労働が生まれた日

「でもさ、さっき言ったよね? 他人を命令に従わせることはむずかしいって」

「そう。ええところに気づいたな。実際、狩猟や採集といった生活をしている人々の間では、命令のない平等な社会を実現しているケースは多い」

「そうなの?」

「一概には言えんけど、明らかにその傾向はある。人間の社会は命令を社会から排除することが可能やったんや。なんでやと思う?」

「えっと・・・」

 命令のない社会。急に言われれば、なかなかイメージが湧かない。

「他人を命令に従わせるためにはなにが必要なんやった?」

「暴力?」

「そう。でもな、めちゃめちゃ力の強い奴がおったとしても、二人か三人相手には勝たれへんやろ?」

「まぁ、多勢に無勢だね」

「それに、一回や二回くらい理不尽な命令を聞いてくれたとしても、永遠に従わせようとしたら、さすがに逃げるやろ?」

「たしかに・・・」

「少年は火星に行きたいか?」

「え? どうだろう? チャンスがあるなら行ってみたいけど、まだ無理だよね?」

「せやろ。無理やから諦めてるやろ?」

「諦めてるっていうか・・・そもそも諦める以前の問題というか・・・」

 はじめから選択肢にのぼってすらいない。そういう行為に対して「諦める」と言ってもいいものか?

「たぶん大昔の人にとっては『他人を支配したい』っていう欲望は『火星に行きたい』みたいな無理難題やったんや。少年は火星に行きたくて夜も眠れないなんてことはないやろ?」

 あるはずがない。そんなことに悩んでいたなら、もっと幸せな人生だったろうに。

「まぁそうだね」

「だから支配なんかしたいと思わず、人々は好きなことをやってた。他に楽しいことはいっぱいあったからそれでうまく回ってたんやろな。ところが、なんかの拍子に支配が成功して、永続化してしまった」

「それは・・・どうやって?」

「わからん」

「え?」

「そんなもん、証拠が残ってるわけないやろ? どの時代にそのきっかけがあったかもわからんわけやし、ぜんぶ調べようと思ったら時間がなんぼあっても足らん。それに、日本とヨーロッパでまったく同じ歴史を辿るわけやない。いろんな社会でいろんなストーリーがあったと想像するしかないんや」

「なにそれ。科学的じゃないね」

「想像することは科学の第一歩やろ」

 ああ言えばこう言う。やっぱりニケにはうまく言いくるめられているような気もする。

「少年の質問は『なぜ人間の社会に強制や労働が誕生したの?』やったな。それに対しては『なんかの拍子に支配に向かった力への意志が、支配に成功したから』というのが俺の回答や」

「曖昧だね」

「ほんでな。命令されたらモチベーションがさがるって話をしたやろ」

「『ティッシュをよこせ!』ってやつだね」

「そう。つまり支配に成功して命令が永続化すると、人間は命令される行為がそもそも嫌な行為やと思いこんだんや。命令される行為ってなんやと思う?」

「それは・・・支配者に貢献すること?」

「せや。『オムライスをつくれ』とかそんな類の貢献を命令されたはずや。逆に、『俺がつくったオムライスを食え! さもなければ殺す』とは命令せんやろな。わざわざ命令しなくてもオムライスを勝手につくって渡せば食ってくれる人はおるんやから」

「たしかにそうだね」

 オムライスをつくって食べさせてくる王様を想像してみる。実際にいたらちょっと可愛いかもしれない。でも、逆につくらせようとするなら? 憎たらしい権力者の完成だ。

「貢献を命令されるうちに、貢献は労働化した。そして人間は貢献を欲望することのない怠惰な存在に貶められた。それは権力者にとっては都合がよかった」

「どうして? 権力者だって自発的に貢献してくれた方が嬉しいんじゃないの?」

「逆や。怠惰でいてくれた方が『こいつらは貢献を嫌がる怠惰な奴らやから、俺が命令せなしゃーないわ』っていう大義名分になるやろ。そうすれば権力が正当化される。権力者が欲望するのはなにか覚えてるか?」

「えっと・・・他人を道具のように使って、変化を起こす能力を増大させること?」

「そう。権力者は自分の命令で人々が手足のように動くのが見たい。子どもがラジコンに夢中になるのと同じや。ラジコンが人間に代わったというだけでな」

「でも、もし人間が命令しなくても貢献してくれるなら、どうしてはじめからお願いしなかったんだろうね。お願いしていたらオムライスをつくってくれたかもしれないのに」

「お願いっていうのは、拒否されるリスクがあるやろ? だから拒否されないように相手の気分や状況に配慮してからお願いせなあかん。たぶん支配者と呼ばれる人らは、これがめんどくさかった。自分の都合で、自分が命じるがままに行動させたかったんやろな」