労働の反対にある「遊び」とはなにか?
さて、ここまで「労働」を徹底的に批判してきたブラックだが、その反対の行為として提示しているのが「遊び」である。では、「遊び」とはなんなのか? ブラックは次のように説明する。
遊びはつねに自発的である。もし強制されるなら、遊びも労働へと変貌してしまう。このことは定義上、明らかである。(『労働廃絶論』p13~p14)
遊ぶ人は、遊ぶことからなにかを得る。人が遊ぶ理由はただそれだけである。しかし、遊びから得られる真の報酬は、(それがなんであろうと)活動そのものなのだ。(『労働廃絶論』p14)
要するに「遊び」とは、活動それ自体が目的であるような活動だろう。逆に「労働」は、それ自体が目的と化すことはなく、つねに手段であるとブラックは指摘する。
労働はそれ自体が目的となることはなく、労働者が(あるいは多くの場合、ほかの誰かが)そこから得るなんらかの成果物や生産物のために行われる。これが労働の必然的なあり方である。(『労働廃絶論』p8~p9)
となると、次なる疑問が芽生えてくる。たとえば野菜を食べるために野菜を栽培する行為は「遊び」と呼べないのではないか? ここでは野菜を食べることが目的であり、栽培は手段に過ぎない。ブラックはこうした有益な生産活動を「遊び」へと変えていく必要性を訴えているが、現時点での「遊び」の定義からすれば、矛盾するのではないだろうか?
ここは人間の動機についてのさらなる考察によってブラックの主張を補う必要があるだろう。誰かが野菜を栽培するという行為をはじめるとき、それは一定程度は必要に迫られた結果だろうし、社会的な要請に応えたものであるかもしれない。そして、それに取り組み始めた最初の頃は「それ自体が目的」と呼べるような面白さを感じない場面も多いはずだ。彼は作業をうまくこなすことができず、退屈を感じ、放り投げたくなる瞬間を何度も味わうだろう(そして、実際に放り投げる可能性すら存在する。もしそれが労働でないなら、強制されていないはずだからである)。
とはいえ、困難を乗り越えようと試行錯誤すること、達成の瞬間まで粘り強く取り組もうとすることは、つねにネガティブな感情を伴うとは限らない。むしろそうした苦悩すら人は欲望するのだ。簡単すぎるゲームほど退屈なものはない。適度にトレーニングや試行錯誤が必要なゲームこそが、最後まで成し遂げたいという感情を掻き立てるのは誰もが知る通りである。
また、他者の期待に応えることも、それが強制的なものでない限りは決して悪いものではないし、むしろ喜ばしいことですらある。つまり、そこに強制さえないのであれば、有益な生産活動における困難や苦悩すらも欲望の対象と化す。人がそこに意欲的に取り組むのであれば、目的のための手段やプロセスさえ、次第にそれ自体が目的化していき、「遊び」へと変えていくことができるのではないだろうか。
では、それは労働とはどう異なるのか? 労働も、やっているうちに楽しくなっていくことは珍しくない。ならばそれも「いつかは遊びになる」として肯定すべきなのだろうか? そうではない。労働が例外なく人々の生命を維持し、喜びや快楽を生み出すために必要不可欠な行為であったなら、万人が労働に我慢して取り組み、やりがいを見出すように促すことは、社会としてさほど非効率とは言えないだろう。とはいえ、先述の通り労働が有益な目的に資するケースは減少傾向にある。ゆえに、わざわざ労働を強いる必然性はもはやなく、人々が自発的に誰かの役に立つのを待っている方が効率的であるように思われる。人は無益なマネーゲームにすら、モチベーションを持って取り組むことは可能ではある。だが、わざわざそんなことをする必要はないのである。
また、生産物を目的としていても、それを至上目的としないことも重要な「遊び」の成立条件であるように思われる。
それらの娯楽は、たまたま有益な生産物を生み出すという点を除けば、楽しみだけを目的とした娯楽と区別できないだろう。(『労働廃絶論』p41)
ここでは、「効率」や「タイパ」の度外視が意図されているのだと思われる。「効率」や「タイパ」を重視するということは「その作業に取り組む時間は短ければ短い方がいい」という発想に縛られることを意味する。その状況は「その作業は強制されている」という感覚をますます強めていくことだろう。魚釣りロボットを手にした釣り人は、もはや魚を手に入れるプロセスを楽しめないであろうことは想像に難くない。なら、効率を追求した結果その行為を不愉快なものに変えてしまうぐらいであれば、非効率なやり方を続ける方がいい。そのような発想に貫かれている行為こそが「遊び」なのだろう。
ただし、「遊び」として非効率なまでに効率を求めることはあり得るだろう。極限まで家事導線を効率化しようとする主婦や、スマートフォンの操作性を追求するガジェットオタク、コンマ一秒単位までプレイ時間を短縮しようとするゲーマーは、もはやそのプロセス自体を遊んでいる。