第四章 BIとは支配からの解放
■命令と支配が、労働を苦行に変える
ここで人は次のように反論するかもしれない。「人が貢献欲を持つのであれば、命令されながらテーブルを拭こうが、命令なく自発的にテーブルを拭こうが、大差ないのではないのか? もし命令があるという理由で労働を嫌悪しているなら、そもそも彼は貢献を嫌悪している証拠なのではないか?」と。
この疑問は命令が持つネガティブな側面を過小評価している。命令は、命じられる行為がなんであれ、モチベーションを低下させる効果を持つのだ。
例えば誰かと食事をしているとき「塩を取ってくれる?」とお願いされたなら、普通の人ならなんの気負いもなく取るだろう。しかし、「おい、塩を取れ」と命じられたならどうか? 人によっては拒否するだろうし、拒否しないとしても嫌な気持ちになるはずだ。
「塩を取る」という結果は同じでも、お願いがきっかけであったなら、特に気に留めることもないか、ほんの少しばかり「役に立てた」という誇らしさを感じられるかもしれない。いずれにせよネガティブな出来事だとは感じないはずだ。しかし、命令がきっかけであったなら、それは極めて不愉快な出来事に変わる。
また、かつてX(旧Twitter)で、注目を集めたポストも、人が命令そのものを嫌悪することを直感的に裏付けてくれる。
子供をゲーム嫌いにする方法
- 一生懸命ゲームに取り組むように言う
- どこまで進めるか目標を立てさせる
- 目標に対しての進捗を管理する
- 進捗が遅れていたら叱る
- なぜ遅れているのか理由を問いただす
- 遅れを取り戻すための方法を言わせる
- ゲームのやり方に都度口を出す これだけでok
針鼠 | 仕事カフェ (@harinezumi_vc)
なんの科学的根拠もない話だが、明らかに私たちの日常感覚に合致する。本来、放っておかれたなら昼夜を問わず子どもたち(ときに大人たち)が熱中するゲームすら、命令されるのであれば苦行に変わるのだ。
このような事例を見て「人間とは塩を取ることを嫌悪する生き物なのだから、強制されなければならない」とか「子どもはゲームを嫌悪する生き物なのだから、強制されなければならない」と結論づけるのは馬鹿げている。彼が嫌悪しているのは塩を取ることやゲームそのものではなく、命令であることは明らかだからだ。
人が労働を嫌悪する様子を見て、あたかも彼が貢献を嫌悪しているかのように扱われることも、同様の構造である。明らかに馬鹿馬鹿しいのだ。
■なぜ人は支配されるのか?
ここで次なる疑問が生じる。命令が不愉快なのであれば、なぜ人は従うのだろうか? 友達が「おい、塩を取れ」と命令してきたのなら、きっと多くの人は断るだろう。しかし、労働の現場において、経営者や上司、客の命令を拒否する人は少ない。そもそも出勤している時点で九時から五時(あるいはそれ以上の時間)を職場で過ごせという命令に従っているのだ。
当たり前だが、人間が人間を意のままに操ることは、超能力者でもない限り、普通はできない。私が念じただけであなたの右腕を動かすようなことは不可能である。となると、命令をしなければならないが、命令は拒否することができる。私が道ゆく誰かに、財布の中身を差し出せと命令しても、無視されるのがオチだろう。
しかし、私が拳銃を所持していたならどうか? 勇気ある一部の人を除けば、取り急ぎその場では私に財布を渡そうとするだろう。手っ取り早く誰かを命令に従わせる方法は、間違いなく暴力である。
ところが、暴力ではない方法で、命令に従わせる方法が存在する。それは金である。現代社会では、金がないと生きていけない(厳密に言えば金がなくても生きていけるわけだが、「金がなくては生きていけない」と考えている人が大半である)。そして、金を得るためには会社に所属して、社長や上司の機嫌を損ねないように振る舞わなければならないし、会社に金をもたらす客に対しても同様である。会社員の道を選ばず、起業やフリーランスを選択したとしても、客の機嫌を損ねてはいけないという状況に変わりはない。
確かに社長や上司や客に歯向かったところで、即座に銃をぶっ放されるようなことはない。だが、なにかの拍子に相手の逆鱗に触れて、クビになったり、金を払ってくれなくなったりする可能性は、常に存在している。人々は、未来からこちらの様子を伺うスナイパーに狙われながら労働しているような状況にあるのだ。
いまの世の中に、「やめてもいくらでも転職先はある」という自信をもって働く人がどれだけいるだろうか? そう口にする人は多いものの、実際は根拠のないハッタリであるケースの方が多いのではないだろうか? また、実際それだけの自信と能力を持って働いている人は、もはや労働にネガティブな印象を持たず、「自由に働いている」という実感を抱いていることだろう。ならば、命令を拒否できない「支配」こそが労働を悲惨なものにしているという構造は明らかである。
■有害な労働が心を破壊する
塩を取るといった意味のある行為や、ゲームといった本来「やりたい」と思える行為ですら、命令されれば苦行と化す。それでもなお「テーブルなんて吹きたくない!」「カフェラテの作り方が難しすぎる!」といった愚痴をこぼすカフェ店員がほとんど存在しないことは注目に値する。命令によって苦行と化していてもなお、それが意味のある行為であるなら、愚痴の対象とならないのだ。これは、人が根源的に意味のある行為・・・つまり誰かの役に立つ行為を心の底から欲している証拠ではないだろうか?
