哲学作家 飲茶からバトンを繋ぐアンチワーク哲学

 飲茶『14歳からの哲学入門』は名著である。デカルト、カント、ヘーゲル、サルトル、レヴィ=ストロース、デリダと順を追って解説するだけの無機質な入門書ではなく、次なる哲学への展望が記されているからである。では、次なる哲学とはなにか? 飲茶氏は次のように書く。  

新しい時代の哲学‥‥。僕たちが考えるべきテーマとは、ズバリ、「働かない社会を作るにはどうすればよいか」である。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p327)

現代哲学の系譜を受け継ぐ、今の自称哲学者たちは、しょせん言語ゲームの中で相変わらず言葉をグルグル回しているだけなのだから決して哲学者ではない。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p343)

 全くもって同感である。いまの時代に哲学しなければならない対象は、僕たちの人生を埋め尽くし、社会問題の中核に堂々と鎮座する労働であろう。

 しかし、残念ながら現代の哲学界は、労働という問題に正面から向き合おうとはしなかった。哲学者たちは相変わらず脱構築がどうのこうのと、古き良き哲学の縮小再生産を繰り返す伝統芸能をプレイし続けている。ある意味で飲茶氏のバトンを受け継ぐアンチ労働の哲学が、アカデミズムの中から生まれないのは必然であろう。なぜなら、哲学とは権威と化した常識への挑戦に他ならないからである。アカデミズムが権威化している以上、そのシステムの内側から本物の哲学が生まれるわけがないのだ(マルクス・ガブリエルの書いた文章を読めばそのことがよく理解できるだろう)。

 さて、そんな閉塞感をぶち破るべく、彗星の如く現れたのがホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』である。本書は哲学界のゲームチェンジャーであり、社会のゲームチェンジャーでもある。「労働」という概念を、これまで誰も行わなかったレベルにまで懐疑し、まったく新しい概念を構築することで、世界の見方をガラッと変えてしまったのだから。そして、ある意味では『14歳からのアンチワーク哲学』では、飲茶氏が想像したものとも全く異なる哲学が展開されている。しかし、むしろそれこそが哲学の哲学たる所以であろう。想像の枠内に収まるようなものであったなら、それは哲学の名に値するものではない。

 さて、それでは両者の主張はなにがどう異なるのかを見ていきたい。

■飲茶氏の労働批判

 まずは飲茶氏の労働批判を見てみよう。飲茶氏は、現代の労働の大半が生存には不可欠とは言えない無意味な娯楽のために行われていると主張する。

確かに、昔はそうだったかもしれない。全員が一生懸命働かないと、全員の衣食住が提供できない時代があったかもしれない。しかし、今はどうだろう? 大半の人たちは、「生きるために必要な商品(生活必需品)以外のモノやサービス」を作り出す労働に従事しているのではないだろうか。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p330)

たとえばよくある仕事の事例として、あなたが手のひらサイズの通信機器を作る仕事をしていたとしよう。それは確かにあれば便利だが、でも、本当にそれは生きるために絶対必要なものなのだろうか? 他者と競争して身体を壊してまでもスケジュールを守って作り上げる必要のあるものなのだろうか? (飲茶『14歳からの哲学入門』p330)

仮にそれが世界から消えたとしよう。それで何か困ったことが起きるだろうか? 実際、それがなかった時代でも、みんな普通に楽しく暮らせていた。きっと、ないならないで、人々はジョギングをしたり、他の娯楽を見つけたりして、何事もなかったかのように時間をすごすだろう。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p331)

 要するに、「ディズニーランドとか、パズドラとか、シュプリームのために僕たちは週に四十時間働く羽目になっているのだから、これらの娯楽を諦めさえすれば、週十時間労働くらいで済むのではないか?」といった指摘である。この角度から労働批判を進めていくなら清貧思想へと退行することは避けられない。読者は拙著『働かない勇気』に登場する青年のような反論が脳裏をよぎったのではないだろうか。

