解説(哲学チャンネル)
私たちの世界は„良い方向”に進んでいるのだろうか。
この問いに自信を持って「YES」と答えられる人は少ないかもしれない。世界中で格差が広がり、争いが起こり、表現の範囲も窮屈になってきている。ともすれば世界は„悪い方向”に進んでいると思えるし、そうでなくても今世界が停滞状態にあると考えるのは私だけではないはずだ。仮に多くの人が「世界は悪い方向に進んでいる」あるいは「世界は停滞している」と考えているとしたとき、それに対する面白いデータがある。
内閣府は『社会意識に関する世論調査』を毎年行なっているが、平成二一年から『社会全体の満足度』という項目が調査内容に追加された。このデータを見ると、スタートの平成二一年には「満足している」と「やや満足している」の合計が三九・九%だったのに対し、令和三年には同じ数字が五二・四%まで向上している。要は国民の半数以上が「今の生活に不満はない」と認識しているのだ。
これは真実だろうか。もちろん„数字”としては真実だろうが、私はこの数字に違和感を感じてしまうのだ。もしかしたら、私を含めたこの世界に生きる人々は、自身の環境が悪くなっているのはおかしいという認知的不協和的なストレスから逃れるため、事実から顔を背けて満足していると思い込もうとしているのではないか。つまり「私たちは何かを諦めてしまった」とは言えないだろうか。
国民の多くが現状に満足し(ていると思い込み)変化を求めなくなれば、その後に待っているのは「なるようにしかならない世界」である。確かに、現状に疑問を持ち、変化を求めることには危険がつきまとう。何らかの変化の先に「失敗した世界」が待ち受けていることも大いにあるだろう。しかし私は「なるようになってなんとかなった世界」よりも「変化を求めて失敗した世界」の方に希望を見出す。そのほうが人間らしい営みであると考えるからだ。
前置きが長くなった。そうした人間らしい変化の材料として、私たちの常識に一石を投じるのが『14歳からのアンチワーク哲学』である。
『14歳からのアンチワーク哲学』の肝は、なんといっても„労働”の定義だろう。本書で労働は「他者より強制される不愉快な営み」であるとされる。私たちは貨幣やその他諸々の暴力によって、労働という不愉快な営みを強制されている。そして「強制されている」という事実は常識の中に埋没していて、あたかも労働を当たり前の行為だと感じている。端的にいえば、この「強制による不愉快」を撲滅することがアンチワーク哲学の目的である。または、私たちにこびりついた労働に対する価値観を自由の方面へ解放するための哲学と言い換えても良いかもしれない。
なぜ労働が他者からの強制と言い切れるのか。なぜ一般的な労働を不愉快と決めつけているのか。どうしたら労働をなくすことができるのか。労働がなくなっても社会は回るのか。これらの疑問については、ぜひ本書におけるニケと少年の会話を参照してほしい。彼らの会話における「常識への疑い」と「無知の自覚による気づき」には、哲学の源流であるソクラテスからプラトンへの希望のバトンリレーが垣間見える。
アンチワーク哲学の根底には「誰かひとりが鎖に縛られているなら、私たちは誰も自由ではない」という想いがある。鎖とは何か、それが常識だ。常識には、知らないうちに私たちに当たり前を押し付け、新しい変化を阻む強い力がある。貨幣や経済などの小さい頃から教え込まれた常識による束縛から私たちを解放する。そういう意味で、アンチワーク哲学は常識という強大な力への強い反抗なのだ。
常識に対抗しそれを覆すためには、まず疑わなければならない。それも„極端に”だ。例えばコペルニクスは宇宙の中心に地球があるという事実を疑った。その疑いはどう考えても極端すぎるものであろう。現代において「宇宙の中心は地球なのでは?」と主張すれば、各方面からボコボコに叩かれることになる。コペルニクスの疑いはそのレベルの„極端な”ものだったのだ。アインシュタインは「時間の進み方は一定である」というどう考えても当たり前のことを疑った。近代哲学の祖であるデカルトは、文字通り「考えうるすべて」を疑い、最後に残った「疑っているこの自分」だけは信じられるという結論を手に入れた。
文明の発展には、このような„疑い”が必要だったのだ。だから、常識を突破するためには強烈な疑いを持たなければならない。それは、いわゆる疑問と呼ばれるような曖昧な疑いではなく、懐疑と呼ばれるような一旦自分の認識をフラットにしてしまうような営みである。『アンチワーク哲学』は、現在一般的な常識からはかけ離れた突飛な主張を掲げている。その主張が正しいかどうか、私には皆目見当も付かない。しかし『アンチワーク哲学』に常識を疑うための強烈な問題提起が含まれていることには疑いの余地がない。
私は『アンチワーク哲学』の信奉者ではない。主張が正しいかどうかわからないし、思想の成就のための活動に参加しようとも思わない。反論だってたくさんある。
- 人間の善性を信仰しすぎてはいないか
- 貨幣のコストとリターンを比較して、本当にコストの方が大きいのか
- 共産主義のように(理念が完全に実現されれば良いものの)理念実現までの過程でむしろ不幸が増える可能性はないか などなど。
だから、仮にこの哲学が世の中の主流な常識になることがあった場合、私は反対者として声を上げる存在になる可能性すらある。だが、それはこの本を否定する理由にはならない。私はむしろ、だからこそ『14歳からのアンチワーク哲学』を薦める理由があると思っている。
個人的な活動と思想の話になってしまうが、私は普段哲学系の情報をYouTubeやnoteにて発信している。たいしてお金にもならない活動だが、かれこれ四年ほどこの活動を続けられているのは、そこに大義があるからだ。
その大義とは「人類総哲学者計画」である。
私の能力では、世界をより良い方向に進めるための確実な方法論を見つけることはできない。また、確実ではない方法論を主張するほどの勇気も甲斐性もない。だが、一つだけ確実だと思っているのは「一人一人がもっと世界や自分について考える世の中は良い」ということである。そして、そのような世の中の実現に少しだけでも貢献することが大義であり、活動のモチベーションなのだ。
前述の通り『14歳からのアンチワーク哲学』には常識を疑うきっかけを与える力がある。なぜならば、普通に考えたら叩かれるような常識から大きく外れたことを大きな声で主張しているからだ。そして、その主張は、材料からの論理展開としては間違ったことをやっていない。むしろ正しいことを述べている。
少年は、ニケに出会うことで「自分で考える人」つまり哲学者になった。ぜひ読者の皆様も少年になったつもりでニケの常識破りな主張に耳を傾けてみてほしい。
遠い未来、もしかしたらアンチワーク哲学の目指す世界が実現するかもしれない。もちろん、箸にも棒にも引っかからないかもしれない。しかし、アンチワーク哲学に多くの人が出会ったことで、能動的に考えを巡らせる人間が増え、それが新しいまた別の世界を作る可能性もある。私はそれで良いと思っている。
そして作者のホモ・ネーモさんもそれで良いと思うはずだと思っている。なぜならば『アンチワーク哲学』の根底には「常識という暴力からの解放」という理念があり、すべての人が正しく考えて納得した世界がそこにあれば、それは「誰も鎖に縛られていない世界」に違いないからだ。