強制と規律が苦痛の原因
先述の通り、ブラックは強制こそが労働がもたらす苦痛の根本原因であると考えた。では、強制とはなんなのか? 実を言うとそれは必ずしも明確ではない。あなたが不思議な力で他者をマリオネットの如く操る超能力者でもない限り、厳密な意味で誰かを強制することは不可能だからである。拳銃を突きつけられながら命令されようが、拒否することはつねに可能なのだ。つまり、厳密な意味での「強制」はこの世界に存在しない。ならブラックは「強制」をどのように捉えていたのだろうか? 明言されてはいないが、ブラックによるシラーの引用個所がヒントであるように思われる。
剥奪が原動力であるときに動物は労働する。(『労働廃絶論』p30)
ここでいう「剥奪」とは「失うことへの恐れ」とでも言い換えられるだろう。たとえば、槍を突きつけられながら奴隷労働に取り組むことは、明らかに「命を失うことへの恐れ」が原動力である。あるいは家事労働は(とくに極端に高圧的な夫のために行うような場合は)、「夫に見切りをつけられ、夫の稼ぎを失い路頭に迷う恐れ」が原動力であるように思われる。そして賃労働とは「会社をクビになり、家族もろとも路頭に迷う恐れ」が一定程度は原動力として機能していると思われる。このような場合は、少なくとも一定程度は「強制されている」と言って差し支えなさそうだ。逆に言えば、失うことへの恐れがなくなった場合、その人物を強制することはむずかしい。生活を成り立たせるために十分な不労所得を得ている人物を強制的に労働させるのはほとんど不可能である。仮になにかの作業に従事することに一度は同意したとしても、彼は不満を感じたなら職場を離れるだろうし、雇用者側はそれを食い止める手立てがない(一方で、不労所得がない場合は「それじゃどこ行っても通用しないよ?」とか「食べていけなくなるよ?」といった脅しが一定程度までは有効であるが)。
ブラックによれば「強制」が隅々まで行き渡ったのが近代以降の労働である。逆に言えば前近代的な労働は、さほど強制が徹底されてはいなかったようだ。
わずかに残った第三世界の農民の砦 ── メキシコやインド、ブラジル、トルコ ── だけが、ほとんどの肉体労働者が過去数千年間続けてきた伝統的な労働関係をいまだ持続させる農業従事者の避難所となっている。その労働関係とは、国家への税金(身代金)や、寄生的地主への地代を支払いさえすれば、それ以外のことはほったらかしにしてもらえるような関係である。この生々しい取引すら、まだマシに思えてくる。(『労働廃絶論』p10)
彼らは税金や地代を払ってさえいれば、こまごまとした指図を受けることはなかった。「朝八時に必ず出勤して、一時間は耕運作業を行うように。その後、地主への報告書を提出し、十二時に休憩を四五分取得。午後は夕方五時までに1アールの種まき作業を終えるように。遅れた場合は、その理由と改善案を報告せよ」などとマイクロマネジメントされる第三世界の農民は少なかった。つまるところマイクロマネジメントは分割された命令であり、立て続けにやってくる強制にほかならない。だからこそ、それが存在せず、おおざっぱな成果だけを要求された第三世界の農民はブラックにとって「まだマシ」だと思えたのだろう(もちろんブラックは全面的に肯定しているわけではない)。
しかし、近代的な労働はちがう。強制を隅々まで浸透させていく「規律」が徹底されているからだ。
規律とは職場における全体主義的統制の総体によって構成されている ── 監視、繰り返し仕事、押しつけられる作業テンポ、生産ノルマ、タイムカードなどなど。規律によって、工場やオフィスや店舗は、刑務所や学校や精神病院と見分けがつかなくなっている。規律は、歴史的にも類を見ないほどの恐ろしさを孕んでいる。ネロやチンギス・ハン、イワン雷帝といった過去の悪魔のような独裁者すらも可愛く見えるほどだ。彼らほどの悪意の持ち主ですら、現代の専制君主ほどに臣民を徹底的に統制するカラクリを手にすることはなかった。(『労働廃絶論』p12~p13)
労働者はパートタイムの奴隷である。いつ出勤し、いつ退勤し、その間になにをすべきかは上司が指示する。服装やトイレの頻度に至るような、極限まで屈辱的な管理体制を敷くことすら、彼のお気に召すままだ。 (『労働廃絶論』p17)
ブラックいわく、こうした規律は「屈辱の詰め合わせ」であり、それこそが「多くの人々が労働において味わう悲惨さの正体」なのであった。ここまで極端な監視体制は現代においては珍しくなっていて、その点に関しては後述するが、依然として労働者が監視体制のもとに置かれていることは間違いない。