逆に、無意味な行為を命令され、それを拒否できない状況とは、人間にとって最高レベルの苦行だと言っていいだろう。
この社会に「こんな報告書、何の意味があるんだ?」と感じながら報告書を書くサラリーマンや、「こんなノルマ達成できるわけがない」と感じながらなんとかしてノルマを達成しようとする営業マンが膨大に存在することは疑いようがない(実際に無意味かどうかはともかく、少なくとも本人が無意味だと感じていることには疑いの余地はない)。さらに、無意味なだけでなく、社会に有害な行為を命じられたなら、その心理的ダメージは想像を絶する。
二〇二三年には大手自動車メーカーが安全性試験の結果を誤魔化していたことが発覚した。また、中古自動車販売の最大手企業が売上のために顧客の自動車をゴルフボールで凹ませ、街路樹に除草剤を撒いていたことも発覚した。
間違いなく言えることは、楽しみながら顧客の自動車をゴルフボールで凹ませていた従業員は一人もいないか、いたとしてもごく少数だということだ。しかし、この現象は全国の店舗で見られたらしい。従業員たちは本当はやりたくもない破壊活動を、心を痛めながら、あるいは心を無にしながら取り組んだのだろう。
「こんなことは間違っている!」と拒否する従業員がいなかったのは、従業員の意志が弱かったからではないし、彼らが不道徳な人間だからでもない。彼らが支配されているからだ(とはいえ、このような事態が起きたときにまず間違いなく観察される経営者の反応は「知らなかった」「私が命じたわけではなく、社員たちが勝手にやった」である。おそらくそのことは事実だろう。経営者が「除草剤を撒け」と直接命令するとは考えにくい。しかし、強引なノルマのために社員たちはそうせざるを得なかった。それは事実上、企業犯罪を命令されているに等しい)。
こういった大規模な企業犯罪は極端な事例だが、これに近い経験は会社員なら身に覚えがあるのではないだろうか? やりたくもない法律違反や、顧客を騙すようなセールストーク。もし本当に自由に自分の意志で選択ができるのであれば拒否していたであろう小さな悪行に、手を染めざるを得ないと感じる経験。それは私たちの精神の健康を蝕み、労働を嫌悪すべき対象に仕立て上げ、日曜日にサザエさん症候群を引き起こす原因になる。
■BIによって労働が労働ではなくなる
ここまで、支配とは「命令に従わなくては生きていけない」という状況に由来することを指摘した。そして、支配や命令によって労働者は無意味に心をすり減らしていることを確認した。裏を返せば、命令に従わなくても生きていけるのなら、支配は成立しないし、労働者が心をすり減らすこともない。もちろん、それを可能にするのはBIである。
誰しもが、少なくとも路頭に迷うことがない金額を毎月支給されるのなら、不愉快な上司や社長、客からの命令に屈する必要はない。理不尽なノルマは跳ね除けることができるし、明らかに無用な報告書には「これ、意味ありますかね?」と反論できる。もちろん、そこまで強気に振る舞えないとしても、犯罪レベルの不祥事に手を染めたり、過労死したりするまで追い込まれる人はほとんどいなくなるはずだ。多くの人はそうなる前に、さっさとその職場を離れるだろう。
また、先ほどカフェ店員が「労働時間が長すぎる」という愚痴をこぼすことを示唆した(このことは、人に貢献欲が無い証拠にはならない。人には食欲があるが、朝から晩まで食べ続けることは苦痛であるのと同じである)。労働時間を減らすことができないのは(ワーカホリックの場合を除けば)、たいてい金のためである。BIによって金の心配がなくなるなら、上司に時短勤務を打診する心理的ハードルは大きく下がるし、実際にそれで収入が減っても大きな問題ではなくなる。
するとどうなるだろうか? 人は無意味だと感じる行為を命じられるときや過剰な長時間労働に対して愚痴を言い、テーブル吹きやドリンク作りに愚痴を言うわけではないことを先ほど指摘した。ならば、BIが支給される社会では、人が愚痴を言うような無意味な労働だけが消え去り、真に重要だと感じられるような、誰かに貢献するための仕事だけが残り、人々はその仕事に高いモチベーションを持って取り組むことになる。当然、ブラック企業など、生き残れるはずもない。
