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このサイトでは、2024年にまとも書房より出版された「労働廃絶論」をweb上で公開しています。
本文、イラスト、解説等、この本に関する著作権は、CC0 1.0によってすべて放棄されています。
著者
ボブ・ブラック
1951年デトロイト生まれのアナキスト。1985年に発表した論文『労働廃絶論』はアナキストや思想家に多大な影響を与えた。
翻訳・解説
ホモ・ネーモ(久保一真)
1991年大阪府生まれ。労働の廃絶を目指しアンチワーク哲学を提唱する在野哲学者。noteで精力的に執筆活動に取り組んでいる。著書に『労働なき世界』『働かない勇気』『シン・ベーシックインカム論』など。
監修 まとも書房翻訳チーム
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全文無料公開中!ボブ・ブラック『労働廃絶論』(新訳版)&解説文
労働廃絶論
誰一人として労働すべきではない。
労働はこの世界におけるほとんどすべての惨状の源泉である。あなたが思い浮かべるほとんどいかなる悪も、労働することに、あるいは労働のためにデザインされた世界に住むことに由来する。苦しみを止めるためには、我々は労働をやめなければならない。
なにかを為すことをやめるべきだという意味ではない。それは、遊びにもとづいた新しい生き方をつくり出すという意味である。言い換えれば遊び心(ludic)の革命である。「遊び」という言葉で私が意図するのは祝祭性や創造性、友好性、共同性であり、もしかするとアートも含まれる。子どもの遊びと同じくらい価値ある遊びが、子どもの遊びよりもたくさんある。私が呼び求めるのは、満ち溢れた喜びの中に、そして自由で相互依存的な活気の中にある、集団的冒険である。遊びは受動的ではない。疑いようもなく我々は皆、収入や職業を気にしないで怠惰と倦怠に浸りきる時間を今よりもっとずっと必要としている。それでも、ひとたび雇用に引き起こされた疲労から回復したなら、我々のほとんどは行動したくなるのだ。
遊び心(ludic)に満ちた人生は、現存する現実とはまったく相容れないが、「現実」の方にこそ問題があるのだ。辛うじて単なる生存とは区別されている、ささやかな人生の活力をも吸い取るブラックホールのような「現実」に。奇妙なことに ── あるいは奇妙ではないかもしれないが ── 旧来のイデオロギーは労働を信仰するがゆえに例外なく保守的である。それらの一部、たとえばマルクス主義者やアナキストの多くの宗派などは、他に信じられるものがないため、よりいっそう熱烈に労働を信仰している。
リベラルは雇用差別を終わらせるべきだと言う。私は雇用を終わらせるべきだと言いたい。保守は労働する権利の法律に賛同する。私は、カールマルクスの娘婿である気まぐれなポール・ラファルグにならって、怠ける権利に賛同する。左派は完全雇用を好む。シュールレアリストのように ── ただし私はふざけているのではない ── 私は完全失業を好んでいる。トロツキストは永続する革命を煽り立てる。私は永続するお祭り騒ぎを煽り立てたい。しかし、すべてのイデオロギーの信奉者たちは(実際に彼らがそうするように)労働を擁護しているのだとしても、彼らは不思議なことにそのことを大っぴらにしたりはしない ── その理由は、他人を自分のために労働させたいという思惑を隠したいからだけではないだろう ── 。彼らは賃金、労働時間、労働条件、搾取、生産性、収益性についてなら、際限なく語り続けるだろう。労働それ自体のこと以外なら、喜んでなんでも話すだろう。我々全員にとって人生の重要事項である労働について、君たちの代わりに考えてやろうと申し出るこれらの専門家たちが、結論を一致させることはめったにない。彼ら同士で重箱の隅を突きあっているのだ。労働組合も経営陣も、値段については言い争うのだが、我々が生存のために人生を切り売りしなければならないという点には合意している。マルクス主義者は、官僚がボスになるべきだと考える。リバタリアンはビジネスマンがボスになるべきだと考える。フェミニストはボスが女性でさえあれば、誰がボスだろうがお構いなしだ。明らかに、これらのイデオロギー屋たちは、権力による略奪品の分配方法について深刻な見解の相違がある。同じくらい明らかに、彼らの誰も権力そのものに異論を唱えることはなく、ただ我々を働かせ続けたいのである。
私がふざけているのか、真面目なのか、あなたは疑問に思うかもしれない。私はふざけているし、真面目である。遊び心(ludic)を持つことは、バカになること(ludicrous)ではない。遊びはつねにくだらないわけではない。もっとも、くだらないことがつまらないわけでもない。しばしば、くだらないことも真面目に受け止める必要があるだろう。私は人生はゲームであって欲しい ── ただし、高配当のゲームだ。私は真剣勝負を望んでいるのである。
労働の代替案は単なる怠惰ではない。遊び心(ludic)を持つことは、惰眠をむさぼること(quaaludic)〔娯楽用に転用された睡眠導入剤「クエイルード」的の意味〕ではない。私は惰眠の喜びを大切にしているが、それはほかの快楽や道楽の休憩時間にすぎず、それ以上の価値はない。また、私は「レジャー」などと呼ばれる、管理され時間で規律づけられたガス抜き装置を売り込んでいるのでもない。断じて違う。レジャーは労働のための非労働である。レジャーとは、労働からの回復のために、あるいは労働を忘れるための熱狂的でいて望みのない試みに、費やされる時間である。多くの人々は疲労困憊で休暇から帰ってくる。労働に安息を見出し、労働に戻ることにワクワクしているほどだ。労働とレジャーの主な相違点は、労働においては少なくとも疎外と衰弱に給料が支払われるというだけである。
私は言葉の定義を弄んでいるわけではない。「労働の廃絶」とは文字通りの意味である。けれども、労働の独特ではない定義を用いることで私が言わんとすることを伝えたい。私が言う労働の最小限の定義は、強制された苦役、つまり義務的生産である。どちらの要素も欠かせない。労働は、経済的か政治的な手段によって、つまりニンジンかムチによって、強制される生産である(ニンジンとは別の見方をすればムチにすぎない)。しかし、すべての創造が労働であるわけではない。労働はそれ自体が目的となることはなく、労働者が(あるいは多くの場合、ほかの誰かが)そこから得るなんらかの成果物や生産物のために行われる。これが労働の必然的なあり方である。定義することは軽蔑することだが、労働はいつも定義が定める以上にタチが悪い。労働に内在する支配の原動力は、時間とともに巧妙化する傾向にある。資本主義社会であれ、「共産主義社会」であれ、あらゆる産業社会を含む労働まみれの社会では、労働は必ずその不快さを増長させる性質を手に入れるのだ。
通常 ── このことは資本主義社会よりも、国家がほとんど唯一の雇用主であり、ほとんどすべての人が雇用者である「共産主義社会」においてはよりいっそう真実なのだが ── 労働とは雇用であり、賃労働である。それは分割払いで自分を売り払うことを意味する。その結果、95パーセントのアメリカ人は自分以外の誰か(あるいはなにか)のために労働する。キューバや中国、そのほか思いつく限りのオルタナティブな事例では、その数値は100パーセントに近い。わずかに残る第三世界の農民の砦 ── メキシコやインド、ブラジル、トルコ ── だけが、ほとんどの肉体労働者が過去数千年間続けてきた伝統的な労働関係をいまだ持続させる農業従事者の避難所となっている。その労働関係とは、国家への税金(身代金)や、寄生的地主への地代を支払いさえすれば、それ以外のことはほったらかしにしてもらえるような関係である。この生々しい取引すら、まだマシに思えてくる。すべての工場労働者(およびオフィスワーカー)は被雇用者として、確実に隷属させるための監視下に置かれるのだから。
しかし、現代の労働にはもっと酷い含みがある。人々はただ労働するだけではなく、「職業」を持つのだ。「さもないと・・・」という脅しを背景に、一人の人間が一つの生産タスクをひたすら繰り返す。たとえそのタスクに面白さが内在していたとしても(ますます多くの職業がそれを失っているが)、義務的に繰り返させられる単調さによって、遊び心(ludic)を発揮するポテンシャルは枯渇させられてしまうのだ。ほどほどの時間内、楽しみのために取り組むなら、ある人々の活力を惹きつけたかもしれない「職業(職務)」も、週に四十時間取り組まねばならない人々には、重荷としてのしかかる。なんの発言権も与えられず、プロジェクトになんの貢献もしないオーナーの利益のために取り組まされ、本来それをやるべきオーナーたちにタスクを共有したり、労働を分散したりするチャンスも与えられない人々には、そうなのだ。これが現実の労働の世界である。官僚的不手際の世界であり、セクハラや差別が横行する世界である。部下たちがマヌケな上司に搾取され、スケープゴートにされる世界である。部下たちこそが ── 合理的かつ実践的に考えれば ── 決定権を握って然るべきなのだ。それなのに、現実世界の資本主義においては、生産性や利益の合理的最大化も、組織統制の命法の下僕にさせられる。
ほとんどの人々が職業において味わう屈辱の正体は「規律」と呼ばれる侮蔑的待遇の詰め合わせである。フーコーはこの現象を小難しく考えていたが、いたってシンプルな話だ。規律とは職場における全体主義的統制の総体によって構成されている ── 監視、繰り返し仕事、押しつけられる作業テンポ、生産ノルマ、タイムカードなどなど。規律によって、工場やオフィスや店舗は、刑務所や学校や精神病院と見分けがつかなくなっている。規律は、歴史的にも類を見ないほどの恐ろしさを孕んでいる。ネロやチンギス・ハン、イワン雷帝といった過去の悪魔のような独裁者すらも可愛く見えるほどだ。彼らほどの悪意の持ち主ですら、現代の専制君主ほどに臣民を徹底的に統制するカラクリを手にすることはなかった。規律は現代特有の悪魔的支配様式であり、前例のない不法侵入である。一刻も早く、禁令を発布しなければならない。
これが「労働」の正体である。遊びはちょうど、その正反対だ。遊びはつねに自発的である。もし強制されるなら、遊びも労働へと変貌してしまう。このことは定義上、明らかである。バーニー・デ・コーベン〔ゲームデザイナー〕は遊びを「結果の保留」と定義したが、遊びが取るに足らないという意味なら、この定義は容認できない。遊びに結果がないかどうかは重要ではない。その定義は遊びを過小評価している。重要なのは、結果があるとすれば、結果が無償であるという点だ。遊びと贈与とは、遊び本能(play-instinct)という一つの衝動における行動面と取引面であり、互いに密接に関連している。どちらも貴族的に結果を軽蔑しているという点で一致しているのだ。遊ぶ人は、遊ぶことからなにかを得る。人が遊ぶ理由はただそれだけである。しかし、遊びから得られる真の報酬は、(それがなんであろうと)活動そのものなのだ。ヨハン・ホイジンガ(『ホモ・ルーデンス』の著者)などの遊びの研究者は、ほかの点では用心深かったのだが、遊びをゲームプレイやルール順守だと定義づけてしまった。私はホイジンガの博識を尊敬しているものの、彼の制約的な定義は断固拒否したい。ルールに縛られたゲームにも素晴らしいもの(チェス、野球、モノポリー、ブリッジ)はたくさんあるが、遊びはゲームプレイのほかにも豊富にある。会話、セックス、ダンス、旅 ── これらの行為はルールに縛られないが、そうであったとしても確実に遊びであろう。そしてルールは少なくともほかのものと同じくらい、簡単におもちゃにされる。
労働は自由をあざ笑う。公式見解では、我々は民主主義社会に生きていて、権利を持っていることになっている。我々が持つような自由がない不幸な人々は、警察国家で暮らさなければならない。かわいそうな彼らは、どんなに理不尽だろうと「さもなくば・・・」と脅しつけられ、従わされる。当局はつねに彼らを監視下に置く。国家官僚たちは日常生活の隅々まで干渉する。人々を抑圧する役人たちは、公的にも私的にも、お偉いさん方のことしか気にかけない。どんな理由があろうが、異論や不服従は罰せられる。密告屋はいつでも当局にタレコミをする。こうした事態は酷い有り様に思える。
たしかに酷い、と言ってもこの描写は現代の職場で起きている事態にほかならないわけだが。リベラルや保守、リバタリアンは全体主義を批判するが、嘘つきであり、偽善者である。たいていの独裁国家ですら、そこそこに脱スターリン化されてさえいるなら、ありふれたアメリカの職場よりは多くの自由を享受できる。オフィスや工場には、刑務所や修道院と同じようなヒエラルキーと規律が見出される。事実、フーコーやほかの人々が示したように、刑務所と工場はほぼ同時に登場し、その運営者たちは意識的にお互いの統制技術を借用していた。労働者はパートタイムの奴隷である。いつ出勤し、いつ退勤し、その間になにをすべきかは上司が命令する。どれだけの量を、どれだけのスピードで取り組むかは、上司が指示する。服装やトイレの頻度に至るような、極限まで屈辱的な管理体制を敷くことすら、彼のお気に召すままだ。少数の例外を除き、どんな理由であろうが、あるいは理由なしで、労働者をクビにできる。彼は密告者や監督者にスパイさせ、被雇用者に関する調査書類を積みあげる。労働者は悪ガキであるかのように、口答えをすれば「反抗的」と言われ、解雇されるだけではなく失業補償資格も剥奪されかねない。家庭や学校では子どもたちが似たような扱いを受けている。必ずしも肯定できるわけではないが、このことは子どもたちの未熟さを理由に正当化されていることに注目して欲しい。同じ理屈が彼らの親や先生である労働者にも通用するとでも言うのだろうか?
