補論 そもそもBIとはなにか?

 さて、ここまでの議論で私の伝えたい点は十分に伝えられたと思われる。が、この先は、より込み入った議論に踏み込んでいきたい。BIとは金という存在の性質の変容を余儀なくする革命的なシステムだが、それを理解するためには、まず金がなんであり、どのように発行されているかを理解しなければならない。その点について詳しく解説しよう。また、巷でよく言われる「AIの発展によりBIが必要とされる」というテクノロジー楽観論についても、改めて補足していきたい。

■通貨発行の方法

 そもそも通貨がどのように発行されているのかについて確認していきたい。細かい点は経済学の教科書でも読んでくれればいいのだが、概要だけ述べていこう。まず日本で通貨が供給される前には、政府が国債を発行して政府支出を行う必要がある。それを民間銀行が買い取ることで、民間銀行は政府に金を貸し付ける。その後、民間銀行が保有する国債を、日本銀行が買い取る「買いオペレーション」と呼ばれるプロセスを踏んで、日本銀行は金を民間銀行に供給し、これにて市場に金が供給されたことになる。日本銀行が保有する国債を政府は返済する必要はなく、日本政府は利息だけを日本銀行に支払うことになる。そして日本銀行に支払われた利息は国庫納付金として日本政府に返ってくる。

 ややこしいプロセスだがなにが起きているのかを概観してみるといい。日本銀行は政府の子会社である。たんに政府と日本銀行の集合体(一般に統合政府と呼ばれる)が打ち出の小槌から金を発行しただけなのだ。そして、日本銀行が発行する金を人々は受け取る義務があると、法的に定められている(日本銀行法第四六条第二項)。言い換えれば、日本政府は国民に命令し、その対価として無制限に発行できる金を手渡しているわけだ。

 こんなふうに考えれば、すんなり理解できるだろう。不良A(=日本政府)がいじめられっ子A(=国民)に命令し、から揚げ弁当をつくらせたとする。不良Aはその対価として1ペリカ分の国債を手渡す。そして、いじめられっこAはその国債を不良Bのところにもっていけば、手書きの1ペリカと交換してもらえる。いじめられっ子Aはいじめられっ子Bにペリカを支払わなければ焼きそばパンを購入することができない。また、稀に「税」と称して不良Aがペリカを押収しにやってきて、支払いができなければボコボコに殴られて体育倉庫(=刑務所)に監禁される。なので、ペリカを受け取らざるを得ない。そして、不良Aと不良Bは裏でつながっている。彼らは自分たちがノーリスクで無限に生み出せるペリカをつかって、いじめられっ子たちが提供する焼きそばパンを買うことができる。つまり、国家とは、大義名分で粉飾された不良集団なのだ。不良たちは、永遠にいじめられっ子たちに貸しをつくりつづけている。ペリカ(=日本銀行券)すら見方を変えれば、不良Bの負債なのだ。事実、不良B(=日本銀行)のバランスシートをみれば、数千兆円の発行銀行券が負債の部に計上されている。これは、日本銀行と日本政府がこれまで累積させてきた国民への負債であると同時に、日本社会に供給されてきた紙幣の額でもある。あなたの財布に一万円札が入っているなら、あなたは統合政府に対して一万円分の貸しがあることを意味するのだ。そして統合政府は、税としてその貸しを帳消しにしようとする。それを拒否すれば私たちは警察の暴力によって抑え込まれて、刑務所にぶち込まれることになる。つまり、税を払う瞬間、私たちは統合政府の暴力によって、負債を踏み倒されているのである。

 さて、ここまでを概観すれば、通貨の発行とは、たんなる暴力を背景とした権力行使であることが理解できるだろう。それはややこしい金融プロセスによって粉飾されているが、現実に起こっていることは、政府が国民に命令する代わりに負債を負い、その負債は永遠に塩漬けにされるか、踏み倒されているという事態である。人々は政府の物理的暴力を力の源泉とする権力(=金)を手にするため、あくせくと働いているわけだ。

■BIは政府から国民への権限移譲

 さて、このように考えればBIの正体がだんだん明らかになってくる。反対派は、BIによって政府に生殺与奪を握られ、政府の権力が増大するという反論をおこなうが、むしろ逆である。政府が供給先を決定していた権力を、強制的に国民に分配するのがBIである。つまり、他者に強制する権力を国民に対して権限移譲しているのだ。

