「遊び」は巨大プロジェクトを遂行できるか?
さて、先ほど「繰り返し」の否定を解説した際、「規模の経済」への批判も行った。このとき、各人が誰とも協力することなく、ひたすら自給自足をする生活をイメージし、嫌悪感を抱いた読者もいるかもしれない。もちろん、徹底的に規模の経済や分業を否定する必要はない。あくまでブラックが否定しているのは「強制」であり、強制されなければやりたくなくなるほどに細分化された作業とその繰り返しなのだ。要するに、自発的な共同プロジェクトをスタートさせること自体をブラックは否定しておらず、むしろ肯定している。それは以下の文章からも見てとれる。
「遊び」という言葉で私が意図するのは祝祭性や創造性、友好性、共同性であり、もしかするとアートも含まれる。子どもの遊びと同じくらい価値ある遊びが、子どもの遊びよりもたくさんある。私が呼び求めるのは、満ち溢れた喜びの中に、そして自由で相互依存的な活気の中にある、集団的冒険である。(『労働廃絶論』p2~p3)
ここでは誰もボスになって強権を振るうことなく、フラットな組織のまま、なんらかのプロジェクトを成し遂げる様子(ブラックの言葉で言えば「集団的冒険」)がイメージされているように思われる。これ自体は、さほど私たちにとっても縁遠いものではない。みんなで協力してつくりあげる文化祭の出し物、情熱に突き動かされた少数精鋭のスタートアップ企業、時給が払われるわけでもないのに手伝う友達の引っ越しなどなど。内発的な動機さえ伴っているのであれば、こうしたプロジェクトへの参加は喜ばしい体験であることに異論はあるまい。そして、その中で臨機応変に連携を取り合い、課題を乗り越え、プロジェクトを成し遂げたときの喜びと興奮は何物にも代えがたいことには誰もが同意するだろう。また、そこに強権的に采配を振るおうとするボスが現れたなら、途端にそのプロジェクトが退屈になることも、想像がつくだろう(ただし、人々の意見や感情に配慮し、それらを調整し合いながら、慎重にプロジェクトを進めるボスのもとでなら、その不愉快さは軽減される。とはいえ、権力の階段を登るにつれて謙虚な姿勢は失われがちであることは、誰もが知る通りである)。
読者は、こうした体験が存在すること自体は納得してくれるだろう。ただし、いま挙げた例は小規模なプロジェクトにすぎず、経済を成り立たせている巨大プロジェクトに適応できるかどうかについて疑問を抱いているにちがいない。スマートフォンを製造するには巨大なグローバルサプライチェーンが必要とされ、何万という労働力が動員されなければならない。その一人ひとりの意見や感情に耳を傾けていたなら、いつまでたってもプロジェクトは終わらないかもしれない。なら、強制的に命令する人と、それに従い続ける人が必要なのだろうか? その点に関して、ブラックはなにもヒントを与えてくれない。もしかすると「スマートフォンなど必要ない」とバッサリ切り捨てるかもしれない。だが前述の通り、私は人々が欲望しているスマートフォンを切り捨てるような真似はしたくないので、労働が廃絶された世界でもスマートフォンがなんらかの形で存在することを望む。それが可能なのかは、正直なところはわからない。
ただし、権力による強制を廃したワールドワイドなプロジェクトは存在しないわけではない。たとえばフレデリック・ラルー『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)の中で紹介されているエネルギー企業AESは四万人の従業員を抱えるグローバル企業であったが、権力構造は一切排除され、ボトムアップ式に運営されていた(経営陣が変わった結果、当時の経営慣行はほとんど残っていないらしいが)。あるいは過去に目を向けてもいいだろう。デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』(光文社)によれば、ウクライナやその周辺では権力構造を示す証拠が存在しない巨大な都市が長期間にわたって運営され、高度で複雑な文化を育んでいたことが示唆されている。
些細な例外を取り上げたところで意味がないと感じる読者もいるだろう。その憤りはもっともである。だが、権力の存在しない組織を運営していくテクニックは、おそらくこれから人々の手で開発されていくべきものである。それにプロジェクト内容によって最適な運営方法も異なり、統一的なロードマップを提示することはできない。きっとブラックも同じように考えていたことだろう。とにかく人々が自発的に行動し始めることを信頼すれば、きっとなにか有効な組織化テクニックが生み出されるだろうと、彼は考えていたはずだ。
遊びは受動的ではない。疑いようもなく我々は皆、収入や職業を気にしないで怠惰と倦怠に浸りきる時間を今よりもっとずっと必要としている。それでも、ひとたび雇用に引き起こされた疲労から回復したなら、我々のほとんどは行動したくなるのだ。(『労働廃絶論』p3)
労働によって台なしにされている創造力を解き放ったとき、なにが起きるのかは誰にもわからない。なんでも起こりうるのだ。(『労働廃絶論』p58)