ここまで私が記述してきた屈辱的な支配システムは、女性の多数と男性の大多数の起きている時間の半分以上を、何十年にもわたって、つまり人生の大半にわたって支配している。特定の目的のためなら、このシステムを民主主義や資本主義 ── あるいはまだ妥当な呼び名として ── 産業主義と呼んでもさほど誤解はないかもしれない。だが、より実態にふさわしい呼び名は工場ファシズムやオフィス寡頭制であろう。これが「自由」だと言う人がいるなら、その人は嘘つきか愚か者かのどちらかである。人は、自らの行為によってつくられる。もしあなたが退屈で、くだらない、単調な労働に就くなら、退屈で、くだらない、単調な人間に成りさがるだろう。四方から我々に忍び寄る白痴化現象の原因は、テレビや学校教育といった重大なバカ製造メカニズムよりも、労働から説明するほうがはるかに容易い。人生をまるまる統制され、学校から職場へ運び込まれ、家庭に始まり老人ホームに終わるまで縛りつけられる人々は、ヒエラルキーに飼いならされ心理的な奴隷になる。彼らの生まれ持った自律性はおおいに衰えている。その結果、彼らが自由への恐怖を抱くことは、彼らにしては珍しく合理的で必然性のある恐怖症の一つである。職場での服従訓練は彼らのつくる家庭にも持ち込まれる。このようにして、政治、文化、その他あらゆる領域へも、一つならず無数のあり方でシステムは再生産される。ひとたび労働によって人々から自発性を奪ってしまえば、彼らはなにごとにおいてもヒエラルキーと専門知識に服従するようになるだろう。彼らはそのことに慣れきっているのだから。
労働は我々になにをもたらすのか。それを把握できないほどに労働はあまりにも当たり前のものと化している。現代社会の異常さや病理を理解するためには、ほかの時代や文化の観察者の視点を参照しなければならない。我々自身の過去にも、「労働倫理」なるものが理解できない時代があったことを、ウェーバーは勘づいていたのではないだろうか。もし四世紀前ではなく現代に出現していたなら即座に、妥当な結論としてカルト宗教のレッテルを貼られていたであろうカルヴァン主義を、ウェーバーが労働倫理と結び付けて説明したときに。いずれにせよ、古代の知恵を活用すれば労働を俯瞰できるというわけだ。古代の人々は労働をありのままに見つめていた。カルヴァン派の変人たちがいたにもかかわらず、産業主義に打倒されるまではそれが当たり前だった ── 産業主義がカルヴァン派の預言者たちのお墨付きを得るまでは、そうだったのだ。
ここで、労働は人々を愚鈍で従順な存在に変えないと仮定してみよう。もっともらしい心理学やその支持者たちのイデオロギーを無視して、労働が人格形成になんの影響も及ぼさないことにしておこう。そして、労働は人々を退屈させることも、疲労させることも、屈辱を味わわせることもないと考えてみよう。本当はそうでないことは誰もが知っているが、さも真実であるかのように信じ込んでみよう。たとえそうだとしてもなお、労働は人道主義的かつ民主主義的理想をあざ笑うことになる。労働は我々の時間の多くを奪うというだけの理由で。ソクラテスは、肉体労働者は悪しき友人や悪しき市民と化すと言った。友人や市民の責任を果たす十分な時間を持てないからだ。彼は正しかった。労働のせいで、人々はなにをしていようが時計ばかり見ているではないか。いわゆる自由時間の「自由」とは、上司がコストや負担から自由になるという意味でしかない。自由時間の大半は、労働の準備、通勤、帰宅、労働からの回復に費やされる。生産の一要素としての労働力は、自らの労力を費やして自宅と職場を往復するだけではなく、自身の保守点検と修復に責任を負う。自由時間とはそんな奇妙な有り様を言い換えた婉曲表現である。石炭や鉄はそんなことをしない。旋盤もタイプライターもそんなことはしない。エドワード・G・ロビンソンがギャング映画の中で「労働はマヌケがやることさ!」と叫んだのも不思議ではない。
プラトンやクセノフォンもソクラテスに追従し、市民として、人間としての労働者にたいして、労働が壊滅的な影響を与えるという見解に明らかに同意している。ヘロドトスは、労働の軽蔑が、文化の絶頂にあった古典期ギリシア人の特徴であると見抜いていた。一つだけローマ人の例も挙げよう。キケロは「金のために労働力を差し出す者は、自分自身を売り払い、自分自身を奴隷の身分に置くことになる」と言った。キケロの慧眼は、いまとなっては珍しい。けれども、現代においても我々が見下しがちな原始社会は、西洋の人類学者を啓発する代弁者たちを輩出してきた。ポスピシル〔人類学者〕によれば、西イリアンのカパウク族は生活のバランスの概念を持ち、それゆえ一日おきにしか働かない。休息日は「失われた力と健康を取り戻す」ために設計されている。我々の先祖も、現代へ続く苦難の道をずっと長く歩み進めてきた十八世紀の人々ですらも、我々が見落としてしまったもの、すなわち工業化の闇を理解していた。彼らの「聖月曜日」〔月曜日を日曜日と同様の聖なる休日とみなす風習〕への宗教的傾倒 ── かくして彼らは、週五日労働が法的な聖別を得る百五十年から二百年も前に、それを既成事実化していた ── は、初期の工場所有者を悩ませていた。時計の前任者である鐘という暴君へと彼らを服従させるには、長い時間がかかったのだ。事実、服従に慣れていた女性や、産業のニーズに合うように調教しやすかった子どもの代わりを、成人男性に務めさせるためには、一世代から二世代を要したのである。アンシャン・レジーム期の搾取されていた農民でさえも、地主から多くの労働時間を奪い返していた。ラファルグによれば、フランス農民のカレンダーの4分の1は日曜日と祝祭日に充てられていたし、チャヤーノフ〔農業経済学者〕が帝政ロシア時代の農村 ── 進歩的とは言い難い社会 ── から算出した数字もまた、4〜5分の1が休息に捧げられていたことを示している。生産能力を手中に収めることにおいて、我々がこうした過去の社会に大きく遅れを取っているのは明白だろう。搾取されていたムジーク〔ロシア帝政時代の農民〕たちは、なぜ俺たちの誰であれ、そもそも労働しているのかと疑問を抱いていたはずだ。我々もそうあるべきではないか。
我々の劣化具合を把握するには、そうは言っても、人類の初期状態が参考になる。政府や財産を持たず、狩猟採集民として歩き回っていた頃だ。ホッブズは、その時代の人生は不潔で、野蛮で、短いものであると憶測した。また別の者は、人生とは絶望的な不断の生存闘争であったと考えた。それは不運な者や生存闘争の試練に耐えられなかった者に死や災難をもたらす過酷な自然との戦争であったと。実際のところ、こうした想定はすべて、ホッブズにとっての内戦期イングランドがそうであったように、自治に不慣れな地域社会が政府権力の崩壊に抱いていた恐怖の投影にすぎなかった。ホッブズの同胞たちは、別の生き方を提示するオルタナティブな社会形態 ── 特に北アメリカのインディアン社会など ── にすでに遭遇していた。しかし、彼らの経験とかけ離れすぎていたため理解できなかったのである。(インディアンの生活に親しんでいた下層階級は、彼らの生活をより理解し、魅力に気づいていた。十七世紀を通じて、イギリス人入植者はインディアンの部族に亡命したり、戦争捕虜となっても元の社会に戻ることを拒んだりした。一方で、白人居留地に亡命しようとするインディアンは少なかった。せいぜい西からベルリンの壁を越えようとした西ドイツ人くらいの人数である。)アナキストであるクロポトキンが著書『相互扶助論』で指摘したように、「適者生存」バージョン ── トマス・ハクスリーバージョン ── のダーウィニズムは、自然界における淘汰現象の説明ではなく、ヴィクトリア朝時代のイングランドの経済状況の説明と見た方がいい。(クロポトキンは科学者 ── 地理学者 ── であった。彼がシベリアに流刑されたときには、不本意ながらフィールドワークの機会を豊富に得ており、彼の指摘には十分な根拠があると言える。)大半の社会理論や政治理論と同じように、ホッブズや彼の後継者による物語も、実際のところは無自覚なままに書かれた自分自身の体験談にすぎないのだ。
人類学者マーシャル・サーリンズは、現代の狩猟採集民に関するデータを調査し、『原始の豊かな社会』と題された論文でホッブズ流の神話を叩き潰した。彼らは我々よりもずっと少ししか働かない上、彼らの働き方は、我々にとっての遊びと見分けがつかない。サーリンズは次のように結論づけた。「狩猟採集民は我々よりも少ししか働かない。食料採集は絶え間ない苦役などではなく断続的で、豊富に余暇がある。また、一人あたり年間の数値を比較してみれば、ほかのどんな社会よりもたっぷりと昼寝をとっている」と。彼らの一日あたりの平均労働時間は四時間である。もし彼らが「労働していた」と仮定すればの話だが。彼らの「肉体労働」(と我々の目に映るもの)は、身体的能力と知的能力を活用した熟練労働であった。サーリンズが言うように、大規模な非熟練労働は産業主義のもとでしか不可能なのである。したがって彼らの肉体労働はフリードリヒ・シラーによる遊びの定義を満たす。それは人間の二つの本性である思考と感情の両方に十全な「遊び」を与えることによって、完全な人間性が発露する唯一の瞬間である。シラーはこう言った。「剥奪が原動力であるときに動物は労働する。そして、力の充足が原動力であるとき、あるいは満ち足りた生命力が自らを奮い立たせるときに動物は遊ぶ」と。(現代的なバージョン、つまりエイブラハム・マズローによる疑わしい発達論ですら、欠乏と成長という動機を正反対に配置させている。)遊びと自由は、生産という領域の中で重なり合っているのだ。マルクスとて、生産主義者の神殿に(彼の善意に反して)祀り上げられてしまい、「必要による強制と外的な合目的性のもとでの労働が要求される地点を乗り越えるまでは、自由の国は始まらない」と見立てている。彼は、狩猟採集民の幸福な状況こそが、労働の廃絶そのものであるという認識を、とうとう手にすることができなかった。ここで言う労働の廃絶とは、労働者以前の存在でありながら反労働的であることを意味する。奇妙な主張であるように思われるかもしれないが、それは可能なのだ。
労働のない生活へ前進したい、あるいは後退したいという願望は、産業革命以前のヨーロッパについて大真面目に書かれた文化史や社会史の中にはっきりと現れている。たとえばМ・ドロシー・ジョージの『変遷期のイングランド』や、ピーター・バークの『ヨーロッパの民衆文化』などである。ほかにも関連するのはダニエル・ベルのエッセイ『労働とその不満』である。私が思うにこれは「労働に対する反乱」について言及した最初のまとまったテキストである。これが理解されていたなら、この文章が収録された書籍『イデオロギーの終焉』につきまとった「自己満足」という評価は確実に訂正されていただろう。批判者も賛同者も、イデオロギー終末論が社会不安の終焉を意図していたわけではないと気づかなかった。ベルは、イデオロギーの吹聴や束縛に影響されない、誰も知らない新時代の始まりを暗示していたのだ。ベルではなく、シーモア・リプセットが(著書『政治の中の人間』の中で)同時期に「産業革命の根本的問題は解決した」と宣言した。それはリプセットが、大学生たちのポスト産業社会あるいはメタ産業社会への不満によって、バークレー校から比較的(そして一時的に)平穏だったハーバードへ追い出されるわずか数年前のことであった。
ベルが示したように、アダム・スミスは『国富論』の中で市場と分業の魅力に夢中になっていた一方で、労働の暗黒面にも警戒していた(し、率直であった)。アイン・ランドやシカゴ派経済学者、そして現代のアダム・スミスの追従者たちよりも遥かに。スミスは次のように述べている。「人間の大部分が持つ悟性は、必然的に日常的な雇用によって形成される。いくつかの単純作業をこなすだけで一生を終える人間は・・・悟性を発揮する機会をもたない。たいがいの場合、彼は想像しうる限りもっとも愚かで無知な人間になり果てる」と。この短くも率直な言葉こそ、私の労働批判そのものである。ベルは、アイゼンハワーの無能っぷりとアメリカ自己満足の黄金時代であった一九五六年の著書〔『労働とその不満』〕で、一九七〇年以降に生じる、制御されず、制御不可能な不快感を予見していた。それは、政治ではどうにもできない不快感でありHEW(健康教育福祉省)の報告書『アメリカの労働』で指摘された不快感であり、なにかの原動力となることもなくただ無視される不快感であった。その正体は、労働への反発であった。ミルトン・フリードマンやマレー・ロスバード、リチャード・ポズナーといった自由放任主義の経済学者のどのテキストにも、この問題は登場しない。彼らの言葉を借りれば、『ロスト・イン・スペース』のセリフのように、「計算できない」からである。
もし、自由への愛を原動力としたこれらの反対論が、功利主義者や家父長制主義者からなるヒューマニストを説得できないのであれば、彼らが無視できない別の反論を用意しよう。とある書物のタイトルを拝借すれば、労働は健康の危機(Work is hazardous to your health)〔生物学者スーザン・ダウムの著書『労働は健康に有害』(Work Is Dangerous to Your Health)のモジりであるように思われる〕なのである。事実、労働とは大量殺人か大量虐殺なのである。直接的であれ間接的であれ、労働はこの文章を読む人の大半をも殺害するだろう。この国では年間一万四千人から二万五千人もの労働者が、労働中に殺されている。二百万人以上が障害を負わされている。二千万人から二千五百万人が、毎年負傷している。しかもこれらの推定は、極めて控えめな労働災害の構成要件に基づいている。毎年五十万件も発生している労働由来の病はカウントされていないのだ。私は労働由来の病に関する千二百ページもの医学書を読んだことがある。これすらも問題の表面をなぞっただけにすぎなかった。入手可能な統計は、黒肺病を患う十万の鉱山労働者のうち毎年四千人が死亡しているというあからさまなケースは数え入れている。統計が示さないのは、何千万人もの人々が労働によって寿命を縮めているという事実である ── 結局のところ、これが殺人の意味するところのすべてである。五十代のうちに死ぬまで労働する医師のことを考えてみればよい。その他すべてのワーカホリックのことを考えてみればよい。
実際に労働中に死んだり、障害を負わされたりしないのだとしても、労働への行き帰りや、職を探しているとき、労働を忘れようとするとき、そうした目に合うかもしれないのだ。自動車事故の犠牲者の大多数は、労働にまつわる義務を行っている本人であるか、彼らと衝突した人物である。増え続ける死者数には、自動車産業に由来する公害の犠牲者や、労働に起因するアルコール中毒者や薬物中毒者の犠牲者も、さらに加算されなければならない。ガンや心臓病も、直接的であれ間接的であれ、通常は労働に起因する現代病である。
つまるところ労働とは、殺人に身をゆだねる人生を制度化したものなのだ。人々は、カンボジア人は彼ら自身を抹殺しようとしているとバカにするが、我々とどこか違うのだろうか? ポル・ポト政権には、まがりなりにも平等主義社会のビジョンがあった。我々は(少なくとも)六桁もの人々を殺す。その生存者にビッグマックやキャデラックを売りつけるために。高速道路で事故死する年間四、五万人もの人々は犠牲者であり、殉教者ではない。彼らが死ぬべき理由はなかった。たしかに、彼らが死んだ理由は労働であった。しかし、労働には命を捧げる価値などないのだ。