 ははっ、とうとう正体を現しましたね? どうやらあなたは怪しげな禁欲思想を説く新興宗教家のようだ! 少ない労働で済むように質素倹約に暮らして、座禅を組んでお経でも唱えながら、極楽浄土に想いを馳せておけばいい、と言いたいのですね? そんな現実逃避で救世主ヅラとは、虫唾が走りますよ!  僕たちはパーティやゲーム機、遊園地といった衣食住とは関係のない過剰なエンタメに骨の髄まで浸かりきった欲深い生き物なのです! 1人ひとりの労働者が長時間働くことで、この娯楽に溢れた社会の生産量が実現できているのです。  道楽で働いた程度では、せいぜい玄米と高野豆腐ばかりを食べて暮らすのが関の山で、生命を維持するのがやっとでしょう。それとも、わたしたちがいまさら石器時代のような暮らしができるとでもお思いですか?

(ホモ・ネーモ『働かない勇気』)

 これは飲茶氏の労働批判に対する手痛い反論だと言えよう。たしかに、ないならないで別に構わないかもしれないが、事実として多くの人はスマートフォンが欲しいし、コカコーラも欲しいのである。彼らに「いや、それは広告に踊らされた無意味な欲望なのだから座禅でも組んで捨て去るべきだ! そうすれば労働は減らせる!」と言いつけたところで、あまり魅力のある主張であるとは思えない。それに、もしコカコーラの製造を無意味な記号の消費であると批判するなら、パセリやパクチーはどう判断すべきか? ナスやキュウリも最悪なくても死にはしないのではないか? パンすらわざわざつくる必要がなく、小麦をお粥にして食うべきではないか? いや、いっそ全人類が呼吸だけで生きるブレサリアンを目指すべきではないか? などといった批判をあげればキリがないのである。もちろん全人類がブレサリアンになったり、パンを禁止したりする未来は馬鹿げているし、「ナスはセーフで、キュウリはアウト」といった基準を決定する中央委員会を組織するのも馬鹿げている。

 さて、それではこの問題についてホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』は、どのような回答を与えるだろうか。

■ホモ・ネーモの労働批判

 結論から言えば、アンチワーク哲学は人間の欲望全般を肯定する。

「じゃあなに? 『霞を食べて生きていけば労働しなくていい』みたいな話?」 「あほか。そんなんで生きていけるか。美味いもん食って贅沢したいに決まってるやろ。ゲームもしたいし」

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p6)

 つまりコーラもディズニーランドも否定しないのである。欲しいと思う人がいるなら、それは提供されてしかるべきであると考えている。それでは単なる現状維持のように見えるが、そうではない。本書では、欲望全般を肯定したうえで、労働を週十時間ではなく〇時間に減らすべきだと主張しているのだ。

「地球上の八十億人全員がニートになって遊んで暮らさなあかん。完全失業。GDPは〇ドル。それで世界は平和や。食べ物や家が行き渡るだけやなくて、漫画もゲームも楽しみ放題になるんや」

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p7)

 これは「AIが代替してくれるから僕たちは労働しなくていい」的な安易なテクノロジー楽観論ではないことは強調しておく必要があるだろう。アンチワーク哲学では、テクノロジー楽観論はおとぎ話であると批判している。

AIが労働を代替するっていうのはおとぎ話や。『天の川で水遊びできたらいいなぁ』って呟いてるのと同じ、お花畑発言なんや

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p6)

 では、清貧思想でもなく、AIでもないなら、どうやって労働を撲滅するのか? そんなことは不可能ではないか? その疑問に応えるためには、「そもそも労働とはなにか?」「なぜ僕たちは労働を嫌悪するのか?」を考えなければならない。否、哲学しなければならない。

■なぜ労働はダルいし、面倒くさいのか?

