はじめに

 最近やたらと「課題解決型教育」といったニュアンスの言葉を目にする。政府鳴物入りの教育政策に関する資料や、学習塾の宣伝ビラ、知育グッズのパッケージの中に、こういった言葉を見出さないことは難しい。

 なるほど、これからの時代に課題解決は最重要事項だろう。「課題解決型教育」について果てしない議論を繰り広げている大人たちは、環境、経済、少子化、医療、犯罪、貧困、いじめ、ブラック企業など、あらゆる課題をほとんど解決してこなかったのだから。流石にいまの子どもたちが大人になる頃には、本腰を入れて課題を解決してもらわなければ困る(その頃大人たちは墓の中に逃げ込んで、知らん顔を決め込んでいるだろうが)。

 もちろん、大人たちも手をこまねいて見ていただけではない。対策委員会を立ち上げたり、助成金制度や規制などを制定したり、ソーシャルビジネスを立ち上げたり、世界を変えるイノベーションを起こそうとしたり、様々な対策が実行されてきた。しかし、根本的な解決が図られたとは誰も感じていない。そして、おそらく今後も似たようなものだろう。実際に課題が解決されることと、解決に向けて取り組んでいるのだと見せつける茶番を披露することの二つの選択肢があったとき、大人たちは常に後者を選択してきた。そのことを知らない人はいまい。「異次元の少子化対策」によって少子化が解決する未来を、誰が信じられるだろうか? SDGsやパリ協定の約束が見事に果たされ、サスティナブルな未来社会がやってくることを、誰が信じられるだろうか?

 そもそもこの状況は、「詰んでいる」としか言いようがない。例えば少子化対策のために、政府は保育士の給料を上げたり、子ども手当を支給したりするだろう。だが、そのためには税金が必要となり、税収を増やさなければならないということになっている(もちろん、後ほど説明することになるが、実際はそうではない)。税収を増やすためには経済成長が必要で、経済成長には多くの場合は環境破壊が伴う。また、増税で賄おうとすれば国民が貧困に喘ぎ、犯罪も増えるかもしれない。さらに貧困は健康状態の悪化にも直結し、医療費も嵩むだろう。

 あっちを立てればこっちが立たず、である。政治家たちは、渦潮と渦潮の隙間を縫う日本国という小舟の舵を取り、なんとかバランスを保とうとするが、誰もが薄々気づいている。この航路の先には、地獄へ続く大穴が待っていると。

 さて、そんな状況で私は一つの主張を行いたい。その主張とは、環境、経済、少子化、医療、犯罪、貧困、いじめ、ブラック企業といったあらゆる問題を一挙に解決する魔法のような政策がたった一つだけ存在する、というものである。そんなものが存在するはずがないと、誰もが考えるだろう。もし仮にそんなものが存在するのであれば、既に各国の政府が大慌てで導入し、世界から問題は消え去っているだろう、というわけだ。しかし、存在しているにもかかわらず、人々はその政策についてまともに議論していないと、私は考える(その理由は、収拾がつかないほどに蔓延した、人間や経済、労働、金に関する誤解に由来するが、本書ではその点に関しては簡単に触れる程度にとどめる。詳細は拙著『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』を参照してほしい)。

 その魔法のような政策の正体を勿体ぶって発表する必要はないだろう。この本のタイトルを見ればわかるように、それはベーシックインカムを指している。私は、ベーシックインカムによって人類が頭を悩ませてきたありとあらゆる問題が魔法のように解決する、と主張したいのである。私の主張は、奇妙なものとしてあなたの目に映るかもしれない。ベーシックインカムが貧困や少子化を解決するのは理解できるとしても、環境や犯罪、健康、いじめなどは、全く別ジャンルの問題だと世間一般では考えられているからだ。これはベーシックインカムの提唱者たちの責任だろう。彼らは、ベーシックインカムを人々に説明するとき、みみっちいメリットばかりを羅列し続け、ベーシックインカムが引き起こすであろう真に重要な変革について語ろうとしなかった。さながら、自分と付き合うメリットを箇条書きにして女性を口説こうとする童貞男子である。彼らは「結局、ベーシックインカムってなにがいいの?」と聞かれたとき、わかりやすい言葉で返事をせずに、小難しい数式を黒板に書き始めるのである。

 その結果、私の主張は頓珍漢なものとしてあなたの目に映っているはずだ。本当にベーシックインカムが数多の問題を解決するのか? 環境問題などはむしろ悪化するのではないか? 社会保障が削られて申し訳程度の金が配られるディストピアになるのではないか? 生き甲斐のないつまらない人生が待っているのではないか? とんでもないインフレがやってくるのではないか? これらの疑問には、本書の中で可能な限り応えていく。そして、ベーシックインカムにまつわる不安の大半は杞憂であり、メリットに比べれば些細な問題に過ぎないことを根拠を添えて伝えていくつもりだ。だが、当然のことながら、正確に未来を予測することは誰にもできない。アベノミクスの結果を誰も予想できなかったように。異次元の少子化対策の結果を誰も正確に予測できないように。それでも私たちは不確実な予測という弱々しい希望を握りしめながら、「えいや!」と決断を繰り返して生きているし、これからも生きていく。ベーシックインカムを導入することはギャンブルである。全く同じ条件で事前に実験することなどできないのだから。だが、とんでもなくハイリターンのギャンブルであることには間違いない。先ほど挙げた数多の問題を一挙に解決する可能性を秘めた政策など、他に一つでも挙げられるだろうか? もし本当にベーシックインカムにそれだけのポテンシャルがあるのなら、導入しない手はない。少なくとも「いやいや、無理に決まっている」と一蹴するのではなく、検討くらいはすべきだろう。環境問題をはじめ、先ほど挙げた問題の数々は人々の幸福を著しく減ずるだけにとどまらず、いずれ人類社会を破滅に追い込みかねないものなのだから。

 いまの世の中に、バラ色の未来が待っていると信じている人はほとんどいない。いたとすれば彼の頭の中はお花畑であると、周囲の人々は結論づける。常識的な人々は、社会が悪くなっていくことを受け入れながらも、なんとか自分と自分の家族の食い扶持だけは守ってやり過ごそうと、撤退戦の計画を練る。私はバラ色の未来に向けて議論をしたいと考えるお花畑野郎である。しかし、頭の中をお花畑にできない者は、頭の外をお花畑にできない。撤退戦の準備をしながらでも構わない。少し考えてみて欲しい。もしかしたら、未来にお花畑が待っているかもしれないのだ。ジリ貧の撤退戦を子どもたちにも続けさせるより、魅力的な選択のはずだ。

 女性を口説くには、詩的でロマンチックな言葉が必要である。ベーシックインカムの魅力を語るにも同様だろう。そのため、私は細々とした財源に関する試算を本書で行うようなことはしない。そんなものは経済学者の偉い先生に任せておけばいいのである。とはいえ、有益な議論を行うためには、ある程度の情報整理は必要である。本書も、一章と二章はベーシックインカムに関する基礎知識の整理に充てた。私独自の見解も述べているので、ベーシックインカムに関する議論に慣れ親しんでいる方も、ぜひ読み飛ばさずに熟読して欲しい。そして、じっくり読んでほしいのは三章以降だ。私の情熱は、この部分に込められている。だが、現時点で多くを語る必要はあるまい。前置きはこれくらいにしておいて、本題に移るとしよう。