人間の欲望について

 「こんな定義がなんの役に立つの?」と疑問に思う読者もいるでしょう。しかし、これは重要な問題だとアンチワーク哲学では考えます。アレントやマルクスの定義は、作業そのものの性質によって労働が苦痛になっていると捉えています(もっともマルクスは労働を本来楽しいものであると考えていましたが、畑仕事=労働という考え方は、労働が苦痛だった場合に、畑仕事=苦痛という結論を避けられません)。そして多くの人は「人間は畑仕事のような作業を苦痛に感じる」という漠然とした先入観を抱いているのです。「人間は怠惰である」と前提されていると言い換えてもいいでしょう。

 するとどうなるでしょうか? 畑仕事が苦痛なのだとしても、社会を成り立たせるためには誰かがやらなければならない。しかし、人間が怠惰なのであれば誰もやりたがらない。なら、命令されなければならない。そのような結論は避けがたいものです。もしそれが真実なら、万人にお金を配るベーシックインカムは狂気の沙汰でしょう。誰も働かなくなって社会が崩壊するに決まっているのですから。

 しかし、アンチワーク哲学の労働の定義に則れば、人間は畑仕事そのものの性質によってそれを嫌悪しているのではなく、他者から強制されるがゆえに嫌悪していることになります。そしてベーシックインカムが強制の側面を取り除くなら、労働の嫌悪感が失われ、人々は自発的に貢献し合うと考えます。

 命令や強制が苦痛の原因である根拠は『14歳からのアンチワーク哲学』内でニケが説明した通りですが、現代の心理学者の多くも内発的な動機や自己決定によってモチベーションが高まることや、逆に命令や「アメとムチ」的な指導方法がモチベーションをさげることを指摘しています(たとえばエドワード・L・デシなど)。

 このことは家庭菜園や日曜大工に取り組む人が後を絶たないことからも理解できますし、「労働」によって強制が行われる前(あるいは強制が緩かった)の人々の振る舞いからも裏付けられます。たとえば、渡辺京二『逝きし世の面影』では、歌を歌いながら遊ぶように働く江戸時代の日本人が、憑りつかれたように畑を整え、道路を掃き清める様子が描写されています。また、山内昶『経済人類学への招待』では、「遊び」と「労働」を区別する言葉を持たない未開社会の人々の畑が、まるで芸術作品のように美しく整えられていると描写されています。彼らは誰に強制されるわけでもなく、自発的に畑仕事に夢中になっていたのです。これらのエピソードは、畑仕事そのものが苦痛であるという漠然とした前提が誤りであることを示唆しています。

 むしろ、そうした行為を行わないことの方が人間は苦痛に感じるのではないでしょうか。多くの人がニートに向ける嫌味(「ニートは毎日だらだら過ごせて羨ましいよ」)が的外れであることはニート経験者なら誰しも理解できるはずです。だらだら過ごすことは羨ましくもなんともありません。ただ虚しさを抱えながら時間を過ごすことは、人間にとってこの上ない苦痛です。哲学者のパスカルは、人間は部屋の中でじっとしていることができず、そのために気晴らしを求めると考えました。「気晴らし」というとパチンコやゲームといった娯楽がイメージされがちですが、それだけではありません。江戸時代の日本人や未開人の様子からも明らかなように、一般的に「労働」とみなされるような行為すら、人は気晴らしとして欲望します。逆に、自らの意志でなにかを成し遂げる経験をまったく味わえないことは、不幸なのです。

【参考文献】

エドワード・L・デシ/リチャード・フラスト『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』新曜社
渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー
山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書
パスカル『パンセ』教文館