 『14歳からの哲学入門』では、労働の明確な定義が与えられているわけではないが、以下の一文から飲茶氏の労働観が垣間見える。

ようするに、「ダルいし面倒くさいから、もう働くの(社会に貢献するの)やめちゃわね?」って話である。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p327)

 ここで明らかに前提されているのは「労働=社会への貢献=ダルいし面倒くさい」という定義である。この定義はさほど吟味されることなく常識として受け入れられていることが多いが、労働の定義として優れているとは言い難い。

 たとえば「いやいや、労働を通じて社会に貢献することは素晴らしいことだし、やりがいのあることだ!」といった考えを抱く人もいる。あるいは、ほかになにをしていいかわからず、労働しないことに耐えられない人もいる(そのことは飲茶氏も指摘している)。つまり、かならずしも社会への貢献としての労働がダルいし、面倒くさいわけでもなさそうである。

 それに、社会への貢献がすべて労働として組織化されているわけでもない。家庭菜園が高じて近所の人々に野菜を配ったり、日曜大工が高じて隣人のトイレのリフォームを請け負うなら、それは明らかに社会への貢献であるが、本人にとって労働であるとは言えないし、やってる本人は「ダルいし、面倒くさい」だなんて思っていないのである(もしそう思っているのであれば、彼はそれを中止すればいいのだから)。

 つまり「労働=社会への貢献=ダルいし面倒くさい」という定義は、誤っているか、すくなくとも現実に起こっている事態を正確に捕捉しているわけではない。むしろ人は社会への貢献を欲望している。老人に席を譲ったときはそうしなかったときよりも大きな喜びを得られる。自宅にやってきた友人に食事を振る舞えば、食事をごちそうになるときよりも大きな喜びを得られる。みんながBBQの準備をしているときに一人だけ棒立ちしていたら、自分もなにか手伝いたいと感じる。こうした例を挙げていけばキリがない。「人に喜んでもらえれば嬉しい」「誰かの役に立って嬉しい」という感情を抱いたことのない人間など一人もいないはずだ。事実、脳神経科学者のドナルド・W・パフによれば、人間の脳は「お腹が減っているときに食事を摂るとき」と同じ信号を、利他的行動をとる際に放出するという。

善意の寄付をするという考えによって、人間の前脳の「報酬中枢」が発火されるということだ。この研究を行った神経科学者によれば、視床下部のすぐ前にある神経細胞群の報酬信号は、他の脳の報酬信号(たとえば、空腹の人に対する食べ物の信号)と区別がつかないように見えるという。

(ドナルド・W・パフ『利己的な遺伝子 利他的な脳』p164)

 つまり、このように言い換えてもいいだろう。「人間には食欲があるのと同じように、貢献欲がある」と。それはどうやら脳神経科学的な事実であるようだ。しかし、実際には「社会への貢献はダルいし面倒くさい」という脳神経科学の事実に反する常識が人々の中に植え付けられている。これはなぜだろうか?

 心理的リアクタンスという現象がヒントになるだろう。心理的リアクタンスとは、自由な選択ではなく、誰かからなんらかの行為を強制されるときに、心理的な反発を抱いてしまう現象をさす。たとえば、本来、子どもたちが熱中するはずのゲームですら、大人から強制されたり、マイクロマネジメントされたりすると、苦痛に感じられてしまう。つまり、その行為がなんであれ、強制されれば苦痛に変わるのである。だからといって、「ゲームとはダルいし、面倒くさい」と結論付けるべきではないことは明らかである。なぜなら、ゲームとは自発的な意志で取り組まれたなら寝食を忘れるくらいに楽しいからである。なら、次のような結論は当然のように導き出されるべきではないだろうか? 社会への貢献も、自発的な意志で取り組まれたなら楽しい。強制されているから、ダルいし、面倒くさくなっているだけである。

 人は役に立つことを欲する。でも、あらゆる行為は命令によって労働化する。だから貢献が嫌なことやと現代人は思い込んでるねん

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p60)

