労働につきまとう「繰り返し」への批判

 ここまで見てきたとおり、命令による強制は人のモチベーションを削ぎ落す。それが規律という形式をとるほどに、モチベーション低下効果はさらに高まると考えられる。規律は、同じ作業をひたすら繰り返すことを要求する傾向にある。ブラックは強制されることに労働の苦痛の原因を見出していたが、強制される行為の中でも「繰り返し」はさらなる苦痛を呼び起こすと考えていたようだ。たとえば次の文章である。

 たまにはやりたくなるけれども、長時間やりたいとは思わないし、ずっとやりたいとは間違っても思わない行為がある。親となって育児に専念するのではなく、他人の子どもと仲良くなるために数時間だけベビーシッターをやるのは気楽なものである。ようやく育児から離れられた親たちは、自分自身のための時間を大いに満喫するだろう。そのくせ、あまりにも長期間子どもから離れ離れになるなら、彼らは気が気ではなくなるのだが。互いにメリハリをつけて取り組むことで、自由な遊びの人生が可能になる。(『労働廃絶論』p52)

 ここではなにが意図されているのだろうか? 一時間か二時間だけ子どもの面倒をみるのは苦痛ではないどころか、喜ばしい体験ですらあることには、多くの人が同意するだろう。一緒に積み木をして遊ぶことはもちろん、おむつを替えたり、食事をつくったりするような、労働としてなら苦痛になりかねない行為すら、遊び感覚でこなすことができる。ところが、多くの母親がそうしているように二十四時間つきっきりで面倒を見ることになれば、苦痛や倦怠感、拒否感を味わう可能性が一気に高まる。もちろん、それでも高いモチベーションを保つ母親もいるし、責任感をもって育児を成し遂げる母親が大半であるが、育児ノイローゼとなる母親が多いのも事実である。私自身の二児の父としての経験を語ると、他の大人のもとに我が子を連れていけば、ミルクを与える権利を取り合うような事態に陥る。みんながやりたがるのである。家の中ではしばしば子どもの相手を妻と押し付け合うような状況になるというのに。要するにここで言いたいのは、一日のうち一時間や二時間だけ育児に取り組むならそれは「遊び」であり続ける可能性が高まるが、二十四時間やらざるを得ないなら「苦痛を伴う労働」と化すリスクが高まるということだ。これは育児に限った話ではない。たとえばトラックドライバーは(積みおろしやトラックのメンテナンスといった業務も含まれるとは言え)おおむね運転といった単一の業務に八時間以上縛り付けられることになる。車好きにとって一時間や二時間の運転は遊び半分のドライブにすぎないが、トラックドライバーにとっての運転は「労働」である。朝から晩まで大工仕事に従事するなら労働になり得るが、週末に気まぐれに日曜大工に取り組むならそれは遊び(もちろんそれは取るに足らないという意味ではない)である。労働として取り組む人がみな苦痛に顔をしかめているとは限らないとはいえ、長時間繰り返すことによってその行為が苦痛と化す可能性は間違いなく増大するだろう。『労働廃絶論』の中で繰り返される「職業」への批判は、この文脈で解釈すれば理解しやすい。

 人々はただ労働するだけではなく、「職業」を持つのだ。「さもないと・・・」という脅しを背景に、一人の人間が一つの生産タスクをひたすら繰り返す。たとえそのタスクに面白さが内在していたとしても(まずます多くの職業がそれを失っているが)、義務的に繰り返させられる単調さによって、遊び心(ludic)を発揮するポテンシャルは枯渇させられてしまうのだ。(『労働廃絶論』p11)

 だからブラックは「職業」すらも撲滅すべきであると考えた。

 永遠のお祭り騒ぎシステムのもとでなら、我々はルネッサンスも真っ青なほどの素人好事家の黄金時代を目撃することになるだろう。そこに職業は存在しない。やりたいことと、それをやる人がいるだけだ。(『労働廃絶論』p50)

 とはいえ、職業を撲滅するべきだという主張は「やりすぎ」感が否めない。たとえば、豆腐屋として週に四十時間働くことに誇りを持っている人物は一定数存在している。彼は労働がない社会でも豆腐をつくり続けるだろうし、「豆腐屋」という職業を名乗り続けるだろう。しかし、職業を撲滅するべきだと主張するなら、彼にたいして「豆腐づくりは週十時間までにすべきだ」などと怒鳴りつけなければならなくなる。それはもはやブラックが嫌悪する「強制」ではないか。言い換えれば「非生産の強制」であり「逆向きの労働」ではないか。たしかに同じ作業を長時間取り組み続ける場合、それが苦痛になる可能性は高まるが、それでも苦にならないどころか、欲する人すらいるのだ。なら、職業の撲滅という主張には、慎重になるべきではないだろうか。

 さて、ブラックの繰り返しへの批判は、別の角度からも手痛い反論を食らうことになるだろう。それは、「規模の経済」という観点からである。「規模の経済」を簡単に説明するなら、農業が得意な人が農業に従事し、家具づくりが得意な人が家具づくりに従事することで、全体的な生産性が高まり、社会全体が幸福となるという考え方である。もちろん、「規模の経済」にも一理ある。極端な話、農家Aがニンジンとダイコンを一本ずつ生産し、農家Bもニンジンとダイコンを一本ずつ生産するなら、農家Aがニンジンを二本生産し、農家Bがダイコンを二本生産する方が作業効率は高い。また、それぞれが一つの野菜に専念することによって効率的な生産方法を開発する可能性も高まり、二本といわず百本や二百本も生産できるようになるかもしれない。それはその通りである(畑の多様性を高めた方が、全体として生産性が高まるかもしれないという議論は、一旦無視する)。ただし、仮にそうだとしても、規模の経済が「なにか」を犠牲を強いていることは疑いようがない。「なにか」とは、「遊び」の要素である。先述の通り、繰り返すことを強いられるならば、その作業は苦痛になる可能性が高まる。その作業を苦痛に変えてまで「規模の経済」とやらを追い求めるべきなのかをブラックは問いかけているのだろうし、おそらく「追い求めるべきではない」と主張している。