奪われ続けてきた労働者の自発性について

 「人々がそこまで優れた能力や自発性を持たないからこそ、社会の管理にまつわる職業が必要なのではないか? 現にそれは存在するのだから、やはり必要だったのではないか?」と多くの人は考えるだろう。しかしブラックは因果関係を逆に捉えている。つまり「管理があるからこそ、人々がつまらない存在へと貶められている」と。

 人は、自らの行為によってつくられる。もしあなたが退屈で、くだらない、単調な労働に就くなら、退屈で、くだらない、単調な人間に成りさがるだろう。(『労働廃絶論』p19)

 人生をまるまる統制され、学校から職場へ運び込まれ、家庭に始まり老人ホームに終わるまで縛りつけられる人々は、ヒエラルキーに飼いならされ心理的な奴隷になる。彼らの生まれ持った自律性はおおいに衰えている。(『労働廃絶論』p19)

 ひとたび労働によって人々から自発性を奪ってしまえば、彼らはなにごとにおいてもヒエラルキーと専門知識に服従するようになるだろう。彼らはそのことに慣れきっているのだから。(『労働廃絶論』p20)

 要するに、人々の自発性は社会の支配によって奪われ、人々は管理されるべき存在へと成りさがる。その結果さらに支配が必要とされ、さらに自発性が奪われていく。そのような負の連鎖が生じているのだとブラックは考えているようだ。

 一方でブラックが批判するイデオロギー屋たちは、この発想には至らなかったらしい。彼らは強制されるべき人々と、それを適切に導く権力者という構図が絶対的に必要なものであると考えていた。

 労働組合も経営陣も、値段については言い争うのだが、我々が生存のために人生を切り売りしなければならないという点には合意している。マルクス主義者は、官僚がボスになるべきだと考える。リバタリアンはビジネスマンがボスになるべきだと考える。フェミニストはボスが女性でさえあれば、誰がボスだろうがお構いなしだ。明らかに、これらのイデオロギー屋たちは、権力による略奪品の分配方法について深刻な見解の相違がある。同じくらい明らかに、彼らの誰も権力そのものに異論を唱えることはなく、ただ我々を働かせ続けたいのである。(『労働廃絶論』p5~p6)

 マルクス主義者やリバタリアンやフェミニストも、あるいは経営者も労働組合も、「誰かが誰かに命令し、強制する」という構造そのものを疑うことはなかった。「誰が誰に命令するか?」や「命令の対価をいくらにするのか?」といった点について言い争っているだけであり「命令や強制を丸ごとなくそう」とは誰も主張しなかったのだ。

 とはいえ、近年のフェミニズムは権力構造そのものの破壊に向けて歩みを進めているように思われる。たとえばシンジア・アルッザなどによる共著『99%のためのフェミニズム宣言』(人文書院)は従来の女性をボスに据えようとしてきた過去のフェミニズムを批判したうえで「役員室を占拠する女性CEOたちを称賛することはおろか、私たちはCEOと役員室自体を撤廃したいのである」と宣言している。

 ほかにも、ビジネスマンたちが参照するような古今東西の経営理論においても、権力への批判はありふれている。たとえばフレデリック・ラルー『ティール組織 マネジメントの常識を覆す次世代型組織の出現』(英治出版)やエイミー・C・エドモンドソン『恐れのない組織 「心理的安全性」が学習・イノベーション・成長をもたらす』(英治出版)などでは、トップダウンのヒエラルキー構造が下層の人々の意欲を削ぐことや、逆に管理や支配構造を取り払ったボトムアップ型組織が人々の意欲を掻き立てることをさまざまな実例と共に記述されている。

 心理学者たちもブラックの主張に根拠を与えている。たとえばエドワード・L・デシ『人を伸ばす力 内発と自律のすすめ』(新曜社)では、金銭によって動機づけられた人物の内発的な動機が損なわれることや、逆に内発的な動機にもとづいた場合の方が人間の能力が発揮されることが指摘されている。

 では、権力から解放され、労働を強いられなくなったときに、人はなにをするのだろうか? ブラックは次のように回答する。

 人々はもっとも魅力のない単純作業すら、そうしなければ無駄になってしまう創意工夫を傾けて、できる限りゲームに変えようとする。ある人にとっては魅力のある活動だからといってほかの人も楽しめるとは限らない。だが、少なくとも誰しもが潜在的に多様な関心を持っているし、多様性への関心を持っている。(『労働廃絶論』p53)

 汚物の中で転げまわることで悪名高い子どもたちですら、傑出した子にメダルを授与すれば、トイレ掃除やゴミ捨てを行う「ちびっこ軍団」として組織化できるだろう。(『労働廃絶論』p54)

