第三章 人間は怠惰なのか?
多くの人は、次のように考えている。人間なんて一皮剥けば誰もが怠け者であり、BIが配られるならばベッドに転がったままYouTubeを眺めてばかりいるだろう。
果たしてこれは本当なのだろうか?
■BI実験は成功例だらけ
この問題については、ルドガー・ブレグマンの『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』を紐解くのが適切だろう。この本では、BIの小規模実験の結果が大量に記載されている。例えば、アメリカの各地域で行われた実験についてである。
全体的に、労働時間の減少はわずかだった。(中略)賃金労働の減少は一世帯あたり平均九パーセントで全ての州においてこれは、幼い子どもをもつ若い母親が、外で働く時間を減らしたのが原因だった。後の調査では、この九パーセントさえ、多めの見積であることがわかった。(中略)労働時間の減少はきわめてわずかだったことが判明した。
本の中では、この手の調査結果が「これでもか」というくらいに挙げられている(ついでに言えば、ほとんどのケースで、犯罪の減少、幼児死亡率の低下、貧困の撲滅、学力向上、経済成長といった効果が見られた。ホームレス対策費の最も有効な使い方は、ホームレスにそのお金を直接渡すことであったし、麻薬対策費の有効な使い方も、ジャンキーにそれをそのまま渡すことであったと、ブレグマンは結論づけている)。
要するに、「金を渡したら働かなくなるだけ」という主張は、小規模な実験においてはほぼ否定されている。この手の実験は少し検索するだけでいくらでも出てくるだろう。特にフィンランドの実験は有名である。
■小規模だからうまくいっただけ?
もちろん「小規模かつ短期間の実験だからやめなかっただけであり、大規模かつ長期間の実験ならやめるだろう」という反論は常に可能である。フィンランドのような小国でうまく行ったからといって日本でうまくいくとは限らない、というわけだ。
それはその通りなのだが、その理論を振りかざすのであれば、今後もどのような実験結果が得られようがBIが実行不可能になるということを理解すべきだろう。十年実験して成功すれば「二十年やれば失敗した」と主張できるし、二十年実験して成功すれば「三十年やれば失敗した」と主張できる。BIとは未来永劫、お金が配られるシステムなので、完全に再現する実験は不可能である(それはすなわち、実験ではなく実際にBIを導入することを意味する)。つまり、どんな実験を行おうが、BI反対派を納得させることは不可能である。そしてこの理屈を援用すれば、世の中に存在するありとあらゆる政策案に蓋をすることが可能になる。これまで全く同じ条件で実験された政策など、この世界には存在しないのだから。
もちろん、これほど馬鹿馬鹿しいことはない。私たちは、手に入れられる情報を元に、最大限ありえそうな予測を立て、行動せざるを得ない。今のところ手に入る情報では、BIがあってもみんな働きそうである、と結論づけて問題なさそうだ。
■事実上、BIを受け取りながら働く人々
また、これは私がよく挙げる根拠なのだが、農業構造動態調査結果によると日本の農家の平均年齢は六六.八歳であり、年金受給年齢を過ぎている。年金とは払い込みが終わってしまえば、事実上のBIである。平均値は中央値ではないし、農家のうちどれだけが年金受給資格を満たしているのかはわからないが、日本の農家の少なくとも三割~四割程度は事実上のBIを受け取っていると見積もっても問題はないだろう。
にもかかわらず、いまのところ、農家の人々が仕事を即座にやめ、深刻な食糧危機に陥っているわけではない。経済的理由なのか、惰性なのか、他にやることがないからなのか、使命感からなのかはわからないがこれが現実である。
以前、BI反対論者の記事で、「BIを配ったら、人々に生活必需品を供給する保証がなくなるからダメ」といった反論を書いているのを見たことがある。だが、それを言うなら、農家の半数近くに事実上のBIが配られている現時点で、既に食料を日本人に行き渡らせるだけの保証はないのだ。もしそれを確実に保証しようと思うなら、農家から年金を取り上げるか、拳銃を突きつけ続けなければならない。もちろん、そんなことは馬鹿げている。そんなことをしなくても、農家は仕事を続けてくれるのだから。
これだけ根拠をあげれば、「BIを配れば誰も働かなくなる」という議論にはほとんど説得力がないと言っていいだろう。フィンランドや他の国々で短期的に行われたBI実験は成功したけれど、日本で長期でやれば失敗するし、農家は事実上BIをもらっても働いているけれど、他の産業はそうはならないとでも主張するのなら、それ相応の根拠が必要だ。おそらくBI反対論者にそれだけの根拠はないはずだ。
■ここまでのまとめ
一旦ここまでを整理したい。積極財政型BIなら、大増税や社会保障カットで貧民が喘ぐディストピアが訪れることはない上に、需要の急増や供給不足によるインフレが起きることも考えにくい。ゆえに、今のところ目立ったデメリットはないように思われる。
ところが、おそらくBI反対論者は、まだ十分に納得しないだろう。特に、「人間は怠惰ではない(ゆえに、供給不足によるインフレは起きない)」という命題は、根強い反論を招くことが想定される。
その点について、さらに考察を深めていくにあたって、そもそもなぜ人は怠惰だとみなされているかを考えてみよう。
■なぜ人は怠惰だとみなされるのか?
