ニートは正義のレジスタンス

「みんながなにかに熱中することは理解したよ。でもそれが畑仕事や子どもの世話に向かうとは限らないんじゃない? 僕だったら好きなゲームを極めようとするし・・・」

「それはそれで素晴らしいことや」

「え?」

 ゲームに熱中することが素晴らしい? いったいどういうことだろう?

「現代の労働の大半が無駄であって、やればやるだけ社会が損をするって話はしたな」

 少し前の方の話を思い出す。クソみたいな広告や、保険の営業で疲弊する女性。捨てられる恵方巻き。

「そうだね」

「無駄な労働をするくらいなら、ゲームしている方が偉いやろ? 労働はやればやるだけ本人も周りも不幸になるんや。せめて本人だけでも楽しい方がええんちゃうか?」

 言われてみればそうだ。本当に労働が無駄なのだとすれば、やらない方がマシだ。でも・・・

「ゲームしたければ好きなだけゲームすればええ。ほんで、人の役に立ちたくなったら役に立てばええ。どのみち人は役に立つことを望むんやから、社会なんか勝手に成立するわ」

 そんなに簡単なのだろうか? というか、哲学者がそんなにテキトーでいいんだろうか?

「社会ってそんなに簡単に成立するの?」

「大丈夫や。そもそもな、『社会が成立する』ってどういうことか、考えたことあるか?」

「出たよ。ニケの『そもそも論』」

「ええから考えてみてくれや」

「えっと・・・まず第一にはみんなが生き延びることだよね。ご飯を食べられて、家があって、電気やガスや水道が使えて・・・」

「まぁそんなところやろな。でもな、現代人にとってご飯をつくることはほとんど娯楽みたいなもんや」

「どういうこと? 食べないと生きていけないよね?」

「完全にゼロにはできへん。でもな、そもそも現代は餓死する人より食い過ぎて死ぬ人の方が多い。道歩いてるおっさんもオバハンも、だいたい腹出てるし、ダイエット食品なんかバカみたいに売れてるやろ? つまり食わんでもええもんわざわざ食ってるってことや」

「まぁ、たしかにそうだね」

 ダイエットに夢中になる親戚のおばさんたちの姿を思い浮かべながら、僕は返事をした。

「それにな、パンみたいなシンプルな食べ物でも必要以上の手間がかけられとる」

「どういうこと? パンなんて質素な食事の代表例だと思うけど」

「パンって麦をわざわざ脱穀して粉にして捏ねて発酵させて焼いてから食うやろ? 生き延びるためだけやったら、そんなことせんでも麦をお粥にして食ってもええはずやねん。でも、『生き延びるため』をはるかに超えた目的を持って、人間はパンをつくって食ってるわけや。その大部分は『楽しい』とか『嬉しい』とかそういう目的のためなんや」

「だったらなに? パンがつくられなくなってもお粥を食べて我慢しろってこと?」

「違う。もっと肩の力を抜けばええってことや。そもそも人間は『楽しい』とか『嬉しい』という気持ちのためにパンをつくってた。食べるときだけじゃなくて、つくる過程もきっと楽しかったはずや」

「パンをつくる過程が楽しかった?」

「せや。はじめてパンを発明した人は、苦しみながらパンを焼いてたと思うか?」

 少し想像してみる。きっとその人は、夢中になって実験室にこもる科学者のように、その過程を楽しんでいただろう。決して『生き延びなければ・・・』などと焦燥感に駆り立てられていたわけではないはずだ。

「きっと楽しかっただろうね」

「やろ? 『生き延びる』とかそんなことは微塵も考えてなかったはずやで。もともとパンを焼くことも、パンを食べることも遊び半分やねん。それがいつの間にか、『生き延びるため』というネガティブな動機にすり替わってしまった。いまでもパンをつくるのはやらんでもええ遊び半分のものや。それやのに強制的な労働やと俺らは思い込んでるねん」

 パンを焼くことは遊び半分? そんな風に考えたこともなかった。人間の人生はずっと昔から、ただ生き延びるために苦しい労働に埋め尽くされて、その隙間にわずかな余暇を許されているものだと思い込んでいた。

「アホらしいと思わんか? やってることは別にやらんでもええ娯楽やのに、それが『生き延びるため』となかんとか言って自分らを追い込んで、苦しんでるわけや。なら『生き延びるため』なんて考える必要はない。やってる本人が楽しいかどうかだけを考えるべきなんや」

