ブルシット・ジョブに対する批判
もちろん「その作業が苦痛になるのだとしても、規模の経済を働かせて大規模に生産することをしなければ、必要な生産量が維持できず、社会が成り立たないのだから仕方がない」という反論もあるだろう。ところがブラックは、そもそも人々の生命やインフラを維持するために必要な生産量はそこまで多くはないと考えている。そして、現代の労働の大部分は、有益な目的に貢献していないと主張している。
三十年前、ポールとパーシバルのグッドマン兄弟は当時行われていた労働のわずか5パーセントだけで、衣食住の最低限のニーズは満たせると試算した。この数値が正確なら、現在はさらに少ない労働で済むだろう。理論的な推測に過ぎないが、重要な点ははっきりしている。ほとんどの労働は、直接的または間接的に、金勘定や社会の抑圧といった非生産的な目的にしか役立たない。何千万人ものセールスマンや兵士、管理職、警察、株式仲買人、聖職者、銀行員、弁護士、教師、家主、警備員、広告業者、そして彼らの周りで働く人々は、即座に労働から解放することができる。(『労働廃絶論』p42)
労働者の40パーセントはホワイトカラーであり、その大半はこれまででっちあげられた中でもっとも退屈でバカバカしい仕事に取り組んでいる。たとえば保険や銀行、不動産などの業界は無意味な書類いじり以外にはなにもしていないのだ。(『労働廃絶論』p43)
ここでやり玉に挙げられている職業は、人類学者でありアナキストでもあるデヴィッド・グレーバーが近年「ブルシット・ジョブ」と名付けた職業群と、ほぼ同じであるようにと思われる。グレーバーはブルシット・ジョブを次のように定義する。
ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。(デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』岩波書店)
グレーバーは一時期『労働廃絶論』に傾倒していたことを別の著作の中に書いている。そのため、おそらくブルシット・ジョブという概念も、ブラックからヒントを得ているものだと思われる。
ブラックは、先述の職業の大半が無意味であるとバッサリと切り捨てるが、グレーバーはもう少し慎重であり「本人でさえ、その存在を正当化しがたい」という注意書きを加えている。つまり、「本人が無意味だと認めるなら間違いないだろう」という考え方である。実際、グレーバーによれば、先進国の37パーセントから40パーセントの労働者が自分の仕事が無意味であるとアンケート調査で回答したという。おそらくブラックが『労働廃絶論』の元となる演説を行った一九八〇年よりも、その比率は高まっていることだろう。「いやいやセールスマンも、管理職も、警察も、銀行員も、広告業者も、経済の潤滑油として有益な目的に貢献してるはずだ。自分の仕事が無意味だと回答した人も、その重要性に気づいていないだけだろう」と批判したくなる人は少なくないはずだ。実際のところはわからない。もし明日からこうした仕事に就く人々が一斉にストライキを起こしたなら、社会が崩壊してしまうのかもしれない。だが、ここではひとまず批判したい気持ちをぐっと飲みこんで、ブラックが思い描いたであろう理想的な社会を想像してみよう。
もし人々が自発的に他者に貢献し合い、社会が必要とする最低限のニーズを満たすだけではなく、その能力を熟練させていき、さらなる社会の発展のために奉仕し始めるのであれば、上記の職業がまったく存在しないか、最小限まで減らされた方がいいことは明らかではないだろうか。管理職は、人々が怠惰であり、どのように仕事に取り組むべきかを判断できず、そのための能力も持たないのでなければ不要である。警察は、人々が自発的に富を生み出そうとしないばかりか、隙あらば他人の生み出した富を奪い取ろうとするのでないなら不要である。銀行員が資本を貸し出し、それを元手にしてビジネスをスタートするという構造は、人々が自発的に協力し合い、巨大なプロジェクトを完遂することができるなら不要である。セールスマンも、広告業者も、なにかを売りつけて食い扶持を稼ごうとせずとも、自然と人々のニーズが満たされるなら不要である。こうした職業は空気のように当たり前の存在と化しているため、「もしかしたら不要なのでは?」と考える人は稀である。それに、こうした疑問を口にすることはこれらの職業人を攻撃しているかのような印象を与えてしまうため、礼儀正しい人ならば差し控えるだろう。とはいえ(ブラックがどのように考えていたかは不明ではあるが)、『労働廃絶論』を翻訳し出版する私は、こうした職業に就く人々を道徳的に攻撃する意図はないことは強調しておきたい。ここで行っているのはあくまで「労働」を成立させているシステム総体への批判である。
一方で、どんな社会構造が訪れようが、椅子をつくる人や赤ちゃんのオムツを替える人、ニンジンを育てる人がまったくいなくなってしまうと、大混乱に陥る。つまり、これらの行為に取り組む人々は「まったく存在しない方がいい」などと言うことはできない。しかし、広告やセールスマンからかかってくる営業電話、職務質問、上司に提出する報告書、銀行員が送りつけてくるレポートなどそれ自体を必要とする人はいない(広告コピーマニアのような人は例外として)。なら、最小限は必要だったとしても、できることなら減らした方がいい。このことには異論はないだろう。となると、次に考えるべきことは明らかだ。本当に「人々は、自発的に他者に貢献し合い、社会が必要とする最低限のニーズを満たすだけではなく、その能力を熟練させていき、さらなる社会の発展のために奉仕し始めるのか?」である。