ブラックは、清貧思想を語っているのか?

 ところで、無意味な労働をなくすべきだという旨のブラックの主張をみたとき、漫画やゲーム機、遊園地やコント番組が一切なく、玄米と高野豆腐だけを食すような質素な生活が待ち受けているのではないかという不安を感じた読者もいるだろう。以下の記述も、その不安を駆り立てるものだったのではないだろうか。

 もはや軍需産業、原子力発電、ジャンクフード、デオドラント製品 ── そしてとりわけ自動車産業は無用であることは言うまでもない。(『労働廃絶論』p44)

 おそらく、この一文には多くの反発が寄せられるはずだ。軍需産業が削減されるべきことにはほぼ異論がないと思われるので置いておくが、原子力発電を撲滅した結果、クーラーを二八度設定にしなければならなかったり、しょっちゅう停電が起きるなら耐え難い。ジャンクフードまみれの社会は不健康であることに疑いの余地はないとはいえ、たまにならビッグマックとポテトをコーラで流し込みたい。いい匂いのするシャンプーで髪の毛を清潔に保ちたいと考える人や、ゴツくて少年心をくすぐる自動車に乗りたいと考える人は少なくないだろう。それなのにブラックは「こんな商品やサービスはくだらないのだから、なくなっても問題ない」と批判をしているわけだ。ここで私自身の考えを述べると、実際に人々が欲望する商品やサービスを、不要だと切り捨てる権利は誰にもないと思っている(それをしようとしたのが毛沢東やポル・ポトといった権力者たちであり、その結果は散々なものであった)。そのため、私はブラックの主張に完全に賛同しているわけではない。

 とはいえ不満をぐっと堪えて、ブラックの主張の骨子をくみ取りたい。なぜ、ブラックはこのような主張をしたのだろうか? 正確なところはわからない。だが、おそらく必要以上に欲望を煽り立てる広告産業やセールスマンが消え去り、かつ労働の苦痛を忘れるためのレジャーが必要とされなくなったなら、こうした商品やサービスを必要とする人は減っていくという見立てにもとづいた主張であるように思われる。レジャーに関してはブラックは次のように批判している。

 レジャーは労働のための非労働である。レジャーとは、労働からの回復のために、あるいは労働を忘れるための熱狂的でいて望みのない試みに、費やされる時間である。多くの人々は疲労困憊で休暇から帰ってくる。労働に安息を見出し、労働に戻ることにワクワクしているほどだ。労働とレジャーの主な相違点は、労働においては少なくとも疎外と衰弱に給料が支払われるというだけである。(『労働廃絶論』p7~p8)

 つまり労働そのものが廃絶されたなら、労働を忘れるために行われるレジャー(おそらくそれに加えてジャンクフードといった広告に煽り立てられた産業)も不要であると、ブラックは考えているようだ。実際に労働が廃絶されたとして人々がビッグマックを必要としないかどうかはわからない。依然として、誰かがビッグマックを欲し、つくられ続けるかもしれない。だが、いまほどには必要なくなるだろう。ジャンクフードを腹に詰め込まなければならないのは、労働が人々の時間を奪い、ストレスを与えているからである。なら、ジャンクフードがなくなっていくことは我慢の結果ではなく、遊びで社会が満ち溢れることの当然の帰結ではないか。そしてその結果、エネルギー問題や環境問題も解決されると、ブラックは主張している。

 すでにエネルギー問題や環境問題、そのほか未解決の社会問題は、なにかを我慢する必要もなく、事実上解決しているようなものである。(『労働廃絶論』p44)

 エネルギー問題や環境問題は、ドリンクが不味くなる紙ストローを使ったり、マイボトルを持ち歩いたりして、「我慢して解決するもの」であると想定されがちである。しかしブラックは、我慢することなく、むしろ労働という名の我慢から解き放たれることで、無意味な生産活動がなくなっていき、エネルギー問題や環境問題が解決されていくと主張しているのだ。こんなにセクシーな環境保護活動はほかにあるまい。