食欲は存在しない
好きなことをやって、嫌なことから逃げる。そんな風に生きられたらどんなにいいか。でも、信じたい気持ちを脇に置いてみれば、やっぱりおかしいと気づく。そんな上手い話があるはずがない。僕は冷静さを取り戻して、男に反論を試みた。
「うーん、そりゃあみんなが好きなことをできた方がいいよ。でもさ。みんなが好きなことをやって嫌なことから逃げていたら、世の中が成り立たないんじゃないの? 誰かが食べ物をつくらないと、食べるものが無くなっちゃうんだし。みんなが我慢して嫌なことをやって、結果的にみんなが喜ぶ社会になっているんじゃないかな。ていうか・・・」
「ていうか?」
「ニートがそれ言っても説得力なくない?」
「なんでや?」
男は本気で「意味がわからない」といった顔をしている。この男には常識ってものがないのだろうか。
「だってニートって、必死で働く人々の恩恵を受けて暮らしているわけじゃん? そのくせニート自身はなにも社会に貢献していないじゃん? 『好きなことをやれば幸せになれる』とは言っても、みんながニートになったら社会は成り立たないよね? 『ニートは苦労を知らないで、気楽でいいよね』ってことにならない?」
「なるほど、面白いことを言うな、少年は」
「いや、面白いことを言ってるのは僕じゃなくて・・・」 そういえば、僕はこの男の名前を知らない。
「・・・俺か?」
「うん」
「少年、いま俺のことなんて呼べばいいかわからなくて迷ったやろ?」 やっぱり、この男は僕の心を見透かしているような印象がある。僕は気恥ずかしさを背中に隠すように、冷静さを装って返事をした。
「え? まぁ、そうだね」
「名前教えたいけど、なんか癪やなぁ・・・まぁ『イケメン』とでも呼んでくれたらええわ」
なにがどう癪なのかがわからない。それにしても「イケメン」だなんて、この男のネーミングセンスは壊滅的なようだ。
でも、一風変わった服装のせいで注目していなかったが、改めて男の面構えを見つめてみると、スマートな切れ長の瞳にスッと高い鼻。引き締まった頬。整えられたゆるふわパーマ。悔しいが、「イケメン」と呼んでも差し支えない顔をしている。
だとしても、「イケメン」と呼ぶなんて、それこそ癪だ。
「なんか嫌だなぁ。だっておっさんじゃん?」
「おっさんでもイケメンはおるやろ?」
「まぁ」
「ほな、『イケオジ』はどうや?」
どうって言われても、「イケオジ」も、この男にはもったいない褒め言葉だ。もっとひねくれていて、だらしない印象を表現しなければ・・・
「うーん、でもニートだしなぁ」
「ニートは関係ないやろ」
「わかった『ニケオジ』はどう?」
「なんやそれ。属性盛り込みすぎて渋滞してないか?」
「じゃあ略して・・・『ニケ』?」
「なんや猫みたいな名前やけど、まぁええわ、それで」
ニケ。しっくりこない気もするが、イケメンと呼ぶよりはマシだ。
「じゃあ、話の続きを聞かせてよ、ニケ」
「慣れるまで時間かかりそうやなぁ・・・」
ニケは頭をポリポリとかきながら、話の続きをはじめた。
「ほんでな、アンチワーク哲学ではな、みんなが好きなことをやってても世の中は成り立つし、いままで以上に幸せな社会になると考えるねん」
「でも、それはうまくいかないってさっき言ったよね?」
「結論を急いだらあかん。少年は人の『好きなこと』がなんなのか、考えたことはあるか?」
「好きなこと?」
「そうや。つまり、人はなにを欲するんや?」
相変わらずニケは質問してばかりだ。それも、いままで考えたこともないような質問を。
「そりゃあ、『食欲・睡眠欲・性欲』が三大欲求と呼ばれるくらいなんだし、ご飯を食べることと、寝ることと・・・」
「セックスやな」
「・・・そうだね」
ニケは「セックス」だなんて、平日の昼間から平気で口にする。恥じらいというものがないらしい。
「ほかには?」
「うーん、ゲームで遊んだり、面白い漫画や本を読んだり、スポーツで体を動かしたり? あとはベッドに転がってダラダラと動画を観るのもいいよね」
「じゃあ、他の人の役に立つことを欲することはあるか?」
人の役に立つこと? そんなの欲するわけがない。先生や親は「人の役に立つことをしろ」と口にするだけではなく「人の役に立つのは気持ちいいこと」なんてキレイゴトを言う。僕はそういうキレイゴトを聞くと吐き気がする。ニケも似たようなことを言おうとしているのだろうか?
