第七章 想定されるデメリット

 さて、ここで正直に認めなければならない。私はBIを盲信し過ぎていて、過度に楽観的になっているだろう(そのことを自覚してもなお、これほどのメリットが予測される政策はBI以外にないことへの確信は揺るがないわけだが)。

 少し冷静に、改めてデメリットにも目を向けよう。全くデメリットのない政策など、きっと存在しないのだから。

■移民問題

 保守寄りのBI反対論者が真っ先に指摘するデメリットはこれである。つまり「日本国民になればBIが貰えることがわかれば、移民たちが殺到するのではないか?」という疑問だ。

 私は人種差別主義者ではないものの、「移民」という言葉を見て、治安の悪化や、低賃金労働者が溢れかえることによる日本人の失業といった懸念を抱く人々の気持ちがわからないではない。ただし、BIによる移民増加の場合、このような懸念は杞憂であると、私は考える。

 まず治安悪化についてである。先述の通り、BIにはそもそも犯罪抑制の効果が期待できる。つまり、BIに引き寄せられてやってきた移民も、犯罪に走る傾向は抑制されると考えられる。

 そもそも移民が犯罪に走る原因は、仕事が見つからないことや、賃金が安いこと。それに伴って生活が苦しいことだろう。ならば、BIによって生活が保証される彼らが犯罪に走る確率は低いのではないだろうか。

 また、日本人の失業という問題についても、BI下が実現した社会ならなら杞憂に終わるだろう。失業しても路頭に迷わないのなら、失業がかつてほどの問題ではないからである。

 そもそも、今の社会においても移民たちはコンビニや工場労働といった低賃金で人手不足の仕事に就く傾向にある。むしろ、移民の労働力には助けられているのだ。移民は良いことである。

 むろん、「日本人の遺伝子が損なわれる」といった意図で移民を排斥しようとする意見には耳を傾ける必要はないだろう(いまどき、そのようなあからさまなレイシズムを標榜する人はいないだろうが)。

■生きがいが失われる問題

 BI反対論の中には「労働という生きがいが奪われた人が精神を病む」という主張が存在する。だが、これに反論することは容易である。「そういう人は働くだろう」である。誰も彼が働くことを止めはしないのだ。

 稀に、「BIによって生活が保障されたなら、能力のない人に活躍の場がなくなる」というタイプの主張も見られるが、これも明らかに誤りである。もしその理論が正しいのだとすれば、企業はBIが支給された途端に低賃金の介護職員に対して「足手まといであるあなたはBIが支給されたならクビにしても困りませんよね?」とクビにするということになる。だが、どう考えてもそうはならない。能力がない人が就くとされる低賃金の仕事の方が人手不足が甚だしいのである。そもそも企業は人が必要だから採用しているのであり、その人の生活を保障するために採用しているわけではない。

■自由に困惑する人がいる問題

 BIによって人々が支配から解放されたとしても、人々は自由に困惑し、戸惑うだけだ(だから支配されている方がマシである)という指摘も想定される。この点については四章でも言及した通りである。もし、彼が自由を手にしてもなお支配を望むのであれば、支配されればいい。彼には支配されるという自由も与えられているのだ。

■悪い人が現れる問題

 生活保護受給者をターゲットにした貧困ビジネスを例に挙げ、BIによって、そのような犯罪が蔓延することを指摘する人もいる。だが、これに関しては二種類の反論が可能だろう。

 まず一点目は、先述の通り犯罪率が下がること。そのような詐欺に手を染めるための動機すら、BI下ではほとんど失われる。

 二点目は、生活保護の囲い屋や、助成金ヤクザのような人々は、たいてい制度の複雑さを根拠に、ピンハネビジネスを展開する傾向にあるという点である。BIには、生活保護や各種の助成金のような複雑さは一切ない。ゆえにピンハネ屋が寄生する余地はほとんどないと言っていいだろう。

 もしかすると、怪しげなシェアハウスに人を集めて、怪しげな宗教を始めるような人もいるかもしれない。だが、むしろ怪しげな宗教は、人々の不安にかこつける傾向にあることから、その心配はないだろう。貧困者を食い物にするためには、人々が貧困である必要がある。だが、BI下には貧困は存在しないのだ。

 それに、もしそういうシェアハウスが現れたとしても、そこに暮らす人々が満足しているなら、何の問題があるというのだろうか? 彼らは不満があればいつでもその暮らしを抜けることができる。抜けてもBIは支給され続けるのだ。

■共産主義を知らないのか?問題

 BIのようなユートピアじみた政策を支持すれば「ふん、共産主義の失敗を知らないのか? 愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶという・・・」と呟く賢者気取りの批判者が現れることが常である。要するに彼が言いたいことは、BIのような平等を目指す政策には、悪い政治家にが現れたとき、富を独占する傾向があるという指摘である。

 だが、よくよく考えれば意味がわからない。なぜなら、BIを政治家が悪用したり、中抜きをしようとしても、不可能であることが明らかだからである。BIとは、全国民に一定額の金を配るだけの単純明快な政策である、利権も、秘匿性も発生しようがない。政府は単に金を垂れ流す以外にやることがないのである。悪い政治家が現れたとして、なにができるというのか?

