テクノロジーと学歴について

 文献物語の中でニケは、現代においてテクノロジーはほとんど発展していないと指摘しました。同様の指摘は多数の論者によって行われています。たとえばブレグマンは「戦後の時代が、洗濯機や冷蔵庫やスペースシャトルやピルといった素晴らしい発明をもたらしたのに対して、最近わたしたちがやっていることは、数年前に買った電話にわずかな改良を加えることだけだ」と書きました。一方でグレーバーはこう書きました。「もし一九五〇年代のSFファンが現代にやってきて、ここ六〇年の一番すごいテクノロジーの発明がなにかを聞いて、失望以外の反応が返ってくるとは想像しがたい。世界のどこでも超高速でアクセスできる図書館と郵便局とメールオーダーのカタログの集合体にすぎないものをきみたちはもてはやしているのか、と」。

 このような見解を定量的なデータと共に裏付けたのは技術革新史の研究者であるバーツラフ・シュミルです。彼は、情報技術の指数関数的な成長が起きていたことは認めつつ(それすらも半導体の物理的な成長限界にぶちあたり、停滞していると指摘しています)、「現代経済におけるほぼすべての分野では、食糧生産から長距離輸送に至るまで、イノベーションが加速化していることを示す証拠はいっさいない」と結論づけています。情報技術はあらゆる分野のイノベーションを加速化させるかのように喧伝されているものの、実際のところ、その証拠はないということです。

 もし彼らが正しいのなら、「みんなが勉強すれば社会が豊かになる」「お金持ちは社会に貢献しているがゆえにお金持ちである」といった社会に漠然と漂っている前提が誤っていることになります。そして、物語の中でニケが指摘したように、受験戦争が実質的に肩書の獲得競争と化していることも明らかになります。なぜなら、もし本当に教育が社会やテクノロジーの発展に寄与する能力を育んでいるのであれば、教育への投資と比例して経済が成長しテクノロジーが発展していなければ辻褄が合わないからです。しかし、実際はその逆。経済成長は止まり(この点は異論はないでしょう)、テクノロジーも停滞しています(定量的なデータを示すシュミルに反論するのは容易ではないでしょう)。つまり、学歴は単に肩書を付与しているだけという結論は避けられません。

 学歴の実質的な効果が肩書の付与であることは社会学者ピエール・ブルデューによっても指摘されています。彼は、肩書が表象する能力を実際に保有しているのだと周囲に納得させるために人々は振る舞いや趣味の領域を洗練させ、その結果、学歴の主要な効果が肩書の付与であることは巧妙に隠蔽されていると主張しました。なにに隠蔽されているのかと言えば、それは実力主義的なイデオロギーによってでしょう。現代では学歴によって賃金の格差が生じていますが、その格差は「実力によるもの」であるとして正当化されます。経済学者のトマ・ピケティは次のように指摘しました。「あらゆる人間社会は、その格差を正当化せざるを得ない。格差の理由がみつからないと、政治的、社会的な構築物が崩壊しかねない。だからどんな時代にも、既存の格差や、あるべき格差と考えるものを正当化するために、各種の相反する言説やイデオロギーが発達する」。そして、格差は政治的でイデオロギー的な理由に由来するとピケティは喝破しました。

 おそらく「みんなが勉強すれば社会が発展する」「現代ではテクノロジーが加速度的に発展している」という世間一般に流布する考えも、格差(支配と言い換えてもいいでしょう)を正当化する1つのイデオロギーなのでしょう。

【参考文献】

ルドガー・ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』文藝春秋
デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』以文社
バーツラフ・シュミル『Invention and Innovation』河出書房新社
ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン 社会的判断力批判(Ⅰ)』藤原書店
トマ・ピケティ『資本とイデオロギー』みすず書房