国家による経済の統制はなんの解決にもならない。どちらかと言えば、社会主義国家の労働はアメリカよりも危険である。モスクワの地下鉄建設では数千人ものロシア人労働者が死傷した。チェルノブイリをはじめ、最近まで隠蔽されてきたソ連の原発事故と比べれば、タイムズ・ビーチやスリーマイル島の事故は ── ボパール〔一九八四年にインドで起きた大規模な毒性ガス漏洩事故〕は例外だが ── 、小学校の避難訓練に見えてしまう。だからといって、いま流行しているような規制緩和はなんの役にも立たないし、むしろマイナスに働くだろう。健康と安全の観点から言えば、とりわけ経済がもっとも自由放任に近づいていた時代の労働こそが最悪だった。ユージーン・ジェノヴェーゼのような歴史家が語る説得力のある議論によると、アメリカ北部やヨーロッパの工場賃金労働者は南部のプランテーション奴隷よりもずっと貧乏であった ── 南北戦争前の奴隷制度を擁護していた人々が主張していたように ── 。官僚とビジネスマンの関係をどうにかしたところで、生産の点では大きな変化が起きるとは思えない。OSHA(労働安全衛生庁)による曖昧な基準さえ、真剣に実施することは理論上可能だろうが、もしそうなれば経済は行き詰まるだろう。取締官たちはそのことを理解している。違反者たちを真面目に取り締まろうとはしない様子からも明らかだろう。
これまで述べてきたことには議論の余地はないはずだ。多くの労働者は労働に辟易している。欠勤、離職、労働者による窃盗、サボタージュ、山猫スト、全面的な労働拒否は日常茶飯事で、ますますその頻度は高まっている。ただなんとなく労働に拒否感を抱くだけではなく、意識的な労働拒絶運動が生じても不思議ではない。それにもかかわらず、労働は必要で避けられないという価値観は、経営者やその取り巻きだけではなく、労働者の間にまで蔓延している。
私には同意できない。労働を廃絶し、そして労働のうち有益な目的に資する部分だけを、新しい多種多様な自由活動によって置き換えることは、いまや可能なのだ。労働を廃絶するためには、量的および質的の二方向から取り組む必要がある。まず、量的な面では、労働量を大幅に削減しなければならない。現在、労働の大半は無意味または有害であり、まずはそれを取り除くべきだろう。その一方で ── 思うにこちらが問題の核心であり、革命的な新しい出発点である ── 有益な労働を取り上げて、それを多種多様なゲームや創作といった娯楽に置き換えるか、変形させていかなければならない。それらの娯楽は、たまたま有益な生産物を生み出すという点を除けば、楽しみだけを目的とした娯楽と区別できないだろう。もちろん、変換することでこれらの娯楽を魅力の乏しい行為にしてはならない。そうすれば、権力や財産といった人為的な障壁は取り去られるだろう。創造は純粋な喜びに変わるだろう。そうすれば我々は互いに怯え合うことをやめられるだろう。
私は労働の救済方法を喧伝しているわけではない。大半の労働には救済する価値などないのだ。有益な目的に貢献する労働はごくわずかであり、減少傾向にある。労働システムと、そこにつきまとう政治的・法律的な付属物の防衛と再生産は、有益な目的になんら貢献するところはない。三十年前、ポールとパーシバルのグッドマン兄弟は当時行われていた労働のわずか5パーセントだけで、衣食住の最低限のニーズは満たせると試算した。この数値が正確なら、現在はさらに少ない労働で済むだろう。理論的な推測に過ぎないが、重要な点ははっきりしている。ほとんどの労働は、直接的または間接的に、金勘定や社会の抑圧といった非生産的な目的にしか役立たない。何千万人ものセールスマンや兵士、管理職、警察、株式仲買人、聖職者、銀行員、弁護士、教師、家主、警備員、広告業者、そして彼らの周りで働く人々は、即座に労働から解放することができる。大物たちを失業させたなら、雪だるま式に彼らの取り巻きや下っ端も解放されていくはずだ。こうして経済は縮小し、消滅する。
労働者の40パーセントはホワイトカラーであり、その大半はこれまででっちあげられた中でもっとも退屈でバカバカしい仕事に取り組んでいる。たとえば保険や銀行、不動産などの業界は無意味な書類いじり以外にはなにもしていないのだ。第三次産業(サービス産業)が肥大する一方で、第二次産業(工業)が停滞し、第一次産業(農業)がほとんど消えようとしているのは偶然ではない。労働は権力を維持したい人々以外には不要なので、公共の秩序を確実なものとする手段として、人々は比較的有益な労働から比較的無意味な労働へと移されたのである。なにもないよりはあった方がいいという理由だけで、人々はさっさとやることを終えても家に帰ることができないのだ。連中はあなたの時間を要求する。あなたを我が物とするための時間をだ。たとえその時間の大半に使い道がなかったとしても。そうでなければなぜこの六十年間で、平均労働時間がたったの数分しか短縮されていないのだろうか?
次に、生産労働にも大ナタを振るうことにしよう。もはや軍需産業、原子力発電、ジャンクフード、デオドラント製品 ── そしてとりわけ自動車産業は無用であることは言うまでもない。スタンレースチーマーやT型フォード程度なら気まぐれにつくられても構わないだろうが、デトロイトやロサンゼルスのような疫病の巣窟に蔓延る「自己満足のための自動車」(auto-eroticism)〔自慰行為の意味もある〕は論外である。すでにエネルギー問題や環境問題、そのほか未解決の社会問題は、なにかを我慢する必要もなく、事実上解決しているようなものである。
最後に、もっとも長く、もっとも低賃金で、もっとも退屈な、最大の労働を廃止しなければならない。それは家事や育児を担う主婦の労働である。賃労働を廃止し、完全失業を実現すれば、性差別的分業を骨抜きにできる。現代の賃金労働制は必然的に性差別的分業を課し、おのずと核家族化をもたらす。男が外で稼ぎ、女は退屈な家事労働を通じて冷酷な社会からの避難所を提供する。子どもたちは「学校」などと呼ばれる青少年強制収容所に連行される。学校の主目的は母親の保護から引き離して調教することだが、ついでに労働者に欠かせない従順さと時間厳守を習慣づけられる。好むと好まざるとにかかわらず、このシステムは過去一世紀から二世紀の間は、経済的には合理的だった。労働システムはイヴァン・イリイチの言う「シャドウワーク」を必要とし、「シャドウワーク」は労働システムを可能にする。家父長制を撲滅したいなら、「シャドウワーク」が無給で行われる核家族を撲滅すればいい。非核化戦略〔非核家族化戦略の意味。非核(兵器)化となぞらえていると思われる〕と結びつけて行われるべきは、子どもを子ども扱いすることをやめ、学校を閉鎖することである。この国にはフルタイム労働者よりも多くのフルタイム学生がいる。我々に必要なのは、学生としてではなく、教師としての子どもたちなのだ。子どもたちは遊び心(ludic)の革命に多大な貢献をもたらす。彼らは大人よりも巧みに遊ぶのだから。大人と子どもは同じではないが、相互に頼り合うことで対等な関係を育んでいくだろう。遊びだけが世代間の隔たりに橋をかけることができる。
これだけでほとんど労働は削減されるが、さらに削減するための方法として、自動化や電子化について言及しよう。戦争研究や計画的陳腐化といった煩わしい営みから解放された科学者やエンジニア、技術者たちは、鉱山労働から疲労と退屈と危険を取り除くような、やりがいのある仕事に着手できるようになる。間違いなく、彼らは自分たちが夢中になって取り組めるプロジェクトをいくらでも見つけ出すだろう。ひょっとしたら、世界規模のマルチメディア通信システムやスペースコロニーも生み出されるかもしれない。ひょっとしたら、であるが。私は機械オタクではない。ボタンを押せばすべてが解決する天国に住みたくはない。ロボットの奴隷にすべてを世話させたくもないし、自らの手で成し遂げたいこともたくさんある。思うに、省力化技術にも活躍の場はある。しかし、それはささやかな場にすぎない。有史以来の記録、あるいは先史時代の証拠をみれば、そのことは明らかである。生産技術が狩猟採集から農業へ、そして工業へと発展するにつれ、労働量は増加した一方で、自己決定や個人の技能を発揮する余地は減っていった。産業主義の肥大化は、ハリー・ブレイヴァマンが「労働の劣化」と呼んだ現象を増長させた。知性ある観察者たちはつねにこのことに気づいていた。ジョン・スチュアート・ミルは「これまでに考案された省力化機械は、一秒たりとも労働を削減しなかった」と書いた。カール・マルクスは「一八三〇年以降の発明は、労働者階級の反乱に対抗する武器を資本家に提供するという唯一の目的のために為されたと、歴史書に書くことができるだろう」と書いている。熱烈なテクノフィリア(技術オタク)たち ── サン=シモン、コント、レーニン、B・F・スキナー ── は、つねに臆面もない権威主義者でもあった:言わば、テクノクラート(技術官僚)である。我々はコンピューター神秘主義者たちの大言壮語に、もっと疑いの目を向けるべきだろう。コンピューター神秘主義者たちは犬のように働く。彼らにチャンスさえあれば、ほかの人々も同じように働かされるのではないか。もし彼らがハイテクノロジーの延命ではなく、人間の幸福を目的とするなら、彼らの意見にも耳を傾けても構わないのだが。
私が本当に実現させたいのは、労働を遊びに変えることである。その第一歩は、「職業」や「職位」という概念を捨て去ることだ。もともとその活動に含まれていたはずの遊び心の要素も、特定の人々だけに押し付けられ、他のすべての活動をなげうつよう強制する職業に切り詰められるや否や、その遊び心は失われてしまう。農場労働者が歯を食いしばりながら苦役に服しているかたわら、空調の利いた部屋で過ごしていた雇用主たちは、毎週末、自宅の庭で土いじりしているのだ。これは一体どういうわけだろうか? 永遠のお祭り騒ぎシステムのもとでなら、我々はルネッサンスも真っ青なほどの、素人好事家の黄金時代を目撃することになるだろう。そこに職業は存在しない。やりたいことと、それをやる人がいるだけだ。
労働を遊びに変える秘訣は、シャルル・フーリエが示したように、なんであれ人々の多種多様な楽しみを活かしながら、それを有用な活動へとアレンジすることである。人々がその活動を楽しめるようにするには、それが労働として行われていた際に生じていた不合理や歪みを取り除くだけで十分だろう。たとえば私は多少なら(あまりに長時間でなければ)教えることを楽しんでいる。しかし、強制された学生を望まないし、クビにならないためにおエラい先生方に媚びへつらうつもりもない。
第二に、たまにはやりたくなるけれども、長時間やりたいとは思わないし、ずっとやりたいとは間違っても思わない行為がある。親となって育児に専念するのではなく、他人の子どもと仲良くなるために数時間だけベビーシッターをやるのは気楽なものである。ようやく育児から離れられた親たちは、自分自身のための時間を大いに満喫するだろう。そのくせ、あまりにも長期間子どもから離れ離れになるなら、彼らは気が気ではなくなるのだが。互いにメリハリをつけて取り組むことで、自由な遊びの人生が可能になる。同様の原理は、他のさまざまな活動、特に人間にとって基本的な活動にあてはまる。たとえば、自分の好きな時間に真剣に練習しているとき、多くの人は料理を楽しんでいる。しかし、労働のための栄養補給として取り組むなら、そうはいかない。
第三に ── ほかの条件が同じなら ── 自分一人に押し付けられたり、不快な環境で取り組まなければならなかったり、権力者に命令されたりするなら苦痛に感じる行為もある。しかし、こうした状況でないのなら、少なくともしばらくの間なら楽しめるかもしれない。これらはおそらくすべての労働にある程度までなら当てはまるだろう。人々はもっとも魅力のない単純作業すら、そうしなければ無駄になってしまう創意工夫を傾けて、できる限りゲームに変えようとする。ある人にとっては魅力のある活動だからといってほかの人も楽しめるとは限らない。だが、少なくとも誰しもが潜在的に多様な関心を持っているし、多様性への関心を持っている。「物は試し(anything once)」という言葉の通りである。フーリエは彼が「ハーモニー」と呼んだポスト文明社会においてなら、どれだけヘンテコでひねくれた性格の人物でも、その能力を有効活用できるであろうことを巧みに説明した。フーリエは、暴君ネロですら、子どもの頃に屠殺場でその残虐性を発散させていたのなら、なんの問題もない人物に成長しただろうと考えた。汚物の中で転げまわることで悪名高い子どもたちですら、傑出した子にメダルを授与すれば、トイレ掃除やゴミ捨てを行う「ちびっこ軍団」として組織化できるだろう。私は個別の事例について、微に入り細を入り論じたいわけではなく、通底する原則を論じているのだ。この原則は、革命的変容全体における個別の事例の意味を完璧に明らかにしてくれるだろう。十分に能力のある人々でも、今日における労働をそっくりそのままあてがわれてしまったなら、一部の人は確実に捻じ曲がってしまうだろう。そのことを心にとどめて欲しい。
もしこのプロセスの中でテクノロジーに役割があるとするならば、労働を自動化することではなく、再創造のための新しい扉を開くことにある。ウィリアム・モリスが、共産主義革命の果てに生じるであろうと予想し、生じるべきであると考えた手工業への回帰は、ある程度は我々とって望ましいものなのかもしれない。アートが評論家気取りや収集狂の手から取り戻され、上流階級の特権的趣味であることをやめたなら、アートに含まれる美と創造は、労働によって完全性を奪われてきた人生へと取り戻されるだろう。詩に詠われ、博物館のショーケースに展示されているギリシアの壺が、当時はオリーブオイルの保存のために使用されていたのだと考えると、酔いが醒める想いである。我々が日常的に使っている道具が、数少ない貴重な品として未来に残っていたとしても、同じように評価されるとは思えない。重要な点は、労働の世界には進歩など存在せず、むしろその逆の現象が生じているということである。我々は過去が提供してくれる英知を盗むことをためらうべきではない。古代人はなにも失うことはなく、我々は豊かになるのだから。
日常生活の再発明は、我々の地図の端から出発して歩いていくことを意味する。多くの示唆に富む思索が、人々が思う以上にたくさん存在することは確かだ。フーリエやモリスだけではなく、 ── マルクスにすら、そこそこにヒントがある ── あるいはクロポトキン、サンディカリストのパトーとプージェ、新旧の無政府共産主義者ベルクマンやブクチンの著作もそうだ。グッドマン兄弟の『コミュニタス』は、機能(目的)からどのように造形が生み出されるかを描き出す見事なお手本だ。シューマッハーあるいは、とりわけイリイチなどが提唱するオルタナティブな技術/適正技術/中間技術/コンヴィヴィアルな技術といったしばしば曖昧な用語からもヒントをかき集めることができる。ただし、彼らの霧に包まれた機械(fog machines)は一度切り離す必要があるだろうが。シチュアシオニストたちの主張 ── ヴァネーゲムの『日常生活の革命』や『シチュアシオニスト・インターナショナル・アンソロジー』に代表されるような ── は、とことん明晰で爽快である。ただし、彼らが労働者評議会による支配を是認したことは、労働の廃絶とは決して相容れないのだが。こうした言説に孕む問題点も、ほかの左翼の学説に比べれば許容範囲内だ。左翼の信奉者たちは最後まで労働を防衛しようとするだろう。というのも、もし労働がなくなれば労働者はいなくなる。そうなれば、左翼は誰を焚きつけるというのだろうか?
