金とはなにであり、なぜ生まれたのか?

 日本銀行のバランスシートを見てみれば、「発行銀行券」が負債の部に計上されている。これは日本銀行券を意味している。あなたの財布には日本銀行の負債が入っているのだ。もちろん、日本銀行はあなたに利息を払うことはしないし、あなたは日本銀行に返済を迫ることはない(迫ったところで日本銀行はなにも返してくれない。彼らが持っているのは紙切れとデータくらいである)。つまり金とは無期限、無利子の負債である。

 負債は流通する。A社という企業が発行した支払いの約束(=負債)である約束手形がB社からC社への支払いに使用されるのと同じである。ただし、A社の約束手形はいつか銀行に持ち込まれてA社の預金と交換されたのちに消滅するが、日本銀行の負債が消滅することは想定されていない。それは日本円の消滅を意味するからだ。

 MMT論者は、統合政府(政府と中央銀行)はいつでも負債を返済することができると主張するが、厳密に言えば誤りである。たしかに日本政府が負っている千兆円以上の負債は、日本銀行に買い取らせ、永遠に借り換え続ければ、返済義務は事実上消える。ただしその場合も、日本銀行が発行した貨幣という名の負債は市中を出回り続け、基本的に返済されることはない。起こっていることは国債の返済ではなく、借り換えである。ただし、負債(日本円)を税によって回収し、消滅させることは理論上可能である。それはどちらかと言えば返済ではなく国家が持つ強制力を背景とした負債の帳消しである。言い換えれば、銃を突きつけて行う踏み倒しである(その時点で日本円は消滅し、日本経済は大混乱に陥る)。要するにこの世界は永遠に完済されることのない負債によって回っている。

 一般的に想像されているように、過去の人々は物々交換を行っていたわけではないし、それを不便に感じて金を発明したわけではない。物々交換は、コストとベネフィットを一致させるという発想がなければ成り立たない。しかし、そのような発想を育んだ原始社会は見出されなかった。のちに金と呼ばれるシステムが生み出されたのは、誰かが誰かに負債を負ったときである(そしておそらくは、国家が国民に負債を負ったときである)。

 負債と義務は違う。負債とは厳密な数値によって特徴づけられる。つまり、「八時間も城壁づくりに従事したのだから、せめて八時間分の報酬をよこせ」という厳密さによって、負債は負債たり得る。その厳密さを要求する欲望がはじめて文字を要求する。文字は、愛する人へ向けた詩を残すためでもなく、哲学的思索を記録するためでもなく、負債を計算するために誕生した。それ以外の目的で文字が使われ出したのは、かなり後になってからである。

 ここで問うべきは、なぜそのような負債思考が生まれたのか? あるいは、なぜ人類史の大半でそのような思考(あるいは金や文字)が生まれることなく、国家の誕生とともに負債思考(と金と文字)が生まれたのか?

 それは国家が労働を強制したからであると考える。国家とは強制力の装置であると定義づけることができる。一般的にイメージされているのとは異なり、国家とはトラブルだらけの人々を仲裁するために特権を持つエリートを民主的に選出した結果生まれたわけではない。国家なき人々は強制力を持つリーダーを必要としないまま、あまつさえ巨大な都市や建造物を生み出していた。平等なままトラブルを解決し、巨大プロジェクトを遂行する人々にとって強制力を持つリーダーは必要なかったのだ。もちろん、過去にはトラブルだらけの社会も存在しただろうが、仲の悪い人々が突如として特定のリーダーに強制力を持たせることに同意し、文句を言わず従うという事態は考えづらい。まずはじめに強制力・・・つまり暴力を独占した集団が存在したと考えるのが妥当だろう。もちろん初期の国家は、そのようなシナリオを人々の記憶から消し去ろうと躍起になっていたはずだ。「我らは人々のために立ち上がった」と人々に印象づけなければ、歯向かう人々をいちいち暴力で押さえつけなければならない。そのような国家が即座に崩壊するのは目に見えている。だからこそ国家は人民のための機関であるというプロパガンダを垂れ流し続けきたのである。

 さて、僕が口酸っぱく繰り返してきたように、心理的リアクタンスという現象によって、強制はあらゆる行為を労働化する。つまり強制は、強制される行為が元々やりたいことであろうが、やりたくないものとイメージさせる効果がある。負債思考が必要とされるのはこのときである。まず国家は国民に労働を強制する。そして、「俺ばかりが損をしている」「もっと正確に評価すべきだ」と不満を垂れ流す民衆をなだめすかすために、国家はありとあらゆる記録や計測のテクノロジーを発展させなければならなかった(繰り返すが、国家なき社会には文字も金も存在しない傾向にある)。そこで国家は負債を負った。負債は金として出回った。そして金そのものが負債思考を加速させた。金によって思考することに慣れていった人々は、金を受け取る行為はやりたくないコストであり、金を払って享受するのはベネフィットであると勘違いし、人の行為はその二つに分断されていったのである。

 「もともとそうではないか?」と思う人が大半だろうが、ちがう。多くの原始社会では、狩猟や採集、農作業は遊びと同じカテゴリーだった。つまり「本当はやりたくないのに、生きるために仕方なく取り組む労働」という発想が存在していなかった(か、わずかだった)。彼らにとって畑の雑草を抜くことも、子どもの面倒を見ることも、あらゆる行為がベネフィットだった。だから「俺はこれだけやったのだから、これくらいよこせ」という負債思考が必要なかったのだ。国家なき社会では金も文字も発明されなかったことが、その証拠であるように思われる。

 負債思考やコスト概念は国家にとって都合のいいものだった。なぜなら、自発的にトラブルを解決しながら社会に貢献する人々で溢れかえっているなら、国家は必要ないからである。マキャベリが自由な都市を破壊しない支配者は、自らを破壊する結果になると指摘したのは正しかった。もちろんこうした話は、古い地層のそのまた下の方に隠れていて、支配者の側すら忘れ去ってしまった。こうして僕たちは金のない社会を想像すらしなくなった。なにかと理由をつけて、金の存在を擁護せずにはいられないのである。

 金とは負債である。古のワガママな支配者が、国家という茶番をうまく盛り上げるために思いついた小道具にすぎない。いつまでもその神話的アイテムにこだわる必要はないように、僕は思う。