現代における規律の在り方
さて、ここまでブラックは「規律」が社会を隅々まで支配しているように描写したが、必ずしも現代においても同じ状況であるとは言い難い。現代においてはフレックスタイム制やリモートワークなど、裁量を与えて高い成果を要求するというワークスタイルも浸透しはじめている。鍵つきの工場に閉じ込められ、トイレの時間まで指定されるような働き方は、多くの日本人にとってはなじみの薄いものではないだろうか。ドイツの哲学者ビョンチョル・ハンも同様の主張を行っている。
規律社会とは、病院、精神病院、監獄、兵舎、工場といった制度に支えられた社会であったが、それはもはや、こんにちの社会ではない。こうした社会はとっくに別の社会に取って代わられている。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
ではなぜ、規律は弱体化したのか? ハンはその原因を「生産性の限界」に求めた。
生産性が一定の水準に達すると、規律社会と禁止の否定図式は限界に突き当たる。そして生産性をさらに向上させるため、規律という物の見方は、能力という物の見方と「できる」の肯定図式に取って代えられる。というのも、生産性が一定の水準に達すると、禁止という否定性は生産を妨害する方向に作用し、生産のさらなる向上を阻害するからである。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
要するに規律による生産性の向上が頭打ちとなり、別のパラダイムが必要とされたというわけだ。ハンは「生産」がなんなのかを明言しなかったが、ここでは「金を儲けること」と解釈すべきだろう。かつての工業社会では、製品を効率的に大量生産して売れば十分に金儲けができた。だから退屈だろうがなんだろうが、従順に手を動かし続ける労働者が存在すればそれでよかった。しかし、「物が売れない」とされる現代社会においては大量生産したところで、ほとんど利益を生み出さない。ブランディングやマーケティングの手法を駆使して高付加価値商品を売りつけたり、既得権を囲い込んで効率的にピンハネしたりしなければ、十分な利益を手にすることができなくなったのだ(小売りチェーンや自動車メーカーが、本業よりも賃料や金融によって利益を生み出す事態はもはや珍しくない)。こうした状況において必要なのは、たんに規律に従順な人物ではなく、自発的な能力の主体として活躍する人物である。そして社会は『七つの習慣』を読み、企業のミッション・ビジョン・バリューに共感し、自発的に行動する意識高い系ビジネスパーソンを理想化しはじめたのだ。これはブラックの議論からすれば、改善であるようにも見える。なぜなら規律は(依然、存在するとはいえ)少なくなってきており、「まだマシ」な第三世界の農民の状況に近づいたように思えるからだ。ところがハンの記述はさほど楽観的ではない。
とはいえ、「できる」という能為は「すべき」という当為を取り消すわけではない。能力の主体は、依然として規律化された主体である。この主体は規律という段階を修了したのである。規律の技術によって、つまり「すべき」という当為の命法によって達成された生産性の水準は、「できる」という能為によってさらに押し上げられる。このように、生産性の向上に関して「すべき」と「できる」のあいだにあるのは、断続ではなく連続である。(ビョンチョル・ハン『疲労社会』花伝社)
この文章は、命令を内面化している状況を「命令されている」と解釈するのが妥当だろう。規律社会のように細々とした命令が与えられるわけではないが、「生産性を高めよ(金儲けせよ)」という命令が与えられ、その命令は事実上は細々とした命令が内面化されている状況が想定されている。結果、規律はより巧妙化されている。そういう意味では、ブラックの言う通りかもしれない。
労働に内在する支配の原動力は、時間とともに巧妙化する傾向にある。資本主義社会であれ、「共産主義社会」であれ、あらゆる産業社会を含む労働まみれの社会では、労働は必ずその不快さを増長させる性質を手に入れるのだ。(『労働廃絶論』p8)
また「生産性を高めよ(金儲けせよ)」という命令の対象が、第三世界の農民と比べても無益と化している点にも注目すべきだろう。第三世界の農民は、農作物の生産という比較的意味のある行為に取り組んでいた(仮に農作物は奪われるのだとしても、誰かがそれを食べてくれるなら、納得できないこともないだろう)。しかし、現代において金を儲けるために手っ取り早いのは、美容や健康に関する不安を無意味に掻き立ててから不要な商品を売りつけることや、労働者を上手くピンハネする方法を考案するようなブルシット・ジョブである。人々が部分的に規律から解放されているように見えたとしても、無意味なブルシット・ジョブに自発的に取り組むように動機づけられるなら、それは事態の改善であるとは言い難いだろう。