貢献欲と血縁概念について
アンチワーク哲学においては、人間は本来「貢献欲」と呼ばれる欲望を持ち、特別な理由(とんでもなく相手が無愛想である、など)がない限り、万人に対して貢献することを欲望すると考えます。そして、貢献の対象を限定しようとする「血縁」という概念がフィクションであると主張します。
しかし、このような発想は労働が支配する現代社会においては頓珍漢なものであると捉えられています。なぜか? 貢献欲が血縁以外に発揮されてしまうなら、労働を成り立たせる命令や支配にまつわるイデオロギーが崩壊してしまうからです。
「人は貢献欲を持たず、命令されなければ他者に貢献しない」という前提がなければ命令や支配の正当性は失われます。もし人が普遍的に貢献欲を持つなら、命令や支配が必要ないことは明らかでしょう。しかし無条件の貢献なくして、家庭生活・・・特に子育ては成り立たないため、人が無条件の貢献を一切行わないとみなすことは不可能です。だからこそ、「子どもに無条件の貢献を行うのは、それは血縁関係者だからである(逆に血縁がないなら、そのような貢献は行われない)」という、血縁関係を特別視する説明が必要になりました。あくまで血縁関係は例外であり、人間は本来、無条件の貢献など行わない、というわけです。
この説明に収まりが悪いのは夫婦の存在です。夫婦はもともと赤の他人であり、血縁関係はありません。しかし、明らかに無条件に貢献し合っています。労働社会はこの現象に対する回答として、「愛」を祀り上げるという手法を選択しました。世間に流布するラブソングは明らかに大げさな言葉(「世界中を敵に回しても・・・」云々)で愛情を表現します。まるで、それだけのことをしなければ「愛」とは呼べないと言われているようです。
また、心理学者エーリッヒ・フロムによるベストセラー『愛するということ』によっても、この傾向は強化されています。彼にとって「愛」とは技術であり、トレーニングを積んで習得しなければならないものでした。この本を読んだ人の大半は次のように感じたことでしょう。「うわぁ大変そう。自分には無理かも・・・」。まるで、血縁関係にない人との間で無条件の貢献を行うことはとにかくむずかしく、仮に夫婦間でそれを達成したとしても万人に拡大することは不可能であると、労働社会が私たちに繰り返し説得しているかのようです。
この手の説明は、進化生物学によっても下支えされています。リチャード・ドーキンスが『利己的な遺伝子』というショッキングな書物を書いてから、あらゆる領域の学者たちは「すべての行為の真の目的は遺伝子拡散である」というシニカルな見方を内面化しました。この見方に則れば、無条件の貢献すらも利己的な行為に過ぎなくなります。つまり、自分に類似した遺伝子を持つ血縁関係者が生き延びる可能性を高めるためか、後々に見返りを獲得し、自分や自分の血縁関係者がメリットを享受するため、というわけです。
このような解釈は常に可能ではあります。しかし、物語の中でニケが指摘したように無意味に斜に構えた中二病的な態度であると言えるでしょう。この中二病的態度を霊長類の道徳的行動を研究するフランス・ドゥ・ヴァールは次のように批判しました。「テーブルの上に置かれた食べ物をすべて一人で食べるのも、お腹を空かせた赤の他人に分けてあげるのもまったくおなじくらい利己的だというのなら、言語はもう使い物にならなくなってしまったも同然だ」。
知的に誠実な態度をとりたいなら、観察された事実を平等に扱う必要があるでしょう。食べる人を見て「食を欲した」と解釈するなら、貢献する人を見て「貢献を欲した」と解釈すべきなのです。人は明らかに見ず知らずの他人に優しくすることに喜びを感じます。それは「貢献欲」の名に値するのです。
【参考文献】
リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子 40周年記念版』紀伊國屋書店
エーリッヒ・フロム『愛するということ』紀伊国屋書店
フランス・ドゥ・ヴァ―ル『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』紀伊国屋書店