だから労働廃絶論者たちは、ほとんど自らの手で成し遂げていくことになる。労働によって台なしにされている創造力を解き放ったとき、なにが起きるのかは誰にもわからない。なんでも起こりうるのだ。自由と必要性を対立させる、うんざりするような神学的論争は、ひとたび使用価値の生産と楽しい遊び活動の消費がぴったり重なり合えば、自ずと解決する。
人生は一つのゲーム、いや多種多様なゲームの盛り合わせになる。しかしそれらは ── 今日行われているような ── ゼロサムゲームではない。最善の異性とのふれあいは、実り多い遊びの模範例である。参加者は互いに快楽を高め合い、誰もスコアをつけず、誰もが勝利する。与えれば与えるほど、多くを得る。遊び心に満ちた人生は、最高のセックスが日常生活に溢れかえるだろう。満ち溢れた遊びは、人生をリビドー化するだろう。そして、セックスは切迫したやけくそな行為ではなく、より遊び心のある行為へと変貌するだろう。正しくカードを切りさえすれば、人生に注ぎ込んだ以上に、多くを手にすることは可能である。ただ真剣に遊べばいいのだ。
万国の労働者よ・・・リラックスせよ!
解説(ホモ・ネーモ)
『労働廃絶論』ほど誤解されている文章はない。たとえばBBCの記事(The rise of the anti-work movement 二〇二四年七月八日閲覧)では、明らかに誤った解釈が披露されている。
「多くの労働者は労働に辟易している。・・・ただなんとなく労働に拒否感を抱くだけではなく、意識的な労働拒絶運動が生じても不思議ではない」とブラック氏は書き、人々は必要な労働だけを行い、残りの時間は家族や個人的な情熱に捧げるべきだと示唆している。
BBCのこの誤読は「労働廃絶」という言葉を聞いた人々に典型的な誤読である。要するに「週四十時間は働きすぎなのだから、無駄な労働を極力減らして、週十時間労働くらいに減らそう」という話である。これを「労働短縮論」とでも呼ぼう。労働を攻撃する論調は労働短縮論以外、ほとんど存在しないかのような扱いを受けている。そのため、まったく異なる主張を行うブラックの『労働廃絶論』も、労働短縮論で強引に解釈されてしまうのである。両者は似て非なるものである。ブラックは「人々は必要な労働だけを行い、残りの時間はプライベートに捧げるべき」なんてことは言っていない。彼は、労働を減らすのではなく撲滅し、人生を丸々遊ぶべきであると主張しているのである。これは難解な比喩表現でもなんでもない。文字通りの意味であるが、残念ながらブラックの主張は真剣に受け取られているとは言い難い。労働に批判的な人々ですら、労働短縮論から抜け出すことはなく、労働の撲滅に乗り出そうとはしなかった。そのために必要な概念的転回、言い換えればコペルニクス的転回がブラックによって成し遂げられていることを、誰も理解できなかったのである。唯一、私がブラックの思想を継承し打ち立てたアンチワーク哲学だけが、労働の撲滅というプロジェクトに取り組んでいる(詳しくは拙著『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?を参照のこと)。しかし、残念ながらまだまだ社会を揺るがすインパクトを起こすには程遠い。
だからこそ今回、アンチワーク哲学の原点となる『労働廃絶論』を新たに翻訳し、解説文を加えることにした。今回の翻訳文は、できるだけ著者のボブ・ブラックの意図を正確に伝えるため、原文の構造を大きくアレンジすることなく忠実に訳している。ブラックはわかりやすい表現で、ありのままに書いているとはいえ、日本語として意図をくみ取りづらい箇所も多いと思われる。そこで本書の後半では、『労働廃絶論』への理解をさらに深めていただく狙いで、解説文をお届けする。
労働の廃絶とはどういう意味か?
ブラックは「労働の廃絶」が可能であり、廃絶すべきであると主張している。「なにを言っているのだこいつは?」と眉間にしわを寄せるのが、常識人による常識的な反応だろう。しかし、ブラックはいたってまじめに主張しているのである(本人曰く、まじめであると同時にふざけているのだが)。いったいどういうわけか? 本人の言葉を見るに、レトリックを駆使して読者をケムに巻こうとしているわけでもなさそうだ。彼は文字通りの意味で「労働」を廃絶できると考えているらしい。
私は言葉の定義を弄んでいるわけではない。「労働の廃絶」とは文字通りの意味である。(『労働廃絶論』p8)
ところが彼の労働の定義をみれば、「いや、言葉の定義を弄んでいるだけではないか?」と憤る人も多いだろう。彼による定義は次のようなものである。
労働の独特ではない定義を用いることで私が言わんとすることを伝えたい。私が言う労働の最小限の定義は、強制された苦役、つまり義務的生産である。どちらの要素も欠かせない。(『労働廃絶論』p8)
強制された苦役であり、義務的な生産。その両者の組み合わせをブラックは「労働」と呼んだ。裏を返せば、「強制的ではない苦役や、義務的でない生産」は労働ではないということになる。そして、彼はその定義が「独特ではない定義」だと書き、それに対する補足説明は一切ない。この挑発的な定義に異論は多いはずだ。デジタル大辞林によると労働とは「からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと」あるいは「生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費」である。おそらくこの定義の方がしっくりくる人が多いだろうし、ブラックがこのあとたびたび批判するマルクスも、こうした定義(とくに後者の定義)を採用している。しかし、改めて考えてみれば辞書的な定義も万能ではないことに気がつくだろう。まず「からだを使って働くこと云々」や「自然に働きかけて云々」といった定義にもとづくなら「農業アルバイトが労働であり、家庭菜園が労働でない理由はなんなのか?」という疑問が生じる。すると「金を貰えるかどうかだ」という話になるが、そうなれば「金を受け取らない奴隷労働や家事労働は労働ではないのか?」「金のために行うパチンコは労働なのか?」といった無数の疑問が生じてくる。ところが「強制」という定義を導入すれば、農業アルバイトが労働であり家庭菜園が労働でない理由だけでなく、家事労働や奴隷労働が労働である理由、パチンコが労働でない理由も上手く説明できる。農業アルバイトを含めた賃金労働は生活の糧を得るために半ば強制されているし、家事労働も主婦の強制的な義務として押し付けられているケースが多い(もちろんそうでない家庭もあるのだけれど)。奴隷労働はいわずもがな強制されているため労働だし、パチンコは強制されているわけではないから労働ではない。強制された途端に「労働感」を感じてしまうという状況は、誰しもが経験があるはずだ。「宿題をやりなさい」と言われるまではやるつもりだったのに、言われた途端にやる気がなくなること。なんの造作もない行為でも命令口調だっただけで不愉快に感じること。「○時までにやりなさい」と期限を押し付けられた途端に、やる気がなくなってしまうこと。友達同士でなら楽しい飲み会が、嫌いな上司から強制されれば「残業代が欲しい」と文句を言いたくなる労働と化してしまうこと。などなど。
もし強制されるなら、遊びも労働へと変貌してしまう。このことは定義上、明らかである。(『労働廃絶論』p13~p14)
これは心理的リアクタンスと呼ばれる普遍的な現象である。人は自らの行為を自己決定したいという強烈な欲求を持っている。そのため、強制された途端に、たとえその行為が合理的であったり、もともとやりたいと思っていた行為であったりしても、やる気が損なわれてしまう。強制こそが、労働を労働たらしめているという説明には、一定の説得力はあるはずだ。
さて、定義論争はこれくらいにしておこう。定義に完璧はないし、どの定義にも一定の真実性はある。ゆえに「労働の定義はこれだ」「いや、そうではない」という論争をしたところで、決着がつかない可能性が高い。ただし、ブラックの定義をいったん受け入れてみれば、「強制」という側面に注目することができる。そして、彼が目指した労働が廃絶された世界とは、すなわち強制のない世界であることが理解できるだろう。ブラックは強制されて行為するのではなく、強制されず人々が行為する世界を求めた。それが可能であり、望ましいと主張したのである。
そもそも生産活動は苦痛ではない
ブラックは決して「電気をつくる人や子どものオムツを替える人がいなくなればいい」などという破滅思想の持ち主ではないし、「生きるために最低限の生産だけを自給自足的にやって、不要な娯楽を撲滅しよう」といった清貧思想を唱えているわけでもない。あるいは「ロボットによってすべてを代替すればいい」と主張しているわけでもない。
私は機械オタクではない。ボタンを押せばすべてが解決する天国に住みたくはない。ロボットの奴隷にすべてを世話させたくもないし、自らの手で成し遂げたいこともたくさんある。(『労働廃絶論』p48)
ブラックが一貫して否定するのは、(自動化するのか奴隷に肩代わりさせるのかは別として)人間は生命の必要性を満たす生産活動を免れてようやく、労働から逃れることが可能だという発想である。この発想から逃れられなかったのが、ほかでもないマルクスである。
マルクスとて、生産主義者の神殿に(彼の善意に反して)祀り上げられてしまい、「必要による強制と外的な合目的性のもとでの労働が要求される地点を乗り越えるまでは、自由の国は始まらない」と見立てている。彼は、狩猟採集民の幸福な状況こそが、労働の廃絶そのものであるという認識を、とうとう手にすることができなかった。(『労働廃絶論』p30)
マルクスは、生産力の向上と労働時間の削減という歴史的段階を経た遠い未来において、ようやく労働が廃絶され自由が訪れると考えていた。これがおそらくブラックが批判する「自由と必要性を対立させる、うんざりするような神学的論争(『労働廃絶論』p58)」なのである。ブラックは、その二つを対立させる必要がないと主張する。そして、現代社会よりもはるかに前の段階にいるように思われる狩猟採集民が、必要性を満たす生産活動に自由に取り組むことで、すでに労働を廃絶していたのだと指摘している。
彼らは我々よりもずっと少ししか働かない上、彼らの働き方は、我々にとっての遊びと見分けがつかない。サーリンズは次のように結論づけた。「狩猟採集民は我々よりも少ししか働かない。食料採集は絶え間ない苦役などではなく断続的で、豊富に余暇がある。また、一人あたり年間の数値を比較してみれば、ほかのどんな社会よりもたっぷりと昼寝をとっている」と。彼らの一日あたりの平均労働時間は四時間である。もし彼らが「労働していた」と仮定すればの話だが。(『労働廃絶論』p28~p29)
彼らが「労働していた」と仮定しているということは、裏を返せば、彼らは労働していなかったのである。少なくとも、ブラックの定義する労働ではないのだ。それは自由で自発的な遊びであった。これはマルクスが考える歴史的発展のプロセスからすれば、奇妙な主張である。私たちの社会よりもはるかに発展段階が低いはずの彼らが、一足先に労働を廃絶しているのだから。
ここで言う労働の廃絶とは、労働者以前の存在でありながら反労働的であることを意味する。奇妙な主張であるように思えるかもしれないが、それは可能なのだ。(『労働廃絶論』p30~p31)
つまりブラックは、私たちも狩猟採集民のように、必要性を満たすための食糧生産やインフラ整備、そのほか多種多様なケアすら、自由で自発的な遊びによって成し遂げることが可能であり、そうすべきであると主張しているのだ。
労働を廃絶し、そして労働のうち有益な目的に資する部分だけを、新しい多種多様な自由活動によって置き換えることは、いまや可能なのだ。(『労働廃絶論』p40)
このようにお伝えすれば、某ブラック居酒屋チェーンの社長の顔を思い浮かべる人もいるだろう。要するに「もちろんお前はこの仕事に、自発的に自由に取り組むよなぁ?」という、やりがい搾取的な状況である(それはもはや強制であり、ブラックの定義上は労働なのだが、その点は一旦脇に置いておく)。もし、少なくない人がこうした状況を思い浮かべるなら、必要性を満たすための生産活動が本質的に辛いものだという価値観が蔓延していることを意味する。
どういうことか? たとえば、「自由に、自発的に、やりたいときだけゲームをすればいい」という言葉を読んで「それってやりがい搾取に繋がりませんかね?」などという懸念を表明する人はいない。なぜなら、ゲームは楽しい行為であり、自発的に自由に取り組む人がいて当然であると考えられているからだ。一方で、「自由に、自発的に、やりたいときだけ電気工事をすればいい」という言葉を読めば、やりがい搾取を懸念される。なぜなら、電気工事は辛くて多くの人がやりたがらない行為であると考えられているからだ。では、本当にゲームは楽しくて、電気工事は辛いのだろうか? ブラックはそれを明確に否定する。彼にとって生産活動が苦痛である理由は「それが生産活動だから」というものではなく、まったく別のところにある。
強制と規律が苦痛の原因
先述の通り、ブラックは強制こそが労働がもたらす苦痛の根本原因であると考えた。では、強制とはなんなのか? 実を言うとそれは必ずしも明確ではない。あなたが不思議な力で他者をマリオネットの如く操る超能力者でもない限り、厳密な意味で誰かを強制することは不可能だからである。拳銃を突きつけられながら命令されようが、拒否することはつねに可能なのだ。つまり、厳密な意味での「強制」はこの世界に存在しない。ならブラックは「強制」をどのように捉えていたのだろうか? 明言されてはいないが、ブラックによるシラーの引用個所がヒントであるように思われる。
剥奪が原動力であるときに動物は労働する。(『労働廃絶論』p30)
ここでいう「剥奪」とは「失うことへの恐れ」とでも言い換えられるだろう。たとえば、槍を突きつけられながら奴隷労働に取り組むことは、明らかに「命を失うことへの恐れ」が原動力である。あるいは家事労働は(とくに極端に高圧的な夫のために行うような場合は)、「夫に見切りをつけられ、夫の稼ぎを失い路頭に迷う恐れ」が原動力であるように思われる。そして賃労働とは「会社をクビになり、家族もろとも路頭に迷う恐れ」が一定程度は原動力として機能していると思われる。このような場合は、少なくとも一定程度は「強制されている」と言って差し支えなさそうだ。逆に言えば、失うことへの恐れがなくなった場合、その人物を強制することはむずかしい。生活を成り立たせるために十分な不労所得を得ている人物を強制的に労働させるのはほとんど不可能である。仮になにかの作業に従事することに一度は同意したとしても、彼は不満を感じたなら職場を離れるだろうし、雇用者側はそれを食い止める手立てがない(一方で、不労所得がない場合は「それじゃどこ行っても通用しないよ?」とか「食べていけなくなるよ?」といった脅しが一定程度までは有効であるが)。
