第五章 BIが引き起こす様々なメリット
四章では、BIの骨子が支配からの解放であることを指摘した。支配からの解放は、単なる労働問題の解消にとどまらず、ありとあらゆる問題を解決していくと私は考える。
どういうことか? 順を追って見ていこう。
■家族や学校のトラブル解消
上司に不満を持つ会社員がいつでも離れられるのと同じように、例えば夫の暴力によって支配されている女性も、いつでも家庭を離れることができる。BIのない社会では、子どもを持つ女性が離婚した途端に夫の稼ぎを頼ることができなくなり、貧困に突き落とされる。子を想う親ならば、多少の暴力にも耐えてしまうだろう。しかし、BIが自分や子どもにも支給されるなら、暴力に耐える必要がなくなる。即座に離婚すればいいのだ(日本中で離婚ラッシュが巻き起こるリスクがあるとしても、子どもや女性が暴力に耐えなければならない状況よりもマシであることに異論はないだろう)。
そもそも、労働のストレスが著しく減少した社会(かつ、いつでも妻や子どもが自分の元を離れることが可能であると分かりきっている社会)で、妻に対して暴力を振るうような男がどれだけいるかも疑問だろう。彼だって妻や子どもを必要としているはずだ。少なくともBIがない社会に生きていた頃よりは、家族を大切にしようと思うはずだ。
また、いじめ問題も同様である。誰かにいじめられても学校を離れられない主要な原因は、学校を辞めれば将来まともな仕事につくことができず、路頭に迷う可能性があるからだ。BIによって路頭に迷う可能性が排除されたなら、今よりも「逃げる」という選択を取ることが容易になる。親の方も懐に余裕が生まれ、モンテッソーリ学校といった公立学校以外のオルタナティブ教育を検討することが可能になる。
■家族の形は変わっていく
さて、このような社会でも、家庭内暴力に悩まされる子どもや、学校に居場所がないに子どもが完全にゼロにはなるまい。だが、BIのある社会ならば、そんな子どもがトー横やグリ下でたむろしているなら、「うちで面倒みようか?」と声をかけることも比較的、容易だろう。
子どもを一人引き取れば、その子に支給されるBIも家計の足しになる。子ども一人分の食費や光熱費なら、BIのごく一部で賄うことが可能だ。これからの日本に、かつての子ども部屋と、貢献欲を持て余した独居老人が増えることを考慮すれば、家出少年の引き取り手はいくらでもいるはずだ。
そもそも「生みの親より育ての親」という言葉があるくらい、血縁というのは曖昧な概念である(人間は親子でなくてもDNDが九九パーセントは一致している)。私たちは血縁があるから子どもを大切にするのではなく、目の前にいるから子どもを大切にする。
法務省がまとめる犯罪白書によれば、殺人の約半数は家庭内で起きている。むしろ血縁という概念に縛られすぎて、そこから逃れられないストレスの方が、現代社会に害をもたらしている可能性が高いのではないだろうか。
「そんなことでは家族の絆が失われる」と感じる人もいるかもしれない。だが、生殺与奪の権を握ることで強制的に保たれている絆など、本当の絆と呼べるだろうか? 真の絆とは、いつでもそこから離れられるが、それでも一緒にいたいと感じることを意味するのではないだろうか?
■少子化解決
いつでも離れられるとは言え、あちこちで家族崩壊が起きるような事態にはならないだろう。なぜなら、家庭内トラブルの主要な原因の一つである子育て問題も、解決に向かうと考えられるからである。
子どもの分もBIが支給されるなら、親たちは安心して子どもを産める。慌ただしく保育所に預けて、無理に働く必要もなくなる。じっくり子育てに専念すれば良い。
また、長期の育休を取得することによって昇進が危うくなったとしても路頭に迷うことがないのなら、男性の育児参加も進むことは間違いない。子育てにまつわる負担の押し付け合いや、金銭に関する意見の食い違いなど、問題の多くは解決に向かうだろう。
そして、その結果、少子化は解決に向かう。異次元の少子化対策とは、BIに相応しい呼称だろう。
■健康問題の改善
これまで指摘したように、BIは労働を喜びに変え、家庭や学校でのトラブルを減らす。そのような社会で精神を病む人が果たしてどれだけいるだろうか? ストレスから暴飲暴食、アルコールやタバコに走り、体を壊す人がどれだけいるだろうか? そもそも、貧困が健康に悪影響を及ぼすことは、様々な研究で指摘されているし、私たちの日常感覚とも一致する(三章で取り上げたルドガー・ブレグマン『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』においても、フリーマネーが健康に良い影響を与えた例が列挙されている)。
どの程度の改善が見られるかは、やってみなければわからない。だが、良い影響があることは間違いないだろう。そして、必然的に医療保険の財政的な負担も軽減されることになる(私は国債発行によってBIの財源を賄って問題ないと主張したが、それでもできることなら国債発行の額は少ない方が良いことは間違いない)。
■犯罪率の低下
健康問題と同様に、貧困と犯罪率の相関関係はよく知られているし、私たちの日常感覚とも一致する。「衣食足りて礼節を知る」なのだ。
そもそも、未来永劫まで生活が保証されている社会で、誰が強盗や空き巣、殺人、詐欺を働くだろうか? 先述の通り、殺人の半数は家庭内で起きていて、BIが実現した社会では誰もが簡単に家庭から逃れることができるのだ。罪を犯すまでストレスを溜め込む人など、ほとんどいなくなるだろう。
また、再犯率も低下していくことは間違いない。法務省によれば、二〇二〇年の再犯率は四九パーセントであった。このうち、犯罪を愛するどうしようもないサイコキラーはどれだけいるだろうか? 大半は、社会復帰しようにも過去の経歴を理由に採用を拒まれ、生活に困窮した結果、再犯を犯しているのではないだろうか?
