そもそも生産活動は苦痛ではない

 ブラックは決して「電気をつくる人や子どものオムツを替える人がいなくなればいい」などという破滅思想の持ち主ではないし、「生きるために最低限の生産だけを自給自足的にやって、不要な娯楽を撲滅しよう」といった清貧思想を唱えているわけでもない。あるいは「ロボットによってすべてを代替すればいい」と主張しているわけでもない。

 私は機械オタクではない。ボタンを押せばすべてが解決する天国に住みたくはない。ロボットの奴隷にすべてを世話させたくもないし、自らの手で成し遂げたいこともたくさんある。(『労働廃絶論』p48)

 ブラックが一貫して否定するのは、(自動化するのか奴隷に肩代わりさせるのかは別として)人間は生命の必要性を満たす生産活動を免れてようやく、労働から逃れることが可能だという発想である。この発想から逃れられなかったのが、ほかでもないマルクスである。

 マルクスとて、生産主義者の神殿に(彼の善意に反して)祀り上げられてしまい、「必要による強制と外的な合目的性のもとでの労働が要求される地点を乗り越えるまでは、自由の国は始まらない」と見立てている。彼は、狩猟採集民の幸福な状況こそが、労働の廃絶そのものであるという認識を、とうとう手にすることができなかった。(『労働廃絶論』p30)

 マルクスは、生産力の向上と労働時間の削減という歴史的段階を経た遠い未来において、ようやく労働が廃絶され自由が訪れると考えていた。これがおそらくブラックが批判する「自由と必要性を対立させる、うんざりするような神学的論争(『労働廃絶論』p58)」なのである。ブラックは、その二つを対立させる必要がないと主張する。そして、現代社会よりもはるかに前の段階にいるように思われる狩猟採集民が、必要性を満たす生産活動に自由に取り組むことで、すでに労働を廃絶していたのだと指摘している。

 彼らは我々よりもずっと少ししか働かない上、彼らの働き方は、我々にとっての遊びと見分けがつかない。サーリンズは次のように結論づけた。「狩猟採集民は我々よりも少ししか働かない。食料採集は絶え間ない苦役などではなく断続的で、豊富に余暇がある。また、一人あたり年間の数値を比較してみれば、ほかのどんな社会よりもたっぷりと昼寝をとっている」と。彼らの一日あたりの平均労働時間は四時間である。もし彼らが「労働していた」と仮定すればの話だが。(『労働廃絶論』p28~p29)

 彼らが「労働していた」と仮定しているということは、裏を返せば、彼らは労働していなかったのである。少なくとも、ブラックの定義する労働ではないのだ。それは自由で自発的な遊びであった。これはマルクスが考える歴史的発展のプロセスからすれば、奇妙な主張である。私たちの社会よりもはるかに発展段階が低いはずの彼らが、一足先に労働を廃絶しているのだから。

 ここで言う労働の廃絶とは、労働者以前の存在でありながら反労働的であることを意味する。奇妙な主張であるように思えるかもしれないが、それは可能なのだ。(『労働廃絶論』p30~p31)

 つまりブラックは、私たちも狩猟採集民のように、必要性を満たすための食糧生産やインフラ整備、そのほか多種多様なケアすら、自由で自発的な遊びによって成し遂げることが可能であり、そうすべきであると主張しているのだ。

 労働を廃絶し、そして労働のうち有益な目的に資する部分だけを、新しい多種多様な自由活動によって置き換えることは、いまや可能なのだ。(『労働廃絶論』p40)

 このようにお伝えすれば、某ブラック居酒屋チェーンの社長の顔を思い浮かべる人もいるだろう。要するに「もちろんお前はこの仕事に、自発的に自由に取り組むよなぁ?」という、やりがい搾取的な状況である(それはもはや強制であり、ブラックの定義上は労働なのだが、その点は一旦脇に置いておく)。もし、少なくない人がこうした状況を思い浮かべるなら、必要性を満たすための生産活動が本質的に辛いものだという価値観が蔓延していることを意味する。

 どういうことか? たとえば、「自由に、自発的に、やりたいときだけゲームをすればいい」という言葉を読んで「それってやりがい搾取に繋がりませんかね?」などという懸念を表明する人はいない。なぜなら、ゲームは楽しい行為であり、自発的に自由に取り組む人がいて当然であると考えられているからだ。一方で、「自由に、自発的に、やりたいときだけ電気工事をすればいい」という言葉を読めば、やりがい搾取を懸念される。なぜなら、電気工事は辛くて多くの人がやりたがらない行為であると考えられているからだ。では、本当にゲームは楽しくて、電気工事は辛いのだろうか? ブラックはそれを明確に否定する。彼にとって生産活動が苦痛である理由は「それが生産活動だから」というものではなく、まったく別のところにある。