第六章 価値観はどう変わるか?
ここまで、BIがもたらすメリットを列挙してきた。だが、おそらく良い影響はこれだけにとどまることはない。これまで人々を支配してきた「金を稼がなければならない」という焦燥感が消え去ったとき、社会に蔓延している様々な価値観も変容を迫られることになる。価値観がどのように変わるのかを正確に描写することは不可能だが、それでも大まかに素描することは可能だろう。具体的に見ていこう。
■学歴至上主義の終焉
「安定」という言葉に魅了されない現代人は多くない。人々は自分の暮らしを安定させるために少しでも良い大学に入ろうとし、大手企業にエントリーシートを送る。しかしBIが支給される社会においては、良い大学や大手企業に入らなくても、万人が一生路頭に迷わないという意味の「安定」を手にすることになる。そうなると、安定志向は意味をなさなくなるだろう。
「そんなことになれば、誰も努力しなくなり、経済は停滞する」とBI反対論者は指摘するかもしれない。だが、よくよく考えて欲しい。現代の日本は誰しもが安定志向に取り憑かれ、受験戦争に膨大な努力を傾けているにもかかわらず、GDPは停滞しているのだ。
いまや大学全入時代である。大卒者の割合は右肩上がりで増加していることは疑いようがない。参議院の調査室が発行する『経済のプリズム』によれば、一九七一年頃から比べて、子ども一人あたりの教育費は約十五倍に増えている。物価上昇を考慮したとしても驚異的な伸び率だろう。
先ほどのBI反対論者は、人々が教育に投資すればするほど、社会は発展し、経済が成長することを暗に前提としているわけだが、実態とはかけ離れている。事実、教育投資が右肩上がりなのに対し、経済は停滞しているのが現代日本なのだ(日本に顕著な傾向であるが、日本に限った話ではない。世界中が似たようなものである)。
このことから、受験戦争が椅子取りゲームと化しているという結論を避けるのはむずかしい。大企業の美味しいポジションにつくために子どもたちが学習机に磔にされているだけであり、それによって社会が発展しているわけではないのだ。
子どもたちが好き好んで楽しそうに勉強しているなら、何の問題もない。しかし、教育産業に不安を煽られたヒステリックな教育ママに強いられていて、ゼロサムゲームで負けないために嫌々勉強しているのであれば、全員でさっさとやめた方がいいことは明らかだろう。
もちろん、私は教育ママを批判しているわけではない。BIのない社会で子どもの幸福を考えれば、勉強して一流企業に就職して、路頭に迷わないだけの安定を手にして欲しいと願うのは真っ当な親心だろう。また、教育産業を批判しているわけでもない。教育産業に生きる人々が食い扶持を稼ぐためには、教育ママの不安を煽って金を稼ごうとするのはやむを得ない。
しかし、BIによって安定志向という焦燥感が消え去ったなら、無理に勉強する必要はない。子どもたちは楽しそうに河川敷で遊び回ればいいのである。
もちろん、勉強したい子どもからも教育機会を取り上げる必要はない。分子生物学に魅了された子どもが大学に進学して勉強するなら、それはそれで素晴らしいことである。きっと、BIがある社会なら、焦燥感に駆られた教育ではなく、学ぶこと本来の喜びにもっとフォーカスされるようになるだろう。そのような社会の方がイノベーションが頻繁に起きることは、想像に難くない。
■エッセンシャルワーカーの地位向上
デヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』で指摘したように、保育士や介護士、ごみ収集員、トラックドライバー、農家といった重要な社会機能を担うエッセンシャルワーカーほど賃金が安いことは周知の事実だろう。そして、賃金が安い分、「底辺職」だなんだとバカにされ、人手不足が加速する。コロナ禍ではエッセンシャルワーカーがヒーロー扱いされることもあったが、残念ながら一過性のブームに終わり、介護士の給料を上げるためのデモが各地で繰り広げられることも、大学生がこぞってごみ収集人の仕事にエントリーすることもなかった。
しかし、人々がかつてほど「安定」を欲しなくなれば、こうした低賃金の仕事にチャレンジする人も増えていくだろう。そして、彼らの存在無くしては、社会が成立しないことにも、いっそう注目が集まるだろう。
先ほど私はAIやロボットが労働を代替することはないと主張した。私がそう主張しなければならないほどに「近いうちにAIやロボットが労働を代替する」という言論はまかり通っていることは疑いようがない。