 むしろ、今の生活保護や助成金といったシステムの方が不透明性が高く、悪い政治家や利己的な官僚が蔓延る土壌になっていることは間違いないだろう。

■無駄遣いするに決まっている問題

 「人々に金を配ったところで、あっという間に酒やタバコ、ギャンブルに消費してしまうだろう」と陰惨とした予測を立てて悦に入ることは容易である。しかし、これも少し考えれば無意味に斜に構えた厨二病的批判であることが明らかになる。

 もしこの指摘が正しいのだとすれば、いまの社会で労働し、金を稼いでいる人々の大半が消費者金融漬けになっていない理由を説明しなければならない。すると先ほどの厨二病患者は「自分で働いて稼いだ金だから大事にしているだけだ」と反論するだろう。その場合は、世間の専業主婦たちの大半が旦那の稼ぎの全てを競馬場で紙切れに変換していなければ、辻褄が合わないことになる。

 もちろん、そんな事態は起こっていない。世間の人々の大半は、自分や家族の稼ぎの中で慎ましく暮らしているのだ。BIが配られても、その状況に変わりはないだろう。

 また、度々引用して恐縮だが、ルドガー・ブレグマンの『隷属なき道 AIとの競争に勝つ ベーシックインカムと一日三時間労働』においても、スラム街のジャンキーたちにフリーマネーを配った結果、薬物やタバコ、ギャンブル、酒に使用される金額は逆に減ったという事例が示されている。彼らが無駄遣いしないのであれば、一体誰が無駄遣いするだろうか?

■極端な円安

 さて、私自身、このデメリットが最も頭を悩ませている問題である。私は先ほど、国債発行によるBIによってインフレが生じるリスクは少ないと主張したが、それは国内だけに視点を向けた場合に限られる。二〇二二年頃から生じている極端な円安によって、仕入れ価格が高騰し、物価が上昇していることは、いまだに私たちの生活を苦しめている。

 国債発行を財源としたBIを日本が実施したとき、為替市場がどのような反応を示すのか、私には全くわからない。「大変だ!ベーシック・インカムなんて馬鹿げた政策を日本が実行しやがった! 日本円は終わりだ! さっさと売らなければ・・・」と為替市場が反応する可能性を、私には完全には否定することはできないのである。

 日本はエネルギーに限らず、ありとあらゆる物資を輸入に頼っている。日本人が供給を絶やさぬようにせっせと働いたとしても、みるみるうちにインフレの波がやってくる可能性は完全には排除できない。

 とは言え、これも前向きに解釈することもできる。地産地消へ移行するためのきっかけとして解釈すればいいのだ。

 例えば、日本は世界に有数の森林大国であるにもかかわらず、木材を海外から輸入している。理由は単に海外の方が人件費が安いからである。しかし、改めて考えれば、わざわざ遠くから持ってくるよりも、近場でとって近場で消費する方がエネルギー効率は高く、環境負荷が低い。それに、森は伐採によって適切に管理されなければ、草や低木が育たず、地崩れを起こすリスクも高まる。つまり、地産地消の方が合理的である。もし、円安によって海外の木材の値段が高騰すれば、国内の林業に注目が向いて、結果的に林業が活性化する方向に向かう可能性がある。

 農業も同様である。日本の食料自給率が低いことは有名だが、それだけではなく化学肥料やプラスチック製の農業資材も、ほぼ海外からの輸入に頼っている。それらの値段が高騰すれば、化学肥料を使わず、より環境負荷の低い自然農法や有機農業に注目が集まるだろう。また、耕作放棄地を生かそうとする動きも活性化するはずである。

 農業に造詣が深い方なら、私が有機農業や自然農法に夢を見がちな世田谷自然左翼であるという印象を抱くかもしれない。だが、長期的な視野に立ったときに持続可能な農法が必要であることは明らかだし、そのためのヒントは世界中に存在している(例えば、デイヴィッド・モントゴメリー『土・牛・微生物ー文明の衰退を食い止める土の話』では、世界中の持続可能な農業の事例が提示されていて、それらの手法が世界人口を賄うに十分であることが論じられている)。また、化学肥料が発明されたのと同じように、より生産性の高い自然農法が発明される可能性だってあるのだ。要するに「なんとかなるやろ。というか、なんとかしなければならない」ということだ。