「無いでしょ? もしそんな風に思ったとしても、『いい人に見られたい』とか『見返りが欲しい』とかそういう理由であって、役に立つこと自体を欲するようなことはあり得ないよ」
「それはおかしくないか?」
「どうして?」
「少年は電車で老人に席を譲ったことはあるか?」
そういえば、ニケはさっきから僕のことを「少年」と呼ぶ。昔観たアニメ映画に登場するおじさんキャラが、主人公のことをそんな風に呼んでいたのを思い出す。ニケは僕の名前を知りたくないんだろうか。
「聞いてるか?」
「え、あぁ・・・何度かあるよ」
「それは老人の役に立つことを欲したんとちゃうんか?」
「いや、マナー違反をする奴だと思われたくないし、いい人に見られたいからだよ」
それが本音だ。人の役に立つことなんて、本当ならやりたくはない。
「じゃあ、貢献したいという欲は存在しないけど、食欲は存在するってことやな?」
「当たり前じゃん。貢献はしたくないけど、食欲があるからご飯を食べたくなるんでしょ?」
「じゃあ、食欲を取り出して見せてくれるか?」
「え?」
食欲を取り出せ? そんなことを言われても・・・
「無理やろ? じゃあ外科のお医者さんなら食欲を取り出せるか? 顕微鏡で人体を観察したら食欲が見えるか?」
「・・・無理だね」
「『食欲』ってラベルがついたホルモンが体内で分泌されているわけじゃない。食欲は存在しないんや」
「食欲は存在しない?」
「人が食べ物を欲する理由を説明するときに、『食欲』に突き動かされていると考えた方が説明しやすい。便利やからとりあえず存在することにしただけで、実際に存在してるわけではないんや」
そんな風に考えたことはなかったが、言われてみればたしかにそうだ。哲学者ってのは、変なことを考えているらしい。
「だとすればおかしくないか?」
「なにが?」
「人が食を欲するのを見て食欲に突き動かされていると考えるなら、人が誰かに貢献しているのを見れば、貢献欲に突き動かされていると考えるのが筋とちゃうか?」
ニケは不思議な言葉を使う。貢献することが欲? いったいどういう意味なのだろう?
「それはそうかもしれないけれど、だったら貢献欲とやらはそんなに強い欲ではないんじゃないの? ご飯を食べない人はいないから『食欲』という言葉をつくらざるを得なかったけど、席を譲らない人はたくさんいるし、貢献という行動は誰もが行うわけじゃない。だから『貢献欲』なんて言葉は必要なかったんじゃない?」
「ほんまにそうやろか?」
「そうだよ?」
「人の役に立たずにいることは辛いって、少年も知ってるやろ?」
「そうかな。僕は誰かの役に立ちたいなんて思わないけどね。家でお母さんに皿洗いを手伝ってと言われるとウンザリするよ」
「みんなが学芸会の準備で忙しそうにしてるのに、自分だけ突っ立ってたらどんな気持ちになる?」
少し想像してみて、なんとも居心地の悪い感情を覚える。でも、なぜかそのことを認めたくない気がして、強がって返事をした。
「別に。手伝わずに済んでラッキー、かな?」
「ほんまか?」
ニケがニヤニヤ顔のまま僕の瞳を覗き込む。再び心を見透かされているような気分になって思わず遠くに目を逸らす。二人きりだった公園にベビーカーを押した若い母親が来ていて、行き場を失った僕の視線はそこに流されていった。
「正直に言うてみ。居心地悪いやろ? みんなに貢献した方が楽しいやろ?」
「いや、別に?」
「じゃあこんな状況はどうや? 君は好きなお菓子を買ってルンルン気分で家に帰ろうとしている。ところが、道に今にも餓死しそうな子どもがいて『ちょーだい』って言ってきた。少年は子どもにお菓子を分け与えるか?」
状況を想像してみる。さすがに断るのはしのびない。
「さすがにその状況なら分け与えるよ」
「やろ? そのときどんな気分やろか?」
「どうだろう。ちょっといいことした気分になれるかもね」
「ほな、逆に分け与えずに通りすぎたとすればどんな気分になる?」
想像してみる。
「ちょっと、罪悪感あるかもね」
「せやろ。それは貢献欲がある証拠にはならんか?」
「状況が極端すぎない? たまたまそういう状況だから貢献するだけであって、『欲』とまでは言えないんじゃないかな?」
「なら、お腹が空いてるときに美味しいハンバーグ屋さんの前を通って『食べたい』と感じたとしても、食欲があるとは言えないってことやな?」
「うーん、でもなぁ・・・」
理屈の上ではニケに押されている気がする。でも、納得はできない。貢献欲だなんてバカげている。そんなに人間は善良じゃないと、僕たちは知っているじゃないか。