労働の無意味さについて

 それでもなお、心配性の人はいるでしょう。ベーシックインカムが実現された社会でも農業や介護、物流といったエッセンシャルワーク(アンチワーク哲学の定義では「経済活動」)に一定数の人々が取り組む保証が欲しい。そんな気持ちは理解できます。しかし、この心配はむしろ「逆」に向けるべきかもしれません。

 どういうことか? 現代ではエッセンシャルワークほど給料が安く、金銭的なモチベーションを満たせる可能性はほとんど失われていると言っても過言ではありません(実際にエッセンシャルワーカーほど人手不足です)。一方で、一見すると無意味な仕事の方が給料が高く、たくさんの人がエントリーするという事態に陥っています。つまり「社会を成り立たせるエッセンシャルワークに取り組む人を確保するためには、金銭で動機づけしなければならない(ゆえにベーシックインカムはあり得ない)」という主張は誤っていて、むしろ逆である可能性すらあります。「金銭での動機づけはエッセンシャルワークへ就く動機を減衰させており、エッセンシャルワーカーを増やすためには(金銭的動機を一定程度は度外視させることが可能になる)ベーシックインカムが欠かせない」と。

 エッセンシャルワーカーほど給料が安く、非エッセンシャルワーカーほど給料が高いことを指摘した代表的な人物としてデヴィッド・グレーバーが挙げられます。彼の著書『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』においては、現代の労働の三七%から四〇%が無駄な仕事(彼の用語で言う「ブルシット・ジョブ」)なのではないかと示唆されています。

 ブルシット・ジョブが増える要因として、本書の物語内では広告や営業活動(アンチワーク哲学の定義では『政治活動』)にフォーカスしました。資本主義社会において企業は配当や利息の支払いのため果てしない利潤追求を余儀なくされます。しかし人々が必要とするものやサービスの総量は限られています。なら、まだ誰もものを売りつけていない未開の地へと売りに行くわけですが、現代ではもはや海外にも未開の地は残っていません。ならば、必要ないものであろうが誰彼かわまず売りつけなければなりません(このプロセスをユーモアたっぷりに皮肉ったのがマルクスの娘婿であるポール・ラファルグです)。そのために欲望を煽り立てる広告や営業活動が展開されます。物語内でも示唆した通り、広告や営業活動はそれ自体が人々の幸福に資するわけではないため、これらの活動が増加することは望ましくありません。しかし、残念ながら現代においては広告業界の市場規模は右肩あがりです(総務省「令和4年版 情報通信白書」などを参照してください)。

 また、それだけではなくパフォーマンス評価のための無意味な仕事が増えていることも歴史家ジェリー・Z・ミュラーによって指摘されています。ミュラーによれば、利潤追求のために企業規模を拡大すればトップから現場を直接評価することがむずかしくなり、数字の羅列によって簡単に評価できるシステムが好まれていく傾向にあります。しかし、数字に頼った評価システムは様々な問題を引き起こし、それに対し過剰な規則作りや、新たな評価制度の導入によって対処が図られ、それもまたさらなる問題を引き起こす。このようなプロセスを経て無意味な仕事が芋づる式に増えていると、ミュラーは指摘します(オフィスワーカーでこの現象に身に覚えがない人は少ないでしょう)。当たり前ですが、パフォーマンス評価や規則それ自体は、人々の幸福には貢献しませんし、楽しくもありません。つまり、これらも広告や営業同様に可能な限り少なく抑えられるべき活動なのですが、そうなってはいないことは明らかでしょう。

 このように考えれば、「人々の気晴らしがギャンブルやゲームに向かうのではないか?」という疑問が、いかに的外れなのかが理解できます。グレーバーはベーシックインカムが実現した社会について次のように言いました。「自由な社会の一定の層が、それ以外の人々からすればバカバカしいとか無駄だとかおもえる企てに邁進するであろうことはあきらかである。しかし、そのような層が一〇%や二〇%を超えるとはとても想像しがたい。ところが、である。富裕国の三七%から四〇%の労働者が、すでに自分の仕事を無駄だと感じているのだ。(中略)もし、あらゆる人々が、どうすれば最もよいかたちで人類に有用なことをなしうるかを、なんの制約もなしに、みずからの意志で決定できるとすれば、いまあるものよりも労働の配分が非効率になるということがはたしてありうるだろうか?」。

【参考文献】

デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店
ポール・ラファルグ『怠ける権利』平凡社
ジェリー・Z・ミラー『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』みすず書房