命を狙われる労働者
労働なき世界。「ネバーランド」をわざわざ堅苦しく言い換えたような印象で、なんだか夢を感じられない。そのくせ現実味もない。どうせ夢を見るなら、もっとセンスのある言葉で表現すればいいのに。
「別に労働って強制されてやっているわけじゃないんじゃ・・・お金をもらってその対価として働くっていう対等な契約でしょ?」
「建前はそうや。でもな、本当に対等な契約やと思っている人がどれだけいるやろなぁ。ところで、どうすれば人は誰かに労働を強制できると思う?」
「それは・・・どうすればいいんだろう?」
「例えば俺が少年にいきなり『いますぐ百回スクワットしろ!』って命令してたら従うか?」
「なにその命令?」
「ええから、答えてくれや」
ニケに言われて少し状況を想像してみる。意味がわからないから、笑ってしまいそうだ。でも、本気で命令されたなら?
「たぶん怒ってこの場から立ち去るね」
「せやろ。普通はそうなんや。人間は人間に命令できへん。これが当たり前や。でもな、命令に従わせる方法がいくつかあるねん。なんやと思う?」
「さぁ? 拳銃を突きつけるとか?」
「そうや。ほな、俺が拳銃を突きつけながら『いますぐ百回スクワットしろ!』って命令したらどうや」
ニケはニヤニヤ笑いでこちらを見つめている。この顔で拳銃を取り出したなら、ホラー映画に出てくるサイコパスだろう。
「腹は立つし、拒否したい気持ちはあるけど、仕方なくスクワットするね」
「せやろ。つまり、暴力によって命を脅かせば命令に従わせることはできる。逆にそれくらいのことをしないと、命令は拒否されるのが普通なんや」
「たしかに。人を強制的に操る能力だなんて、ゲームや漫画でしか見ないね」
「ところが、暴力以外にも命令に従わせる方法が他にもある。なんやと思う?」
「それは・・・お金?」
「そう。仮に俺が一万札を手渡してスクワットを命令したら、どうや?」
「意味はわからないけど、やるかな」
「せやろ。ほな、少年はなんで金が欲しいんや?」
「なんでって・・・ゲームを買ったり、漫画を買ったりしたいし」
「少年は中学生やからそんなもんやろな。ほな、少年のお父さんはお金を求めて働いてるわけやろ? なんでお金を欲しがるんや?」
「どうだろう。遊びたいっていう気持ちもあるだろうけど、『自分や家族が生きていくため』が一番の理由じゃないかな?」
「せや。生きるためや。自給自足したり、炊き出しで食い繋いだりすることもできなくはないけど、少なくとも少年のお父さんをはじめ、多くの人はお金がないと生きていけないって感じてるはずや」
「それはそうだね」
「やろ? ということは、お金を稼ぐために会社に入って労働をすることは避けられないわけやな」
お父さんがなぜお金を欲しがるかなんて考えたこともなかった。きっと、自分のためでもあり、お母さんのためであり、僕のためでもあるはずだ。
「その状況で会社の命令に逆らうことはできるか?」
想像してみる。僕たち家族の生活を背負ったお父さんが、命令してくる社長にムッとして、胸ぐらをつかみ、華麗に言いまかす・・・そんなことはきっとできないだろう。
「よっぽど意志が強い人ならできるだろうけど、逆らったらクビになるかもしれないし、普通は無理だね」
「九時から一七時までの仕事やのに、一二時ごろに『暇なんで帰りますわ』と言えるか?」
「暇でも仕方なく居残るだろうね」
「せやろ。それは九時から一七時までずっと命令されてるのとなにが違うんや?」
「でも、転職したり、起業したり、いろんな選択肢があるんだから、嫌ならそうすればいいんじゃない?」
「理屈ではそうや。でもな、転職したら給料がさがるケースがほとんどやし、起業にはリスクがある。おいそれと会社からは逃げられへんのが普通や」
たしかに、お父さんが急に板前に転職するとか、寿司屋をオープンするとか言い出したら、お母さんは止めるだろう。でも、だからといって命令されてるとか、強制されてると言っていいものか?
「納得できへんか?」
「うん」
「そうか。ほな逆に考えよか。拳銃を突きつけられたとしても、少年は一瞬の隙をついて拳銃を奪うこともできたんとちゃうか?」
「そうだとしてもスクワットすれば穏便に済むんだから、わざわざ命を賭けようとは思わないよ」
「ほな、『隣にいる親友の命を差し出せ』とかなんでもええけど、そういう命令やったら?」
「だったら頑張るかも」
「なら命令を拒否できるから、厳密な意味で強制されてるわけやないやろ? 少年がさっき言った通り、人を強制的に操ることは、ゲームや漫画でもない限りできへんねんから」
「勝てなかったら結果は同じだけどね」
「せやな。でも命令に従ったわけじゃない。要するに、どんな状況にあろうが理屈の上では命令を拒否することは可能や。ただ、『拒否できない』『強制されている』と感じていることが重要なんや」
「どういうこと?」
「つまり命令に従っている労働者たちは、転職や起業という選択肢を持っている。少年が拳銃を持った男と戦う選択肢を持っているのと同じように。でも、それが現実的じゃないから、命令に従わざるを得ないと感じている」
「なるほどね」
「会社の命令を拒否して会社から支払われる給料がなくなれば、自分や自分の家族が路頭に迷って、最悪の場合は野垂れ死ぬ。もちろん、一つや二つ命令を拒否したといっていきなり拳銃で撃たれるようなことはない。けど、なにかの拍子に上司や社長の機嫌を損ねてクビになる可能性はずっと存在し続けるから、些細な命令も拒否することはリスクになる。なら、こんな風には考えられへんか? 労働者は未来からスナイパーに狙われながら命令に従っている、と」
オフィスの窓際でパソコンを操作する父親を、隣のビルからスナイパーが狙っている光景が脳裏をよぎる。
「ちょっと大袈裟じゃない?」
「そんなことはない。その辺をほっつき歩いているサラリーマンに『なんで労働してるの?』って質問してみ? 『生きるため』って答えるで。裏を返せば、労働せんかったら死ぬってことやろ?」
「たしかに、大人たちには『真面目に勉強して就職しないと生きていけない』って、いつも言われてるよ」
「せやろ。スナイパーに狙われている感覚っていうのは、大人たちは多かれ少なかれ持ってるはずや。起業して社長になっても同じや」
「そうなの? 社長なら、誰にも媚を売る必要はなさそうだけど?」
「そうではない。社長・・・というか会社はお客さんからお金をもらわないと経営が成り立たんやろ?」
「たしかにそうだね」
「つまり事実上、お客さんが上司なんや。なにかの拍子にお客さんの機嫌を損ねたら、お金を払ってもらえなくなるかもしらんねんから。スナイパーに狙われているような恐怖心は社長になっても同じや。つまりお金っていうのは拳銃と同じ、命令に従わせるための力になるんや」
「命令に従わせるための力?」
「そう。つまり権力や。お金っていうのは権力そのものやと、アンチワーク哲学では考える。貨幣権力説や」