自由の帰結について
アンチワーク哲学は「人々が自由であればあるほどに善い」と考えます。予想されるの反論は、「誰もが自由ならトラブルだらけになるのではないか?」あるいは「自由を恐れる人もいるのではないか?」といったところでしょうか。
この反論には明らかに次のような前提が置かれています。「自由を正しく扱えるのは、知的で、正しい倫理観を持ったエリートだけであり、大衆の大半は自由を扱いきれず、彼らに自由を与えたところで困惑するに違いない」。哲学者のサルトルが書いた「人間は自由の刑に処せられている」という言葉は、そうした前提を強化させられるために独り歩きしていると言えるでしょう。「自由なんて未熟なあなたにとっては刑罰のようなもの。まずは上司や社長をはじめ頭のいい大人たちの言うことを聞きましょうね」というわけです。
一方で、アンチワーク哲学では、人は自由を恐れているのではなく、他者からの評価を恐れていると考えます。面接官や上司、社長、顧客といった権力者(お金の分配についての影響を持つという意味での「権力者」)の印象が悪くなれば、採用されなかったり、出世への道が絶たれたり、職場で居心地が悪くなったりするリスクが高まります。なら、彼らに気に入られる行動を取らなければならない。だからこそ、自由に振る舞うより、彼らが思い描く正解を探り当てようとします。しかし、他人の頭の中などわかりようがなく、結果として人々はぎこちなく振る舞ったり、委縮してなにもしなくなるのです。
このような状況に警鐘を鳴らしたのがハーバード・ビジネススクール教授のエイミー・C・エドモンドソンです。彼女は著書『恐れのない組織』で、評価に対する恐れが大きい職場においては人々が委縮してしまうことを指摘しました。彼女の描写した心理状況には、会社員なら誰もが身に覚えがあるのではないでしょうか。「無知だと思われたくない? それなら質問するな。無能に見えたくない? それならミスや弱点を認めるな。事態をややこしくする人間だと思われたくない? それなら提案するな」。
逆に、罰せられたりバカにされたりする恐れのない心理的安全性の高い職場では、自由な発言が飛び交い、人々が自発的に行動し、高い生産性を誇ることを、彼女は多数の事例と共に提示しました。人は評価されることへの恐れがなくなれば、自由に振る舞い、積極的に行動し、なんらかの成果を生み出し始めると信じるに足る説得力のある根拠だと言えるでしょう(もちろんベーシックインカムとは社会全体に対して心理的安全性をもたらすシステムだと言えます)。
では、自由を恐れることはないのだとしても、自由な人々が集まればトラブルだらけになるのではないかという反論についてはどうでしょうか? 教育の領域で多大な影響を及ぼした思想家ルドルフ・シュタイナーは次のように書きました。「道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感に従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する」。彼は自由な意志で受け入れた道徳法則の方に価値を見出し、義務を盲目的に受け入れる態度の方こそがトラブルの種になると考えていたようです。
シュタイナーの発想と近しい思想によって生み出された概念が、マーシャル・B・ローゼンバーグが発案したNVC(Nonviolent Communcation=非暴力コミュニケーション)です。彼は「べき(Should)」という言葉が人類が発明した最も暴力的な言葉であると主張しました。そして、「~すべき」という義務を一切排除し、互いのニーズ(「ご飯が食べたい」「眠りたい」「安全に暮らしたい」といったような)を伝え合うコミュニケーション(NVC)こそが最高の人間関係を構築するために必要であると考えました。より大胆に言いかえれば、こうなります。「もっとわがままになれ」と。
あまりにも直観に反する主張ですが、よくよく考えれば私たちの生活の中でもめ事が起きているとき、そこにはかならず「○ ○すべきだ」「○ ○すべきでない」と主張する人が存在していることがわかるはずです。そしてトラブルの種となる人は、往々にしてそういう義務を口にする人です。一方、NVCのような自分のニーズを伝えるコミュニケーションとは、「○ ○をしたい」「○ ○をしたくない」といった発言が中心となるはずです。こうした発言は話が早いのです。「イエスかノーか? ノーなら、代替案はあるのか? お互いが納得できる方法は見つからないだろうか?」。こうした議論の方が生産的な方向に向かいやすいことはなんとく想像がつくのではないでしょうか。
つまり、誰かに押し付けられた義務や命令に従うのではなく、自由にニーズを表明し合うことができる関係性はトラブルを増やすどころか、むしろ減らしていくと考えることができるのです。
また、別の角度から自由を擁護することも可能です。アンチワーク哲学では自由とは「自らの行動に対する納得度が高い状態」と定義します。『14歳のアンチワーク哲学』でニケが話した通り、なにものにも影響されない自由はあり得ません。一方で、人間は拳銃を突きつけられようが自由に振る舞うことは理論上可能ですので、拳銃で脅されながら命令に従ったとしても自分の意志で選択したことになります。だからこそ、人が自由であるかどうかは常に「程度の問題」であり、本人の主観によって決定されるのです。「ティッシュくれへん?」とお願いされたなら人は納得してティッシュを手渡します。しかし「ティッシュをよこせ」と命令されたなら人は不満に思います。前者は自由である度合いが高く、後者は低い。このように考えてください。
ならば、人々が自由を恐れることはないことは明らかになります。なぜなら、誰かからの命令やお願いに従って生きる方が好ましいと本人が判断するのであれば、彼はそれを自らの意志で選択すれば済むからです。奴隷状態に居心地の良さを感じている人がいたとしても、彼の手元に鍵がないよりは鍵があった方がいいということです。彼はそこから脱出することもできるが、隷属が望ましいならそうすればいい。隷属しないという選択肢があることは、理論上マイナスに働くことはないのです。
もちろん、「逃げようかな、どうしようかな?」と迷いながら生きる羽目になるくらいなら、はじめから鍵などない方がいいという考え方もできるでしょう。なるほど、牢獄の先に人を食う巨人が跋扈しているなら、その考えも妥当でしょう。しかし、ここでいう鍵とはベーシックインカムであり、ベーシックインカムのある社会はどのように生きても生活の必要が満たされることが保証されます。なら、不自由を選択する理由は特にないでしょう。
【参考文献】
J・Pサルトル『実存主義とは何か』人文書院
エイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織 「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』英二出版
ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』ちくま学芸文庫
マーシャル・B・ローゼンバーグ『NVC 人と人との関係にいのちを吹き込む法』日本経済新聞出版