ブラックによれば「強制」が隅々まで行き渡ったのが近代以降の労働である。逆に言えば前近代的な労働は、さほど強制が徹底されてはいなかったようだ。
わずかに残った第三世界の農民の砦 ── メキシコやインド、ブラジル、トルコ ── だけが、ほとんどの肉体労働者が過去数千年間続けてきた伝統的な労働関係をいまだ持続させる農業従事者の避難所となっている。その労働関係とは、国家への税金(身代金)や、寄生的地主への地代を支払いさえすれば、それ以外のことはほったらかしにしてもらえるような関係である。この生々しい取引すら、まだマシに思えてくる。(『労働廃絶論』p10)
彼らは税金や地代を払ってさえいれば、こまごまとした指図を受けることはなかった。「朝八時に必ず出勤して、一時間は耕運作業を行うように。その後、地主への報告書を提出し、十二時に休憩を四五分取得。午後は夕方五時までに1アールの種まき作業を終えるように。遅れた場合は、その理由と改善案を報告せよ」などとマイクロマネジメントされる第三世界の農民は少なかった。つまるところマイクロマネジメントは分割された命令であり、立て続けにやってくる強制にほかならない。だからこそ、それが存在せず、おおざっぱな成果だけを要求された第三世界の農民はブラックにとって「まだマシ」だと思えたのだろう(もちろんブラックは全面的に肯定しているわけではない)。
しかし、近代的な労働はちがう。強制を隅々まで浸透させていく「規律」が徹底されているからだ。
規律とは職場における全体主義的統制の総体によって構成されている ── 監視、繰り返し仕事、押しつけられる作業テンポ、生産ノルマ、タイムカードなどなど。規律によって、工場やオフィスや店舗は、刑務所や学校や精神病院と見分けがつかなくなっている。規律は、歴史的にも類を見ないほどの恐ろしさを孕んでいる。ネロやチンギス・ハン、イワン雷帝といった過去の悪魔のような独裁者すらも可愛く見えるほどだ。彼らほどの悪意の持ち主ですら、現代の専制君主ほどに臣民を徹底的に統制するカラクリを手にすることはなかった。(『労働廃絶論』p12~p13)
労働者はパートタイムの奴隷である。いつ出勤し、いつ退勤し、その間になにをすべきかは上司が指示する。服装やトイレの頻度に至るような、極限まで屈辱的な管理体制を敷くことすら、彼のお気に召すままだ。 (『労働廃絶論』p17)
ブラックいわく、こうした規律は「屈辱の詰め合わせ」であり、それこそが「多くの人々が労働において味わう悲惨さの正体」なのであった。ここまで極端な監視体制は現代においては珍しくなっていて、その点に関しては後述するが、依然として労働者が監視体制のもとに置かれていることは間違いない。
労働につきまとう「繰り返し」への批判
ここまで見てきたとおり、命令による強制は人のモチベーションを削ぎ落す。それが規律という形式をとるほどに、モチベーション低下効果はさらに高まると考えられる。規律は、同じ作業をひたすら繰り返すことを要求する傾向にある。ブラックは強制されることに労働の苦痛の原因を見出していたが、強制される行為の中でも「繰り返し」はさらなる苦痛を呼び起こすと考えていたようだ。たとえば次の文章である。
たまにはやりたくなるけれども、長時間やりたいとは思わないし、ずっとやりたいとは間違っても思わない行為がある。親となって育児に専念するのではなく、他人の子どもと仲良くなるために数時間だけベビーシッターをやるのは気楽なものである。ようやく育児から離れられた親たちは、自分自身のための時間を大いに満喫するだろう。そのくせ、あまりにも長期間子どもから離れ離れになるなら、彼らは気が気ではなくなるのだが。互いにメリハリをつけて取り組むことで、自由な遊びの人生が可能になる。(『労働廃絶論』p52)
ここではなにが意図されているのだろうか? 一時間か二時間だけ子どもの面倒をみるのは苦痛ではないどころか、喜ばしい体験ですらあることには、多くの人が同意するだろう。一緒に積み木をして遊ぶことはもちろん、おむつを替えたり、食事をつくったりするような、労働としてなら苦痛になりかねない行為すら、遊び感覚でこなすことができる。ところが、多くの母親がそうしているように二十四時間つきっきりで面倒を見ることになれば、苦痛や倦怠感、拒否感を味わう可能性が一気に高まる。もちろん、それでも高いモチベーションを保つ母親もいるし、責任感をもって育児を成し遂げる母親が大半であるが、育児ノイローゼとなる母親が多いのも事実である。私自身の二児の父としての経験を語ると、他の大人のもとに我が子を連れていけば、ミルクを与える権利を取り合うような事態に陥る。みんながやりたがるのである。家の中ではしばしば子どもの相手を妻と押し付け合うような状況になるというのに。要するにここで言いたいのは、一日のうち一時間や二時間だけ育児に取り組むならそれは「遊び」であり続ける可能性が高まるが、二十四時間やらざるを得ないなら「苦痛を伴う労働」と化すリスクが高まるということだ。これは育児に限った話ではない。たとえばトラックドライバーは(積みおろしやトラックのメンテナンスといった業務も含まれるとは言え)おおむね運転といった単一の業務に八時間以上縛り付けられることになる。車好きにとって一時間や二時間の運転は遊び半分のドライブにすぎないが、トラックドライバーにとっての運転は「労働」である。朝から晩まで大工仕事に従事するなら労働になり得るが、週末に気まぐれに日曜大工に取り組むならそれは遊び(もちろんそれは取るに足らないという意味ではない)である。労働として取り組む人がみな苦痛に顔をしかめているとは限らないとはいえ、長時間繰り返すことによってその行為が苦痛と化す可能性は間違いなく増大するだろう。『労働廃絶論』の中で繰り返される「職業」への批判は、この文脈で解釈すれば理解しやすい。
人々はただ労働するだけではなく、「職業」を持つのだ。「さもないと・・・」という脅しを背景に、一人の人間が一つの生産タスクをひたすら繰り返す。たとえそのタスクに面白さが内在していたとしても(まずます多くの職業がそれを失っているが)、義務的に繰り返させられる単調さによって、遊び心(ludic)を発揮するポテンシャルは枯渇させられてしまうのだ。(『労働廃絶論』p11)
だからブラックは「職業」すらも撲滅すべきであると考えた。
永遠のお祭り騒ぎシステムのもとでなら、我々はルネッサンスも真っ青なほどの素人好事家の黄金時代を目撃することになるだろう。そこに職業は存在しない。やりたいことと、それをやる人がいるだけだ。(『労働廃絶論』p50)
とはいえ、職業を撲滅するべきだという主張は「やりすぎ」感が否めない。たとえば、豆腐屋として週に四十時間働くことに誇りを持っている人物は一定数存在している。彼は労働がない社会でも豆腐をつくり続けるだろうし、「豆腐屋」という職業を名乗り続けるだろう。しかし、職業を撲滅するべきだと主張するなら、彼にたいして「豆腐づくりは週十時間までにすべきだ」などと怒鳴りつけなければならなくなる。それはもはやブラックが嫌悪する「強制」ではないか。言い換えれば「非生産の強制」であり「逆向きの労働」ではないか。たしかに同じ作業を長時間取り組み続ける場合、それが苦痛になる可能性は高まるが、それでも苦にならないどころか、欲する人すらいるのだ。なら、職業の撲滅という主張には、慎重になるべきではないだろうか。
さて、ブラックの繰り返しへの批判は、別の角度からも手痛い反論を食らうことになるだろう。それは、「規模の経済」という観点からである。「規模の経済」を簡単に説明するなら、農業が得意な人が農業に従事し、家具づくりが得意な人が家具づくりに従事することで、全体的な生産性が高まり、社会全体が幸福となるという考え方である。もちろん、「規模の経済」にも一理ある。極端な話、農家Aがニンジンとダイコンを一本ずつ生産し、農家Bもニンジンとダイコンを一本ずつ生産するなら、農家Aがニンジンを二本生産し、農家Bがダイコンを二本生産する方が作業効率は高い。また、それぞれが一つの野菜に専念することによって効率的な生産方法を開発する可能性も高まり、二本といわず百本や二百本も生産できるようになるかもしれない。それはその通りである(畑の多様性を高めた方が、全体として生産性が高まるかもしれないという議論は、一旦無視する)。ただし、仮にそうだとしても、規模の経済が「なにか」を犠牲を強いていることは疑いようがない。「なにか」とは、「遊び」の要素である。先述の通り、繰り返すことを強いられるならば、その作業は苦痛になる可能性が高まる。その作業を苦痛に変えてまで「規模の経済」とやらを追い求めるべきなのかをブラックは問いかけているのだろうし、おそらく「追い求めるべきではない」と主張している。
ブルシット・ジョブに対する批判
もちろん「その作業が苦痛になるのだとしても、規模の経済を働かせて大規模に生産することをしなければ、必要な生産量が維持できず、社会が成り立たないのだから仕方がない」という反論もあるだろう。ところがブラックは、そもそも人々の生命やインフラを維持するために必要な生産量はそこまで多くはないと考えている。そして、現代の労働の大部分は、有益な目的に貢献していないと主張している。
三十年前、ポールとパーシバルのグッドマン兄弟は当時行われていた労働のわずか5パーセントだけで、衣食住の最低限のニーズは満たせると試算した。この数値が正確なら、現在はさらに少ない労働で済むだろう。理論的な推測に過ぎないが、重要な点ははっきりしている。ほとんどの労働は、直接的または間接的に、金勘定や社会の抑圧といった非生産的な目的にしか役立たない。何千万人ものセールスマンや兵士、管理職、警察、株式仲買人、聖職者、銀行員、弁護士、教師、家主、警備員、広告業者、そして彼らの周りで働く人々は、即座に労働から解放することができる。(『労働廃絶論』p42)
労働者の40パーセントはホワイトカラーであり、その大半はこれまででっちあげられた中でもっとも退屈でバカバカしい仕事に取り組んでいる。たとえば保険や銀行、不動産などの業界は無意味な書類いじり以外にはなにもしていないのだ。(『労働廃絶論』p43)
ここでやり玉に挙げられている職業は、人類学者でありアナキストでもあるデヴィッド・グレーバーが近年「ブルシット・ジョブ」と名付けた職業群と、ほぼ同じであるようにと思われる。グレーバーはブルシット・ジョブを次のように定義する。
ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)
グレーバーは一時期『労働廃絶論』に傾倒していたことを別の著作の中に書いている。そのため、おそらくブルシット・ジョブという概念も、ブラックからヒントを得ているものだと思われる。
ブラックは、先述の職業の大半が無意味であるとバッサリと切り捨てるが、グレーバーはもう少し慎重であり「本人でさえ、その存在を正当化しがたい」という注意書きを加えている。つまり、「本人が無意味だと認めるなら間違いないだろう」という考え方である。実際、グレーバーによれば、先進国の37パーセントから40パーセントの労働者が自分の仕事が無意味であるとアンケート調査で回答したという。おそらくブラックが『労働廃絶論』の元となる演説を行った一九八〇年よりも、その比率は高まっていることだろう。「いやいやセールスマンも、管理職も、警察も、銀行員も、広告業者も、経済の潤滑油として有益な目的に貢献してるはずだ。自分の仕事が無意味だと回答した人も、その重要性に気づいていないだけだろう」と批判したくなる人は少なくないはずだ。実際のところはわからない。もし明日からこうした仕事に就く人々が一斉にストライキを起こしたなら、社会が崩壊してしまうのかもしれない。だが、ここではひとまず批判したい気持ちをぐっと飲みこんで、ブラックが思い描いたであろう理想的な社会を想像してみよう。
もし人々が自発的に他者に貢献し合い、社会が必要とする最低限のニーズを満たすだけではなく、その能力を熟練させていき、さらなる社会の発展のために奉仕し始めるのであれば、上記の職業がまったく存在しないか、最小限まで減らされた方がいいことは明らかではないだろうか。管理職は、人々が怠惰であり、どのように仕事に取り組むべきかを判断できず、そのための能力も持たないのでなければ不要である。警察は、人々が自発的に富を生み出そうとしないばかりか、隙あらば他人の生み出した富を奪い取ろうとするのでないなら不要である。銀行員が資本を貸し出し、それを元手にしてビジネスをスタートするという構造は、人々が自発的に協力し合い、巨大なプロジェクトを完遂することができるなら不要である。セールスマンも、広告業者も、なにかを売りつけて食い扶持を稼ごうとせずとも、自然と人々のニーズが満たされるなら不要である。こうした職業は空気のように当たり前の存在と化しているため、「もしかしたら不要なのでは?」と考える人は稀である。それに、こうした疑問を口にすることはこれらの職業人を攻撃しているかのような印象を与えてしまうため、礼儀正しい人ならば差し控えるだろう。とはいえ(ブラックがどのように考えていたかは不明ではあるが)、『労働廃絶論』を翻訳し出版する私は、こうした職業に就く人々を道徳的に攻撃する意図はないことは強調しておきたい。ここで行っているのはあくまで「労働」を成立させているシステム総体への批判である。
一方で、どんな社会構造が訪れようが、椅子をつくる人や赤ちゃんのオムツを替える人、ニンジンを育てる人がまったくいなくなってしまうと、大混乱に陥る。つまり、これらの行為に取り組む人々は「まったく存在しない方がいい」などと言うことはできない。しかし、広告やセールスマンからかかってくる営業電話、職務質問、上司に提出する報告書、銀行員が送りつけてくるレポートなどそれ自体を必要とする人はいない(広告コピーマニアのような人は例外として)。なら、最小限は必要だったとしても、できることなら減らした方がいい。このことには異論はないだろう。となると、次に考えるべきことは明らかだ。本当に「人々は、自発的に他者に貢献し合い、社会が必要とする最低限のニーズを満たすだけではなく、その能力を熟練させていき、さらなる社会の発展のために奉仕し始めるのか?」である。