 BIには、物価の高い都市から地方へと人を移動させる効果も期待できる。相乗効果で、国内の林業や農業が活性化されていくと見込んでも、さほど検討はずれとは言えないはずだ。

 また、エネルギー価格の高騰は、車社会の見直しや、再生可能エネルギーへ注目といった良い影響ももたらすだろう。車社会には、環境負荷だけではない、見えないコストが存在することは宇沢弘文も『自動車の社会的費用』で指摘する通りである。

 このグローバル社会において、全てを地産地消で賄うことはできないだろうし、そうする必要もない。だが、これだけSDGsが騒ぎ立てられているのである。可能な範囲で地産地消に回帰していくことは重要だろう。

 そもそも、現代においてグローバルサプライチェーンは果たして効率的なのか?という疑問も存在している。効率とは、コストの重要性と成果の重要性によって図られる。石油を燃やすことや、安い労働力をこき使うというコストが重要ではなく、大量に物を作るという成果が重要だった時代には、地球の裏側から物を輸入することは効率が良かった。だが、どうやら石油を燃やすと悪い影響が出ることや、安い労働力にも人権があることが理解され、かつてほどに大量の物を必要とせず物余りの時代になったいま、グローバルサプライチェーンは効率が悪いのではないだろうか?

 円安と物価上昇は混乱をもたらすかもしれない。だが、他のさまざまなメリットを引き起こすためのショック療法と考えれば、目を瞑ってもいいのではないだろうか? 少なくとも私たちは、かなり大規模に非効率なことをやっているのだ。ならば、変革に伴う多少の混乱は止むを得ない。

■感情的な反発

 ある意味でこれが一番厄介な問題である。つまり「BIには反対する人がいる。だからBIは実現しない」という問題だ。とは言え、これに関しては私がまさにいま、解決に向けて取り組んでいる最中である。BIのメリットを地道に伝えていく。これしか解決策はあるまい。

 BIに反対する気持ちもわからないではない。BIに賛成することは、一見するとアホっぽいからだ。「ていうかさ、金配ればよくね?」という発想は、世間の厳しさを何も知らない馬鹿による短絡的な思いつきに見えてしまうのだ。

 世間の大人たちは、自分は頭の良い人物だと周囲に見せびらかすチャンスを強迫症的に伺っている。ならば馬鹿による思いつきを「ほんまやな・・・」と受け入れるわけにはいかない。そうすれば「馬鹿が思いついたような短絡的なアイデアを、自分が思いつかなかった(つまり自分は馬鹿よりも馬鹿)」という事実が周囲に提示されるからである。

 しかし「そう美味い話はなくてね・・・」と説教を垂れるならば、「馬鹿の短絡的なアイデアはとっくに思いついていたが、自分は賢明にもデメリットを見抜き、即座に飛びつくことなく思いとどまっている」という事実を周囲に見せつけることが可能になる。世間に存在するBI反対論の根底には、この力学が働いているような気がしてならない。

 楽観的な見立てをすることは勇気がいる。「馬鹿と思われてもいい」と覚悟する勇気である。それだけの勇気を持ち合わせている人は少ないだろう。

 だが、幸にしてBIへの注目度は高まる一方である。賛成派の意見もところどころに見られる。

 それでも、BIの議論はまだまだ十分ではない。「社会保障費が一本化できる」といった表層的なメリットを提示するだけで満足する賛成派も多いし、これまでに私が反論してきたような浅薄な批判で満足して賛成派を論破したかのような顔をする反対派も多い。

 私はもっと踏み込んで議論をしたい。BIの議論を次のステージに進めたい。そのためには、「人間とはなにか?」「労働とはなにか?」「金とはなにか?」といった根源的な問いにまで到達する必要があると考え、それを本書で一部試みた。とはいえ、なにもニーチェやカントの著書のような小難しい話ではない。これらの問いを考察するにあたって、「アプリオリ」や「永劫回帰」といった難解な哲学用語は必要ない。私たちの日常にあふれた言葉で、私たちの日常的な経験から、語るだけでいい。真に重要な洞察とは、むしろ日常の中にしかない。

 私たちの日常的な経験は、人々の大半が貢献を欲望することを示し、BIによってユートピアが訪れることを示唆する。しかし、私たちの頭の中にある「人間は怠惰で、利己的である」という頑固にこべりついた常識が、BIの実現を邪魔している。

 この常識を剥がすために、これからも私は日常の言葉で語り続けることとしよう。