 次のように考えれば理解しやすいだろう。あなたなら、莫大な予算を手にしながら「うーん誰に金を配ろうかなぁ・・・」と目くばせする政治家か、自動的にBIを分配されるため予算権限がほとんどない政治家か、どちらのケツを舐めたいだろうか? 私ならどう考えても前者である。そして、どう考えても権力を手にしているのは前者である。

 ただし、万人が権限移譲を受け、最低限、誰かの不愉快な命令を拒否するだけの権力を得たとき、金の強制力は弱まるだろう。人々は、どれだけ金を支払われようが、本当に自分が納得できる行為にだけ没頭することができる。つまり、金の権力が自動的に弱まっていくのである。繰り返すが、必ずしもこれはインフレを意味するわけではない。人には貢献欲があるため、自由な意志によって社会を成立させるためのサービスを供給するであろうことは、もはやあきらかだからだ。

 権力によって支配され、自発性を奪われた組織がどれほど不毛であるかについて、ビジネス書や自己啓発本は、万巻の書を記してきた。そして、権限移譲が行われ、自由に振る舞うことのできる組織の方が、人々がイキイキと活躍し、高い生産性を示すことは、経営学者や心理学者たちの共通見解であろう。BIとは、それを社会全体に適用するというだけの話なのである。

■AIとBIは無関係

 AIとロボットによって労働が代替され、街が失業者で溢れかえる前にBIを配るべきであると主張するテクノロジー楽観論者は多い。だが、なぜそんな言説を信じられるのか、私には信じがたい。現代のAIやロボットなど、お茶くみすらできないし、テーブルを拭き上げるのも一苦労。ホッチキスの芯を入れ替えることにすら膨大な時間を費やすだろう。私は興奮したテクノロジー楽観論者に「これをみたらシンギュラリティの到来を実感できる!」と最新のロボットの動画を見せられたことがあるが、ロボットが人間の指示を受けて皿をつかんでのろのろとカゴの中に並べるというだけのものだった。たしかにすごいが、そんな木偶の坊に中華料理屋の運営を一任できる日が来るとは思えない。「皿をカゴに入れることができます!」とアピールする人物が面接にやってきたとして、そんな奴を誰が採用しようと言うのか?

 なるほどホワイトカラーの労働は幾分か効率化されるかもしれない。だが、そもそもホワイトカラー労働の大半はブルシット・ジョブ化しているのだ。無意味な労働を効率化したところで、効率的に無意味な労働が生み出されるだけではないだろうか。たとえば、プレゼン用のパワポを自動生成してくれるAIが登場したなら、世界中にゴミのようなパワポが量産され、それを確認したり、修正したりする手間も増える。「AIのつくった資料だけでは信用ならん!」と言い始める連中をなだめすかせるために人力も動員される。逆に「ところでこの資料について、AIはなんて言ってるの? え、AIも活用していないの? それじゃあ通用しないよ」などと言って、これまでなら必要とされていなかった労働も増える。「ビジネスにAIを!」などと言って情報商材じみた広告をやたらめったら見かけるようになったが、そのために動員された労働量はいったいどれほどのものだろうか? その結果、なにかが効率化されただろうか? 減った労働量と増えた労働量はどっちが多いだろうか?

 シンギュラリティがやってくるという言説は、イーロン・マスクやサム・アルトマンのポジショントークであり、ノストラダムスの大予言のようなものである。私たちはIT長者を神の如く崇めているため、彼らの言葉を妄信しているが、彼らも私たちと変わりのないホモ・サピエンスである。私は来るわけがないと断言したい。二〇四五年までにシンギュラリティがやってきて人口の九割が失業していたとすれば、私は腹を切ってもいい。

 そもそも労働をAIやロボットによって代替するのは構わないが、非効率であると指摘せざるを得ない。本書で散々書いてきたとおり、他者への貢献とはそれ自体が苦痛であるわけではなく、自発的に取り組まれたなら遊びのようなものである。だったら、遊びとして取り組めるような社会システムをつくる方がどう考えても効率的なのである。私たちは咀嚼を代行してくれるロボットをつくろうとは思わないし、登山道に動く歩道をつける必要を感じない。咀嚼や登山は、それ自体が楽しく、快適だからである。それと同じように、あらゆる社会貢献を遊びとして取り組むなら、わざわざ自動化する必要性はない。もちろん、自動化することや、自動化によって新たなテクノロジーの扉が開くことはいいことなのだから、自動化を拒否する必要もない。ただし、その役割は控え目なものであると考えるべきだろう。

 BIを導入すべきなのは、AIが労働を代替してしまうからではない。どのみち、そんなことは起きないのだから。それでもなお、BIを導入すべきなのである。