奪われ続けてきた労働者の自発性について
「人々がそこまで優れた能力や自発性を持たないからこそ、社会の管理にまつわる職業が必要なのではないか? 現にそれは存在するのだから、やはり必要だったのではないか?」と多くの人は考えるだろう。しかしブラックは因果関係を逆に捉えている。つまり「管理があるからこそ、人々がつまらない存在へと貶められている」と。
人は、自らの行為によってつくられる。もしあなたが退屈で、くだらない、単調な労働に就くなら、退屈で、くだらない、単調な人間に成りさがるだろう。(『労働廃絶論』p19)
人生をまるまる統制され、学校から職場へ運び込まれ、家庭に始まり老人ホームに終わるまで縛りつけられる人々は、ヒエラルキーに飼いならされ心理的な奴隷になる。彼らの生まれ持った自律性はおおいに衰えている。(『労働廃絶論』p19)
ひとたび労働によって人々から自発性を奪ってしまえば、彼らはなにごとにおいてもヒエラルキーと専門知識に服従するようになるだろう。彼らはそのことに慣れきっているのだから。(『労働廃絶論』p20)
要するに、人々の自発性は社会の支配によって奪われ、人々は管理されるべき存在へと成りさがる。その結果さらに支配が必要とされ、さらに自発性が奪われていく。そのような負の連鎖が生じているのだとブラックは考えているようだ。
一方でブラックが批判するイデオロギー屋たちは、この発想には至らなかったらしい。彼らは強制されるべき人々と、それを適切に導く権力者という構図が絶対的に必要なものであると考えていた。
労働組合も経営陣も、値段については言い争うのだが、我々が生存のために人生を切り売りしなければならないという点には合意している。マルクス主義者は、官僚がボスになるべきだと考える。リバタリアンはビジネスマンがボスになるべきだと考える。フェミニストはボスが女性でさえあれば、誰がボスだろうがお構いなしだ。明らかに、これらのイデオロギー屋たちは、権力による略奪品の分配方法について深刻な見解の相違がある。同じくらい明らかに、彼らの誰も権力そのものに異論を唱えることはなく、ただ我々を働かせ続けたいのである。(『労働廃絶論』p5~p6)
マルクス主義者やリバタリアンやフェミニストも、あるいは経営者も労働組合も、「誰かが誰かに命令し、強制する」という構造そのものを疑うことはなかった。「誰が誰に命令するか?」や「命令の対価をいくらにするのか?」といった点について言い争っているだけであり「命令や強制を丸ごとなくそう」とは誰も主張しなかったのだ。
とはいえ、近年のフェミニズムは権力構造そのものの破壊に向けて歩みを進めているように思われる。たとえばシンジア・アルッザなどによる共著『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)は従来の女性をボスに据えようとしてきた過去のフェミニズムを批判したうえで「役員室を占拠する女性CEOたちを称賛することはおろか、私たちはCEOと役員室自体を撤廃したいのである」と宣言している。
ほかにも、ビジネスマンたちが参照するような古今東西の経営理論においても、権力への批判はありふれている。たとえばフレデリック・ラルー『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)やエイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織 「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』(英治出版)などでは、トップダウンのヒエラルキー構造が下層の人々の意欲を削ぐことや、逆に管理や支配構造を取り払ったボトムアップ型組織が人々の意欲を掻き立てることをさまざまな実例と共に記述されている。
心理学者たちもブラックの主張に根拠を与えている。たとえばエドワード・L・デシ『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(新曜社)では、金銭によって動機づけられた人物の内発的な動機が損なわれることや、逆に内発的な動機にもとづいた場合の方が人間の能力が発揮されることが指摘されている。
では、権力から解放され、労働を強いられなくなったときに、人はなにをするのだろうか? ブラックは次のように回答する。
人々はもっとも魅力のない単純作業すら、そうしなければ無駄になってしまう創意工夫を傾けて、できる限りゲームに変えようとする。ある人にとっては魅力のある活動だからといってほかの人も楽しめるとは限らない。だが、少なくとも誰しもが潜在的に多様な関心を持っているし、多様性への関心を持っている。(『労働廃絶論』p53)
汚物の中で転げまわることで悪名高い子どもたちですら、傑出した子にメダルを授与すれば、トイレ掃除やゴミ捨てを行う「ちびっこ軍団」として組織化できるだろう。(『労働廃絶論』p54)
つまり、人間とは誰かに管理され、命令され、労働させられるのでなければ、創意工夫を繰り返し、一般的に退屈だとされるようなトイレ掃除やゴミ捨てすら遊びに変えて、楽しみながら取り組むというわけだ。この点に関してはブラックはほとんど根拠を挙げていないので、ほかの情報源をあたるほかあるまい。たとえば山内昶『経済人類学への招待』(ちくま新書)では、未開社会の人々が遊ぶように畑を耕し、「遊び」と「労働」をまったく同じ言葉で表現していたことが描写されている。
労働が疎外されず、自己実現としての活動であるところから、未開の労働は、嫌な辛い務めではなく、むしろ楽しく快いスポーツにも似た運動といった趣を呈してくる。(山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書)
また、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)は、近代的な労働に支配される前の江戸時代の人々が、ハードな肉体的な作業においてすら歌を歌いながら遊ぶようにこなしていたことを、訪日外国人の手記を紐解きながら描いている。
彼らの労働はたしかにモースの同情を買うほどに激しいものだったに相違ないが、果たしてただそれだけの苦役だったのだろうか。そうではあるまい。船唄でもうなり声でもどっちでもいいが、彼らのあげる音声は、舟と一体となって波頭を蹴ってゆく生きものの、おのずと発するよろこびの声でもあったのではなかったか。バードが、サンパンの船頭たちはお互いの船が衝突したときも、嫌な顔をしたり罵りあったりしないと記していることから見ても、彼らはすこぶる上機嫌で船を漕いでいたらしいのである。(渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー)
未開社会においても、江戸時代の日本においても、ブラックの言う「規律」とは無縁であり、彼らは気まぐれに昼寝をし、自分たちのペースで働いていた。それでいて、高度な職人仕事を、楽しみながら成し遂げていた。おそらく彼らに「あなたがたがやっていることは苦痛なのだから、さっさとやめろ。私があなたがたの衣食住を保証するから」と提案したところで、ポカンとされるのではないか? それは「遊びをやめろ」と言われるようなものであり、ゲーム好きに対して「そんな大変なゲームはしなくてもいい。私があなたのためにクリアしてあげるから」と言うようなものだろう。つまり、強制や権力のない社会では、人々はダラダラと怠けてしまい、誰もやるべきことをやらなくなるだろうという安易な発想は、歴史的にみれば誤っているのである。
もちろん高度に分業化された現代のテクノロジー社会で同じことができるかどうかはわからない。しかし、まったく可能性がないとか、人間はそもそも自発的に生産活動を遊びに変えることなどできないとか、そういう主張をすることはむずかしいように思われる。もし「規律」による支配がなくなれば、自由に創意工夫する社会の組織化方法すらも、人々は遊ぶように生み出してしまうのではないか。『労働廃絶論』を読んでいると、そのような期待を抱かずにはいられないのである。
「たしかに自由を与えれば人々は遊び始めるかもしれないが、ゲームをやりこんだり、漫画を描き始めたりする程度で、誰もやるべきことをやらなくなるのでは?」といった疑問を抱く人もいるだろう。この点に関してもブラックは深入りしていないので、捕捉しておこう。進化論、脳科学の観点から見ても、人類はそもそも他者への貢献を欲望するように動機付けられている。脳神経科学者のドナルド・W・パフによれば、人類は進化の過程で利他心を生物学的な基盤として身に付けている。ほかの動物と比べて圧倒的に未熟な状態で生まれてくる人間の赤ちゃんは、母親の貢献を受け取るだけで生き延びることは不可能であり、共同体での協力し合うことが欠かせない。だからこそ、血のつながらない他人であっても、誰かが困っていたら手を差し伸べたくなるような脳の回路が進化の過程で備え付けられたというのだ。事実、貢献への欲望は、脳神経学的に見ても食欲と区別がつかないという。
善意の寄付をするという考えによって、人間の前脳の「報酬中枢」が発火されるということだ。この研究を行った神経科学者によれば、視床下部のすぐ前にある神経細胞群の報酬信号は、他の脳の報酬信号(たとえば、空腹の人に対する食べ物の信号)と区別がつかないように見えるという。 (ドナルド・W・パフ『利己的な遺伝子 利他的な脳』集英社)
このように見ても、人は放っておかれたならば、なにか社会の役に立つことを始めると考えるのは、生物学的な事実に基づく妥当な結論なのである。
現代における規律の在り方
さて、ここまでブラックは「規律」が社会を隅々まで支配しているように描写したが、必ずしも現代においても同じ状況であるとは言い難い。現代においてはフレックスタイム制やリモートワークなど、裁量を与えて高い成果を要求するというワークスタイルも浸透しはじめている。鍵つきの工場に閉じ込められ、トイレの時間まで指定されるような働き方は、多くの日本人にとってはなじみの薄いものではないだろうか。ドイツの哲学者ビョンチョル・ハンも同様の主張を行っている。
規律社会とは、病院、精神病院、監獄、兵舎、工場といった制度に支えられた社会であったが、それはもはや、こんにちの社会ではない。こうした社会はとっくに別の社会に取って代わられている。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
ではなぜ、規律は弱体化したのか? ハンはその原因を「生産性の限界」に求めた。
生産性が一定の水準に達すると、規律社会と禁止の否定図式は限界に突き当たる。そして生産性をさらに向上させるため、規律という物の見方は、能力という物の見方と「できる」の肯定図式に取って代えられる。というのも、生産性が一定の水準に達すると、禁止という否定性は生産を妨害する方向に作用し、生産のさらなる向上を阻害するからである。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
要するに規律による生産性の向上が頭打ちとなり、別のパラダイムが必要とされたというわけだ。ハンは「生産」がなんなのかを明言しなかったが、ここでは「金を儲けること」と解釈すべきだろう。かつての工業社会では、製品を効率的に大量生産して売れば十分に金儲けができた。だから退屈だろうがなんだろうが、従順に手を動かし続ける労働者が存在すればそれでよかった。しかし、「物が売れない」とされる現代社会においては大量生産したところで、ほとんど利益を生み出さない。ブランディングやマーケティングの手法を駆使して高付加価値商品を売りつけたり、既得権を囲い込んで効率的にピンハネしたりしなければ、十分な利益を手にすることができなくなったのだ(小売りチェーンや自動車メーカーが、本業よりも賃料や金融によって利益を生み出す事態はもはや珍しくない)。こうした状況において必要なのは、たんに規律に従順な人物ではなく、自発的な能力の主体として活躍する人物である。そして社会は『七つの習慣』を読み、企業のミッション・ビジョン・バリューに共感し、自発的に行動する意識高い系ビジネスパーソンを理想化しはじめたのだ。これはブラックの議論からすれば、改善であるようにも見える。なぜなら規律は(依然、存在するとはいえ)少なくなってきており、「まだマシ」な第三世界の農民の状況に近づいたように思えるからだ。ところがハンの記述はさほど楽観的ではない。
とはいえ、「できる」という能為は「すべき」という当為を取り消すわけではない。能力の主体は、依然として規律化された主体である。この主体は規律という段階を修了したのである。規律の技術によって、つまり「すべき」という当為の命法によって達成された生産性の水準は、「できる」という能為によってさらに押し上げられる。このように、生産性の向上に関して「すべき」と「できる」のあいだにあるのは、断続ではなく連続である。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
この文章は、命令を内面化している状況を「命令されている」と解釈するのが妥当だろう。規律社会のように細々とした命令が与えられるわけではないが、「生産性を高めよ(金儲けせよ)」という命令が与えられ、その命令は事実上は細々とした命令が内面化されている状況が想定されている。結果、規律はより巧妙化されている。そういう意味では、ブラックの言う通りかもしれない。
労働に内在する支配の原動力は、時間とともに巧妙化する傾向にある。資本主義社会であれ、「共産主義社会」であれ、あらゆる産業社会を含む労働まみれの社会では、労働は必ずその不快さを増長させる性質を手に入れるのだ。(『労働廃絶論』p8)
また「生産性を高めよ(金儲けせよ)」という命令の対象が、第三世界の農民と比べても無益と化している点にも注目すべきだろう。第三世界の農民は、農作物の生産という比較的意味のある行為に取り組んでいた(仮に農作物は奪われるのだとしても、誰かがそれを食べてくれるなら、納得できないこともないだろう)。しかし、現代において金を儲けるために手っ取り早いのは、美容や健康に関する不安を無意味に掻き立ててから不要な商品を売りつけることや、労働者を上手くピンハネする方法を考案するようなブルシット・ジョブである。人々が部分的に規律から解放されているように見えたとしても、無意味なブルシット・ジョブに自発的に取り組むように動機づけられるなら、それは事態の改善であるとは言い難いだろう。
労働は健康被害を引き起こしているのか?
