という言葉が抽象的すぎるあまり、資本主義批判はフワフワとした空中戦に終わる。もっとひどい場合は、インテリぶりたい左翼がマイ資本論を披露するファッションショーが始まってしまう。僕が資本主義という言葉をあまり使わないのはそのためだ。

 問題はもっと具体的な営み・・・つまり労働にあるのである。攻撃すべきは労働なのである。トリカゴを破壊するにはドフラミンゴを倒せばいい。戦争を止めるにはクロコダイルを倒せばいい。同じように資本主義をとめるには労働を倒せばいい。