トイレに行くと決めたのは?

 どうやら、哲学っぽい抽象的な話題に突入したらしい。ちょっと休憩したい気持ちもあるけれど、頑張ってニケについていってみよう。

「行為とは、変化?」

「そう。考えてみ? なんの変化ももたらさない行為なんかあるか?」

「それは・・・あるんじゃないの? 僕が瞬きしてもなにも変化しないよ?」

「少年が瞬きしたらまぶたが動くやろ?」

「あ、そうか。じゃあ呼吸は?」

「呼吸すれば息が出てくるやろ?」

「んー、じゃあ頭の中でなにかを妄想するとか?」

「ほう、なにを妄想するんや少年は?」

「別に、関係ないでしょ」

「まぁそれを行為と呼ぶかは微妙なところやけど、それでも頭の中でイメージが湧き上がって変化していくやろ」

「たしかにそうだね」

「逆に言えばな、人間以外・・・正確に言えば生物以外の物質は、なんの変化も起こさへん」

「どういうこと? 石は転がるし、雲は動いているよ」

「それは単に物理法則に則って反応してるだけや。石が自発的に行為して結果を変えることはできへんやろ? 反応と行為は別もんや」

 反応と行為は別。ニケは哲学者っぽく話すが、簡単に納得はできない。

「それを言うなら人間も反応してるだけじゃない? 僕がなにかをするとしても、それは周りに影響を受けてやっているわけで、完全な僕の意志ではないよね」

「でもな、影響を受けてるからといって百パーセント決定されてるとは限らんやろ」

「どういうこと?」

「一パーセントでも周りから影響を受けたら、意志がないことになるんか?」

「それは・・・」

「そもそもなんの影響も受けずに自分の意志だけで行動できるんやとすれば、それは神様かなんかや。人間は地球の上で重力を受けてるし、生まれた親からの影響は避けられへん」

「じゃあやっぱり、ぜんぶはじめから決定されてるんじゃ・・・」

「その立場は、いわゆる決定論ってやつやな。まぁ俺の経験上、決定論は正しいと思う」

「経験上?」

「でもな、アンチワーク哲学では『決定されてるか? されてないか?』という議論に深入りはせん。あくまで人間が『決定されてない』って感じていることに注目するんや」

「どういうこと? 決定論を信じる人は、決定されてるって感じてるんじゃないの?」

「決定論を信じる人もトイレ行くやろ?」

「そりゃあ、行くんじゃないの」

「なんでや?」

「なんでって・・・行かないと漏らすからじゃない?」

「せや。トイレに行かなかったら漏らすけど、行ったら漏らさずに済む。決定論者は、その二つの選択肢を前にしてトイレに行くことを選択しているわけや。決定されてると思ってたら、こんなことはせんやろ?」

 複雑な話で頭がこんがらがってきたので、僕は少し間を置いて考えなおしてみた。人間はトイレに行くことを選択している。本当にそうだろうか?

「でもさ、気づいていないだけで『トイレに行こうと選択すること』も事前に決定されていたのかもしれないよ」

「仮にそうやとしても、決定論者がトイレに行くと決めたときは、『自分がトイレに行くと決めた』と感じてることは疑いようがないやろ」

「それは・・・そうだね」

「議論の場では決定論を振りかざす頭のカタイ哲学者も、普段の生活で決定論を信じて生きているわけやない。人間は自分の意志でなんらかの変化を起こしていると感じながら生きているわけや」