ブラックの労働批判は次第に激しさを増していく。たとえば、健康被害の大半もその原因は労働であると、ブラックは主張する。
労働とは大量殺人か大量虐殺なのである。直接的であれ間接的であれ、労働はこの文章を読む人の大半をも殺害するだろう。この国では年間一万四千人から二万五千人もの労働者が、労働中に殺されている。二百万人以上が障害を負わされている。二千万人から二千五百万人が、毎年負傷している。(『労働廃絶論』p35)
自動車事故の犠牲者の大多数は、労働にまつわる義務を行っている本人であるか、彼らと衝突した人物である。増え続ける死者数には、自動車産業に由来する公害の犠牲者や、労働に起因するアルコール中毒者や薬物中毒者の犠牲者も、さらに加算されなければならない。ガンや心臓病も、直接的であれ間接的であれ、通常は労働に起因する現代病である。(『労働廃絶論』p36~p37)
ここでは、少しブラックは感情的になっているようにみえる。さすがに、自動車事故の大半を労働のせいと言い切るのはミスリードだと言わざるを得ない。ブラックは労働を「強制された苦役」および「義務的生産」と定義している。そのため、ブラックが理想とする労働が廃絶された世界でも、自発的にトラックを運転して木材を運ぶ人物が一定程度存在することが想定される。必然的に、自動車事故もある程度は残り続けるはずだ。また、あたかも労働が廃絶されれば心臓病やガンも撲滅されるかのような書きっぷりからも「やりすぎ」感がぬぐえない。
それでもブラックの指摘には耳を傾ける価値がある。労働がこれらの発生確率をあげていることは疑いようがないからだ。人々が必要とする商品を運ぶトラックが事故を起こしてしまうなら、まだやむを得ないと納得できる。だが、一度も着られることなく捨てられる服を運んだり、ブルシット・ジョブが執り行われるオフィスビルの建築資材を運んだりするトラックが事故を起こすならいたたまれない。労働が廃絶されるなら、こうした無意味な目的にしか奉仕しないトラックは減っていき、事故も減るだろう。
また、労働のストレスによって精神病を患ったり、暴飲暴食の果てに体を壊したりするケースも多いはずだ。さらに言えば労働以外の生きがいを奪われ続けた会社員が定年退職後に早急にボケてしまい早死にするという事態も少なくないだろう。完全にガンや心臓病が撲滅されることはあり得ないが、少しずつ減っていくことは間違いない。
ブラックは、清貧思想を語っているのか?
ところで、無意味な労働をなくすべきだという旨のブラックの主張をみたとき、漫画やゲーム機、遊園地やコント番組が一切なく、玄米と高野豆腐だけを食すような質素な生活が待ち受けているのではないかという不安を感じた読者もいるだろう。以下の記述も、その不安を駆り立てるものだったのではないだろうか。
もはや軍需産業、原子力発電、ジャンクフード、デオドラント製品 ── そしてとりわけ自動車産業は無用であることは言うまでもない。(『労働廃絶論』p44)
おそらく、この一文には多くの反発が寄せられるはずだ。軍需産業が削減されるべきことにはほぼ異論がないと思われるので置いておくが、原子力発電を撲滅した結果、クーラーを二八度設定にしなければならなかったり、しょっちゅう停電が起きるなら耐え難い。ジャンクフードまみれの社会は不健康であることに疑いの余地はないとはいえ、たまにならビッグマックとポテトをコーラで流し込みたい。いい匂いのするシャンプーで髪の毛を清潔に保ちたいと考える人や、ゴツくて少年心をくすぐる自動車に乗りたいと考える人は少なくないだろう。それなのにブラックは「こんな商品やサービスはくだらないのだから、なくなっても問題ない」と批判をしているわけだ。ここで私自身の考えを述べると、実際に人々が欲望する商品やサービスを、不要だと切り捨てる権利は誰にもないと思っている(それをしようとしたのが毛沢東やポル・ポトといった権力者たちであり、その結果は散々なものであった)。そのため、私はブラックの主張に完全に賛同しているわけではない。
とはいえ不満をぐっと堪えて、ブラックの主張の骨子をくみ取りたい。なぜ、ブラックはこのような主張をしたのだろうか? 正確なところはわからない。だが、おそらく必要以上に欲望を煽り立てる広告産業やセールスマンが消え去り、かつ労働の苦痛を忘れるためのレジャーが必要とされなくなったなら、こうした商品やサービスを必要とする人は減っていくという見立てにもとづいた主張であるように思われる。レジャーに関してはブラックは次のように批判している。
レジャーは労働のための非労働である。レジャーとは、労働からの回復のために、あるいは労働を忘れるための熱狂的でいて望みのない試みに、費やされる時間である。多くの人々は疲労困憊で休暇から帰ってくる。労働に安息を見出し、労働に戻ることにワクワクしているほどだ。労働とレジャーの主な相違点は、労働においては少なくとも疎外と衰弱に給料が支払われるというだけである。(『労働廃絶論』p7~p8)
つまり労働そのものが廃絶されたなら、労働を忘れるために行われるレジャー(おそらくそれに加えてジャンクフードといった広告に煽り立てられた産業)も不要であると、ブラックは考えているようだ。実際に労働が廃絶されたとして人々がビッグマックを必要としないかどうかはわからない。依然として、誰かがビッグマックを欲し、つくられ続けるかもしれない。だが、いまほどには必要なくなるだろう。ジャンクフードを腹に詰め込まなければならないのは、労働が人々の時間を奪い、ストレスを与えているからである。なら、ジャンクフードがなくなっていくことは我慢の結果ではなく、遊びで社会が満ち溢れることの当然の帰結ではないか。そしてその結果、エネルギー問題や環境問題も解決されると、ブラックは主張している。
すでにエネルギー問題や環境問題、そのほか未解決の社会問題は、なにかを我慢する必要もなく、事実上解決しているようなものである。(『労働廃絶論』p44)
エネルギー問題や環境問題は、ドリンクが不味くなる紙ストローを使ったり、マイボトルを持ち歩いたりして、「我慢して解決するもの」であると想定されがちである。しかしブラックは、我慢することなく、むしろ労働という名の我慢から解き放たれることで、無意味な生産活動がなくなっていき、エネルギー問題や環境問題が解決されていくと主張しているのだ。こんなにセクシーな環境保護活動はほかにあるまい。
テクノロジーによる労働の代替ではなぜダメなのか?
「労働の廃絶」という言葉を聞いた現代人の多くは「AIやロボットで労働を代替する」という意味に解釈すると思われる。しかし、ブラックが意図しているのはテクノロジーによる代替ではないように見える。それは以下の文章からも読み取ることができる。
私は機械オタクではない。ボタンを押せばすべてが解決する天国に住みたくはない。ロボットの奴隷にすべてを世話させたくもないし、自らの手で成し遂げたいこともたくさんある。(『労働廃絶論』p48)
ここでブラックが問いかけているのは「すべてをテクノロジーで代替する必要があるのか?」という疑問ある。先述の通り、ブラックは生命の必要性に応える生産活動は「遊び」として実践されるべきであると考えているのだ。なら、それをわざわざ省力化する必要があるのかどうかを慎重に考える必要がある。たとえば釣り人に対して、自動で海から魚を釣ってきてくれるロボットを手渡してみるとどうだろうか? 釣り人が飛び跳ねて喜ぶとは思えない。彼は自ら海まで足を運び、時間をかけて釣りをし、自らの手で魚をさばくこと自体に喜びを感じているからだ。では、もしあらゆる生産活動が釣りのような喜ばしい行為であったなら、それを自動化する必要があるだろうか? 生産活動を遊びのようなものに変えられるなら、大慌てで自動化する必要はないのではないだろうか? 自分の手でなにも成し遂げることなくボタンを押すだけですべてが解決される世界は、退屈極まりないことだろう。生活のすべてを世話してもらう老人よりも、自分の手で何かを成し遂げ続ける老人の方が、人生に喜びを感じ、長生きをする。自動化は、私たちを寝たきり老人のようなものに変えてしまうリスクを孕んでいるのだ。
とはいえ、ブラックもなに一つとして自動化すべきではないとまでは言わない。明らかに危険で、退屈な作業は自動化されるのが好ましいと考えているようだ。
戦争研究や計画的陳腐化といった煩わしい営みから解放された科学者やエンジニア、技術者たちは、鉱山労働から疲労と退屈と危険を取り除くような、やりがいのある仕事に着手できるようになる。(労働廃絶論p47)
たしかに(危険性や退屈さを考えれば)人間がやらない方が好ましいが、人々のニーズに応えるためにはまったく取り組まないわけにもいかない作業は存在するように思われる(レアメタルの採掘などは、明らかにこれに当てはまる)。だが、ブラックは労働が廃絶された世界ならこうした作業は自動化されていくとの見立てを示している。現代の科学者やエンジニア、技術者たちは、その才能をフルに発揮しているとは言い難い状況にある。私がとある半導体メーカーの社員に聞いたところによれば、彼の領域ではほとんど技術は頭打ちになっていた。しかし、さも革命的な性能を生み出したかのように顧客に見せかけるためだけに、現実にはほとんど影響のないカタログスペックを追求させられ、深夜まで残業していたという。似たような苦境が、多くの才能ある人々を苦しめていることだろう。彼らが本当に意味のあるイノベーションに取り組むことが可能になれば、真に取り除かれるべき苦役はさっさと自動化されていくと、ブラックは考えているようだ。
ただし、それも過信すべきではないだろう。膨大な専門家への取材を経て書かれた渡邉正裕『10年後に食える仕事、食えない仕事』(東洋経済)は、昨今信じられている「AIやロボットがすべての労働を代替する」という楽観的な見立てに冷や水をぶっかけている。また、技術史の研究者であるバーツラフ・シュミルは『Invention and Innovation 歴史に学ぶ「未来」のつくり方』(河出書房新社)で、膨大なデータをもとにテクノロジー楽観論への痛烈な批判を行っている。詳細の説明は割愛するが、実際のところ現代を成り立たせている労働すら(たとえばカフェの店員がテーブルを片付け、お冷を継ぎ足し、トイレを掃除するような比較的シンプルな作業すら)代替するにはドラえもんレベルのロボットが必要になるだろう。「二〇四五年にシンギュラリティがやってきてAIが人間を超える」といったレイ・カーツワイルやイーロン・マスク、落合陽一のような人たちが煽り立てている夢物語は、ノストラダムスの大予言くらいの真剣度で受け止めるべきなのだ。
我々はコンピューター神秘主義者たちの大言壮語に、もっと疑いの目を向けるべきだろう。(『労働廃絶論』p38)
では、危険な鉱山労働は永遠に誰かが歯を食いしばって取り組み続けなければならないのだろうか? そうとも限らない。仮に完全には自動化されないのだとしても、万人が労働から解放されたなら、せめて負担を軽減する手法の開発や、さほど苦痛とは感じないほどの短時間の作業で済むような役割分担、可能な限りのリサイクルへの代替が進んでいくだろう。また、そもそもブルシット・ジョブに取り組む必要がなくなれば、いまほどにノートパソコンを製造する必要もなくなり、レアメタルの必要量も減る。そうなれば労働として取り組まされるのではなく、少し面倒な掃除当番くらいの感覚で、レアメタルの採掘に取り組めるかもしれない。要するに、労働の苦痛を取り除くために労働をテクノロジーで効率化しようとするのは、効率が悪いのである。ブラックの言う通り、みなが労働をやめる方が手っ取り早いのだ。
労働の反対にある「遊び」とはなにか?
さて、ここまで「労働」を徹底的に批判してきたブラックだが、その反対の行為として提示しているのが「遊び」である。では、「遊び」とはなんなのか? ブラックは次のように説明する。
遊びはつねに自発的である。もし強制されるなら、遊びも労働へと変貌してしまう。このことは定義上、明らかである。(『労働廃絶論』p13~p14)
遊ぶ人は、遊ぶことからなにかを得る。人が遊ぶ理由はただそれだけである。しかし、遊びから得られる真の報酬は、(それがなんであろうと)活動そのものなのだ。(『労働廃絶論』p14)
要するに「遊び」とは、活動それ自体が目的であるような活動だろう。逆に「労働」は、それ自体が目的と化すことはなく、つねに手段であるとブラックは指摘する。
労働はそれ自体が目的となることはなく、労働者が(あるいは多くの場合、ほかの誰かが)そこから得るなんらかの成果物や生産物のために行われる。これが労働の必然的なあり方である。(『労働廃絶論』p8~p9)
となると、次なる疑問が芽生えてくる。たとえば野菜を食べるために野菜を栽培する行為は「遊び」と呼べないのではないか? ここでは野菜を食べることが目的であり、栽培は手段に過ぎない。ブラックはこうした有益な生産活動を「遊び」へと変えていく必要性を訴えているが、現時点での「遊び」の定義からすれば、矛盾するのではないだろうか?
