労働の定義について
アンチワーク哲学における労働の定義は「他者より強制される不愉快な営み」であり、一般的な労働観とは異なります。一般的な労働観とは、ハンナ・アレントやカール・マルクスによる定義に類するものだと考えられます。
アレントは労働(labor)を生きるために強制的に繰り返され、なにも後に残らない無益な営みだと捉えました。食べ物を摂取するために畑を耕すこと。傷んだテーブルを補修すること。こうした身体やもののケアに関してアレントは「昨日傷んだところを補修して日々新しくするという作業に必要なのは、忍耐であって、勇気ではないのだ。それが苦痛なのは、危険だからではなく、情け容赦なく繰り返されるからである」と書きました。そして、それに対比させる意味で世界に残る作品を生み出す仕事(work)と、労働でも仕事でもない人間性の最高の表現である行為(action)を定義しました。
これは、なんとなく同意できる主張である一方で、日本人であれば情け容赦なく繰り返される家事に美学をもって取り組む禅的なライフスタイルや、畑を整然とつくりあげる江戸時代の農家になじみが深いはずです。芸術の域にまで達するそれらの行為はもはやアレントのいう行為(action)の領域に差し掛かっており、当人が「苦痛」を感じているとは考えづらい。となると、労働が労働である理由は「繰り返されるから」だけではないことがわかります。
一方で、マルクスは労働を次のように定義しました。「労働は、まず第一に、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、管理する過程である」。マルクスらしい難解な表現ですが、畑を耕し食べ物をつくるようなイメージで問題ないでしょう。しかし、本書の物語の中でニケが指摘する通り、この定義では家庭菜園との区別がつきません。
つまり、労働が労働である理由は、アレントやマルクスの定義では説明がつかないのです。
一方、あまり知られてはいませんが、アナキストのボブ・ブラックは労働を「強制された仕事」「強制された生産」と定義しました。アンチワーク哲学ではこの定義をベースにしつつも、現代の労働の中には「仕事」「生産」とすら呼べないような無意味な営み(詳しくは後述します)が増えていることも踏まえ、「他者より強制される不愉快な営み」とします(近しい定義は哲学者の鷲田清一によっても行われています。「他者に強制されておこなうという以外に、労働をほかの活動から区別する契機が、最終的に見当たらなくなってきているといってもいい」)。つまり、アンチワーク哲学が目指す「労働の撲滅」とは「強制の撲滅」とも言い換えられます。
【参考文献】
ハンナ・アレント『人間の条件』講談社学術文庫
カール・マルクス『新版 資本論(2)』新日本出版社
ボブ・ブラック『労働廃絶論』アナキズム叢書
鷲田清一『だれのための仕事 労働vs余暇を超えて』講談社学術文庫