「やってる本人が楽しいかどうか・・・?」

「そう。それだけを考えればええ。ほかの例も挙げよか。狩猟採集民の人らの狩猟って、得られるカロリーよりも、それで消費するカロリーの方が大きいケースが多いらしいわ」

「え? それってつまり?」

「徒労ってやつや。ただし、生き延びるためのカロリーを目的にするならの話やな」

「でも、彼らにとってカロリーは最優先事項じゃなかった?」

「彼らも気づいてたはずや。生きることだけを優先するなら、狩猟なんかやめて朝から晩まで小麦を育てた方がいいって。でも彼らにとってそれはつまらなかった。だから好きな狩猟に夢中になってたんや。彼らにとって好きなことをすることが最重要事項やったんや」

「好きなことをすることが、最重要事項?」

「せや。それで社会は成立するんや。だからな、さっきは広告や営業が悪かのように言うたけど、それが好きなことなら好きなだけやったらええねん」

「そうなの? でも無駄なんでしょ?」

「『こんなもの売りたくないなぁ』とか『こんな風に営業したら迷惑だろうなぁ』とか思いながら営業をするのはあほらしいけど『これをみんなに知って欲しい!』『これを必要な人に届けたい!』と思って誰かに伝える行為は、その人にとっての『好きなこと』なんちゃうか?」

 たしかに、好きな漫画やゲームを誰かに教えてあげるのは楽しい。広告や営業もそんな気持ちで取り組むなら、きっと喜びに変わるだろう。それはもう「労働」ではなくなっているはずだ。

「『無駄か? 無駄じゃないか?』という基準で考えるなら、パンすらも無駄ってことになる。だからそんなことは考える必要はない。みんなが『好きなこと』をすれば楽しいし、ちょっとくらいの苦痛は快感に変わる。はじめに言ったやろ。『役に立つ』ってのがどういうことか」

 冒頭の会話を思い出した。そういえば、僕を喜ばせたり、僕の苦しみを取り除いたりすることは役に立つことだって、ニケは言ったっけ。

「少年が嫌な労働をしないこと、労働をやめて好きなことをすることは、無条件にいいことなんや」

 労働をやめて好きなことをするのはいいこと。なぜなら、僕が幸福になるから。同じようにみんなが労働をやめて好きなことをすれば、みんなが幸福になれる。社会も勝手に成り立つ。ニケはそう言う。

 逆に大人たちはこう言う。好きなことを我慢して勉強し、労働しなければ社会は成り立たず、僕も幸福になれない。だから我慢しなさい、と。

 僕はどちらを信じるべきだろうか。どちらを信じた方が楽しく生きられるだろうか?

「それにな、無批判で労働を続けるってことは、無駄な労働が存在する社会を許容することになるやろ?」

「え? そうなの?」

「それって正しい行いやと思うか? 本当に無駄なんやったら、未来の子どもたちには労働のない社会をプレゼントしたいとは思わんか?」

 さっきニケは、昔は戦争が正義だったと話していたっけ。現代では労働は正義。でも、それが嘘だったなら? 戦争をなくすべきなのと同じように、労働もなくすべきなのだろうか?

「俺は言い切っていいと思う。労働は悪や」

「労働は悪・・・」

「いまとなれば戦争は悪や。でも戦時中は、戦争は正義やった。当時にもし『戦争をやめよう』と声をあげる人たちがたくさん現れていたら、日本に核爆弾が落とされへんかったかもしらん。だから『労働は正義』とされている現代でも、勇気を持って『労働は悪』と叫んだり、ニートのように労働を拒否したりすることは、きっと未来への有益な貢献になるはずや」

 そんなことができるのだろうか? もしそんなことをすれば・・・

「でも、頑張って労働してる人に対して『労働は悪』なんて言ったら怒るんじゃない?」

「怒ると思う。でも、怒らせたらええねん」

「え?」

「たとえば俺が戦時中に戦争に反対していたとして、少年は『頑張って戦争してる兵隊さんが可哀想』って言うか?」

「それは・・・」

 もしかしたら言うかもしれない。戦争が正義の時代だったなら。

「怒られようがなにしようが、言うべきことは言うべきや。社会を変えようとするなら、怒られるのは当たり前やねん」