犯罪率の低下は、警察、検察、裁判所、刑務所にまつわる膨大な税金の削減を可能にする。このことは健康問題と同じように、財政の健全化に貢献するはずだ。
■環境問題の改善
四章で指摘した通り、人々が支配から解放されれば、競争が抑制される。競争が抑制されるならば、わざわざ必要もない商品を売りつけることもないし、売れ残る商品を作る必要もない。無意味な労働のために建てられたオフィスビルや、それに使用されるパソコンの製造、エネルギーなど、すべて必要なくなる。
必然的に、環境問題は改善に向かっていくだろう。そもそも、好き好んで川に汚染物質を流したり、原生林を切り開こうとする人などいるはずもない。彼らも食い扶持のためにやっているのであり、できることなら石油を掘り出すことなく地中にとどめ、生態系を守り、海面上昇を防ぎたいと考えているはずだ(二酸化炭素が温暖化の原因なのかどうかは、私にはわからない。だが、それでも好き好んで二酸化炭素を排出したい人などいるはずもない)。
クーラーの温度を二八度に設定したり、プラスチックを何十種類も分別したりするくらいなら、環境なんて破壊されれば良いと考える人は多いだろう。だが、必要以上の労働を止めることで、BIが配られることで環境が守られるならば、万人がメリットを感じられるはずだ。
企業は私たちがマイバッグを持ち歩けば環境問題が解決されるかのように喧伝するが、そうではない。企業は売れ残るほどにマイバッグを作るからである。企業の競争と労働を減らすことが環境問題解決への最大の有効打になることは間違いない。
私は清貧思想を唱えているわけではない。私は人々が必要とするネットゲームや漫画、レジャー施設をなくすべきと主張しているのではなく、人々が必要としない広告や廃棄される商品、不要な労働をなくすべきであると主張しているのだ。私たちは生活に十分に満足しながら、環境問題を解決していくことができるだろう。
■イノベーションの活性化
さて、ここまで私は競争を悪者であるかのように描写してきた。これに対して「競争があるからこそ、イノベーションが活性化し、社会が発展してきたのだ」と反論したくてウズウズしている人もいるかもしれない。だが、テクノロジーの発展に関する書物(例えば、ウォルター・アイザックソン『イノベーターズ 天才、ハッカー、ギークがおりなすデジタル革命史』やクリス・ミラー『半導体戦争 世界最重要テクノロジーをめぐる国家間の攻防』など)を紐解けば、近年達成されたイノベーションの大半(例えばインターネットやコンピューターなど)は税金によって研究費を賄われた軍事技術の転用であることがすぐさま明らかになる。軍事技術の研究は当然、赤字であり、利益は眼中にない。真に重要なイノベーションが登場して即座に利益を上げることは稀であり、大半は、イノベーションが社会に普及するまでの間は赤字を垂れ流すのが普通である。このことから、イノベーションとは競争の外側にいる人々が起こすと考えるのが自然ではないだろうか?
となると、BIによってイノベーションは停滞するどころか、むしろ加速するとすら考えられる。なぜなら、当面は金を稼げないような研究にも、没頭することが可能になるからである。デヴィッド・グレーバーが『官僚制のユートピア テクノロジー、構造的愚かさ、リベラリズムの鉄則』で指摘するように、今や研究者は、重要な研究に取り組むためではなく、「自分の研究は重要である」とアピールするための書類仕事に時間を費やしている。「重要」とは「金を稼ぐ見込みがある」とほぼ同義である。「金を稼ぐ見込みがあるから、投資をしてくれ」と呼びかけなければ、研究者は研究に没頭する金を得ることができないのだ。そして、そんなことを繰り返しているうちに、研究のための時間が失われているのである。
そもそも競争が行き過ぎた二一世紀においては、イノベーションはほぼ停滞している。電子レンジや冷蔵庫、カラーテレビといったイノベーションが次々起こった二十世紀に比べて、現代のイノベーションの貧弱さには落胆させられる。カメラの数や充電方法の変更くらいしかアピールすることがなくなったiPhone。「世界を変えるテクノロジー!」と喧伝されるも、今やすっかり忘れ去られたブロックチェーンや5G、NFT。ChatGPTも、所詮は流行りのおもちゃであり、ハンドスピナーと変わらない。数年も経てば忘れ去られるだろう。
余談だが、私は「AIやロボットによって労働が代替されるからBIが実現可能である(BIによって富を分配しなければならない)」と主張しているわけではない。なぜなら、社会を成立させるのに必要な労働を代替するだけの性能をAIもロボットも持ち合わせていないからである。カフェ店員の仕事はコーヒーを淹れてレジを打つだけではない。テーブルを拭き、客席に落ちているゴミを拾い、ベビーカーの客のためにテーブルを整え、トイレを掃除し、サンドイッチを補充する。これだけの労働を代替するにはドラえもんレベルのロボットが必要だろうが、人類が二一世紀のうちにドラえもんを生み出せるなどと信じる人はどこにもいないだろう。
ChatGPTはたかだか文章を打ち込んでくれるだけである。文章を食って生きていくことはできない。ロボットはせいぜい配膳してくれる程度である。配膳だけが飲食店の仕事ではない。
私が「BIによって労働が労働でなくなる」と主張するのは、支配関係が崩壊すれば、苦行とされてきたテーブルを拭くような作業が、本当は喜びに満ち溢れていることに人々が気づくという意味である。「AIで自動化されて仕事がなくなるからBIを配ろう」という安易なテクノロジー楽観論は、端的に誤っているのである。