テクノロジーによる労働の代替ではなぜダメなのか?
「労働の廃絶」という言葉を聞いた現代人の多くは「AIやロボットで労働を代替する」という意味に解釈すると思われる。しかし、ブラックが意図しているのはテクノロジーによる代替ではないように見える。それは以下の文章からも読み取ることができる。
私は機械オタクではない。ボタンを押せばすべてが解決する天国に住みたくはない。ロボットの奴隷にすべてを世話させたくもないし、自らの手で成し遂げたいこともたくさんある。(『労働廃絶論』p48)
ここでブラックが問いかけているのは「すべてをテクノロジーで代替する必要があるのか?」という疑問ある。先述の通り、ブラックは生命の必要性に応える生産活動は「遊び」として実践されるべきであると考えているのだ。なら、それをわざわざ省力化する必要があるのかどうかを慎重に考える必要がある。たとえば釣り人に対して、自動で海から魚を釣ってきてくれるロボットを手渡してみるとどうだろうか? 釣り人が飛び跳ねて喜ぶとは思えない。彼は自ら海まで足を運び、時間をかけて釣りをし、自らの手で魚をさばくこと自体に喜びを感じているからだ。では、もしあらゆる生産活動が釣りのような喜ばしい行為であったなら、それを自動化する必要があるだろうか? 生産活動を遊びのようなものに変えられるなら、大慌てで自動化する必要はないのではないだろうか? 自分の手でなにも成し遂げることなくボタンを押すだけですべてが解決される世界は、退屈極まりないことだろう。生活のすべてを世話してもらう老人よりも、自分の手で何かを成し遂げ続ける老人の方が、人生に喜びを感じ、長生きをする。自動化は、私たちを寝たきり老人のようなものに変えてしまうリスクを孕んでいるのだ。
とはいえ、ブラックもなに一つとして自動化すべきではないとまでは言わない。明らかに危険で、退屈な作業は自動化されるのが好ましいと考えているようだ。
戦争研究や計画的陳腐化といった煩わしい営みから解放された科学者やエンジニア、技術者たちは、鉱山労働から疲労と退屈と危険を取り除くような、やりがいのある仕事に着手できるようになる。(労働廃絶論p47)
たしかに(危険性や退屈さを考えれば)人間がやらない方が好ましいが、人々のニーズに応えるためにはまったく取り組まないわけにもいかない作業は存在するように思われる(レアメタルの採掘などは、明らかにこれに当てはまる)。だが、ブラックは労働が廃絶された世界ならこうした作業は自動化されていくとの見立てを示している。現代の科学者やエンジニア、技術者たちは、その才能をフルに発揮しているとは言い難い状況にある。私がとある半導体メーカーの社員に聞いたところによれば、彼の領域ではほとんど技術は頭打ちになっていた。しかし、さも革命的な性能を生み出したかのように顧客に見せかけるためだけに、現実にはほとんど影響のないカタログスペックを追求させられ、深夜まで残業していたという。似たような苦境が、多くの才能ある人々を苦しめていることだろう。彼らが本当に意味のあるイノベーションに取り組むことが可能になれば、真に取り除かれるべき苦役はさっさと自動化されていくと、ブラックは考えているようだ。
ただし、それも過信すべきではないだろう。膨大な専門家への取材を経て書かれた渡邉正裕『10年後に食える仕事、食えない仕事』(東洋経済)は、昨今信じられている「AIやロボットがすべての労働を代替する」という楽観的な見立てに冷や水をぶっかけている。また、技術史の研究者であるバーツラフ・シュミルは『Invention and Innovation 歴史に学ぶ「未来」のつくり方』(河出書房新社)で、膨大なデータをもとにテクノロジー楽観論への痛烈な批判を行っている。詳細の説明は割愛するが、実際のところ現代を成り立たせている労働すら(たとえばカフェの店員がテーブルを片付け、お冷を継ぎ足し、トイレを掃除するような比較的シンプルな作業すら)代替するにはドラえもんレベルのロボットが必要になるだろう。「二〇四五年にシンギュラリティがやってきてAIが人間を超える」といったレイ・カーツワイルやイーロン・マスク、落合陽一のような人たちが煽り立てている夢物語は、ノストラダムスの大予言くらいの真剣度で受け止めるべきなのだ。
我々はコンピューター神秘主義者たちの大言壮語に、もっと疑いの目を向けるべきだろう。(『労働廃絶論』p38)
では、危険な鉱山労働は永遠に誰かが歯を食いしばって取り組み続けなければならないのだろうか? そうとも限らない。仮に完全には自動化されないのだとしても、万人が労働から解放されたなら、せめて負担を軽減する手法の開発や、さほど苦痛とは感じないほどの短時間の作業で済むような役割分担、可能な限りのリサイクルへの代替が進んでいくだろう。また、そもそもブルシット・ジョブに取り組む必要がなくなれば、いまほどにノートパソコンを製造する必要もなくなり、レアメタルの必要量も減る。そうなれば労働として取り組まされるのではなく、少し面倒な掃除当番くらいの感覚で、レアメタルの採掘に取り組めるかもしれない。要するに、労働の苦痛を取り除くために労働をテクノロジーで効率化しようとするのは、効率が悪いのである。ブラックの言う通り、みなが労働をやめる方が手っ取り早いのだ。