第一章 サボることは社会貢献

 大人たちは僕に教えてくれた。人生の本番は六五歳からだと。

 遊んでばかりではいけない。少しでも偏差値の高い高校に入って、少しでも偏差値の高い大学に入るための準備をしなければならない。

 なぜか? いい企業に就職するためだ。

 いい企業に就職すればたくさん給料をもらえる。お嫁さんを見つけて、子どもができて、マイホームを買うことができる。仕事や子育て、住宅ローンの返済や子どもの学費のことで忙殺されるかもしれないけれど、六五歳まで(もしかしたら七十歳まで)働けば退職金と年金がたっぷりもらえて、子どもは独り立ちし、あとは穏やかな余生を過ごすことができる。そのときのために頑張るんだ、と大人たちは言う。そして「オバケに食べられるぞ」と子どもを脅しつけるように、「ニートになるぞ」とか「ホームレスになるぞ」と言って僕を勉強机に押し込もうとする。僕にとって人生とは、六五歳までの間に一歩でも踏み外せば地獄へと落ちる綱渡りのようなものだった。

 一日だけでもいい。そんな人生から逃れてみたい。そう思って今朝、学校の一つ手前の駅を、夢遊病のような足どりで踏み締めた。まるで足の感覚がなくなったようだった。はじめて降り立った静かな住宅街。仕事や学校など、行き先を持った人たちとすれ違うたびに、僕だけがゴールのないレースゲームをプレイしているような疎外感を味わった。

 とにかく歩いた。日焼けした自動販売機と、誰かが無造作に停めたスーパーカブの向こう側に、見晴らしの良さそうな公園が見えた。芝生もある。あそこで寝転がって、お昼になったらお弁当を食べることにした。少し離れた屋根付きのベンチに先客が一人だけいたが、気にする必要はないだろうと、僕は思っていた。

 芝生に横たわると、体に引きずり回されていた意識がぼんやりしはじめる。でも、不安だけはモヤのように漂っている。うたた寝をしているような、していないような、そんな気分で過ごしていた。どれくらい寝転んだ後だろう。突然、聞き慣れない関西弁の声が聞こえた。

「学校、サボってるんか?」

 起こされたのか、それともずっと起きていたのかわからない。瞳を開くと、男の姿が霧の奥からやってくるように現れた。

「まぁ、サボってるってことになるね」

 返事をする。が、起き上がりはしない。起き上がれば、この男との会話がはじまることを僕が了承したことになる。僕は不安と共に過ごす夢の世界に、居心地の良さが芽生えているのを感じていた。こんな男に邪魔されてなるものか。

「そうか。なんでや?」

 僕の様子を見ても男は邪魔することを諦めたくないらしい。芝生から起き上がらない僕の横にしゃがみこんだ。

 なんだよ、邪魔だな。

 僕は知っている。理由を聞いてくる人は、理由を聞きたいんじゃなくて、説教したいだけだ。この男も「歯を食いしばって学校に通い続けたらいいことがある」とかなんとか、僕に説教するつもりだろう。先生や親ならまだしも、得体の知れない男に説教される筋合いはない。もし、説教しようとしてきたなら、売り言葉に買い言葉だ。日頃のイライラごと、この男にぶつけてしまえ。

 僕は自分の中に怒りが巻き起こるのを感じ、話しはじめた。労働するだけの人生を歩みたくないこと。受験したくないこと。つまらない人生を受け入れて妥協している同級生が嫌いなこと。今日、学校をサボっていること。

 そして、僕の話を一通り聞いたあとに男が言ったのだった。

「ええか、労働ってのは悪なんや。世の中から撲滅された方がええ」  こうして僕の怒りは迷子になって、困惑と好奇心が代わりにやってきた。