労働批判は労働者批判ではない

 とあるコミュニストの方と話したとき、「労働はクソっていう人もいるけど、やっぱり生きていく上で必要な生産活動をないがしろにしている気がして、ピンとこないんだよね」という意見をいただいた。これはアンチワーク哲学に対するよくある質問(あるいは批判)の一つである。そのため僕は生産活動やそれに携わる人々を軽視したり、バカにしたりする意図はないことを念押ししてきたつもりである。アンチワーク哲学や『労働廃絶論』は、現在強制された労働として取り組まれている生産活動を、楽しみだけを目的とした自発的な遊びとして代替することが可能であると主張している。要するに「どうせ同じことするなら、誰かに強制されながら辛そうにやるよりは、自発的に楽しくやる方がよくね?」という話なのである。

 それでも「いや、それでもお前はバカにしている!」という感覚を持つ人もいるのだ。なぜだろうか? なぜ僕が、あるいはアンチワーク哲学やボブ・ブラック『労働廃絶論』が生産活動をバカにしているように見えるのだろうか? おそらく「有意義である=歯を食いしばって取り組まれる大変な活動であるべきである」という感覚が裏返って、「遊びのような楽しい活動=無意義である」という感覚が生じているせいではないだろうか?

 僕は、そもそもこうした感覚自体が、労働がもたらした結果であると主張してきた。労働とは権力によって押し付けられる強制であるが、強制に人々を納得させるため、労働に取り組めば金を受け取り、労働の果実を享受するためには金を支払うというシステムが生み出された。このとき、人間の行為は、「金を受け取ってやる行為=強制=苦痛=意義のあるもの」と「金を払ってやる行為=自由・自発=快楽=意義のないもの」に二分された。もともとその二つに分かれていたわけではない。前者と後者は混然と一体化していた・・・というより、強制や国家のない社会においては、前者はほとんど存在していなかったはずだ。人間社会は好きなことだけやって生きていた。少なくとも、好きなことだけやって生きていく人間社会は可能であったはずだ。当時は、自発的に好きでやっていることにも意義があった。

 いや、いまでも意義はある。それは、大谷翔平にとっての野球である。とはいえ「好きでやっている」という言葉は、「才能」として神格化されたり、「謙遜」として神格化される傾向にある。あなたは「自分は努力してきたわけではない」と殊更に主張するプロフェッショナルを見かけたことは一度や二度ではないだろう。彼らは、自分は好きなことをやってきただけであり、それがたまたまプロとしての仕事につながったと主張する。おそらくこれは彼らにとって本音であるが、人々は本音であるとは受け取らない。「いやいやご謙遜を・・・・そうはいってもきっと大変な苦労があったことでしょう。うちの子も大谷選手みたいに育てたいんですがね、野球をやらせたら三日で飽きてしまいましたよ。やはりその継続力は努力の賜物でしょう」といった具合に神格化するのである。

 もちろん「お前も大谷翔平みたいになれ」と強制され、大谷翔平という目的のために毎日バットを振り続けるのは、どう考えても苦痛である。そもそも強制は、強制される前に苦痛ではなかった行為も苦痛に変える効果があるし、大谷翔平という目標はあまりにも途方がなさすぎる。遊びとして取り組むには、遠すぎる目標なのだ。子どもが挫折しないわけがない。

 プロになるためにはプロを目指さない方がいい。遊んでいるうちに、目の前の小さな課題に夢中になっているうちに、気が付いたらプロになっている・・・・これがプロになるための最短ルートである。このことは、なんらかのプロフェッショナルにアンケートをとれば99%が同意するだろう。ところが、謙遜ではないと分かった人々は次は「才能」というナラティブを持ち出してくる。プロの方が執拗に「いや、私には才能はないですよ」と否定してみせるのを渋々受け入れた人々は「いやいや、仮にそうだとしても、継続する努力ができるのは才能ですよ」と神格化することを諦めない。そして、もし僕が「好きでやってたら気づいたらプロになったってことでしょ?」と大谷に尋ねたら、彼が「そうですよ」と口にする前に人々がズンと前にしゃしゃり出てきてこう言うだろう。「なんと恐れ多い! お前は大谷選手がどれほどの努力を積み重ねてきたか知らないのか?」と。

 要するに人は、膨大な金を手にする行為の裏側には、なにがなんでも膨大な苦痛=努力あるいは、凡人にはない特別な才能が存在して欲しいのだ。そうでなければ金がもたらした二分化システムに矛盾が生じてしまうからである。

 人びとは苦しく、価値のあることをしているからこそ、金を得ていると考えている。苦しいからこそ価値がある。遊びとして好きでやっていると言って金を稼ぐプロは、謙遜しているか、途方もない才能があったかのどちらかである。つまり、努力も才能も伴わない遊びに価値があってはならないのだ。消費主義はその文脈にすっぽりと収まる。「凡人がなんの努力もせずに楽しめるのは、金を払ってやる消費だけ」という説明を消費主義が強化してくれるわけだ。

 まとめよう。労働が生産に苦痛をもたらし、苦痛を正当化するために、権力は金という報酬を用意した。そして金は、生産はおしなべて苦痛であり、苦痛こそが価値を生み出しているという錯覚を生み出した。苦痛を伴わない価値の生産は、天才にしかできない偉業であるとして神格化されるか、「実際は苦痛があったのに謙遜している」とみなされなければならなかった。そうでなければ人々は自らに降り注ぐ苦痛を正当化できないのだ。つまり、どれだけアンチワーク哲学が否定しても労働をしぶとく正当化するロジックは、まさしく労働そのものによって生み出されている。

 しつこいようだが「遊び」は苦労や創意工夫がないことを意味しないし、スキルを必要としないことも意味しない。少しむずかしいパズルの方が解きたくなるのと同じように、壁を乗り越えることすらも遊びの一環として取り組むことは可能であるし、むしろ壁のない遊びの方がつまらない。そして、遊びとして取り組む方がスキルアップできることは、プロフェッショナルの存在が証明しているように思えるし、多くの人々も小さな規模であっても遊んでいるうちに上手くなった経験の一つや二つくらいあるだろう。

 そして、順当に考えれば「アンチワーク哲学の主張=生活を維持するための生産活動は、もしまったくおなじだけの産出量と生産効率を維持できるのであれば、苦しいよりも、遊び感覚で取り組まれた方がいい」という意見に反論することはむずかしいはずだ。それに反論するのは「他がまったく同じ条件であろうが、人間が苦しんでいないよりは苦しんでいる方がいい」と言っているのとほぼ同じだからである。人は直接的にそう表明することはない。しかし、彼らは労働によって実質的にそう思わされている。そう思っているが、そう思っていると認めることなくアンチワーク哲学を否定したいなら、「なんかバカにしている気がするんだよねぇ」という言葉しかひねり出すことしかできないのだ。

 さて、これをひっくり返すにはどうしたものか。労働撲滅までの道のりはまだまだ険しいようである。