労働の廃絶とはどういう意味か?

 ブラックは「労働の廃絶」が可能であり、廃絶すべきであると主張している。「なにを言っているのだこいつは?」と眉間にしわを寄せるのが、常識人による常識的な反応だろう。しかし、ブラックはいたってまじめに主張しているのである(本人曰く、まじめであると同時にふざけているのだが)。いったいどういうわけか? 本人の言葉を見るに、レトリックを駆使して読者をケムに巻こうとしているわけでもなさそうだ。彼は文字通りの意味で「労働」を廃絶できると考えているらしい。

 私は言葉の定義を弄んでいるわけではない。「労働の廃絶」とは文字通りの意味である。(『労働廃絶論』p8)

 ところが彼の労働の定義をみれば、「いや、言葉の定義を弄んでいるだけではないか?」と憤る人も多いだろう。彼による定義は次のようなものである。

 労働の独特ではない定義を用いることで私が言わんとすることを伝えたい。私が言う労働の最小限の定義は、強制された苦役、つまり義務的生産である。どちらの要素も欠かせない。(『労働廃絶論』p8)

 強制された苦役であり、義務的な生産。その両者の組み合わせをブラックは「労働」と呼んだ。裏を返せば、「強制的ではない苦役や、義務的でない生産」は労働ではないということになる。そして、彼はその定義が「独特ではない定義」だと書き、それに対する補足説明は一切ない。この挑発的な定義に異論は多いはずだ。デジタル大辞林によると労働とは「からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと」あるいは「生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費」である。おそらくこの定義の方がしっくりくる人が多いだろうし、ブラックがこのあとたびたび批判するマルクスも、こうした定義(とくに後者の定義)を採用している。しかし、改めて考えてみれば辞書的な定義も万能ではないことに気がつくだろう。まず「からだを使って働くこと云々」や「自然に働きかけて云々」といった定義にもとづくなら「農業アルバイトが労働であり、家庭菜園が労働でない理由はなんなのか?」という疑問が生じる。すると「金を貰えるかどうかだ」という話になるが、そうなれば「金を受け取らない奴隷労働や家事労働は労働ではないのか?」「金のために行うパチンコは労働なのか?」といった無数の疑問が生じてくる。ところが「強制」という定義を導入すれば、農業アルバイトが労働であり家庭菜園が労働でない理由だけでなく、家事労働や奴隷労働が労働である理由、パチンコが労働でない理由も上手く説明できる。農業アルバイトを含めた賃金労働は生活の糧を得るために半ば強制されているし、家事労働も主婦の強制的な義務として押し付けられているケースが多い(もちろんそうでない家庭もあるのだけれど)。奴隷労働はいわずもがな強制されているため労働だし、パチンコは強制されているわけではないから労働ではない。強制された途端に「労働感」を感じてしまうという状況は、誰しもが経験があるはずだ。「宿題をやりなさい」と言われるまではやるつもりだったのに、言われた途端にやる気がなくなること。なんの造作もない行為でも命令口調だっただけで不愉快に感じること。「○時までにやりなさい」と期限を押し付けられた途端に、やる気がなくなってしまうこと。友達同士でなら楽しい飲み会が、嫌いな上司から強制されれば「残業代が欲しい」と文句を言いたくなる労働と化してしまうこと。などなど。

 もし強制されるなら、遊びも労働へと変貌してしまう。このことは定義上、明らかである。(『労働廃絶論』p13~p14)

 これは心理的リアクタンスと呼ばれる普遍的な現象である。人は自らの行為を自己決定したいという強烈な欲求を持っている。そのため、強制された途端に、たとえその行為が合理的であったり、もともとやりたいと思っていた行為であったりしても、やる気が損なわれてしまう。強制こそが、労働を労働たらしめているという説明には、一定の説得力はあるはずだ。

 さて、定義論争はこれくらいにしておこう。定義に完璧はないし、どの定義にも一定の真実性はある。ゆえに「労働の定義はこれだ」「いや、そうではない」という論争をしたところで、決着がつかない可能性が高い。ただし、ブラックの定義をいったん受け入れてみれば、「強制」という側面に注目することができる。そして、彼が目指した労働が廃絶された世界とは、すなわち強制のない世界であることが理解できるだろう。ブラックは強制されて行為するのではなく、強制されず人々が行為する世界を求めた。それが可能であり、望ましいと主張したのである。