 では、僕たちはなにに貢献を強制されているのか? 明らかに「労働」によってである。自給自足もできなければ、不労所得を得ているわけでもない大多数の人々にとって、労働をせずに生きていくことはむずかしい。ゆえに、拳銃を突きつけられて労働するのと同じように、札束でビンタされながら労働をするのが一端の社会人の姿である。これが大げさであると感じるなら、道行く人に労働する理由を尋ねてみればいい。口を揃えて「生きていくため」「家族を食わせるため」と答えるだろう。労働しなければ死ぬという状況に置かれている以上、強制されていないなんて口が裂けても言えないのである(たしかに生活保護や転職という道もある。しかし多くの人はそれが現実的ではないと感じているのだ。ちょうど強盗犯の隙をついて拳銃を奪い、強制から逃れることが現実的ではないのと同じように)。

 社会への貢献が労働によって強制的に組織化されることが当たり前と化した状況では、社会への貢献=ダルいし面倒くさいという常識が根付くことは必然であろう。これが僕たちの想像力にとって大きな枷となっていることは間違いない。「AIで労働を自動化」といった非現実的な願望くらいしか、人々は社会に希望を見いだせなくなってしまったのだ(現代の労働をすべて自動化するにはドラえもんレベルの汎用AIが必要であることは明らかだが、ドラえもんは二十二世紀中にも誕生することはないだろう)。しかし、ここまでの議論をふまえれば、強制ではない形、言い換えれば労働ではない形で、社会への貢献を組織化することができれば、僕たちはもっと幸福になれるのではないか? もっと言えば、労働の撲滅は可能になるのではないか? なぜなら、強制こそが労働そのものなのだから。

■労働なき世界は可能か?

 アンチワーク哲学では、強制からの解放のために、ベーシックインカムを主張する。金とは、持つ者が持たざる者を強制させる権力である。万人に生活保障がなされ持たざる者が消え去れば、権力そのものが消滅していく。つまり労働が強制ではなくなり、労働ではなくなっていくのだ。「いやいや、俺は別に貢献欲なんかないけどね(笑) もし労働しなくて済むなら家でゲームするけど構わないんだよなぁ?」という斜に構えた批判が殺到することは間違いないが、断言しよう。構わない、と。

 なぜなら、もはや労働は社会への貢献ですらなくなりつつあるからである。衣食住にまつわるエッセンシャルワークでもなければ、パズドラやシュプリームを生み出すわけでもない労働。誰も読まない書類をつくったり、バツ印を押しにくい広告でWEBページを溢れかえらせたりする労働・・・一般的にブルシット・ジョブと呼ばれる労働が、この社会には溢れかえっているのだ。ちょっとやそっとゲームで遊ぶ人がいたとして、痛くもかゆくもないのである。むしろ、無意味なブルシット・ジョブをやるくらいなら、ゲームをしてくれている方がいい。やっている本人が楽しんでいるからだ。誰も楽しまないくらいなら、誰か一人でも楽しんでいる方が、社会にとって善である。

 あらためて考えてみて欲しい。他者への貢献は、労働によって強制されていてもなお、人はさほど嫌悪しないのである。「どうせ誰も読まないのに報告書つくるのダルすぎ!」と愚痴を言う天ぷら屋の雇われ店長がX上に無数に散見されるとも、「なんで天ぷらなんか揚げなあかんねん! 客ども天ぷらなんか食うな!」と愚痴をこぼす店長は存在しない。人々が労働を嫌悪する理由は、もはやほとんどの側面が「無意味な強制」に由来している。人は自発的な意志であるならば、毎朝同じ時間に起きて、なんらかの貢献をすることを欲する。無意味なことを強制されていると感じるがゆえに、それを嫌悪しているにすぎない。飲茶の以下の指摘も、このように考えればスッキリ理解できる。