まず「怠惰」が何を意味するのかを考えてみよう。怠惰とは、遂行すべき何らかの「義務」があって、それを遂行しなかったり、意欲を持って取り組まなかったりする態度を意味する。いま私が話題にしている「義務」とは人々の生命や社会を維持し、幸福度を高めるために必要な行為を意味している。野菜を育てたり、テーブルを拭いたり、コーヒーを淹れたり・・・要するに「誰かの役に立つこと」である。「その『誰かの役に立つこと』を人は嫌がるために、BIを配れば最後、人々はダラダラ怠けて過ごすのだ」とBI反対論者は主張するだろう。
しかし、これは本当だろうか? 果たして人は誰かの役に立つことを嫌悪するのだろうか?
人の役に立てば嬉しい気持ちになることは誰もが理解している。電車で老人に席を譲れば誇らしい気持ちになる。誰かを家に招待し料理を振る舞ったなら、自分が食事をご馳走になるとき以上に喜びを感じられる。三歳の私の息子は拙い手つきで家事を手伝おうとする。文化祭の準備で皆の役に立てたときは、そうでないときよりも文化祭が楽しい思い出になる。
このようなエピソードなら、誰しも無数に挙げることができるだろう。このことから明らかなのは「人は、誰かの役に立つことを欲する」という事実ではないだろうか?
逆に、申し出るタイミングを見失って老人に席を譲り損ねたときは、モヤモヤした気分で過ごすことになるだろう。(下世話な例えで恐縮だが)好みのエロ広告を見たのに自慰行為ができない状況でしばらくムラムラした気分で過ごす状況を見れば、人は「人に性欲があるから、そうなる」と説明するだろう。ならば、老人に席を譲り損ねてモヤモヤするのは「人には誰かに貢献したい欲望があるから、そうなる」と説明すべきではないだろうか(私はこのような欲望を「貢献欲」と呼んでいる)。
貢献欲は、優れた人格者だけが持つ特別な素質などではなく、食欲や制欲と同等の、人間一般が持つありふれた欲望であると、私は考える。私の三歳の息子はいつも拙い手つきで料理を手伝おうとする。もちろん、失敗してばかりで大人からすれば余計に手間がかかるわけなのだが、それでも彼が貢献したいと感じていることは疑いようがない。そしてその挙句、作った料理をほとんど食べずにプラレールで遊び始めるのだ。もはや食欲よりも強い欲望なのではないかとすら感じる。しかし「貢献欲」なる言葉を誰も発明しなかったばかりに、誰もその存在を認識できずにいたのだろう。
では、人に貢献欲があるのなら、この社会に労働を嫌悪する人が溢れかえっているように見えることを、どのように説明すればいいのだろうか? 「働きたくない」と愚痴をこぼすくたびれたサラリーマンたちの群れはなぜ存在するのだろうか?
簡単である。例えば、カフェ店員が労働に対してどのような愚痴をこぼすかを観察するだけでいい。「上司の命令が不愉快」「ノルマが厳しい」「労働時間が長すぎる」「モンスタークレーマーがうざい」といった愚痴がほとんどだろう。
では、 「テーブルなんて吹きたくない!」「カフェラテの作り方が難しすぎる!」といった愚痴を言うカフェ店員を見たことはあるだろうか? 私は一人も見たことがない。
テーブル拭きやドリンク作りは文句なしで誰かの役に立つ行為である。しかし、どうやらそれらの行為そのものを人は本能的に嫌悪しているわけではない(現に趣味でコーヒーを淹れる人や、掃除好きの人なんていくらでもいる)。そうではなく、人は上司や客の理不尽な要求に対して不満を言うのだ。少なくとも、「カフェラテの作り方が難しいので自殺します」という遺書を残して通勤電車に飛び込むカフェ店員を私は見たことがない。
つまり、人は役に立つことを嫌悪しているわけではなく、むしろ欲している。仕事を嫌がっているように見える真の原因は、不愉快な命令や要求・・・すなわち支配なのだ。