永遠にレベル1の人生
「人間が貢献を欲望することがあるのは認めるよ。でも、お金によって命令されないと、誰も責任感をもって貢献しないんじゃないの? 実際、ボランティア活動に積極的に取り組む人なんて少ないわけだし。もし労働がなくなったら、子どもが遊び半分で手伝うみたいに貢献するだけで、すぐに飽きちゃうんじゃないの?」
「まぁその可能性はある。職場には八時間縛りつけられてるからクオリティの高い仕事ができるけど、休日のボランティアでは大した成果を得られへん・・・なんてことは、この社会では頻繁に起きてるやろな」
「ほら、やっぱり労働が必要なんじゃ・・・」
「でも、逆に考えることもできるはずや。いま労働に忙殺されてるから、ほかのことに責任感を持って取り組めていないだけとな」
「どういうこと?」
「たとえば編み物に責任感を持って取り組もうにも、夜遅くまでやってたら明日の労働に支障をきたす。だから途中で切り上げなあかんよな?」
編み物なんてやったことないけれど、もしそんな状況なら「明日も学校なんだから早く寝なさい」とお母さんに怒られそうだ。
「その結果、途中で投げ出しているだけという可能性はないか? もし労働がなくなったら、自分が重要やと感じるプロジェクトに責任感を持って取り組む可能性が高まるとは思わんか?」
「そういうものかな?」
「実際、労働に時間を奪われていてもなお、趣味に向ける人間のエネルギーってすごいやろ。土日しか時間がないのにプロ顔負けの料理をつくるワーキングマザーもおるし、超絶技巧を持ったアマチュアギタリストもおる。最近は趣味をYouTubeで披露して金儲けする人も増えてきたけど、ごく一部や。多くの人は一円の得にもならんのに短い土日で職人技を磨いとる」
たしかに、すごい人はすごい。
「さて、アンチワーク哲学は、この現象を説明することができる。単に『ふーん、人間はよくわからないことにも熱中するんだねぇ・・・』と傍観するだけではない、深淵な哲学なんやで」
ニケは自分がバカにされても笑っているくせに、たまにこうした自慢話を挟む。プライドが低いのか、高いのか。
「アンチワーク哲学がすごいのはわかったよ。じゃあ早く教えてくれる?」
「順を追って説明するで。人間の欲望は変化を起こすことを求めるって話をしたやろ。そして人間は、変化させる能力を増大させたがるねん」
「どういうこと?」
「赤ちゃんがなぜハイハイを習得するかわかるか?」
赤ちゃんがハイハイする理由? それは「そういうものだから」としか考えたことはない。と言うよりも、考えようとしたことすらない。
「どうだろう。わからない」
「不思議やと思わんか? 別に寝転がって泣き喚いていたらママがおっぱいをくれるし、温かいベッドで眠ることができる。わざわざハイハイする必要はないと思わんか?」
「でも、それじゃ退屈なんじゃない?」
「そう。退屈なんや。人間は退屈を紛らわさないと生きていけない。なら、人間はどうやって退屈を紛らわす?」
「それは・・・行為?」
「せや。でも、行為やったらなんでもええわけやない。赤ちゃんも、手足をばたつかせるという行為なら、生まれた瞬間からできる。はじめは自分の意志で手足が動かせるという変化を見て楽しんでいるもんや」
「へぇ。赤ちゃんを育てたことがないから知らないけど、そんなことで楽しめるなら羨ましいね」
「でもな、ずっとやってたら、手足がばたつくというだけの変化に飽きる。だから次はハイハイをして、自分が手足を特定の方法で動かせば、スムーズに視界が変化していくという現象を発見する。これは赤ちゃんからすれば天にも昇る快感やろなぁ」
「快感・・・?」
はじめてハイハイをしたときのことなんて当然覚えていないけど、少し想像してみる。ずっと天井を見つめていただけの暮らしだったのに、突然、自分の意志でどこにでも行けるようになる。きっと、薄暗い監獄の中から自由の荒野へと抜け出したような感覚なのだろう。
「でもな、それもすぐに飽きる。次はボールを投げたらボールが飛んでいくという変化を見てきゃきゃって笑いはじめる。で、また飽きる。次は立って歩いて、走る。そうすると、またハイハイとは異なる視点の変化を引き起こして楽しむことができる。そのうち道具を使うことを覚える。三輪車に乗ったり、自転車に乗ったり。大人になればバイクに乗ったり、車に乗ったりすることで可能な変化を増やしていく」
「大人になっても、そのプロセスは続いてるんだね」
「そうや。スコップで穴を掘るのも、包丁で魚を三枚におろすのも、ゴルフに夢中になるのも、自分の意志で変化を起こすことが目的や。人は身体や道具の使い方を学んで影響力を拡大させていく。大人もそれに快感を覚えるわけや」
「大人も快感を覚えるの?」
「何歳になっても、できることが増えたら嬉しいやろ?」
そう言われれば、はじめて自転車に乗ったとき。連立方程式の解き方がわかったとき。ペン回しができたとき。興奮した気持ちを思い出した。
「たしかにそうだね」
「つまり人間は力への意志に突き動かされているわけや」
「力への意志?」
またニケはよくわからない単語を持ち出してきた。
「そう。アンチワーク哲学では、自分の意志で変化を起こす能力を増大させるエネルギーを、とある哲学者の言葉を拝借して力への意志と呼んでいる。まぁ別に覚えんでも構わん。テストじゃないんやからな」
「じゃあどうして言ったの?」
「定期的にカッコいい単語を出しとかんと、哲学者っぽくないやろ?」
また見栄を張る。やっぱり自意識過剰なんだろうか?
「でも、力への意志って言われても、なんだかわかりにくいよ」
「そうか・・・ほな成長欲はどうや?」
成長欲。まだそっちの方が分かりやすい気がする。
「まだ成長欲の方がマシかな」
「どっちでもええわ。まぁ要するにや、人間には力への意志があるから、永遠にレベル1のままダラダラ過ごすような人生を望むことはあり得ないっていうことや」
永遠にレベル1の人生。たしかにそれはひどく退屈そうだ。
「だから結局、人間はほっといてもなんらかのプロジェクトに取り組むし、スキルアップを志すもんや。家の中でアニメをダラダラ観てるだけの人生に満足できる人なんかおらんねん」
「でもさ。ニケは家でダラダラとアニメを観ているニートなんでしょ?」
「あほか。こうやって壮大な哲学体系を構築するという偉大なプロジェクトに邁進してるやろが」
「偉大って、自分で言うんだね」
「なんでも繰り返し言ってたら本当っぽく聞こえてくるもんやろ? ヒトラーもそんなこと言ってたで」
ヒトラーを根拠にされても説得力はない。というか、やっぱり倫理観が欠けているな、この男は。
「それにな、周りのニート友達にもそんな奴はほとんどおらんか、おったとしても精神的に参ってるケースが多い。逆に打ち込める趣味か仕事かを見つけたらイキイキしはじめるんや。ほんで自分が成長することに喜びを感じるようになる」
「それは、力への意志があるから?」
「そう。ニートってな。『毎日ダラダラ過ごせて羨ましいわぁ』的な嫌味をよく言われるねん。でも、レベル1のままなにもしないような生活は人間にとって羨ましくもなんともない。ということは・・・」
「ということは・・・?」
「ベーシックインカムを配ったらみんなダラダラ過ごすっていう発想は、明らかに間違ってる」