人間の予見不可能性について
アンチワーク哲学では、「決定論が正しいのか? 正しくないのか?」という点については答える必要がなく、「人々は運命が決定されていると感じていないこと」を重視します。人々は自分はより良い未来のために選択し、行動すること(例えば、おしっこを漏らさないという未来のためにトイレでの排尿を選択することなど)が可能であると感じていることがその根拠です。状況は刻一刻と変化し、人々の状況判断はそのたびに更新されます。つまり人は自らの行動すら事前に予測することができません。他者の行動は言わずもがなでしょう。
逆に未来を予測可能にするためには、人々の行動を完全にコントロールする必要があります。それは自己決定を否定した完全な支配を意味します。しかし、自己決定が人間にとって根源的な欲望であることは、先述した通りです。人々が自己決定という欲望を満たすためには支配を撲滅しなければなりません。支配を撲滅すれば未来予測は不可能です。
「じゃあ、支配は必要だ」と考える人もいるかもしれません。しかし、ちゃぶ台を返すようですが、そもそも支配が未来予測を可能にするという考え自体が幻想であることは歴史を見れば明らかでしょう。人間のあふれ出る力への意志を完全にコントロールすることは、暴力やお金をもってしてもむずかしい。それが可能であると夢を見たのは毛沢東やスターリンを含めた古今東西の政治家たちです。国家とは、本来予測不可能な人間をいかに予測可能な状況に閉じ込めるのかという実験を繰り返す(そして往々にして失敗してきた)ユートピア的プロジェクトです。
アンチワーク哲学は次のような問題提起を巻き起こさずにはいられません。「どのみちユートピアに思いを馳せるのであれば、もっと夢のあるユートピアを想像する方が望ましいのではないか」。
ベーシックインカムを導入すれば即座にインフレに陥り、誰も貢献などしないと信じる人が八十億人いれば、彼らはその予言の通りに振る舞い『北斗の拳』のような世界が訪れるかもしれません。もちろん、逆もまた然りです。ここで問うべきは、「どちらが望ましいか?」「どちらの世界を未来に残したいか?」でしょう。悲劇的な未来に怯えながら拳銃を突きつけ合い、未来が予測可能であるという幻想にしがみつくか、誰もが信頼し合い貢献し合う未来を信じて一歩を踏み出すか。アンチワーク哲学の理念が普及すればするほど、アンチワーク哲学が目指すユートピアの実現確率は高まると考えられます。なら、一緒に夢を見る方がワクワクするとは思いませんか?
ベーシックインカムの導入は国家権力の増大であると解釈する人もおり、彼らはアンチワーク哲学が国家に批判的でありながらベーシックインカムを推奨することは矛盾であると感じるかもしれません。ところが次のように問い掛ければ、むしろベーシックインカムが政府の権力を縮小させることが明らかになるでしょう。
あなたなら、どちらの政治家の足にキスしたいでしょうか? 百兆円の国家予算を自由に采配できる政治家か、百兆円の国家予算のうち九九兆円の使い道は事前に決定されていて残りの一兆円だけを采配できる政治家か。どう考えても前者でしょう。そして前者はベーシックインカムのない社会の政治家であり、後者はその逆なのです。
マックス・ウェーバーによれば政治とは「権力の分け前にあずかり、権力の分配関係に影響を及ぼそうとする努力」です。貨幣権力説は、お金とは権力であると定義します。この2つを組み合わせると、お金の分配に影響を及ぼすことこそが政治です。そして、お金の分配に影響を及ぼす能力をちらつかせれば人をコントロールすることが可能になるため、それ自体が権力であると言えるでしょう。
ベーシックインカムは、権力を政治家の手から奪い取り、強制的に万人に分配するシステムです。これは国家権力の弱体化を、そして人々が自由に振る舞う権力を手にすることを意味します。そうなったとき、未来を予測することは不可能です。しかし、人間は信じれば信じるに値する行動を取ることは先述した通りです。つまり、予測不可能だからこそおもしろいのだと楽観視する態度があれば、人々は持ち前のユニークさと貢献欲を発揮し、ワクワクできる未来が実現する可能性がどんどん高まっていくのです。
アンチワーク哲学の基礎をかためたボブ・ブラックは、その希望にあふれた未来について次のように述べました。「労働によって台無しにされている人々の創造力を開放すると何が生じるかは、誰にもわからない。何でも起こりうるのだ」。
【参考文献】
マックス・ヴェーバー『職業としての政治』岩波文庫
ボブ・ブラック『労働廃絶論』アナキズム叢書