確かに労働時間の削減は生じるかもしれない。だが、無駄な長時間労働のせいで過剰サービスや時間潰しの会議や報告書、こっそりとソリティアをプレイしなければならない状況が生じていることは、誰しもが同意するだろう。多少、労働時間が減ったとしても社会機能に支障をきたすほどに、人々が職場を離れていくことはないはずだ。むしろ人は社会機能を維持すること(つまり人の役に立つこと)を欲するのだから。
山内昶『経済人類学への招待―ヒトはどう生きてきたか』によれば、世界には「労働」と「遊び」を同じ言葉で表現する人々が存在するという。おそらくBIが支給され、支配が消え去った社会においては、「労働」という言葉は必要なくなるだろう。人々は貢献欲に従い、誰かに貢献する。それはほとんど遊びと見分けがつかなくなるはずだ。
■過剰な競争は抑制される
先ほど、自動車メーカーや中古車販売企業の不祥事について触れたが、このような不祥事はすべて競争によって引き起こされている。売上を上げなければならない。成長しなければならない。そのような動機がなければ、不祥事の多くは起こらない。また、世の中に溢れかえる不愉快な広告や、詐欺のような話術でウォーターサーバーや光回線を売りつけようとするテレフォンアポインター、街角で声をかけてくる鬱陶しいセールスマン、胡散臭いマーケティング用語を毎年のように発明するコンサルタント、山のように廃棄されるコンビニのおにぎりや洋服も、すべて売上を上げるため、言い換えれば競争のために存在している。
斉藤幸平のベストセラー『人新生の「資本論」』でも指摘されているように、企業(資本とも言い換えられる)は利潤追求や競争のために、様々な問題を引き起こしている。
しかし、ここで注目したいのは、「何がそうさせるのか?」である。
斉藤幸平のような左翼は、企業や資本が自動的な運動によって利潤を追求しているように資本主義社会を描写しているが、それを駆動しているの一人ひとりの人間である。具体的には経営者や株主、労働者である。彼らの動機は「フェラーリを乗り回したい」という底抜けの欲望かもしれないが、大抵は「安心して暮らすだけの蓄えが欲しい」といったものではないだろうか? だから株主(それは安心を追い求める人々の願いを管理する年金機構だったりもする)は利潤の追求を企業に要求し、経営者はその要求に屈する。そして経営者の利潤追求命令に管理職は従い、管理職は部下に発破をかける。結果、様々な問題が起きている。BIによって安心がもたらされたなら、利潤追求動機も薄れ、問題は解決されていくだろう。
それに、利潤を追求すべく手足を動かす労働者たちが、不愉快な命令を拒否できる状況にあるなら、誰が一日に百件もテレアポをしてウォーターサーバーを売りつけようと思うだろうか? 誰がわざとバツ印を押しづらいように計算された広告をデザインしようと思うだろうか? 誰が大量に廃棄されることがわかりきっている恵方巻きを作ろうと思うだろうか? 彼らが命令に従うのは、支配されているからなのだ。
資本主義が有害なのは競争があるからである。そして、競争には支配が必要である。BIによって人々が支配から解放されたなら、競争も止まる。それでも利潤を追求しようとする経営者は、さながら空っぽのモンスターボールで戦おうとするポケモントレーナーのような存在に成り下がるだろう。
もちろん、BIが実現した社会においても、怠惰にネットゲームに興じる人々の一団は存在するだろう。しかし、すでに現代社会には無駄な労働が膨大に存在しているのである。ちょっとやそっと怠ける人々が現れたところで、さほど困らないだろう。
■BIとは金という名の権力の分配
ここまでの議論で明らかになったのは、金は人をコントロールする力として機能している事実である。「人をコントロールする力」とはすなわち「権力」を意味する。つまり、金とは権力なのだ。
BIとは、言い換えれば万人に最低レベルの権力を分配する制度である。最低レベルの権力とは、誰かの支配に屈しなくて済むだけの権力を意味する。つまりBIとは支配からの解放である。
なるほど、「人は支配を欲する」といった言説が一定数存在することを、私も知らないではない。だが、仮に支配を欲する人がいたとしても、彼が支配を拒否できるだけの権力を有していることがマイナスに働くことはない。彼が望むなら、彼が誰かに支配されることは常に可能だからである。
そして人々が支配から解放されれば、この社会に存在するあらゆる問題が解決されていく。次章では、そのことを確認していこう。