おそらく多くの人々 ― 働くのが当たり前だと思っている人々 ― にとって、「明日からもう一生仕事しなくていいよ」(もしくは「もう学校行かなくていいよ」)と言われることは、必ずしも幸福なことではないだろう。(中略)毎朝ちゃんと定刻に起きて、通勤または通学しなくてはならないという強制的な束縛は、僕たちの充実した生活や健康にむしろ役立っているとさえ言える。

(飲茶『14歳からの哲学入門』p349)

 人はむしろなんらかのプロジェクトにコミットすることを欲するのである。強制されていてもなお、それは欲望の対象となり得る。強制されなくなってもなおやりたいと思える労働なら、それはもはや労働とは呼べない。なぜなら、それは自発的な意志で取り組まれているからである。このように強制が消え去ったなら、人々は喜んで誰かに貢献し始めるだろう。それは自発的な意志によっておこなわれていて、遊びと区別がつかなくなっている。そのとき、労働と呼ばれる営みはこの世界から消え去っているのである。

ええか、少年。労働は悪なんや。世の中から撲滅された方がええ

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p5)

地球上の八十億人全員がニートになって遊んで暮らさなあかん

(ホモ・ネーモ『14歳からのアンチワーク哲学』p7)

 つまり、労働を撲滅するためには、欲望を減らして清貧に暮らす必要はない。むしろ欲望のままに生きることで労働は撲滅されるのである。やりたくない、無意味なことは辞めればいい。そして、欲望のままに社会に貢献し、欲望のままに記号的消費とやらを追い求めればいいのだ。

 さて、強制が消え去るならば、もう一つ消え去って然るべき存在がある。それは「金」である。金とは他者からの貢献を強制的に引き出すツールであると先ほど説明した。貢献を強制的に引き出さなくて済むなら、金とは不要の長物なのである。だからアンチワーク哲学は最終的にGDPゼロドルを目指すのである。

■アンチワーク哲学が起こすコペルニクス的転回

 さて、ここまでがアンチワーク哲学の簡単な説明である。おそらく読者の脳内には幾千もの批判が渦巻いているだろうが、そのすべてに反論する紙幅はここにはない。ここでは読者のほとんどがその反論に夢中になるあまり気づいていない点について・・・つまり『14歳からのアンチワーク哲学』がどれだけ重要なコペルニクス的転回を起こしているのかを説明したい。

 アンチワーク哲学は、「労働=社会への貢献=ダルい」と「遊び=消費=社会からの貢献を受け取ること=楽しい」の二項対立という現代の常識となっているパラダイムを丸ごと覆し、「労働=強制=ダルい」と「遊び=自発=楽しい」の二項対立という新たなパラダイムを提供している。この新たなパラダイムの方が、現実に起こっていることを適切に説明することができる。

 これはコペルニクス的転回と呼ぶにふさわしい転回であり、その重要性は強調してもし過ぎることはない。いや、コペルニクス的転回にはセンメルヴェイス反射がつきものであるため、どうせ強調しても理解されることは稀であるが、それでも強調したい。アンチワーク哲学以前と以後では、世界の見え方がガラッと変わるのである。

 これが現代のアカデミズムの中で行われている哲学もどきではなく、真の哲学である。そして、これからの社会に必要な哲学である。自殺。精神疾患。環境破壊。少子化。その他ありとあらゆる問題は労働によって引き起こされている。それなのにこれまでは労働がなんなのかを誰も理解していなかった。問題を理解せずに問題を解決することはできない。労働が引き起こす問題を理解するためには、労働を理解しなければならない。そして、同時に人間を理解しなければならない。アンチワーク哲学こそが、次なる社会を創造するための出発点なのである。

 ついに『14歳からのアンチワーク哲学』は『14歳からの哲学入門』からのバトンを受け取った。ランナーは誰も予想しなかった方向へと向かい、まったく新たな地平を切り開いた。残念ながら、この社会はまだその重要性に気づいていないのだ。

 早く気づくべきである。気づきたい人は、この本を読むといい。