貨幣権力説について
強制されずとも、今の社会と同程度かそれ以上に人間が貢献し合うのであれば、強制されない方がいい。このことに異論はないでしょう。
しかし、そもそも「強制」という言葉に違和感を抱く人もいるはずです。私たちは牢屋に閉じ込められて強制労働させられる奴隷ではありませんから。しかし、お金を稼がなければ生きていけないと誰もが感じている以上、労働には強制という側面が常に存在しています。つまり、お金は強制や命令のツールとして機能していると考えられます。この考え方をアンチワーク哲学では「貨幣権力説」と呼びます(権力とは「他者を強制する力」と定義して問題ないでしょう)。
お金は価値の尺度であり、価値の貯蔵手段であり、価値の交換手段である。これがお金に関する教科書的な説明です。しかし、「価値」がなにを意味するのかまで、教科書は教えてくれません。アンチワーク哲学ではお金が体現する「価値」とは他者を強制的に働かせる能力であると考えます。労働者を雇用する際や、サービスを購入する際は言わずもがなですが、ものを購入する際はそこに費やされた労働を購入しているとも考えられます。それは実質的にお金によって他者に労働を命令していると言っても差し支えないでしょう。
これは権力と支配についての考察を繰り広げた社会学者マックス・ウェーバーの考えとは若干異なります。彼は『権力と支配』で「どの支配も、経済的手段を用いるとはかぎらない。まして、支配というものが、すべて経済上の目的をもつばあいは、はるかにすくない」と指摘しました(「経済的」とは「金銭的」と言い換えても差し支えないでしょう)。また、その上で支配を成り立たせる方法を「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」の三つに分類しました。
ウェーバーの指摘にも一理あります。お金は人々を支配するツールになる一方で、クビを覚悟で命令に逆らうことは可能ですし、実際にそうする人は少ないながらも存在します。だからこそ、その支配をより強固にするために経営者は『論語』(伝統的支配の教科書と言えます)を読んだり『君主論』(カリスマ的支配の教科書と言えます)を読んだりして、人心掌握術をマスターするわけです。哲学者G・ドゥルーズと精神分析家F・ガタリは人間の欲望についての理論を展開した共著『アンチ・オイディプス』で「抑制、階層、隷属そのものが欲望されるようにすることが、社会にとって死活にかかわる重大事」と書きました。人々が支配の正当性を信じ切って、支配そのものを欲望するようになれば、その支配は安泰というわけです。このように考えれば、ウェーバーが言うように経済的手段以外の支配の手法が重要であるという結論に至るのは自然です。
実際、人は支配されることすら欲望します。つまり労働そのものを欲望し始めます。これはアンチワーク哲学では「社畜心理」と呼ぶ現象で、社畜が飲み屋で「俺は先月、残業百時間だったぜ!」と自虐風自慢をする状況に観察することができます。なぜこんなことが起きるのでしょうか?
人間にとって支配されることが避けがたい状況で、支配に対して強烈な不満を抱き続けることはむずかしいのです。現実(服従している状況)と心理(服従に不満を抱いている)が不一致のまま過ごすことは、心理学者が「認知的不協和」と呼ぶストレスを引き起こします。両者を一致させるためには、どちらかを変えなければならない。しかし、支配されている現実を変えるのはむずかしい。なら、心理の方を変えればいい。「この状況は仕方がない」「むしろ歯を食いしばって労働することは誇らしいことだ」といった方向へ、支配される人々は自分の心理を調整していきます(この現象をもっとも鮮やかに描写したのはほかならぬニーチェです)。裏を返せば、人間にとって「この行動は自分で選択している」という実感を抱くことは根源的な欲望であるとも考えられるでしょう。そう実感することは、服従を欲望してでも成し遂げようとするのですから。
しかし、服従を欲望しているとはいえ、それは強烈な欲望であるとは言いがたいでしょう。飲み屋で社畜自慢をする人も、同じ条件で残業がない会社からオファーがあればきっと受けるはずです。牢獄の鍵が手に入ったなら、牢獄への愛など消し飛ぶ。その程度の欲望なのです。つまり、経済的な支配の根拠が失われれば、支配の三分類など即座に崩れ去るということ。マックス・ウェーバーの主張とアンチワーク哲学の相違点はここにあります。
アンチワーク哲学はマックス・ウェーバーの考え方を否定はしないものの、やはり支配の基礎にはお金があり、前述の三分類は支配構造を正当化し、安定化させるための後付けの理由であると考えています。
【参考文献】
G・ドゥルーズ+F・ガタリ『アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症(上)』河出文庫
『論語』講談社学術文庫
マキアベリ『君主論』講談社学術文庫
マックス・ウェーバー『権力と支配』講談社学術文庫
ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