労働を廃絶する必要はあるのか?
最後に、あきらかに多くの人から反発を食らいそうな「労働の廃絶」などをことさらに叫び、実現しようとする必要があるのかどうかを考えたい(その必要がないのであれば、私がわざわざ『労働廃絶論』を翻訳し、解説する必要もないだろう)。まず第一に、誰もやりたくないことを強制されず好きなことをして世の中が成立するのであれば、その方が望ましい。この点に異論はないだろう。意見が分かれるとすれば「それが可能か、不可能か」だろう。当たり前だが、神でもない限りは「絶対に可能」とも言い切れないし、「絶対に不可能」とも言い切れない。すべてはやってみなければわからないのである。
では、やってみる価値はあるのだろうか? 私はあると思っている。というより、やらざるを得ないと思っている。この社会はさまざまな問題を抱えている。日本に焦点をあててみても、少子高齢化、医療費問題、エッセンシャルワーカーの人手不足、迫り来る食糧危機、ブラック企業、パワハラ、セクハラ、企業による不祥事、いじめ、自殺や精神病の増加、地球温暖化、エネルギー問題、ワンオペ育児、格差、ますます増え続けるブルシット・ジョブなどなど、枚挙に暇がない。こうした問題は、数十年のあいだ一向に解決の兆しが見えず先送りにされてきた。解決に向かうどころか、ますます悪化しているような印象がある。たしかにハンス・ロスリング『FACTFULLNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(日経BP)といった書物は、データをもとに世界の貧困率や児童労働の割合が低下していることや、識字率や平均寿命が高まっていることを教えてくれ、無意味に悲観的になる態度に警鐘を鳴らしている。だが、同時に過度に楽観的になることも避けなければならない。良くなっている部分はあるが、悪くなっていることも多い。そして、悪くなっていることの方は、環境問題をはじめ、いつか私たちの社会を破壊しかねないほどに重大な問題なのである。SDGsなるスローガンは、こうした問題をすべて解決すると大言壮語を吐いている。しかしこれは金儲けのための口実であり、ほとんど誰も真面目に取り組んでいないと知らない人はいまい。多くの人はその状況を理解しながら、放置し続けるリスクについて知らんぷりを決め込んでいる。自分の生活でそれどころではないからだ。
労働を廃絶すれば、人類が頭を悩ませ続けた先述の問題の大半が解決される可能性がある。もちろんリスクはいくらか存在している。だが、問題を事実上放置し続けるリスクに比べれば取るに足らないリスクであると言わざるを得ない。どうせ未来はわからないのである。清水の舞台から飛び降りる気持ちで労働を廃絶するのも、さほど見当違いな選択肢だとは言えないだろう。この結論は悪ふざけのように見えるかもしれない。しかし私はブラック同様まじめである。人間は労働から決別するタイミングにあると、私は真剣に考えている。それは奴隷制や児童労働、人種差別、男女差別のように、まったく廃絶されるべきものなのである。私たちの祖父は(少なくとも見かけ上は)戦争のない日本を残してくれた。私たちの孫には労働のない世界を残したい。それは、金のために誰かに服従するのではなく、遊ぶように互いに貢献し合い、イノベーションが次々に生じ、生物多様性も守られ、それでいて望むままにビッグマックが楽しめる世界なのだ。