確かにホワイトカラーの人間がエクセルをいじくったり、メールを書いたり、パワーポイントをキラキラに仕立て上げたりする作業なら、AIで代替可能だろう。だが、これらの仕事はホワイトカラー労働者が高収入を得ている根拠にはなっているものの、現実の財やサービスを生み出しているわけではない。現実の財やサービスは人間が体を動かさなければ(あるいは体を動かして機械を動かさなければ)生産されないものである。
とはいえ、現代は「貢献度が高い人ほど金を稼ぐ」という実力主義が公式のイデオロギーとして採用されている時代である。ならば、高収入を得ているホワイトカラーの方が、財やサービスを生産することに貢献しているという幻想が必要となった。そうして給料の安いブルーカラー(エッセンシャルワーカーとも言い換えられる)は、さほど社会に貢献していないことにされた。ゆえに、AIがホワイトカラーの仕事を代替できるなら、社会を維持するのに必要な労働は代替できるという言説が広まっているのだ(この点は、拙著『労働なき世界』で詳しく解説している)。
それもこれも、「金」という評価基準に私たちの視界が覆われているからこそ起きている勘違いだろう。
■金銭至上主義の終焉
先述の通り、人々が金を儲ける理由の大部分は、安定のためである。誰もが金を欲するが故に、金を持つ者は尊敬され、金を持たないエッセンシャルワーカーが蔑視され、若くしてランボルギーニを乗り回す成功者には羨望の眼差しが向けられる。
だが、金を儲ける必然性が失われ、金を儲ける意味を疑い始めた人々が、これまでと同様にランボルギーニに憧れ続けるかどうかは疑問である。もちろん、いつまでも高級車を乗り回し、ハイブランドを身につける人はいるだろう。だが、彼は、さながらいつまでも大日本帝国を礼賛する痛々しい右翼の街宣車のように、旧時代の遺物として人々の目に映るのではないだろうか?
人々がランボルギーニに憧れないことは思いのほか重要である。現代社会において、金儲けにまつわるビジネス書、自己啓発セミナー、情報商材、投資詐欺は山ほど存在する。そうしたものに向けられていたエネルギーは、人類社会全体としてみれば無駄としか言いようがない。それらに注がれていた膨大なエネルギーは、全く別の、もっと人々が重要だと感じる目的のために向けられるだろう。
■政治への関心の高まり
人々の生活に余裕が生まれれば、地域社会や政治へエネルギーを向ける余裕も生まれてくるだろう。二〇二三年の年末年を騒がせた自民党の裏金問題に限らず、政治システムに問題が多いことは明らかである。それを見て見ぬふりをするよりは、みなで働きかけて改善を求める方が良い政治が実現することは間違いないはずだ。
■ボランティア活動の活性化
二〇二四年の元日早々、能登半島を地震が襲ったことは記憶に新しい。そして、たいていの災害においては、物資も人手も不足するのが常である。しかし、人々は会社に行かなければならないし、自分の生活にも余裕がない。せいぜいレジ前の募金箱に余った小銭を投げ入れるくらいが関の山だ。
ところが、BIが支給されているのなら、一時仕事を休んで、瓦礫の撤去作業を手伝いに行くことも容易になる。少なくともいま以上には、ボランティア活動へ人々が関心を向けることは間違いないだろう。
■幸福度の向上
忘れてはならないのは幸福度の向上である。いま以上に、私も幸福になるだろうし、あなたも幸福になるはずだ。なぜなら、お金を貰えるからである。お金を貰えたら嬉しい。当たり前である。
■あらゆる価値観が転倒される
正直、日本人全員にBIが支給されるような大変革を経て、どのような変化が起きるのか、全てを予測することはできない。だが、大半が良い変化であるような気がしてならない。いまの私たちには予想もつかないような価値観や思想、哲学、文化が登場する可能性も十分にあるだろう。
生活に困窮し、やりたくもない労働に振り回され、やりたいことに没頭する時間を得られなかった偉大な学者や芸術家は多い。貧困のせいで歴史の闇に葬り去られたダ・ヴィンチやダーウィン、夏目漱石はどれだけいるだろうか? BIのある社会では、彼らは大いに活躍するだろう。
「貧困をバネにしたからこそ、心を打つ芸術品が生み出されたのだ」という安易な反論を振りかざす人もいるかもしれない。だが、彼らに対しては、過去の偉大な作家の大半が有閑階級出身かパトロンがいた事実、あるいはノーベル文学賞受賞者の大半を貧困家庭出身者が埋め尽くしているわけではない事実を突きつければ十分だろう。貧困を撲滅することで生み出される芸術の方が明らかに多いはずだ。
仮に貧困が芸術の源泉なのだという主張を受け入れたとしても、芸術のために人類を貧困に突き落とそうとする行為を、道徳的に擁護できるとは思えない。