 つまり、人間とは誰かに管理され、命令され、労働させられるのでなければ、創意工夫を繰り返し、一般的に退屈だとされるようなトイレ掃除やゴミ捨てすら遊びに変えて、楽しみながら取り組むというわけだ。この点に関してはブラックはほとんど根拠を挙げていないので、ほかの情報源をあたるほかあるまい。たとえば山内昶『経済人類学への招待』(ちくま新書)では、未開社会の人々が遊ぶように畑を耕し、「遊び」と「労働」をまったく同じ言葉で表現していたことが描写されている。

 労働が疎外されず、自己実現としての活動であるところから、未開の労働は、嫌な辛い務めではなく、むしろ楽しく快いスポーツにも似た運動といった趣を呈してくる。(山内昶『経済人類学への招待』ちくま新書)

 また、渡辺京二『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)は、近代的な労働に支配される前の江戸時代の人々が、ハードな肉体的な作業においてすら歌を歌いながら遊ぶようにこなしていたことを、訪日外国人の手記を紐解きながら描いている。

 彼らの労働はたしかにモースの同情を買うほどに激しいものだったに相違ないが、果たしてただそれだけの苦役だったのだろうか。そうではあるまい。船唄でもうなり声でもどっちでもいいが、彼らのあげる音声は、舟と一体となって波頭を蹴ってゆく生きものの、おのずと発するよろこびの声でもあったのではなかったか。バードが、サンパンの船頭たちはお互いの船が衝突したときも、嫌な顔をしたり罵りあったりしないと記していることから見ても、彼らはすこぶる上機嫌で船を漕いでいたらしいのである。(渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー)

 未開社会においても、江戸時代の日本においても、ブラックの言う「規律」とは無縁であり、彼らは気まぐれに昼寝をし、自分たちのペースで働いていた。それでいて、高度な職人仕事を、楽しみながら成し遂げていた。おそらく彼らに「あなたがたがやっていることは苦痛なのだから、さっさとやめろ。私があなたがたの衣食住を保証するから」と提案したところで、ポカンとされるのではないか? それは「遊びをやめろ」と言われるようなものであり、ゲーム好きに対して「そんな大変なゲームはしなくてもいい。私があなたのためにクリアしてあげるから」と言うようなものだろう。つまり、強制や権力のない社会では、人々はダラダラと怠けてしまい、誰もやるべきことをやらなくなるだろうという安易な発想は、歴史的にみれば誤っているのである。

 もちろん高度に分業化された現代のテクノロジー社会で同じことができるかどうかはわからない。しかし、まったく可能性がないとか、人間はそもそも自発的に生産活動を遊びに変えることなどできないとか、そういう主張をすることはむずかしいように思われる。もし「規律」による支配がなくなれば、自由に創意工夫する社会の組織化方法すらも、人々は遊ぶように生み出してしまうのではないか。『労働廃絶論』を読んでいると、そのような期待を抱かずにはいられないのである。

 「たしかに自由を与えれば人々は遊び始めるかもしれないが、ゲームをやりこんだり、漫画を描き始めたりする程度で、誰もやるべきことをやらなくなるのでは?」といった疑問を抱く人もいるだろう。この点に関してもブラックは深入りしていないので、捕捉しておこう。進化論、脳科学の観点から見ても、人類はそもそも他者への貢献を欲望するように動機付けられている。脳神経科学者のドナルド・W・パフによれば、人類は進化の過程で利他心を生物学的な基盤として身に付けている。ほかの動物と比べて圧倒的に未熟な状態で生まれてくる人間の赤ちゃんは、母親の貢献を受け取るだけで生き延びることは不可能であり、共同体での協力し合うことが欠かせない。だからこそ、血のつながらない他人であっても、誰かが困っていたら手を差し伸べたくなるような脳の回路が進化の過程で備え付けられたというのだ。事実、貢献への欲望は、脳神経学的に見ても食欲と区別がつかないという。

 善意の寄付をするという考えによって、人間の前脳の「報酬中枢」が発火されるということだ。この研究を行った神経科学者によれば、視床下部のすぐ前にある神経細胞群の報酬信号は、他の脳の報酬信号(たとえば、空腹の人に対する食べ物の信号)と区別がつかないように見えるという。 (ドナルド・W・パフ『利己的な遺伝子 利他的な脳』集英社)

 このように見ても、人は放っておかれたならば、なにか社会の役に立つことを始めると考えるのは、生物学的な事実に基づく妥当な結論なのである。