永遠の満足という妄想

 人は死ぬまでなんらかの行動をとり続けるため、人生のどこかで完全な満足が訪れ、欲望が消え去り、そこであらゆる行動を停止することはない。それは単純に死を意味するのだから。死んでいないのであれば、彼に永遠の満足が訪れることはあり得ない。これはネガティブなことではなく、ごくごく当たり前の話である。それを否定するのは生命の否定に等しい。それなのに、「永遠の満足が訪れないから人生は苦しいんだ! 永遠に消えてくれない欲望を抱えたまま、我々はハムスターのように走り続けなければならないんだ!」と主張する禁欲的な思想の潮流はたくさん存在する。

 なぜそんな思想が存在するのか? おそらく禁欲思想に「そもそも行為は苦しい」という前提が存在しているからではないか? そこからロジックを展開し「行為は苦しく、達成は快楽である。だから、どこかのタイミングで行為から逃れ、永遠の達成=永遠の快楽を手にしたい」といった発想に至るのではないか? 仏教は「行為を焚き付けてくる欲望を捨てよう。それこそが永遠の満足である」というロジックを展開した。一方キリスト教やイスラム教は、天国という「永遠の満足」を設定してお茶を濁そうとした。いずれにせよ「行為が苦しい」とか「本当は永遠の満足があればいいのに・・・」といった発想がベースにあるのである。

 宗教を捨て去った現代人も、そこから大きくは変わっていない。人は「行為の果てに、永遠の満足が存在する(してほしい)」という幻影を完全に捨て去ることができずに、現実とのギャップに苦しんでいるのだ。

 ではなぜ行為が苦しいと想定されているのか? そこに僕は「人為的な強制」の存在を見出さずにはいられない。

 人為的に強制されない行為は、さほど苦痛ではないと思われる。人は自然からの強制はものともせずに、むしろ楽しみながらあっけらかんと攻略していく傾向にある。農作業や狩りといった生産活動を遊び感覚でこなしていた未開社会を見ればそれはあきらかであろう。

 しかし、他者からの強制には不愉快さが付きまとう。国家。奴隷制度。労働。貨幣。こうしたものに強制された行為はおしなべて不愉快である。世界宗教はこうした不愉快さのフルコースによって社会が食い潰されたあとに決まって現れた。それはおそらく偶然ではない。

 強制が行為を不愉快なものに仕立て上げた。だからこそ人々は、不愉快な行為の先に「永遠の満足」という幻想を見出さずにはいられなかった。それがないのなら、強制に苦む現状が肯定できないのだから。「人類に降りかかる最大の呪詛は苦しみではなく、苦しみの無意義である」とニーチェは言ったが、苦しみの無意義化を避けるためには、永遠の満足という幻想が必要だったのである。

 しかし、繰り返すが人間が生きている以上、永遠の満足はない。肘掛椅子にゆったりと腰かけて、自分の現状に満足しながら、なにもしないまま数十年という余生をすごすことはあり得ないのである。それはむしろ永遠の禁固刑であり、人間をもっとも苦しめる呪詛になり得るのだ。

 幸福なるものが存在するとするならば、行為の中にある。むしろ行為の中にしか存在しない。人生において最も幸福な瞬間とは、「幸福とはなにか?」などと考える暇なく没頭しているときに他あるまい。

 なるほど、達成した状況に短期間の幸福の持続が見出されるように感じる。しかしそれもあくまで行為によってもたらされる幸福であろう。エルメスのバッグを手にしたことによる幸福とは、エルメスのバッグをうっとりと眺める行為の中にある幸福であり、エルメスのバッグを持ち歩く幸福であり、それにより周囲の羨望のまなざしを向けさせることによる幸福である。とはいえ、それらもエルメスのバッグを買いに行く幸福と比べれば、些細な幸福にすぎない。だからこそ人々は、着るわけでもない服のショッピングをあれほどまでに欲するのだ。

 もちろん、強制されない自発的な行為のなかにも苦痛は存在する。当たり前だが、自由に走り回る子どもが転んだなら泣き叫ぶことになる。上手く走れないことにいら立ちを感じることもあるかもしれない。しかし、多くの場合苦痛は乗り越えられ、苦痛から学習し、より行為を洗練させ、そのプロセスのなかでより大きな幸福を手にすることになる。そうでないのなら、赤ん坊はなぜ自分になんの能力もないことに絶望して、ボケっと転がったまますごさないのだろうか? むしろこうした苦痛が存在しないことの方が、大きな苦痛たり得る。なにもない人生か、簡単すぎるパズルとともにすごす人生か、ほどほどに難しいパズルとともにすごす人生なら、あきらかに三つ目がもっとも幸福である。自発的に壁にぶち当たり、失敗し、乗り越えていく苦痛は、大きな幸福という枠組みの中にあるポジティブな苦痛である。そもそも自発性を奪われることによって味わうネガティブな苦痛とは大きな断絶があるのだ。

 なら、ここらで発想を転換する必要があるのではないか? そもそも人は結果ではなく行為を欲望する。行為は本質的に苦しいのではなく、強制というネガティブな苦痛が存在する行為が苦しいのである。

 このような考えをインストールできたのなら、行為を突き動かすエネルギーである欲望が無くならないことにネガティブな感情を抱くはずがない。欲望をフルドライブし、楽しいことだけをやっていればいいという発想に至るのである。

 強制を無くすことこそが、僕たちを最大の幸福へと導く。僕たちの欲望は禁止と達成によってブレーキをかけられる。だから欲望をフルドライブさせ、達成という小休止を挟みつつも、次から次へと行為することで僕たちは幸福になれる。永遠の満足なるものが存在するとすれば、それは永遠の行為の中にしかない。

 アンチワーク哲学による「強制=労働の撲滅」という主張は、このようなロジックの上に成り立っている。人類は幸福と欲望がなんたるかを、改めて哲学すべきフェーズにある。その先にこそ、理想的な社会が存在するはずなのだから。