ここは人間の動機についてのさらなる考察によってブラックの主張を補う必要があるだろう。誰かが野菜を栽培するという行為をはじめるとき、それは一定程度は必要に迫られた結果だろうし、社会的な要請に応えたものであるかもしれない。そして、それに取り組み始めた最初の頃は「それ自体が目的」と呼べるような面白さを感じない場面も多いはずだ。彼は作業をうまくこなすことができず、退屈を感じ、放り投げたくなる瞬間を何度も味わうだろう(そして、実際に放り投げる可能性すら存在する。もしそれが労働でないなら、強制されていないはずだからである)。
とはいえ、困難を乗り越えようと試行錯誤すること、達成の瞬間まで粘り強く取り組もうとすることは、つねにネガティブな感情を伴うとは限らない。むしろそうした苦悩すら人は欲望するのだ。簡単すぎるゲームほど退屈なものはない。適度にトレーニングや試行錯誤が必要なゲームこそが、最後まで成し遂げたいという感情を掻き立てるのは誰もが知る通りである。
また、他者の期待に応えることも、それが強制的なものでない限りは決して悪いものではないし、むしろ喜ばしいことですらある。つまり、そこに強制さえないのであれば、有益な生産活動における困難や苦悩すらも欲望の対象と化す。人がそこに意欲的に取り組むのであれば、目的のための手段やプロセスさえ、次第にそれ自体が目的化していき、「遊び」へと変えていくことができるのではないだろうか。
では、それは労働とはどう異なるのか? 労働も、やっているうちに楽しくなっていくことは珍しくない。ならばそれも「いつかは遊びになる」として肯定すべきなのだろうか? そうではない。労働が例外なく人々の生命を維持し、喜びや快楽を生み出すために必要不可欠な行為であったなら、万人が労働に我慢して取り組み、やりがいを見出すように促すことは、社会としてさほど非効率とは言えないだろう。とはいえ、先述の通り労働が有益な目的に資するケースは減少傾向にある。ゆえに、わざわざ労働を強いる必然性はもはやなく、人々が自発的に誰かの役に立つのを待っている方が効率的であるように思われる。人は無益なマネーゲームにすら、モチベーションを持って取り組むことは可能ではある。だが、わざわざそんなことをする必要はないのである。
また、生産物を目的としていても、それを至上目的としないことも重要な「遊び」の成立条件であるように思われる。
それらの娯楽は、たまたま有益な生産物を生み出すという点を除けば、楽しみだけを目的とした娯楽と区別できないだろう。(『労働廃絶論』p41)
ここでは、「効率」や「タイパ」の度外視が意図されているのだと思われる。「効率」や「タイパ」を重視するということは「その作業に取り組む時間は短ければ短い方がいい」という発想に縛られることを意味する。その状況は「その作業は強制されている」という感覚をますます強めていくことだろう。魚釣りロボットを手にした釣り人は、もはや魚を手に入れるプロセスを楽しめないであろうことは想像に難くない。なら、効率を追求した結果その行為を不愉快なものに変えてしまうぐらいであれば、非効率なやり方を続ける方がいい。そのような発想に貫かれている行為こそが「遊び」なのだろう。
ただし、「遊び」として非効率なまでに効率を求めることはあり得るだろう。極限まで家事導線を効率化しようとする主婦や、スマートフォンの操作性を追求するガジェットオタク、コンマ一秒単位までプレイ時間を短縮しようとするゲーマーは、もはやそのプロセス自体を遊んでいる。
「遊び」は巨大プロジェクトを遂行できるか?
さて、先ほど「繰り返し」の否定を解説した際、「規模の経済」への批判も行った。このとき、各人が誰とも協力することなく、ひたすら自給自足をする生活をイメージし、嫌悪感を抱いた読者もいるかもしれない。もちろん、徹底的に規模の経済や分業を否定する必要はない。あくまでブラックが否定しているのは「強制」であり、強制されなければやりたくなくなるほどに細分化された作業とその繰り返しなのだ。要するに、自発的な共同プロジェクトをスタートさせること自体をブラックは否定しておらず、むしろ肯定している。それは以下の文章からも見てとれる。
「遊び」という言葉で私が意図するのは祝祭性や創造性、友好性、共同性であり、もしかするとアートも含まれる。子どもの遊びと同じくらい価値ある遊びが、子どもの遊びよりもたくさんある。私が呼び求めるのは、満ち溢れた喜びの中に、そして自由で相互依存的な活気の中にある、集団的冒険である。(『労働廃絶論』p2~p3)
ここでは誰もボスになって強権を振るうことなく、フラットな組織のまま、なんらかのプロジェクトを成し遂げる様子(ブラックの言葉で言えば「集団的冒険」)がイメージされているように思われる。これ自体は、さほど私たちにとっても縁遠いものではない。みんなで協力してつくりあげる文化祭の出し物、情熱に突き動かされた少数精鋭のスタートアップ企業、時給が払われるわけでもないのに手伝う友達の引っ越しなどなど。内発的な動機さえ伴っているのであれば、こうしたプロジェクトへの参加は喜ばしい体験であることに異論はあるまい。そして、その中で臨機応変に連携を取り合い、課題を乗り越え、プロジェクトを成し遂げたときの喜びと興奮は何物にも代えがたいことには誰もが同意するだろう。また、そこに強権的に采配を振るおうとするボスが現れたなら、途端にそのプロジェクトが退屈になることも、想像がつくだろう(ただし、人々の意見や感情に配慮し、それらを調整し合いながら、慎重にプロジェクトを進めるボスのもとでなら、その不愉快さは軽減される。とはいえ、権力の階段を登るにつれて謙虚な姿勢は失われがちであることは、誰もが知る通りである)。
読者は、こうした体験が存在すること自体は納得してくれるだろう。ただし、いま挙げた例は小規模なプロジェクトにすぎず、経済を成り立たせている巨大プロジェクトに適応できるかどうかについて疑問を抱いているにちがいない。スマートフォンを製造するには巨大なグローバルサプライチェーンが必要とされ、何万という労働力が動員されなければならない。その一人ひとりの意見や感情に耳を傾けていたなら、いつまでたってもプロジェクトは終わらないかもしれない。なら、強制的に命令する人と、それに従い続ける人が必要なのだろうか? その点に関して、ブラックはなにもヒントを与えてくれない。もしかすると「スマートフォンなど必要ない」とバッサリ切り捨てるかもしれない。だが前述の通り、私は人々が欲望しているスマートフォンを切り捨てるような真似はしたくないので、労働が廃絶された世界でもスマートフォンがなんらかの形で存在することを望む。それが可能なのかは、正直なところはわからない。
ただし、権力による強制を廃したワールドワイドなプロジェクトは存在しないわけではない。たとえばフレデリック・ラルー『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)の中で紹介されているエネルギー企業AESは四万人の従業員を抱えるグローバル企業であったが、権力構造は一切排除され、ボトムアップ式に運営されていた(経営陣が変わった結果、当時の経営慣行はほとんど残っていないらしいが)。あるいは過去に目を向けてもいいだろう。デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社)によれば、ウクライナやその周辺では権力構造を示す証拠が存在しない巨大な都市が長期間にわたって運営され、高度で複雑な文化を育んでいたことが示唆されている。
些細な例外を取り上げたところで意味がないと感じる読者もいるだろう。その憤りはもっともである。だが、権力の存在しない組織を運営していくテクニックは、おそらくこれから人々の手で開発されていくべきものである。それにプロジェクト内容によって最適な運営方法も異なり、統一的なロードマップを提示することはできない。きっとブラックも同じように考えていたことだろう。とにかく人々が自発的に行動し始めることを信頼すれば、きっとなにか有効な組織化テクニックが生み出されるだろうと、彼は考えていたはずだ。
遊びは受動的ではない。疑いようもなく我々は皆、収入や職業を気にしないで怠惰と倦怠に浸りきる時間を今よりもっとずっと必要としている。それでも、ひとたび雇用に引き起こされた疲労から回復したなら、我々のほとんどは行動したくなるのだ。(『労働廃絶論』p3)
労働によって台なしにされている創造力を解き放ったとき、なにが起きるのかは誰にもわからない。なんでも起こりうるのだ。(『労働廃絶論』p58)
労働を廃絶する方法
さて、ブラックは「具体的にどうやって労働を廃絶すればいいのか?」という疑問には十分な回答を与えてくれていない。あるのは「遊べばいい」という曖昧なアドバイスだけである。そのアドバイスを真に受けたなら、なにが起きるだろうか? 万国の労働者が一斉に遊びはじめたのなら、大きな社会変革が起きるかもしれない。しかし、現代(特に日本)においては労働者が一斉にストライキを起こすような事態は稀である。なら『労働廃絶論』に触発された人が労働を放り投げて遊びはじめたところで、それは社会を変革する運動にはなり得ず、たんに彼が会社をクビになり路頭に迷うだけ。そのような事態はほとんど避けられないように思われる。では、山奥に引きこもってお金を使わない自給自足コミュニティを立ち上げればいいのだろうか? おそらくそれも一つの選択肢ではあるだろう。しかし、そのような生活を望む人は少ない。多くの人は、洗濯機やプレイステーション、スーパーマーケットのある生活を望んでいる。
なら、株式投資によりFIREを達成すればいいのだろうか? これも個人レベルで見れば有効な戦略である。ただし、ブラックは「誰一人として労働すべきではない」と主張しているのだ。つまり万人がFIREを達成する必要がある。それを可能にする方法は一つしかない。ベーシックインカムである。グレーバーは労働そのものの廃絶を主張したわけではないが、ブルシット・ジョブの廃絶のために、ベーシックインカムを提案している。
完全なベーシックインカムによるならば、万人に妥当な生活水準が提供され、賃金労働をおこなったりモノを売ったりしてさらなる富を追求するか、それとも自分の時間でなにか別のことをするか、それにかんしては個人の意志にゆだねられる。こうして、労働の強制は排除されるだろう。(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)
グレーバーが指摘する通り、ベーシックインカムはブラックが嫌悪した労働の「強制」の側面を弱めることとなる。なぜなら、先述の通り生活を維持するために必要な不労所得を得ている人に、労働を強制することはむずかしいからだ(ブラックの定義によれば、それはもはや労働ではなくなる)。とはいえ完全に強制が排除されるとは限らない。ベーシックインカムが月七万円なのか十万円なのかはさておき、それだけでは生活を成り立たせるのに十分ではないと感じる人は一定数存在するはずだ。ゆえに、ベーシックインカムが行き渡ったとしても一夜にして労働が廃絶されることはないだろう。
しかし、重要な変革は日進月歩で起きていくはずだと考えられる。生活のためにやりたくもないブルシット・ジョブに取り組む人はまず間違いなく量的に減っていく。あるいは辞めるほどでもない不満をこれまでぐっとこらえてきた人も、ベーシックインカムを盾に労働時間の短縮やワークシェアリング、あるいはより有益な活動への配置転換を要求する場合もあるだろう。不愉快な上司にNOを突きつけるのも比較的容易になるだろう。それでも強権を振るおうとするボスのもとからは人々は次第に離れていく。こうして、権力構造は徐々に弱体化していき、なんらかの職場で働く場合であっても「強制されている」という感覚は薄まっていき、あらゆる行為が自発的なものへと変化していくことだろう。もちろん中には怠ける人もいるだろうが、さしたる問題ではない。無意味な労働をやるくらいなら、怠けてもらった方が社会にとって善であることには疑いの余地はないだろう。
労働を廃絶する必要はあるのか?
最後に、あきらかに多くの人から反発を食らいそうな「労働の廃絶」などをことさらに叫び、実現しようとする必要があるのかどうかを考えたい(その必要がないのであれば、私がわざわざ『労働廃絶論』を翻訳し、解説する必要もないだろう)。まず第一に、誰もやりたくないことを強制されず好きなことをして世の中が成立するのであれば、その方が望ましい。この点に異論はないだろう。意見が分かれるとすれば「それが可能か、不可能か」だろう。当たり前だが、神でもない限りは「絶対に可能」とも言い切れないし、「絶対に不可能」とも言い切れない。すべてはやってみなければわからないのである。
では、やってみる価値はあるのだろうか? 私はあると思っている。というより、やらざるを得ないと思っている。この社会はさまざまな問題を抱えている。日本に焦点をあててみても、少子高齢化、医療費問題、エッセンシャルワーカーの人手不足、迫り来る食糧危機、ブラック企業、パワハラ、セクハラ、企業による不祥事、いじめ、自殺や精神病の増加、地球温暖化、エネルギー問題、ワンオペ育児、格差、ますます増え続けるブルシット・ジョブなどなど、枚挙に暇がない。こうした問題は、数十年のあいだ一向に解決の兆しが見えず先送りにされてきた。解決に向かうどころか、ますます悪化しているような印象がある。たしかにハンス・ロスリング『FACTFULLNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(日経BP)といった書物は、データをもとに世界の貧困率や児童労働の割合が低下していることや、識字率や平均寿命が高まっていることを教えてくれ、無意味に悲観的になる態度に警鐘を鳴らしている。だが、同時に過度に楽観的になることも避けなければならない。良くなっている部分はあるが、悪くなっていることも多い。そして、悪くなっていることの方は、環境問題をはじめ、いつか私たちの社会を破壊しかねないほどに重大な問題なのである。SDGsなるスローガンは、こうした問題をすべて解決すると大言壮語を吐いている。しかしこれは金儲けのための口実であり、ほとんど誰も真面目に取り組んでいないと知らない人はいまい。多くの人はその状況を理解しながら、放置し続けるリスクについて知らんぷりを決め込んでいる。自分の生活でそれどころではないからだ。
労働を廃絶すれば、人類が頭を悩ませ続けた先述の問題の大半が解決される可能性がある。もちろんリスクはいくらか存在している。だが、問題を事実上放置し続けるリスクに比べれば取るに足らないリスクであると言わざるを得ない。どうせ未来はわからないのである。清水の舞台から飛び降りる気持ちで労働を廃絶するのも、さほど見当違いな選択肢だとは言えないだろう。この結論は悪ふざけのように見えるかもしれない。しかし私はブラック同様まじめである。人間は労働から決別するタイミングにあると、私は真剣に考えている。それは奴隷制や児童労働、人種差別、男女差別のように、まったく廃絶されるべきものなのである。私たちの祖父は(少なくとも見かけ上は)戦争のない日本を残してくれた。私たちの孫には労働のない世界を残したい。それは、金のために誰かに服従するのではなく、遊ぶように互いに貢献し合い、イノベーションが次々に生じ、生物多様性も守られ、それでいて望むままにビッグマックが楽しめる世界なのだ。
最後に
『労働廃絶論』は一九八〇年に行われた演説から何度かの改訂を経て完成したテキストである。若干現代にそぐわない記述もあるものの、それでも現代に至るまで解決されてこなかった問題の本質を鋭く指摘していることには疑いの余地はない。むしろ問題が解決されず悪化している以上、『労働廃絶論』が持つ価値は、ますます高まっているとすら言える。
一方で、『労働廃絶論』は世に広く浸透した文章とは言い難い。アナキストをはじめとした左翼の界隈ではカルト的人気を誇っているものの、社会変革につなげていくためにはもっと多くの人に読まれるべきである。だからこそ、私は新たに翻訳したうえで解説を加えて出版することを決めたのである。
翻訳にあたっては、アナキズム叢書から出版された『労働廃絶論』(高橋幸彦氏による翻訳)を参照させていただいた。また、有志による「まとも書房翻訳チーム」の方々には大いに協力いただいた。もはや私の手による翻訳部分よりも、彼らの手によるところの方が多い(が、本人たちの希望により、お名前をクレジットすることは控えさせていただく)。改めて先人たちや協力者の方々には感謝を伝えしたい。
ちなみに今回の翻訳文の著作権は、原文の著作権を放棄したボブ・ブラックにならい放棄する。コピーしたり、アレンジしたり、新たに出版し直したり、好きなように遊んで欲しい。労働が廃絶された世界では、著作権など不要の長物なのだから。