人は殺してもいい
「でも、学校には喧嘩もあるし、いじめもある。芸能人のセクハラや企業のパワハラ、政治家の不祥事なんかしょっちゅうニュースになる。殺人や詐欺、強盗はいつまでたってもなくならない。もし人間が自発的に貢献し合う生き物だったなら、こんなに世の中が腐っているはずがないよ」
「せやな・・・」
「そうでしょ? だから貢献欲なんてないんだよ」
ニケは「やれやれ」といった大袈裟な身振りをして話を続ける。
「あんな、話が極端やねん。俺はなにも人間は百パーセント善意だけで構成されているなんて話はしていない」
「え? どういうこと?」
「ええか。一個でも悪いことをしたら貢献欲が存在しないことになるのはおかしいやろ? 朝飯を抜いた日が一日あっただけで『食欲は存在しない!』なんて言う人はおらんやろ?」
「それは・・・たしかにそうだね」
悔しいけれど、ニケの言うことには一理ある。哲学者を名乗るだけはあるようだ。
「アンチワーク哲学が言いたいことはな、人間はありとあらゆる行為を欲望するっていう事実や。食べることや寝ることもそうやし、貢献することも欲望する。それだけじゃない。人を支配すること、セクハラすること、人のものを奪うことも欲望するやろうな」
「じゃあさ、アンチワーク哲学は『みんなが好きなことをやればいい』なんて言うけど、トラブルだらけになるんじゃないの? 人は悪いことも欲望するんだよね?」
「まぁその可能性もある。ただな、少年が思ってるほど世の中に悪いことを欲望する人間はおらんはずや」
「そうかな。みんな一皮剥けば悪いこと考えてるんじゃないの?」
一四年も生きていれば、大人たちの汚い部分が見えてくる。子どもの頃は、大人は完璧に正しくて、犯罪に手を染めるのは一部のダメな大人だけなのだと思っていた。でもいまでは違うと理解している。人間なんて一皮剥けば自分勝手で、ワガママで、強欲な生き物なんだ。それが現実なんだと、僕はもう知っている。
「あんな・・・そういうのを中二病って言うんや」
「中二病?」
面と向かって「中二病」と言われたのははじめてだ。ニケには遠慮ってものがないらしい。
「少年は実際にいま中二やからしゃあないねんけどな。そうやって無意味に斜に構える態度は中二病や。現実を冷静に見つめれば、悪い人間なんかほとんどおらんことがわかるはずや」
「そんなことは・・・」
「ところで少年は『なぜ人を殺してはいけないか?』について考えたことがあるか」
「いや、ないけど・・・」
「どう思う?」
「どう思うって言われても・・・『法律で禁止されてるから』? それとも『自分が殺されたら嫌だから』かな?」
「ほらな、その回答がもう中二病やねん」
また言われた。僕は少しムッとして言い返してしまった。
「じゃあさ、答えはなんなの?」
「俺から言い出しといてアレなんやけど、そもそも質問が間違ってる」
「は? なにそれ、そんなのズルくない?」
「ズルないわ。ええか、そもそも人は殺してもいいんや」
人を殺してもいい? なにを言っているんだこの男は?
「いやいや、ダメに決まってるじゃん」
「少年の家には包丁はあるか?」
「そりゃ、あるけど?」
「こっそりカバンの中に忍ばせてくることくらい簡単やろ?」
僕は今朝の様子を思い出す。お父さんが一番先に家を出て、お母さんが出て、最後が僕だ。
「まぁ、簡単だね」
「俺が気を逸らした瞬間に包丁を取り出して刺すことなんか簡単やわな」
「やろうと思えばね」
「ほら、殺していいってことやん」
いや、「ほら」ではない。
「でも、殺したら警察に捕まって刑務所に入れられちゃうよ?」
「刑務所も考え方によったら悪くない場所やで。刑務所内の労働は土日祝休みで残業なし。それでいて衣食住は保障されてる。刑務所より酷い環境のブラック企業で働いている大人なんて山ほどおるやろな」
「だからといって、殺していいことにはならないよ」
「考え方を変えよか。少なくとも、刑務所に入ることを前提にすれば人を殺すことは可能や。でもな、それでも人を殺す人は多くない。その理由はなんや?」
「刑務所に入りたくないから?」
「それもあるけど、もっと根本的な理由や。誰も人を殺したくないからや」
「え?」
「なにが『え?』やねん。少年は俺を殺したいんか?」
「いや別にニケのことは殺したくないけど・・・みんな『殺したい』って平気で言うじゃん」
同級生たちとの会話を思い出す。そういえば、クラスで幅を聞かせる生徒たちに「殺すぞ」などと威嚇されたこともあったっけ。
「そんなもん中学生特有の強がりに決まってるやろ。本気で殺したい相手なんかおるか? そんだけ嫌いなんやったら、まず距離を取ろうとするのが普通やろ?」
「まぁ、そうだね」
「『なぜ人を殺してはいけないか?』という質問に真面目に答えるということは、『人は人を殺したがっていること』を前提にしてるねん。でも、その前提がそもそも間違ってる。本気で人を殺したがってる奴なんかほとんどおらん」
「でも・・・」
僕は日々、リビングのテレビから流れるニュースの映像を思い出しながら言った。
「現実に殺人を犯す人はいるよね?」
「まぁ殺人がゼロの社会っていうのはむずかしい。でも、限りなくゼロにすることはできる」
「どうやって?」
「労働を撲滅すればいい。殺人が起きるのは労働のせいなんや。ぜんぶ労働が悪い、労働が!」
